耳を劈くうるさい警報音が脳みそを揺さぶった。
「おい誰か!救急車を呼べ!」
誰かの叫び声がそれに紛れて、粉々に砕けて大きな風穴のあいたショーウィンドウの向こうから聞こえてくる。意識を取り戻した私が目を開けると、中型トラックのフロントバンパーがひしゃげボンネットが開いていて、エンジンルームのどこかからか白い煙を吐き出しているのが見えた。くらくらする頭を何とか反対側に向ける。すると今度は、トラックと正面衝突して弾き飛ばされたキャデラック・エスカレードの姿が見えた。大破するほどの衝撃は無かったようだけど、かわいそうに、その綺麗な顔には立派なへこみ傷が出来上がっている。
それはそうと、意識を取り戻した私は痛みに気が遠くなる。一番痛む場所を中心にじわじわと燃え広がっていくような痛み。ずきりと傷む腹のあたりに手を持っていこうとしてみても、思うように体が動かせない。次第に息も苦しくなっていって……ああ、また。私が一番欲しかった“薬”が、手に入るんだという予感に――至上の快楽と幸福感に――体が、魂が、私のすべてが呑まれていく。
どうしてこうなったのか、私の体に何が起こっているのかなんて分からないし、そんなことはもうどうだっていい。私は今死に向かっている。それだけしか感じないし、重要なことは今このときに集中して、私は確かに生きていたんだという事実を噛みしめること。――それを最近は何故か嫌だと思うようになっていた気がするけど、どうしてか全く分からない。こんなに、生きているより気持ちがいいのに、どうして? どうして私は、死にたくない、なんて思っていたの? ああ、でももうそんなことだってどうでもいい。
私の薬は私を至上の快楽に押し上げてくれる。死に向かう最中の痛みを和らげるために、神が人生の最後にと与えてくれるご褒美――脳内麻薬だ。全身が沸騰して、蒸発して、霧散して、世界と私が一体となるような感覚を、世界にきつく抱きしめられるような、えも言われぬ快感と幸福を覚えさせるそれは、後に私の体から一切の感覚を奪い、意識をも暗闇へ押しやった。
「もう、死なないでって……言ってるのに」
暗闇の奥の方から、蚊の鳴くような声が聞こえてくる。涙ながらに訴えるその声が、誰のものかを私は知っている。どこから聞こえてくるのかについても、概ね見当はついている。
「死にたくないとは思っていたわよ」
言い訳がましく、私は返した。
「でもあなたは今、もう全てがどうだっていいと思っているわ」
そう。彼女と私は繋がっている。きっと元は一つの魂だ。だから私が思っていることは彼女にも筒抜け。でも不公平なことに、彼女の思っていること、彼女が抱えていることは私には分からない。
「ええ。正直今のこの世界は、私が生きるのに複雑すぎるのよ。だから、現実逃避をしたいと思うことくらいは許してほしいわ。……それに、私は死にたがりだけど、今回も自殺じゃない。少なくとも私は、自分が死ぬように手を回してはいないわ」
「ええ。それは分かってる。でもあなたはもう少し、人を疑うことを知ったほうがいい」
「……そうね。疑いすぎるのも考えものだけどね」
そうして孤独の道を歩むのが彼女なら、疑うことをせずにすべてを、死すらも受け入れるのが私だ。どうにか折り合いをつけて、その中間地点で彼女と一つになれたなら、今より少しは生きやすくなりそうなのに。ただ息をするということすら、今の私にはままならない。だから、これ以上事態が悪化することはない――というわけでもないのだ。
「怖いわ。今度目覚めるのはいつかしら」
私はつい最近、彼女が言ったことを思い出していた。死ねば死ぬだけ、生き返るまでの時間が伸びていく。指数関数的に。前回は丸一日とちょっとかかった。なら次は?もしも目覚めた時に、誰もいなかったら?そんな孤独には耐えられそうに無い。ああ、だから死んではいけなかったんだ。
彼女は答えた。
「さあ。数学の公式で簡単に計算できるものでもなさそうだし、私にも分からないわ。重要なのは、誰があなたを殺そうとしているのか。今はそれだけ。……誰かが、あなたに薬を盛ったのよ」
思うに、彼女はとことんストイックだ。怨めしそうに泣きながら鬱憤を晴らすように喋りはするけれど、次の瞬間には私がどうすべきかを考えて教えてくれる。ほとんど現実を生きる気力を失くしかけている私に。
