暗殺嬢は轢死したい。

 ホルマジオは鏡の中へ入ってから何か考え続けているようで、ずっと無口だった。それはそれで良かった。色々問いただされないから、冷静にを見守っていられる。

 鏡の中の世界から、眠り続けるの姿を見つめる。そうしていると、イルーゾォの心の中にふつふつと不快感が沸き起こってきた。

 オレたちは皆、同じ穴の狢だ。あのリコルドという男も含めて、皆が仲間なのだ。ただひとりを除いた、皆が。に、あらぬ幻想を見せ続けている。“オレたちは仲間で、おまえは孤独ではない”と、そう言って、見せて、聞かせて、抱いて、安心させ、分からないように隷従を強いる。それがオレたちの仕事だったのだ。

 の寝姿をじっと見つめながら外の物音に注意をはらいつつ、時折部屋の入口や窓の外に目をやったりしながら、イルーゾォは自分を嫌悪し続ける。リコルドのやっていることを見て初めて、反乱分子のより、彼女を騙し続けている自分に嫌悪感を抱いたのだ。

 けれど、その嫌悪感から怒りを捻出し、怒りを元に組織に叛逆しようなどとは思えない。

 ホルマジオも気付いたはずだ。を愛しているのは自分の方だと、脳天気なことを考えていた自分の浅はかさが身にしみているところだろう。ざまあ見ろ。おまえは絶対に、一生、の心からの愛情など得られはしない。

 それは自分も同じだが。

「あの鎖をオレは――」

 イルーゾォはいたたまれず、言った。

「――アメリカでも、バリでも見た。おそらく、アジトに身を置き始める前から、あの男がメガデスを制御してるんだ」
「……ぶっ放すために背負ってるとしか思えねー、ミサイルみてーなもんもろとも、か」
「ああ。メガデスはきっと、を何万回と“死なせる”能力だけでなく、以外を何万人と殺す能力も持っている。……これは、見た目から判断したことでしかないがな」
「ああ。まさか、あんなもん使いもしないのに飾りみてーに背負うワケがねーと、オレも思うぜ。それを恐れて、ボスは殺せないを管理するはめになってるって……ことなんだろうな」
「あるいは、いつか使う時のために管理している」

 自身の行いによって生み出された抹消できない反乱分子を仕方なく管理していて、どうやっても殺せないという不始末に目をつむるために「いつか使うときがくるかもしれない」という理由を取って付け、いつ爆発するとも知れない危険な大量破壊兵器を、何も知らない人間に、そうと知らせずに管理させている。という方が正しいかもしれない。恐らく、の過去のほとんどすべてを知っているこのリコルドという男ひとりにおおよその管理が一任されているだけ。もしも、それが無くなったら……?

 イルーゾォは想像して、戦慄した。長らく怒りを忘れていたは、自分の力を、あの男――今は自席について悠々自適にコーヒーを嗜んでいるのが見える――の力無しに制御できるのだろうか。現に、プロシュートはメガデスを背後にしたもう一人のが放たんとしていた、底しれない憎悪を肌で感じたと言っていた。あの時何故、メガデスが表に出て人格が入れ替われたのかは分からないが、リコルドがイタリアにいて、彼らはイビサにいた。遠距離になると鎖による束縛が緩み、さらに暗殺者チームへの――と言うよりも、ほとんどイルーゾォへの――不信と反感から、離反の意志が高まった結果だと考えることはできる。

「いやだが……待てよ」

 ホルマジオが言った。

「例えボスの思惑がそうだとしても……あの店長がオレたちパッショーネの仲間だというのは、早合点が過ぎないか」

 それはそうかもしれない。だが、逆に組織の人間でないとしたら、の内面を抑制するのは何故だ。

「一体、なんのメリットがあってそんなことを?」
「例えば……メリット云々関係なしに……死んだの親父さんに頼まれたとか。遺言じゃあねーが、死者の頼みってのは親しい仲なら無下にできないもんだろ」
「ふむ……」

 死人に口なしだ。もしそうだとしても、リコルド本人に聞く以外、確かめようが無い。そして本人に聞いて確かめるということにはリスクが伴う。仮にリコルドが組織の人間なら、そのリスクは極めて大きくなる。

 今、鏡の外へと出ていって、リコルドを拘束し問い詰めたとしたら、どうなるだろうか。

 組織の人間なら、暗殺者チームの人間が、を殺せないでいるというボスの“弱み”につけ込み探りを入れ、ボスへの叛逆を企んでいると解されかねない。その上で、万事問題ない。には黙っていろと口止めをされるか、記憶を抹消――は恐らく、アリス・イン・チェインズの能力によって、記憶の一部を抹消、ないしは想起することを抑制されていると考えられる。よって、自分たちにもそれは可能だろう――される。それで済めば御の字だ。最悪、アリス・イン・チェインズを見た人間を――つまり、イルーゾォとホルマジオのふたりを――その場で殺して口封じをするかもしれない。かなり高い確率で、後者の手段を取られるとイルーゾォは思った。

