メローネはと彼女の部屋にいた。彼女が昼の勤め先から帰ってきて3日が経った日の夜のことだ。
仕事に出たホルマジオとイルーゾォ以外の皆がアジトで過ごしていたが、彼らの顔には疲労の色が見えていた。肉体的というより、精神的な疲労だ。メローネは特に、アジトでのの軟禁が始まるより前から蓄積していた精神的なダメージ――リゾットはそれを考慮して、メローネにはあまりの監視をさせないようにしていたのだが、今回は人手不足からそうも言っていられなくなったのだった――も相まって憔悴に近い状態に陥っていて、に何か喋りかける余力もほとんどなかった。ただ目だけは、しっかりと彼女の姿を捉えていた。
では彼は一切喋らずに、眠ったり、酒を飲んだり、バスルームへ行ったりするを見守りながら何をしていたのか。
メローネは思考に没頭していた。そして自分との過去を呪い、未来に絶望していた。
チームはを殺した女からをいかに守るかを最重要事項としていたが、メローネにとっての課題は、を轢死させた女を殺した後にあった。もはやカレン・オーのことは、メローネの頭の中では片付いたも同然――あとはあの女の所在を突き止めて殺すだけだからだ――であり、カレンの存在などあろうがなかろうが、彼がを守るのは当然のことなのだ。彼女に魔の手が伸びるのなら、徹底的に阻止するまでだ。
けれど、恐らく会う以前から彼女に巻き付いていた魔の手の方はそうは行かない。鎖の存在を、そしてそれが誰の物かを早くに突き止めていたメローネを悩ませ、絶望にまで追いやっていたのは、そのことだった。
メローネは、本当の意味でを救いたかった。つまり、彼女を呪いの鎖から解き放つべきだと考えていた。
けれど、そうして彼女を救うのなら、代償が必要だ。恐らくそれは、組織に仇なすことと同義であり、自分やチームの皆の悲惨な、むごたらしい、血みどろの、想像するだけで吐き気を催すような、激痛を伴う地獄の苦しみを味わいながらの死と引き換えにしなければならないのかもしれない。最悪の場合、自分たちのそんな死をもってしても、彼女を救うことはできないかもしれない。
やめろ、やめろ。そんなことを考えるな。絶望するな。
彼女を救うのは、彼女が幸せで、なおかつ彼女が心から望む形でなければならない。ならの幸せとは何だ。は何を求めている?
愛されること? 誰かを、深く愛すること? それができるだけの、自由?
ならば信頼が必要だ。信じられない人間を愛せはしない。信用ならない人間から与えられる愛など真実の愛ではない。だから、すべてを白日の下に晒さなければならない。そして、彼女を縛る鎖から解放する。同時に、オレたち皆が呪縛から解放されるはずだ。
後の未来に、彼女の未来に、例え自分がいないとしても……そうして彼女が幸せでいられるならそれでいい。それが自分の幸せだ。
君の為なら、オレは死ねる。
――いいや。それは嘘だ。オレは、に愛されたいんだ。死ぬのは怖い。死にたくなんかない。生きていたい。と共に生きていたい。
けれど多分、それはもう長く持たない。
メローネはを見た。ベッドの上に座り、壁に背中と頭を預け、目は虚ろに天井を向いている。髪は乱れ体は酒臭く、色艶の失せた肌は彼女の心身の不健康さを、見る者へと如実に見せつけていた。
こんなの、じゃない。彼女は本来美しい。美しくて優しくて魅惑的で、女神みたいな人だ。今の彼女はまるで……まるで、死の間際にあった母親と同じだ。
「あんたなんか産まなきゃ良かったんだわ」
幻聴がして、メローネはとっさに身をかがめ、両手で耳を塞いだ。動機がして、あまりの焦燥に喉がひきつったような感覚がした。一瞬のうちに喉が乾き、干上がった水分を吸い上げたように、顔の表皮から汗が吹き出してくる。
「こうなったのは……全部、あんたのせいよ」
「違う。違う、オレのせいじゃない」
幻聴は続いた。とっさにメローネは声に出して幻聴に応えた。