これ以上、死ぬべきではない。死なないためにどうするべきか。私には、考える気力もほとんど残っていないのだけれど、彼女だけは必死に生き残ろうとしている。そんな彼女の意志を尊重すると、リゾットは言っていたし、私もそうすると心に決めたはずだった。けれど、チームメイトに命の危険が及んだ途端に、その決意は砂上の城のようなもので、ひどく基盤の脆弱なものだったのだと思い知る。
結局、彼女の意志を尊重するということは、皆の命を礎にして生き残ることと同じだと思う。私が生き残ろうという意志を持ち始めた途端に、何故か皆の命に危険が及び始めたから。私は自分の命という城に、その基盤としてチームメイトの命を据えられるほどの価値などないと思えてならないし、そんなことをするだけの覚悟も気力も何も無い。きっとそんなようなものがあるとすれば彼女の中にだけだけど、それを私は知る由もない。教えてほしいと何度も懇願してきたはずだか、一度も話してくれたことはない。言えないの一点張りだ。だから、彼女の言う事の半分くらいを満たせば、ちょうどいい結果になるだろうと適当に当たりをつけて、うまくやって生きていくしかなかった。
私はそうやって頭を使って頑張って生きていくことに、疲れ始めている。
「諦めないで。まだ早すぎるわ」
私以外の愛する人たちの死が、あまりにも簡単に実現してしまうような世界なのだから、疲れたからと諦めるのは早いなんて言われる筋合いはない。
「そんなこと、言わないで。生きて。生き続けて」
諦めてはいけないと私自身が思うのは、自分が自分に嘘をつきたくないという一貫性の法則というものが邪魔をしているだけにすぎない。
「それでいい。今はそれでもいいから、生き返りたいと言って」
本当はもう私は――
「やめて! 誰も、あなたにそうなってほしいとは思っていないわ!」
「いいえ。現に私は誰かに殺されようとしている。私が死んでも生き返ると知らない誰かに」
それが誰かについても、粗方見当はついている。誰かと言って現実を直視しないのは、得たものを失うのが、この期に及んでも怖いから。
何かを得たと思っても、私の手からはすぐに全てが滑り落ちていく。快楽を得たと思っても、それがすぐに実感できなくなってしまうのと同じ様に、私の大切なものはすぐに消えてなくなっていく。それはすべて、虚構だからなのかもしれない。幻想だ。ぜんぶ。私が感じるもの全てが。まただ。また、私は大切なものを失うんだ。悲しい。悲しい。ひどい、どうして、どうして私はいつもこうなの。
「少なくとも、あなたの身近にいるチームの皆は、あなたに死んで欲しいとは思っていない。それはあなたの妄想でも何でもない。皆、あなたという存在に救われている。多分、愛されているわ。私にも少し、分かりかけてきたのよ。あなたを見る皆の眼差しは――暗殺者のそれのはずなのに、ひどく優しいんだもの」
言われて、思い出した。死んでも生き返る私の死を悼む、皆の心を。
「あなたが死んだら、あなたはいつもアジトに戻っていた。この前なんか、地べたに張り付いた脳みそや血液ですらホルマリン漬けにされて近くに置いておいてくれたじゃない。早く生き返ってほしいって、そういう意志の現れだったのよ」
そう、だった。ならばもし、ここで私が永遠の死を選んでしまったら?
「皆、悲しむ。きっとね」
「……それが本当なら、嫌だわ」
「だから、ね。早く、あなたの思いを口にするの」
私のためではなく、皆のために。皆がこうすることを祈っていると信じて。
「私は、生き返りたい。もう二度と、ここには戻らない」
「そうよ、それでいい」
こうして、私はまた死んで生き返った。快楽に飢え、孤独を紛らわすための薬を求める体に宿った精神が覚醒する。すると、すぐにあの滾るような感覚が私を襲う。対処しないでいると、頭がどうにかなってしまいそうな渇望に、私は身を焦がす。
「ああっ……あっ、イヤ、イヤイヤイヤっ!!」
頭を右へ左へと振って、沸騰して蒸発してしまいそうな顔面を、頭を掻きむしる。
「。、落ち着け、落ち着くんだ」
優しい声が聞こえる。けれどそれが誰のものかすら、今の私には分からなかった。
まただ。また誰かが、私に薬を盛ったんだ。
81:My Medicine
暗殺者チームは未だ、を殺さんと企てる者を殺せずにいた。その間、二十四時間体制の監視は怠ることなく続けていた。我慢比べといったところだった。敵が尻尾を出すまで絶対にこちらからは動かない。動けば、敵は警戒してを殺しにかからず、長期戦となることが想像できたからだ。
