その男の邸宅は市の中心部からはほど遠かったが、車で行くのに骨が折れるほどの距離にあるわけでもなかった。人気は無いが、ある程度手入れされた家が散見される山道から、敷石で均された私道を駆け上った先。開けた空間に、そこそこ大きな家屋と、ガレージ、プール、そして庭があった。家屋は古めかしかったが維持修繕はしっかりと行われていて、今でも人が住んでいるらしいことがよくわかる、感じのいい外観を保っていた。
カレンとレヴは、一帯を見渡せる位置について、低木から顔を覗かせる。
カレンの目的は依然として揺るがず、を永遠に死なせ、彼女に対するインヴィートの関心を殺ぐことにあった。対するレヴは、をパッショーネから奪還するため、消息を絶った彼女の居場所やパッショーネによる管理体制などを探り、彼女が置かれている現状を知ることと、カレンを護ることを目的としていた。目的はどうあれ、パッショーネからに関する情報を得るという点においては、ふたりが取るべき行動が一致しているので、相変わらず行動を共にしているという訳だ。
カレンのスタンドには殆ど攻撃能力が無いが索敵や捜索にはこれ以上無いほど優れていて、レヴのスタンドはカレンのそれとは真逆の能力であるということから、持ちつ持たれつという関係にある。そもそもの目的を果たすための最強タッグだった。けれど、カレンには別の目的があったと判明してからは、依然として協力関係にはあれどお互いに腹をさぐりあう羽目になってしまった。
この関係性に部の悪さを感じているのはレヴの方だった。木に寄りかかり、ドリーム・シアターの“夢”を見はじめた無防備なカレンを見守りながら、レヴは思案していた。カレンの意思は固く、今も尚変わってはいないだろう。彼女が見たこと知ったことを、あけすけに話すわけがない。レヴはそう確信していた。
カレンの命を守りながら、の命を守りパッショーネから奪還する。そもそも困難なミッションが、ここに来てさらに複雑になってしまった。オレに遂げられるだろうか。いや、遂げて見せる。自分の“復讐”のために。
目を覚ましたカレンはすぐに起き上がり、茂みから一歩、足を踏み出した。
「おい待てよ。何を見たんだ」
「がこの屋敷を出入りしてたのが、本当だったと分かっただけよ。行くわ」
「……用心しろよ」
茂みの陰からレヴが言った。カレンは、言っても仕方が無いことを、と思った。相手はスタンド使いで、恐らく家にいるし、しかも一人ではない。
「それと、もし見つかっても……敵意は見せるな」
もちろん、そんなことをするつもりは無い。敵意があるのはレヴの方で、私は少しもパッショーネという組織に対する恨みを持ち合わせてはいない。
「心配いらない。大丈夫よ」
そして一歩、また一歩と進んでいく。
は約3ヶ月の間、この家を出入りしていた。庭を目にした状態で能力を発動し、過去を見た結果なので確かだった。この家の中で何が起きていたのか、何が話されていたのか。それを知ることが出来れば、また一歩、の謎に近付けるはず。
そしてまた一歩、家屋へと近付いた瞬間、カレンの足元がぐらついた。ぞっとして足元を見ると、泥濘と化している足元から人の手が伸びていた。
「っ、な、何なのっ――」
それはカレンの足首を痛いほどにガッシリと掴んで、下へと引きずり込んだ。何故か突如として液状化した地面の下――地の底へと向かって。
全方向から圧力を感じる。水よりも質量のある物体の中。足掻いても、水とも泥とも言い難い半液状になった土のようなものに触るだけだった。カレンは息をしない方がいいと思った。それは、地中に引き込まれたという認識があったからだ。イメージは、ジャングルにあるような底なし沼の中に近い。なので、目を開けるのにも抵抗があった。地中にいるなら、目を開けても広がるのは闇だろう。
腕をバタつかせても無意味だった。相変わらず足首を掴む手の握力はすさまじく、足先のむこうに向かってどんどん引きずられていく。抵抗することはもとより、生にしがみつくことすらできない絶望の中、カレンは思った。
こんなところで、私は死ぬのだろうか。
しかし、思いの外身体は早くに外圧から開放された。カレンはびたと音を立てて、片側の頬や手のひらを石張りの冷たい床に打ち付けた。けほけほと咳込んだ後一度深い呼吸をすると、血なまぐさい、動物が死んだ後にしばらく放置されたような激臭が肺を満たした。