「あんたを殺すと思った? まさか。殺して、楽になんかさせないわ」
「やめろ、やめろ……やめてくれッ!」
「あなたに一生忘れられない苦痛を植え付けてあげるわ。……今の私のような、ね」
いつの間にか、メローネはの首に掴みかかっていた。
「殺してやる。殺してやるッ……!」
メローネの目の前にいるのは最早、ではなかった。銃口を自らこめかみに突き付けた母親だった。両手の親指が首へと深く、深く食い込んでいく。
「消えろ、消えろ消えちまえ……。自分で死ぬ前に……! オレがあんたを殺してやるッ」
「メロー……ネ……」
死んだはずの母親が、伸ばした手でメローネの手首に触れた。
「わ、た……こと、殺し……くれ……の……?」
途切れ途切れに聞こえる、か細い、弱々しい声。それは母親のものでは無かった。母親は、メローネの声を聞かないまま逝った。憎しみを――深い愛情を――ぶつける間もなく自ら命を絶ったからだ。けれど、メローネがそう気付いた時にはもう遅かった。
「……続けて……いいよ」
涙をボロボロとこぼしながら、が言った。体温を保ったままの大粒の涙がメローネの親指の付け根あたりに落ちた。彼はハッと我に返り瞬時に手を首から離し、顔面蒼白となって茫然自失した。ゴホゴホと咳き込み、はメローネから敢えて視線を外した。
「私のことが……憎い、のよね」
「ち、違う、……オレは、オレは……」
メローネは喉を締め付けるような息苦しさに、言葉を発せなかった。
「今まで死にたいって……思ってたはずなのに」
「、待ってくれ、違うんだ、今のは――」
「あなたに殺されるのが嫌だと思ったわ。……悲しかった。あなたに、殺してやるって言われることが……」
他者とのつながりを望みながら、他者に罪悪感を植え付け、逆につながりを断とうとするような呪いの言葉が、メローネの胸を締め付ける。呪いの言葉は続く。けれどそれは嘘でも何でもない、紛れもなく彼女の本心だった。
「殺意を向けられることが。あなたを……傷つけたまま、あなたに恨まれたまま……死ぬのが嫌だって、思った」
「違うんだ」
「でも、そうしてあなたが楽になるなら……やっぱり私はあなたのために……もう、死んでしまいたい」
「聞けよ!」
メローネは、ほとんど初めてに怒気をぶつけた。両肩を手でつかんで、未だに目を合わせようとしないの身体を揺さぶった。はメローネの激情に驚き、久しぶりに夢から醒めたような気持で目を見開いた。
「母親だ」
メローネもまた、涙を溢しながら喘ぐように言った。
「今の君があんまり……死ぬ前の母親にそっくりだから……君に母親の……幻覚を見てしまったんだ」
それは言わないと決めていたはずの過去だった。他の誰にも明かしたことのない過去を、メローネは話した。彼女の誤解を解くには、そうするしかなかった。
「あの人は、オレをひどく憎みながら死んでいった。オレの気持ちのやり場を奪って、一生物の傷を植え付けた上、自分で……オレの目の前で、死んだ」
もう20年ちかく前の話だと前置きをして語られた、メローネの悲惨な過去。頼るあてなど母親以外になかったであろう幼子を思うと、は涙せずにいられなかった。
「ああ、メローネ……メローネ」
はメローネの顔に手を伸ばした。けれど、肌に触れる寸前に、ピタリと手を止めた。突き放すと決めたのに。また私は、自分で決めたことをやり通せずにいる。彼女は自分を責めた。もう一人の自分とした約束を反故にしようとしていて、その上、チームの皆の思いまで裏切ろうとしていたのに。けれど、とてもそのままにはしておけなかった。
は止めていた手を再び動かして、メローネの涙に、そして頬に触れた。メローネはその暖かさにほっとして、目を閉じた。閉じた目からこぼれ落ちた涙がまた、の手を濡らした。
「オレが言うのも何だが……狂う前はすごく、キレイな人だったんだ。でも死ぬ直前には、酒とクスリで身も心もボロボロで……」