イルーゾォの能力ならば、敵に警戒を与えずにを殺しにこさせることができると誰しもが思ったが、それは敵がスタンド使いでない場合に限った話だ。敵は恐らくスタンド使いであり、それがどれだけの集団でいるのかすら今は全く分からない。イルーゾォの能力はほぼ無敵であるが、それを無効にする能力か、無効にはしないまでも存在を察知する能力を持つ者がいないとは断言できない。
そういうわけで、ギアッチョは望遠鏡を片手にいつもの場所からショーウィンドウ越しにの姿を覗き見ていた。店の裏側の方にある廃屋の物陰には熱病から快復を遂げたペッシが控えている。彼とはトランシーバーで連絡を取り合うこととしており、ギアッチョが店舗内の様子を監視し、必要に応じてペッシを店舗へ向かわせるという手筈を整えていた。
が死ぬところなどもう二度と見たくない。
ギアッチョは、目と鼻の先で彼女が海の藻屑と消えたあの日の絶望を、もう二度と味わいたくなかった。この身を引きちぎられたかのような胸の痛みと、心的ストレスという圧迫感からくる息苦しさ。彼女が闇の中から姿を見せるまでずっと続いた責苦だ。ギアッチョの、最早トラウマと化したその記憶は、植え付けられたその日から今の今までずっと彼を苦しめ続けている。
死なせてはいけないという重圧と、死んだ姿を見ることになるのではないか、そしてもう二度と彼女の笑顔を見ることが出来ないのではないかという恐怖。本業が入って、彼女の監視から一時的に解かれる時にホッとするような気すらした。
今日も何事も無く一日が終わればいい。
は定時を目前に控える今、商談スペースで客と契約書を取り交わしていた。ギアッチョは一度、彼女が今腰を据えている席に座ったことがある。あれは……どうしてだったか。彼はその時のことをよく覚えていなかった。何か、あの店では何かがあったはずなのだが――
はいつの間にか席を立っていて、外に出て客を見送っていた。
――おい、ボーッとしてんじゃあねーぞ、ギアッチョ。
ギアッチョは自分自身を心の中で叱咤して、今のところ無事でいるへ視線を戻した。彼女は商談に使ったテーブルの上にあったコーヒー・カップなどを片付けに給湯室へ向かうところだった。ギアッチョが居るところ――店の前を走る幹線道路をはさむ小高い丘の上――から見えるのは、給湯室がある廊下の入り口までだ。しばらくするとそこから、私用のマグカップを持ってきた彼女が元の場所に戻る。これはいつものルーティンだ。彼女は殊の外車への興味が尽きないようで、用事がなければ定時を過ぎてもぼうっと幹線道路を流れ行く車を眺めた。
なるべく早く帰れよとギアッチョは言ったが、これでも短くなったほうなのよとは返すだけだった。何でも、以前は帰ってもひとりぼっちなので、どうせなら広々とした空間で車を眺めていたいとかで、今いる場所で夕食を済ませることすらあったという。この通り、彼女が比較対象としている時点は暗殺者チームに入団する前だ。対して、ギアッチョが比較対象としているのは、暗殺者チームへ彼女が入団した後。最近は確実に、アジトへ戻るまでの時間が長くなっている。――ギアッチョにはこの変化が、のアジトへ戻りたくないという思いの現れであるような気がしてならなかった。
「おい、ペッシ。てめぇ……寝ちゃいねーだろうな」
ギアッチョはトランシーバーでペッシへ話しかけた。
『い、今ちょうど連絡しようとしてたとこだったんだよッ』
「んだよさっさと報告しろ!」
『いつも通りだ。いつも通り、カレンって……営業の女が裏口から出ていった』
良かった。今日も何事もなく一日が終わりそうだ。ギアッチョはホッと一息ついて、運転席のシートに背中を張り付けた。
――が、何か様子がおかしい。の様子が。
が、商談スペースのテーブルに顔を突っ伏している。マグカップは倒れ、中からコーヒーがこぼれ出している。
「おいペッシ!!の様子がおかしいぞッ」
『え!?』
その時だった。郊外の方へ向かう一台のトラックが道路の中央線を跨ぎ、店に突っ込もうとしているのが見えた。それはまるで、を殺すという意志を持った生き物ように、一直線にを目掛けて突き進んでいる。ブレーキを踏む様子は無いどころか、むしろアクセルを踏み込んで急加速し始めた。
「おい、ペッシ!を――」
だが、遅すぎた。トラックはショーウィンドウを突き破り、そのままとテーブルなどを一緒に店の奥へと弾き飛ばした。
『!?姉貴ッ!』
「ああ、畜生!……またかよォッ!!」
ギアッチョはトランシーバーを助手席へ叩きつけると、車を急発進させて店へ向かった。事故を目撃した者たちが道路脇に停車して、わらわらと出て来始めているその脇を猛スピードで通り抜け、店の裏側へと回り込む。ガレージで作業をしていたメカニックたちが店内へ駆け込んだ後なのか、開け放たれたドアから侵入できそうなことがわかった。ペッシがまさに今その侵入経路から中へ進もうとしているところであり、ギアッチョは彼の後に続いた。