あまりの臭気にたまらず目を見開き、カレンは再度咳き込んだ。次第に薄暗い空間に目が慣れてくると、どうやら自分が地下室にいるらしいことが分かった。目の前には、恐らく自分を地中に引きずり込んだのであろう人間の足がある。足は逆ハの字に傾いていき、やがてふたつの膝関節と、ふたつの手が見えた。するとその片方の手がカレンの髪をむしり取るかのように鷲掴みにして、首から先を持ち上げた。次にふたつの目玉がぎょろりとカレンの顔に向いて、布に覆われた口元が動く。
「おまえ、うちに何の用だァ?」
黄土色をした目出し帽付きの全身タイツ。薬物中毒者のような、瞳孔の開いた瞳。声から、どうやら男性らしいことは分かったが、それ以外の情報はすべて包み隠されている。
「あんた一体……私を、どこに……引きずり込んだのよ?」
男はカレンの首をさらに高く持ち上げて言った。
「質問してんのは、こっちだぜッ。調子こいてんじゃあねえ!」
どこに引きずり込んだかによって答えが変わるから聞いているのに。けれど、これ以上この男を怒らせてもいいことは無い。
カレンは考えを巡らせた。自分が引きずり込まれたのがあの屋敷近くの地面の下だとする。最初は屋敷の方へ向かっていて、足首を掴まれた瞬間、反射的に引きずり込まれるのとは逆の方向を――つまり背後を振り向いて手を伸ばした。手を伸ばした方向とは真反対下方に引っ張られたはずだ。男は「うちに」何の用だと聞いたし、息が続くうちに解放されたことから察するに、そう遠くではない。ならば、ここはあの屋敷の地下室なのだろう。
「おおい、セッコ! どうかしたのか!?」
カレンが口を開こうとしたその時、上から声が降った。呼ばれた男はびくりと肩を揺らし、慌ててカレンの髪を手放すと、まるで犬の様に四つん這いの格好で階段へ駆け寄った。
「しんにゅう……しゃだッ! 引きずり込んだ、んだ……オレの、オアシスでッ!」
打って変わってたどたどしく、媚びるような声でセッコは言った。どうやら、この全身タイツ男の名前が“セッコ”というらしいこと、スタンド能力によって自分がここに連れ込まれたらしいこと、そしてそのスタンド名が“オアシス”と名付けられているらしいことを、カレンは知った。けれど、カレンが知っている男はセッコという名前でも、あんなような見た目でも無かった。
「侵入者だと……? 一体どこの物好きが、こんな山奥まで来るってんだ?」
恐らく、この声の主が――。
ここは、とある医者くずれの“殺人者”が住んでいる家だ。そうと知っている人間はごく限られている。部外者が知り得る情報では、決して無い。だが、完全なる部外者カレン・オーには知ることができた。彼女には土地が持つ記憶を異次元に再現する能力があるからだ。
ファジョリーノは言っていた。の様子がおかしくなったのは、去年のクリスマスの頃からだと。クリスマスを目前に控えた仕事納めの日に、凶悪な顔をした男が車を買いに来た。恐らく、はその男と“アフター”をキめていて、年明けからはその男の車で通勤を始めた。その数か月後に、今度は失恋したと言って店のデスクで号泣した。
あれからドリーム・シアターはさらに退行した。カレンが求めたのは、目下の敵――の取り巻き連中――以外の、パッショーネの人間で、且つとの接点を持つ、あるいは持ったことのある人間だった。場所や物、人の記憶を辿って行けば、カレンは高確率で目的とする情報を得ることができる。が今置かれている状況はもとより、彼女を“永遠に”殺す方法だって見つかるかもしれない。そう思ってのことだった。
ファジョリーノが言っていた凶悪な顔をした男が現れたのと丁度同じ時期に、アメリカはニューヨークにあるインヴィートの自宅に、例の忌々しい手紙が届いた。何か関係があるのかもしれないという根拠の無い漠然とした思いから、カレンは標的をその男に絞ったのだった。
キャデラック・エスカレードはイギリスの高級車メーカー、ジャガーのソブリンに変わる。例の男が、車の中を覗き込む。確かに凶悪な顔をしていた。彼の邪悪そのもののような目はすぐにサイドミラーへとうつり、鏡に映るの姿を捕えていた。後になって思ったのは、その瞳は溢れんばかりの殺意を湛えていたのだということだった。