涙はまた、閉じた瞳の目尻や目頭から滲み出て、下へと流れ落ちる。メローネがの前で涙するのは二度目だった。死なないでいてくれる。そんな言葉と共に溢れ出た涙は、亡き母を思っての――いや、母に愛されずに寄る辺をなくした幼き日の自分を思ってのものだったのだ。はそう気付いた。拒絶せず、死んでも生き返る、そんな自分を――恐らく――母のように慕っていたのだと。そして恐らく、自分が死ぬたびに彼はひどく心を痛め、生き返るまでの間を、生きた心地がしないように過ごしてきたのだ。
もまた涙を流しながら、メローネを抱きしめた。ごめんなさい。ごめんなさいと何度も呟きながら。メローネは項垂れ、腕に力を入れもせずに、ただ与えられる温かさを感じていた。
落ち着いた。ひどく安らいだ。そして気付いた。自分が求めていたのは、これだと。幾度身体を重ねようと、それだけでは絶対に手に入れられない、ぬくもり。これが、心の底から欲していたものなのだと、彼はようやく気付いた。
「まるで、今の私ね」
メローネは頷かなかった。外見が例え似ていたとして、そのせいで幻覚を見たとしても、母親には優しさなど、こんなぬくもりなど、覚えている限りで与えられた記憶も無かったからだ。
「私があなたを苦しめていることに違いはない。私は、ここにいないほうがいい」
「違う、いてほしい。そばに、そばにいてほしいんだ」
メローネはの身に纏うシャツの裾を握り、自身へと引き寄せた。
「私はもう、立ち直れそうにないの。死んだらあなた達が悲しむとか、少し前まで本気でそう思っていたけれど――」
「君が死んだら、悲しむに決まってる。もう戻らないんじゃないかって……気が気じゃなくなる」
「その言葉が本当かどうかを、信じられなくなってるのよ。……あなた達が愛してくれているからと、これまで散々自分に言い聞かせてきたけど……それは、死にたくない私に向けたまじないでしかなかった。私がいなかった頃に戻りたいって、皆本心ではそう思ってる」
「思ってない、思ってない」
「今のあなたはそうでも、いずれその時が来る。きっと後悔する。……そして、そうだと悟って立ち直れそうに無い私は、あなたが見たくない姿を、お母さんの最後の姿を延々見せ続けることになる。死んだほうがいい。死んだほうがいいんだわ。自分の、もうひとりの私の言うことなんか、無視して、ころしてしまってね。私が生き延びるより、あなた達が生き延びることのほうが……私には大事に思える」
「いやだ。。そんな……突き放すようなことを言わないでくれ。君が死んだら、オレも死んでしまう。君を知ってしまった今となっては……君が生きていない世界になんて、生きる価値がないんだ」
「まだ、出会って1年も経ってないのに」
「時間なんか、関係無い。関係ないんだ、そんなことは。君が死んだら、オレも死ぬんだ。本当だ。もう、ひとり取り残されるなんて、ごめんだ」
「ねえ、メローネ。あなたには、仲間が――家族がいるじゃない。あなたを心から必要として、大切に思ってくれる人が」
「君もその内のひとりじゃないかッ!」
は静かに首を横へ振った。
「違うわ。メローネ。……あなたはもう、知っているはずよ。私は復讐心を忘れているだけの反乱分子。あなたはそのことから、必死に目をそむけようとしている。……私が私である限り、過去は――事実は変えられない」
「なら、君は変わらなくていい」
「え……?」
メローネはの背に腕を回してぎゅっと力を込めて抱きしめると、そっと彼女から身体を離して涙を拭い立ち上がった。
「メローネ」
呼ばれても、振り返らなかった。彼は決めた。変わるのは、じゃない。
君のためなら死ねると思った。でもそれは嘘だった。君のために死ぬんじゃない。自分のために、死ぬ気で、自分自身を変える覚悟が必要だったんだ。そうして変わった後ならきっと、はオレを認めてくれるはずだ。
