ホルマジオは気が重い反面、胸がスッとしそうな予感がして嬉しかった。気が重いのは、そばにいるがひどくやさぐれていて、ホルマジオが好きでたまらない彼女の笑顔が、ここ最近ずっと見られていないからだ。胸がスッとしそうなのは、その鬱憤をイルーゾォに当て付けられる状況にあるからだ。
「イルーゾォてめぇ……観念しろや」
「ぐッ……ぬぬ」
スタンド――リトル・フィートが長い鉤爪をギラつかせながらにじり寄る。それを睨みつけながらイルーゾォは後退していた。
イルーゾォはリゾットに指示を受けてから夕方を迎える今の今まで、を守るためと自分に言い聞かせてはいたが、やはりホルマジオに攻撃されるのは癪だった。狭い空間に男ふたりで一緒に閉じこもっていなければならないというのも嫌だし、そもそも彼のプライドが小さくなることを許可しない。
「あ、ああ、そうだホルマジオ。おまえが、鏡を持って店に行けばいい」
「ダメだな」
ホルマジオは即答した。
「おまえが鏡の中から外の様子を見るには鏡がいるんだろ。鏡の中の世界にいるおまえと連絡が取れねぇのは良くない。それじゃ、万が一何か起こったときに対応が遅れる。それに、おめーが出てこれる鏡ってのがオレの尻にあるヤツだけだったらどうする。鏡なんかそこかしこにあるわけじゃあねーんだぜ。おまえがどうしてもオレの尻から出てきたいってんなら話は別だがな」
「尻……」
ホルマジオはすでに、イルーゾォが所有する大きな額縁に入った鏡を小さくして尻ポケットにつっこんでいた。だから尻からというより、尻ポケットから出てきたいのかとイルーゾォに問うべきだ。だがそもそもの話、ホルマジオの尻ポケットに隠れている鏡から元の世界に戻ることはできないので、鏡は――の職場の事務室に鏡が無かった場合――無いも同然である。とは言え、対応が遅れる云々は納得のいく話ではある。鏡の中の世界にいても元の世界の音は聞こえ、生命の宿らない物が動くのは見ることができるが、それだけでは現場で何が起こっているのか正確には判断できない。
「おい、何をちんたらやってる」
リゾットがイルーゾォをねめつけて言った。そしてイルーゾォが蛇に睨まれた蛙のようになったのを、リトル・フィートは見逃さなかった。イルーゾォの顔面を、鉤爪が縦一線に走る。
「いってええッ! ちったァ加減しやがれ、このボケ! つーか、顔に傷をつけるんじゃあねーよハゲ!」
「ハゲじゃあねーオシャレ坊主だ! 傷は消えるから気にすんな! あースッキリしたーッ」
「きゃっきゃきゃっきゃとやかましいんだよこのダボ共がッ、さっさとしろ!」
いつの間にかギアッチョも入ってきて何やら賑やかだ。そんな3人をよそにはグロッキーになっていて、たまにえづいて口を掌で覆ったりしていた。どうしようもない4人の姿に吐息をつくと、リゾットはキッチンに向かってコップに水を注ぎ、の前に突き出した。
「飲んでいけ」
「……ありがと」
どれだけ飲んだくれていようと、リゾットはを咎めない。もちろん、呆れて吐息をつきはするのだが、別にを見放しているわけではない。そもそも、が今こうならざるを得ないのは、自分が不甲斐ないからなのだという認識でいるのだ。
こんなようなリゾットの思いがにも少しは分かっていたので、彼女はどこか居心地悪そうに、リゾットから目を逸らすのだった。
「おお。縮んでる縮んでる。ざまァねーな、イルーゾォ」
ホルマジオはにやけた顔でしゃがみ込むと、フルート・グラス程の丈になったイルーゾォを見下して言った。イルーゾォは不機嫌そうに腕を組み、その場にあぐらをかいて座りこんだ。もうしばらく経つと首根っこを指先で摘まんで持ち上げられるくらいになったので、ホルマジオはそうしてイルーゾォをのバッグの中にポトンと雑に放り入れ、自身もまた小さく縮んでバッグの中に入り込んだ。