追跡は店の外に停められた車から始まった。車種、車体の色、形、ナンバーを覚える。その車がどこの誰に買われたものか、金の動きを見る。公的機関に登録された車の名義人を調べる。残念ながら、車を所有していることになっているのは車を乗り回している人間では無かったので、車両登録が行われた公官庁へ赴き、登録に来た人間の顔を覚え、その人間が乗っている車について同じ調査を行い――。
こうした地道な調査の末、行きついたのがチョコラータという男だった。彼は地元紙にも載った“医療ミス”で人ひとり死なせた罪により起訴及び拘留されていたが、保釈金が支払われたために今は自由を謳歌している。末端構成員の噂には「わざと麻酔を弱くして、腹を掻っ捌いている間に患者を目覚めさせたりしていた根っからのサイコ野郎」とあったので、そんな男の家にわざわざ近付くなど自分でも正気の沙汰とは思えなかったし、嫌で仕方が無かったが、さらなる情報にありつくためには仕方の無いことだと腹をくくっての訪問だった。上手くいけば、そのサイコ野郎に会わずとも情報を得ることができるかもしれない。
そんなカレンの淡い期待は泡沫のごとく消え去り、今は例のサイコ野郎に拘束され、死の淵にいるというわけだ。
「それで? ……あー、カレン……とか言ったか? ここへは何をしにきたんだって?」
下卑た笑みを浮かべたチョコラータは、ダイニングテーブルの椅子に座らせ、背もたれの支柱に両手を、前方の脚に足首を縄で結わえ付けたカレンに聞いた。彼の視線は、カレンの足のつま先から頭の天辺までを舐るように這った。カレンは身震いしそうになりながら、言った。
「あなた……・を知っている?」
カレンがそう言った途端に、チョコラータは目の色を変えて客人の瞳を凝視した。
90:Homecoming
・のことが頭から離れなかった。これが愛かどうかも分からないと言って一度別れた彼女への思いは、何故か日に日に増して、チョコラータの胸を焦がすほどに燃え上がっていた。この心の変化に最も驚いているのは彼自身であり、よもや自分がひとりの女相手に執心するなど正気の沙汰ではないとすら、俯瞰的に省みるほどだった。そして所詮、自分もまたただの人間であり、人体が生成するアドレナリンやドーパミンといったホルモンの働きに隷従せざるを得ない生き物でしかないのだと悟った。
が傍にいない日々は苦痛に満ちていて、たった一日が一年の様に長く感じられた。一晩、二晩とやり過ごす。今にも、彼女がひょっこりと顔を出すのでは無いかと期待しながら。微睡みの内には、彼女がそばにいるような感じがした。けれどそれは幻影に過ぎなかった。
に会いたい。彼女は私に新たな喜びを教えた。教えてすぐにいなくなった。
あの日私は死んだ。そうとすら思えた。そんなこと、誰も気にしちゃいない。気にしちゃいない。誰か――は気にしているだろうか。ああ。私をこの牢獄から救い出してくれ。遠くへいきたい。もう、こんなところにはいられない。自由になりたい。私を自由にしてくれるのは、・ただひとり。彼女を完全に自分の元へ帰すその時にこそ、私は自由になれる。自由に彼女を愛し、最期には自由に彼女をこの手で殺す。彼女を失くした後にはきっと、私も自ら死ぬだろう。海に脳味噌を吹き飛ばすのさ。ああ、待ち遠しい。はやく、そうなればいい。はやく、そうしたい。
チョコラータは、しばらく見ないと決めていたはずのビデオを手に取るため、自室へ駆けた。デスクの抽斗に仕舞っておいた、とっておきの1枚だ。彼はリビングに駆け下りて、この時のためにと新調したDVDデッキにディスクを入れた。
の綺麗にくびれた脚。もっちりとした太もも。ぷっくりと膨らむ恥丘を覆う茂み。上下に口を開く臍。浮き出るあばら骨。たわわな乳房。鎖骨に、首。寸断されたそこから上には、ただ虚空が広がっている。断面は標本のように美しく、一滴たりとも血は滴り落ちていない。――ああ、。なんて……なんて美しいんだ。
心臓はドクドクと音を立てて、息子はひとりでに立ちあがる。映像を凝視しながら、彼は熱く膨らむ中心に手を乗せた。画面は切り替わり、寸断された首の先に乗っていた頭部が映し出される。