メローネは吸い込まれるように扉の向こうへ消えていった。はその後もしばらく、静かに音を立てて閉じられた扉を見つめ続けた。
89:DiE4u
リビングへ一人で下りて来たメローネを見るなり、プロシュートは血相を変えて二階へ向かった。兄貴分だけ向かわせる訳にはと、続いてペッシも跳ねて行った。二人の起こした風になびくように、メローネはふらふらと身体を揺らしながらリゾットへ向って歩いた。
「はどうした」
メローネはリゾットの問いかけに答えないまま、彼の近くに腰掛けると、憔悴しきったような声で言った。
「殺しかけた」
「メローネ」
身をかがめ、顔を手のひらで覆い隠し、声を震わせながらメローネは続けた。
「無理だ。オレには……。あんな、見てられなかった」
リゾットはメローネを咎めなかった。無理もないと思った。それは皆同じで、いつにもなく疲弊しきっていることは知っていた。特にメローネは、に尋常では無いほど“執着”――あるいは“依存”していて、彼女が自死するところを見た後に錯乱状態になったところまで、リゾットは目撃している。そうであって、何故、何を思ってメローネがを殺しそうになったのかは分からないが。
言えるのは、もメローネも、その他の皆についても、このままではいけないということだ。鬱屈とした穴蔵のような家にこもりきりで、さらに追手がいつ乗り込んでくるかと、ずっと神経を張り詰めていなければならない。常に闇から狩る側でいた彼ら暗殺者チームにとっては酷な状況にあり続けている。
リゾットにはひとつ考えがあった。少しでも追手のことを考えずに済む場所。お互いにとって、少しでも気楽でいられる場所へ、を連れて行く。それは同時に、リゾットがチームメイト以外の人間で、唯一心からの信頼を置ける人たちがいるところでもある。
「シチリアのタオルミーナへ行く」
「……タオルミーナへ?」
保養地として名高い場所だ。高級ホテルまであるような。そんなところへ今逃げてどうするのか、メローネには分からなかった。その疑問へ答えるように、リゾットは続けた。
「実家がある。母親が仕切ってるホテルやら酒場やらがあって、その一帯は皆家族みたいなものだ。余所者が来ればすぐにそうと知らせてくれる。店の修復が終わるまで、そこにを匿おうと思っている」
「母親って……あんたのか?」
「ああ」
リゾットも人間だ。もちろん母親がいるから彼が存在しているわけだから何もおかしなことではないが、母親が生きているとかいないとか、そもそも彼の出身が――シチリア島生まれであることは知っていたが――どこかすら、メローネは知らなかった。そして、母親とのパイプが完全に途切れている訳では無いというのも意外だった。ここにいるのは、母親や父親から見捨てられたか、勘当を受けたか、自ら殺してしまって既に存在すらしていないような者の集まりだと勝手に思い込んでいたのだ。
少々驚いて、その後少し考えると、メローネは言った。
「オレは行かないよ」
リゾットはじっとメローネを見つめた。何故かについて喋り出すのを待つような目をメローネに向ける。
「自分を殺そうとした男が一緒だと、も気が休まらないだろうし……。オレはこっちで、女の居場所やら正体やらを突き止める」
「……わかった。なら、ギアッチョとふたりでここに残れ」
「ああ」
メローネは返答すると立ち上がり、外へ向かって歩き出し、キッチンカウンターの上に置いた灰皿の中からバイクのキーを取って言った。
「少し、風にあたってくる」
リゾットはメローネの背に呼びかけた。
「メローネ、早まるなよ。女について調べ、居場所を突き止めるまでだ。まだ殺すな」
「分かった」
そう口では言ったものの、次にカレンを見た瞬間に殺意を抑えられるかどうか、メローネ自身分からなかった。
「おまえを信じている」
閉じかけた扉と枠の隙間から、リゾットの声が聞こえた。メローネは答えないまま、アジトを後にした。