は、自分のミニショルダーバッグ――小人たちが中から外の様子を伺えるように、ストラップを通す両端のリングから、バッグの中に向かってチェーンを垂らしている――の中に小人がふたり入っているという世にも奇妙な光景をしばらく堪能する。の視線などそっちのけで、取っ組み合いの喧嘩を始めようとするふたりの小人の様子が見えた。イルーゾォがホルマジオに殴りかかろうとした瞬間、さらにイルーゾォの背は縮み、ホルマジオよりも頭ひとつ分小さいくらいの丈になった。ホルマジオが甲高い声でギャハハと笑っているのが聞こえたところまで見届けて、はそっとバッグの蓋を閉じ立ちあがり、ギアッチョの後ろについてアジトを後にした。
の足取りはふらついている。ガレージへと降りる階段を行く間に、彼女は足を踏み外しそうになった。音でそれを察知したギアッチョは鬼の形相で振り返る。
「ったく、しょーがねえなホントおめえってオンナはよォッ」
ギアッチョは苛立たしそうに頭を掻いてすぐ、軽々とを持ち上げ横抱きにした。
「ああ、あまり、揺らさないで。……この浮遊感、ムリ。吐い、ちゃいそう」
「おまえ車ん中で吐くんじゃあねーぞ!? ってか、吐いてから乗れ!」
「うっ、ぷ……ね、いまここで、吐いていい……?」
「オレの腕の中で吐けとは言ってねえええええええッ」
87:The One You Know
店から前の幹線道路に出て、100メートルらたず街に向かって歩いたところにバス停がある。その近辺で、ギアッチョはよくを車に乗せたり降ろしたりしていた。今日も彼はそうして――と、バッグの中の小人2人――を降ろし、いつも見張りのために使っている小高い丘を目指して車を飛ばしていった。
はふらふら、気だるげに歩いて店へ向かう。背中に夕日が差して、進行方向に影ができる。その影を踏むように、ゆっくりと進む。
気付くと、は店のガレージの前に立っていた。ガレージにはメカニックがいて、の姿に気付くなり飛び出してきた。
「! 良かった、無事だったんだな!」
「ああ、ロターリオ。……ご苦労さま」
「それにしても、突然いなくなったりして、どうしたんだ?」
「心配かけてごめんなさい。ちょっと、急用を思い出して」
ロターリオはあまり腑に落ちていないような顔で、ふーんと呟くと、後はマシンガンのように一方的にしゃべって仕事へ戻った。
聞くところによると、荷物は更衣室のロッカーの中に置いてあるのだとか。ロターリオが去り際に渡してくれた、ダイヤル式ロッカーの鍵を解除するのに使う番号を書いたメモ紙をじっと見たあと、は顔を上げて、店の裏口を見やった。
リコルドさんはいるだろうか。
は罪悪感に駆られていた。職場から突然いなくなった、というのも原因のひとつに違いない。だがそれよりも、こんな酔いどれのまま、雑な身なりでいる今の自分が店長と会うことになるかもしれないと思うといたたまれなかった。彼が今の私を見たら、どう思うだろう。
リコルドとは、にとって唯一無二の存在だ。彼は父のようであり、恩人であり、良心であり、社会そのものであった。彼を幻滅させる、彼に拒否される。それすなわち、の社会的な死に他ならない。すでに死んだことになっているには、他に行き場所などない。暗殺者チームという居場所があるにはある。けれどそれは、本来私がいるべき場所ではない。は今になって、自分がそう思い始めていることに気が付いた。
私の、唯一の帰る場所。私の、唯一の、心から信じられる人。せめて、リコルドさんにだけは、見捨てられたくない。
不安になって、は歩く間に髪を手ぐしで梳かした。そして店の裏口から中へ入り、右手にある事務室の扉の前に立ち止まる。扉にはめ込まれたガラス窓に映る自分の顔を見て、髪や表情を確認すると奥へと歩を進め、事務室のすぐ隣にある更衣室に入った。
ロターリオが言った通り、荷物は使われていないロッカーの中にあった。バッグを手に取りロッカーの扉を閉じると、は中を確認した。別にこの店の人間を疑うわけではなかったが財布の中も見て、クレジットカードも現金も無くなってはいないらしいことを確認した。彼女はバッグを閉じ、早くアジトへ戻ろうと部屋の戸口へと目を向けた。途端、心臓が跳ね上がった。