の、頭部。彼女の目は確かに、私に熱い視線を送っていた。彼女の鼻先は私の茂みをくすぐり、彼女の口はこれを咥えていた。舌先が先端を撫で、中腹で竿を根本から舐り上げた後、悪戯っぽい瞳でちらと私を見て、すべてを包み込んで、舌を、口の中全体を絡ませ、上へ下へ上へ下へ。その後私は、彼女の中へ潜り込んで、彼女を下から突き上げた。何度も、何度も。夜更けから、夜が明けるまで。――彼女の腹や背中は白濁まみれだ。私の腕や脚も自分のそれやのあれで汚れたっけ。そして、朝日がカーテンの隙間から覗き始めた頃に、ふたりで熱いシャワーを浴びたんだ。
こうして、頭の中のと幾晩を過ごし、幾晩もひとりで達した。気が狂いそうだったので、彼は街に繰り出して適当な女を見繕っては家に連れ込んだ。声を出すなと罵りながら、枕で顔を隠したり、自分で目を瞑るなどして、今自分が蹂躙しているのはなのだと思い込もうと必死になった。こうして達しはすれど、心は全く満たされなかった。
やはり、でないといけない。でないと。彼女は、首から先を断ち切ったって死なない。死を恐れない。彼女は反逆者だから。けれど、それ以外の女は皆……すぐに死ぬ。面白くない。いい加減にしろ。いい加減にしろ。
腐臭に満ちた地下室は、いわばチョコラータの欲の掃き溜めだった。いずれ、カビに分解させて綺麗に掃除するつもりでいるが、いずれという時がまだ来ない。けれど、そろそろ地上に漏れ出す頃かもしれない。女を連れ込もうにも、敷居をまたがせる前に逃げ帰るかもしれないな。などと考えていた矢先の来訪者。ラッキーだ。わざわざ街に向かわずとも、奴さんから家に来てくれるなんて。今夜の慰みものにしてやろう。
けれど、その女はチョコラータが愛してやまない女の名を口にした。
「に何の用だ」
チョコラータは怒り心頭に言った。
「あの女を……殺す方法が知りたい。永遠にね」
チョコラータは鬼の形相でカレンの肩に掴みかかり、額を打ち付けんばかりに迫った。
「を殺すだと……? ダメだ」
「何よ……あんたもなの。あんたも、あの女にたぶらかされてんのね? あのビッチ。本当に癇に障るオン――」
「を殺すのは、私だ。おまえじゃないッ。おまえなんかに、私の大事なを殺させてたまるかッ!! 人のオンナを気安くビッチ呼ばわりするんじゃあねー!! あーおい待て……は、やっぱり他の男といちゃついたりしているのか!?」
「……は?」
カレンは聞き間違えたかと思ったので、慌てふためくチョコラータに聞き返した。
「大事なのに……を殺したいの?」
「そうだ。大事だから……愛しているからこそ……私がこの手でを殺すんだッ」
噂に聞いた通りのサイコ野郎だ。けれど、私の代わりに殺してくれるつもりなら、それはそれで好都合だ。ここは穏便にやり過ごし、情報を引き出し、いつ殺すつもりでいるのかを聞き出し、可能な限り最大限の援助をするしかない。
「というか、質問に答えろ、オンナ!!」
「私はカレンよ」
「そんな質問はしてない。には、他に男がいるのか、いないのか、どっちなんだ」
「そんなこと知るわけないでしょ」
「ならどうしてをあばずれと罵ったりしたんだ?」
「私の国では、気に入らないオンナにとりあえずビッチって言うのよ」
「……そういうものなのか。まあいい。とりあえず、おまえは何者で、何故を殺そうとしているのか話してもらおう」
チョコラータもまた、カレンというアメリカからきた謎のオンナを“使える”と思っていた。彼もと同じくパッショーネに管理される身だ。あまり自由には動けないし、について嗅ぎ回っていると知られてはことだ。そうでなくても十分、ここ数ヶ月の内に犯罪を重ねてきたので、そろそろお咎めに例のふたりを寄越してくる頃かもしれない。
とにかく、私がに執着しているということは、パッショーネの誰にも……特にボスや親衛隊、にすら、知られてはならない。けれど、彼女が今どうしているのかは知っておきたい。
今も死にたがっているだろうか。死にたがって、私を恋しく思ってくれているだろうか。
この時はまだ、チョコラータはカレンのことを、の現状を知るための情報収集ツールとしか思っていなかった。カレンとの出会いが自分の運命を決めるとも知らずに、これ幸いと喜んでいたのだった。