 の過去についての一切、を管理する理由についての一切を知らせていないのに、仲間を守るためと立ち上がった者を断罪するなど、理不尽も良いところだ。しかし、我らが暗殺者チームにはすでにハンデがある。ボスの素性を探った者がチームの中にいて、それを好きにさせていたという、ハンデが。いつレッドカードをきられてもおかしくない状況にあるのだ。
 
 組織の人間でない可能性も、かなり確率は低いだろうが無い訳では無い。そしてもしもそうならば、リコルド本人か、死んだ父親などの未来をリコルドに託した者の愛故に、は制御されていることになる。ならば組織からの制裁云々について心配は無くなるかもしれないが、組織の都合を抜きにしたところでの内面を制御し続けなければならない理由が別にあるということになる。自身の魂を著しく傷つけ、最悪失くす危険性があるのではと、想像ができる。本人の防衛機制では足らないからと、精神の安定のために施されている措置なのかもしれない。この場合、の死を望むのはボスだけだ。あるいはボスとその取り巻きだけだ。下手にリコルドやを刺激して、彼女の命を危険にさらすべきじゃない。

 要は、どれだけ慎重になっても、慎重になりすぎるということはないというわけだ。もちろん全て、イルーゾォやホルマジオの憶測だ。けれどどう考えても、今鏡の中の世界から飛び出し、リコルドを脅し、の内面を鎖の拘束から解き放った上でおまえは騙されているんだとに告げるべき理由が、一切思い浮かばなかった。は生きている。彼女は今も穏やかに寝息を立てて、すやすやと眠っている。――殺された訳では無い。

 この判断に、間違いは無い。イルーゾォは自分にそう言い聞かせた。今はこうするしかないというだけだとわかっているのだが、尚も沸き起こり続ける嫌悪感を、感情を度外視した正当性というまやかしで押し黙らせる他無かった。

 これを、ずっと続けなければならない。命ある限り。途方に暮れてしまう。けれど、そうしなければオレたちに命は無い。がそばにいるという幸せすら、享受できなくなってしまう。この選択が双方にとって健全なことではないと、分かっていたとしても。

「戻るぞ」

 イルーゾォは言った。

「来た時と同じように、の鞄に隠れるんだ」

 そうすれば、オレたちふたりの憤りと動揺を見られずに済む。ホルマジオに縮められるのがひどい屈辱のように思えて仕方が無かったのに、今は進んでそうしたいと思った。にこれ以上、自分の不実を悟られたくない。

 だが不実とは、ひた隠そうとすればするほど膨らむものだ。墓まで持っていくのはなかなかに難しい。持っていく荷物が重ければ重いほど、苦痛は顔に出てしまう。いずれ重荷に耐えかね足止めをくらえば、隠そうとした者に見つかり、問い詰められる。その重そうな荷物は何だ、と。

 悪い予感に、けれどどうしようもないという閉塞感から来る息が詰まるような思いに、ふたりは窒息してしまいそうだった。



88:Gunga Din



 残念なことに、また目が覚めてしまった。はまた、うんざりすることにうんざりした。

 頭痛、吐気、焼けた喉に、めまい。起き上がれない。いや、起き上がりたくもない。酒を呷る度に、目が覚めなきゃいいのにと思うのに、自殺願望は自己防衛本能を乗り越えてくれない。自己防衛本能を乗り越えたとしても、きっと見張りが止めに入るので、たぶん死ねない。

 は無念の思いで半身を起こすと、ズキズキと痛む頭を右手で押さえながら立ち上がった。足元には空になった瓶が数本あって、彼女が歩き出すのと同時に音を立てて倒れて床に転がったが、は気にせず部屋の出口へとふらふら向かった。

「便所か」

 プロシュートが言った。彼自身、女性に聞くことじゃないと嫌悪感を覚えたが、自殺志願者がひとりでふらふら歩き出すのだから、バスルームにだってついて回らなきゃならない。もはやにプライバシーなどない。自由に排便することすらままならないなんて、と少し前のなら文句を言っただろうに、今の彼女にはそれすらなかった。あるのは憂鬱と、吐き気だけ。

「気分、悪いのよ」

 脳みそが頭蓋骨の中を満たしたホルマリンの中でぷかぷか浮かんでいるような気がした。は部屋の出口付近で体勢を崩し、床に倒れそうになったところをプロシュートに助けられる。

「大丈夫か」

 大丈夫じゃないことは一目瞭然だろうに。は心の中で毒づいた。彼女が求めているのは、こんな優しい言葉ではなかった。

 気持ち悪くなるまで飲むなとか、自己管理がなってないとか……。でも、仮にプロシュートがそう言ったとしても、全て相手を思ってのことのように聞こえてしまうから不思議だ。