「――っ、て、店長……!」
リコルドが、開いたままの扉の代わりとなって、戸口に立っていた。
「びっくりしたかい? 悪かったね」
「い、いえ……。あの、すみません。先日は、打刻もしないで出ていってしまって」
「いいんだよ。何か、のっぴきならない事情があったんだろう? それより、無事で良かった。皆で心配していたんだよ。カレンも、君のことを気にかけていた」
「そう、ですか」
「……何か浮かない顔をしているね。君らしくもない」
「最近、ちょっと……調子が悪くて」
リコルドは、と距離を詰めながら言った。
「どうかな。少し、話していかないか。コーヒーを淹れよう」
「……ありがとうございます。それじゃあ、少しだけ」
リコルドはの背に手を当てて、社長室へ入っているように促すと、そのまま給湯室へ向かっていった。としては、すぐにでも踵を返してアジトに戻りたい気分だったが、リコルドをこれ以上心配させる訳にはいかないとも思った。彼の信頼だけは、失うわけにはいかない。それを失ってしまっては、他には何も残らない。
社長室のソファーに腰掛けたは、すぐにコーヒーの入ったマグカップを持ったリコルドを迎えることになった。
「さ、どうぞ」
「ありがとう」
深煎りコーヒーのいい香りが、鼻腔をつつく。その、湯気に乗ってやってきた香りに誘われるがままに、はマグカップに手を伸ばした。
リコルドは自分のデスクの上に置いていたコーヒーカップを手に取ると、の向かいに腰掛けた。
「いや、参ったよ」
そう切り出すリコルドが言っているのは、無論、今回の事故による被害のことだった。
手塩にかけてチューンナップした車をおじゃんにされた。金をいくら払われても、あの、キャデラック・エスカレードにかけた労力や時間や元の姿が戻ってくるわけではない。店のショーウィンドウも粉々にやられて、営業すらままならない。店が元の姿に戻るまで――それが、本当に2週間後に実現するのだろうかと心配もしているので――落ち着くなんてことはできない。この店は私の生き甲斐なんだよ。
店長に淹れてもらったコーヒーは、彼の話を聞いているうちに半分くらいを飲み干していた。
あれは事故じゃない。殺人だ。チームメイトはそう確信していた。も信じたくは無かったが、自分が誰かに殺されそうになった――いや、実際、殺された結果だと知っている。店長がそれを知ったら?
そんな焦燥感に喉が乾き、喉は水分を求めた。すると、意識が朦朧とし始めた。前にも、こんなことがあった気がする。そう昔のことじゃない。いつ、だったか……。
ふらふら、ふわふわした感覚に拍車が掛かる。は意識がとぎれる寸前にマグカップをテーブルの上に置き、しばらくうつらうつらとした後、肘置きに覆いかぶさった。
「お、おい。の様子が、おかしいぜ」
小人用の足掛けチェーンを登って、の隣に置かれたバッグの端から外の様子を伺っていたホルマジオが言った。彼の視線の先にはが、イルーゾォがいる方からは社長室の戸口が見えていた。
イルーゾォは、バレないようにと控えめに顔を出して警戒してはいた。しかし、外からあまりにも音が聞こえてこないので、このまま何事もなくアジトへ戻ることになるのではないかと思っていた、そんな矢先のことだった。
はソファーの肘掛けに覆い被さるように倒れ、リコルドは落ち着いた様子で立ち上がる。そして、イルーゾォがいるのとは反対側――リコルドのデスクがある方――からの方へ向かった。イルーゾォは彼の姿を追うため、脚をかけていたチェーンからバッグの底へと飛び降りた。
「薬でも盛られたのか……?」