トラックがショーウィンドウを突き破ったせいで、店内では警報装置がけたたましく鳴り響いていた。メカニックのうちのひとりは、事務室で受話器を押し当てていない方の耳に小指の先を突っ込み救急に電話をかけていた。ふたりはメカニックに気づかれないように事務室の前を通り抜ける。そのまま廊下を進み、ペッシは左手に視線を向けた。そこには、フロントバンパーがひしゃげたトラックの、歪んで開かなくなった運転席の扉をバールでこじ開けようとするメカニックの姿があった。が轢かれたことを知らないのだろう。どうもはメカニックの死角――トラックの反対側――にいるようで、目に入ってすぐの方を、彼は救助しようとしていたのだ。
幸いガソリンの匂いはしなかった。展示されていたキャデラックにはガソリンが注がれていなかったようだし、トラックの方はガソリンタンクに損傷がないのだろう。恐らく爆発はしないと思われたが、がまだ死んでおらず苦しんでいるのなら早く救ってやりたい。だが、こうもギャラリーがたくさんいるのでは、死んでしまっているかもしれない、ひどく損傷しているであろうの体をアジトへ連れ帰ることもままならない。
「おい誰か! 救急車を呼べ!」
窓の外から、ギャラリーのうちのひとりがそう叫んだ。そこから見えるのはやはり、トラックの運転席に座り、ハンドルから膨れ上がったエアバッグに突っ伏して意識を失っている男――を轢き殺したであろう張本人――の方だ。恐らく、はどの位置からも見えにくいところいる。とは言え、呼ばれて駆けつけたた救急隊員にはいずれ見つけられるだろうし、死んでいるが救急車へ乗せられて、モルグに突っ込まれるなんて厄介なことにもなりかねない。そうなる前に、彼女を自分たちがアジトへ連れ帰らなければ。
ギアッチョは自身のスタンド、ホワイトアルバムを出現させた。そして、店内の水蒸気を冷やして――加減が必要だ。あまりに急激に冷やすと、部屋が一挙に氷の世界と化してしまう――水の粒に変える。夕刻ではあったがまだ外は明るく、反対に暗い店内で靄が立ち込めれば、光は水滴に反射して外から中の様子はひどく見えづらくなるはずだ。警報音で物音は掻き消され、視界も晴れないというのならそこは暗殺者の独壇場。ギアッチョは、なんだ、火事か!?と騒ぐ皆の目を盗み、構わず運転席のドアをこじ開けようと懸命になっているメカニックにだけ注意を払いながら、トラックとキャデラックの間の狭い隙間に身体をねじ込み、の姿を探すことにした。
そうしてしまえば、探すまでもなかった。仰向けになって、安らかな寝顔を見せるが床の上に転がっていた。ランボルギーニのディアブロに轢かれた時ほどにバラバラになってはいないが、腹のあたりは広く血に濡れていて、顔面の皮膚の薄いところなどから血を流している。ギアッチョは下唇を噛みながら身を屈め、の首筋に触れた。
死んでいる。
今ギアッチョが触れているのは、紛れもない死体だった。紛れもない、の死だ。以前よりも確実な死がそこに実現していた。ギアッチョは一時、正気を失くしかけた。場の空気は凍てつき、ピシピシと音を立てて周囲の物が凍りつきはじめる。あまりの寒さと、何故かバールが手のひらに貼り付き始めていることに気付いたメカニックは悲鳴を上げ、慌ててそれを放り出す。バールは床と接触してカランと音を立てた。
いつの間にかそばにいたペッシが、ホワイト・アルバムを纏うギアッチョの肩を掴んだ。そうされてやっとギアッチョは我に返る。
「お、おい、一体ここで何が起こってるんだッ!?なんでこんなに寒いんだ!?」
事務室で救急を呼びつけていた方のメカニックが喚く。
「おい、はどこだ!?まだここにいたはずだろう!?彼女がここを出ていったのを、おまえ見たのか!?」
「い、いや、見てない。見てないよ」
「じゃあ何で探さねーんだ!?トラックの下敷きになってたらどうすんだ!?おまえがそうしてる内に、が死んじまったらどうすんだ!?そんな、うちの店に突っ込んできたクソ野郎より先に、を探せ!」
「そうだ、そうだよな。す、すまん。オレ、すっかり気が動転してて」
ふたりのメカニックがトラックの後方から向こう側に回り込んだ時にはもう、誰の姿もそこには無かった。店舗の近くでロードスターがうなりを上げ、走り去る音を気にする者もいなかった。