 突き放してほしい。思いやりの言葉なんかいらない。見捨てて欲しい。ひとりにしてほしい。いや、もう自分が皆にとって厄介者でしかなく、とっくの昔から孤独で居続けていることは概ね分かった。だから、そんな優しい言葉をかけて、孤独では無いと思い込ませるようなことをしないでほしい。死なないと約束するから。ひとりにして欲しい。

 死なないと口で言っても、誰も聞き入れないだろう。彼女は今、確実に死にに行っている。誰の目からもそう見えるからだ。ろくに食事も取らないのに、日に日にアルコールの摂取量が増えている。酒を呷っては寝て、不規則に起きては酒を呷り、酩酊の末にいつの間にか寝る。起きてまた酒瓶に手を伸ばせば、見張りに酒瓶を取り上げられ、ベッドの上で泣きじゃくる。見張りが見かねて抱きなだめても、口には出さないがの心証はますます悪化していくように見えた。そして泣きつかれた子供がそのまま眠ってしまうように、も眠った。起きればバスルームに駆け込んで、嘔吐して、シンクで口を濯ぐ。そのまま、ひんやりしたバスルームのタイル壁と床に体を預け、ぼうっとした。部屋に戻ったら、酒に手を付ける。

 こんなことを繰り返している人間が、人の目の無い所で死なないでいられる訳が無い。酩酊者のうわ言だ。とても人として人と約束事など出来る状態ではない。そんな客観的判断すらできないほどなのだ。

 けれど本人は自分が死に向かっているなどと一切自覚していない。眠っているうちに死んだらどうしようと危惧するヒプノフォビアを患う精神病患者とは真逆に、眠っているうちに無自覚に死ねたらどれだけいいだろうと夢想し、眠り続けていたいだけだった。むしろ酒が、生きるための意欲を与えてくれているように感じていた。ふわふわとした現実味の無い感覚の中では、まるで夢を見ているかのような気分になれたし、自分が何かやるべきことがあるから生きているんだと錯覚することさえできた。幸せな感覚が薄れてきたら、また酒を呷る。恐怖や苦痛と無縁でいられるようになる。このやり方には熟れてきてしまった。

 夢を見た。固く閉ざされたガレージの中にいるもう一人の自分が、隣で何か言っている。自分は今、ソファーに腰掛けて、同じくソファーに腰掛ける彼女の肩に頭を乗せているようだ。スクリーンに映るのは、闇と、たまに砂嵐。体が眠っている間の意識が映し出されているみたいだ。

「道のりは長いのよ」

 は気まぐれに、すぐそばから聞こえてくる声音に耳を澄ました。

「あなたが強いままでいられたのなら、あなたは私よりまともな人間でいられる」

 心を強く持てと。まともに殺意をぶつけられて、憎まれ疎まれとてつもない孤独を感じている人間に、一体どうしたらそんなことができるだろう。 
 
「今はたぶん、何もかもに裏切られたような気分になっているのよね。それで、打ちのめされて、怯えてるんだわ」

 裏切りも何も、信頼なんてそもそも無かった。嘘をつかれ、まやかしにまやかしを重ねられていると、最初から気付けなかった自分が情けなくて、悲しみに打ちひしがれているだけだ。

「それでも、今のあなたは……たぶん私よりマシな人間よ」

 そんなことない。強くなりたい。こんな、酔って泣いてばかりで居なくてすむように、私を悩ませる一切のことから我と我が身を切り離せるような、力が欲しい。
 
「だめよ。あなたは、あなたのままでいい」
 
 ――今の夢はひどくリアルで、酒が抜けきっていない頭にも、印象深く残った。――ああつまり、また目覚めてしまった。忌々しい双子の気配を感じて。

 そしてまた、バスルームの鏡に映るあいつを見ることにうんざりしている。鏡に手のひらを打ち付けた。我慢ならなかった。確かに、眠っている間の私はいい人間だ。誰にも迷惑をかけずに、ただそこにいるだけだから。死んではいないんだろうけど、自分の意識は無くなって、死んでいるのと同じ状態になれる。けれど、いざ起きてしまえば飲んだくれのろくでなし。

 また酒に、光を見つける手助けをしてもらう。何一つ変わらない一日がまた始まる。ああもう、どうにでもなれ。

 また同じことの繰り返し。

「道のりは長いのよ」

 彼女は言う。

「気を確かに」

 私に、なんの意味があるの。

「私のようにはならないで」

 どうしたって、私を私から追い出せない。

「あなたは、打ちのめされて……怯えてるだけよ」

 ああ、もう放っておいて。ひとりにして。

「それでもあなたは……私でいるよりいい」

 憂鬱しかないのよ。月曜の憂鬱から日曜の憂鬱まで直行で、その繰り返しみたいなもの。この世の地獄だ。

 

「ああおい! 何してんだよこのバカ野郎! いい加減にしやがれこの……おい、聞いてんのかッ!?」

 は手首を襲う痛みにハッとして目を見開いた。すると、向かいにいるギアッチョが血相を変えて自分の手首を掴んでいることに気付く。自分の手には、ロヒプノールの錠剤が入ったケースが握られていた。