これからどうすべきか。それを考える前に、目の前で今何が起こっているのかを正確に把握しなければ。ホルマジオはをじっと見つめた。胸は規則的に動いている。眠っているだけのようだ。そうと分かりほっとはすれど、何故突然眠りだしたのか、誰がに睡眠薬を盛ったのか、という問題が頭に浮かぶ。――簡単な問題だった。リコルドだ。彼は今、眠りこけるの背後に立ち、起きる気配のない彼女の両肩を手でがっしりと掴み、ソファーの背もたれに彼女の背中をもたせ掛けた。
「何が起こってる」
ここからではよく見えない。ホルマジオはとっさにバッグの底へ飛び降りると、自分が張っていたのとは反対側に向かった。バッグの真ん中あたりでイルーゾォとすれ違う。
「おい、何するつもりだ」
「ここからじゃあ、何が起きてるのか分からねーッ。外に出るんだ」
「……オレも行く」
こうして彼らはバッグの影に隠れながらこっそりと床へ下り、コーヒーテーブルの脚、テーブルの下などの物陰に隠れながら、とリコルドの姿を見られる位置についた。その時だ。ホルマジオは、目の前に現れた禍々しいモノに戦慄した。彼が見るのは初めてのことだったので、驚くのも無理は無い。イルーゾォはちらと横目にホルマジオの様子を伺って思った。
メガデスだ。今や、その体躯は、部屋の高さが足りず、天井全てを覆わんとするほどの大きさに膨れ上がっていた。ホルマジオはその姿を見上げ、この世の終わりを見たような顔をしていた。
死神は、体をくねらせるようにして暴れていた。暴れるといっても、部屋の中をあちこち動き回りのたうち回っている訳ではない。足枷で固定されたように、宙に浮きながら、その場で何かにあらがうように藻掻いている。
腕を前で組んだ状態で、太く重そうな鉄製の鎖にぐるぐる巻きにされて、締め上げられているのだ。締め上げられ、心身の痛みを訴えるかのように、死神は叫ぶ。この世のものとは思えないようなそれが、ホルマジオとイルーゾォの鼓膜を貫いた。
「アリス・イン・チェインズ」
どうやら、あの男もまたオレと同じで、メガデスを見るのは初めてではないらしい。リコルドは落ち着きはらった態度で、死神を見上げながら言った。その一言で、イルーゾォは悟った。
こいつが、の心を――恐らく、組織への底しれない怒りと憎しみのようなものを、それを根源にする力を――縛っているのだ。
「これ以上、大きくなっては……よくないな。。何も、何も考えない方がいい。それが、最善だ。忘れなさい。リメッタのことも、グラナートのことも、ウリーヴォのことも……すべてね」
リコルドはの肩に手を掛け、頭上を仰ぎ見たまま呟いた。鎖は――リコルドのスタンドは、量を、太さを増していく。鎖に縛り上げられたメガデスは、最後に一際大きな叫びを上げて項垂れ、動かなくなった。
ホルマジオは混乱していた。
を守るのが、オレたちの役目だ。そのために、今ここにいる。あのおっかねーのは、恐らく、話には聞いていたのスタンド――メガデスだ。メガデスが、攻撃されている? だとしたら、オレは今、リコルドとかいうおっさんに対処すべきなんじゃあねーのか。を、守るために?
身を乗り出したホルマジオを、イルーゾォが制した。
「黙って、大人しくしていろッ……!」
「ああっ!? こ、このまま、黙って見てろってのか!?」
「ああ、そうだ! は、リコルドに、殺されそうになっている訳ではねぇんだッ。見ろ。はまだちゃんと、息をしてる。何も知らねーって風に、涼しい顔して寝ていやがる。……だから、大丈夫だッ」
ホルマジオは、何故イルーゾォが酷く冷静でいられるのかを考えた。考えた結果、が言っていたことを、イルーゾォが言っていたことを理解した。
これが、イルーゾォとオレとの違いなんだ、と。こいつは、オレよりはるかによく……のことを理解していたのだ。
の周りは、偽りで塗り固められている。体だけでなく、心をも、今尚殺され続けている。
それを知ったところで今の自分たちには、立ち向かう気力も、力も、何も無いということが、イルーゾォには分かっていたのだ。