カレン・オーを絶望の淵へ追いやったのは、たった一通の薄っぺらな手紙だった。
右上に貼られた切手に被せるように、スウェーデン郵便支局の消印が押されている。差出人は不明。生成り色をしたその封筒をインヴィートが開け、中の手紙を読む様を、カレンは彼のベッドの中からすぐそばで見ていた。すると手紙を読み終えた彼の目の色が瞬く間に変わる。次に彼は、ついさっきまで暖炉で熱されていた焼きごてを体の何処かに押し当てられたかのように突如バタバタと慌ただしく動き出すと、服を着て自分の家にカレンをひとり置き、何も言わずに出て行った。
幸せな微睡みの中にいたはずだったが、カレンはその時のことを鮮明に覚えていた。
・は生きている。パッショーネに懐柔されながらも、まだ生きている。
後に、例の手紙の内容がインヴィートによって語られた。インヴィートは滅多にイタリアにいたときのことを話さなかったし、元々自分のことをぺちゃくちゃと喋って明かすような性格もしていなかった。殆ど無口で寡黙で冷徹と言ってもいい男だった。だから、カレンは彼の過去についてのほとんどを知らなかった。
けれど、出会ってからのことなら、カレンはインヴィートのほとんどすべてのことについて知っているつもりだった。
ニューヨークの路地裏で出会ったばかりの彼は、それこそ夢も希望も何も未来に見出だせないというような死んだ目をしていて、痩せこけた体を見ると正に生きる屍のようだった。カレンはそんな彼に常に寄り添い、これまで共に歩んできた。精気を、生きる希望を――溢れんばかりの愛を与えてきたのだと自負していたのだ。だから彼は、ギャングの幹部にまで成り上がることができた。そう思っていた。
けれど、それでも彼はまだ死んだままだったのだ。インヴィートの、朝日に照らされた煌めく瞳を思い出し、カレンはそうと初めて悟った。
彼を真に生き返らせたのは私ではなく、死んだはずの女――・だった。
インヴィート・マリアーニが、あろうことかたったふたりのイタリアからの刺客にしてやられ、愛する女をむざむざ手放さざるを得なかったあの夜から二週間が経ったときのこと。今の今まで、彼は絶え間なく・のことを考えていた。
「なあ、ああ、っ……頼む! 頼む、女の命だけは……女だけは助けてくれ!」
ああ、うるせえやつだな。
インヴィートは眉根を寄せた。愛すべき女のことを考えるには、ノイズが多すぎる夜だ。
ニューヨークのクラブ王を手懐け、その裏口で麻薬を捌かせるのがインヴィートの仕事だった。彼は今宵、仕事のためにクラブハウスのオーナーが所有する港の倉庫にカレンとふたりで来ていた。そして、愛する女の命を乞いながら泣き崩れる男を、高いところから見下ろしていた。
クラブに足を運びサービスを受ける者たちは皆、クラブハウスのオーナーを夜の帝王だと思っていた。だが実際は違う。帝王の命を手のひらで転がす死神がいるのだ。
インヴィートは死神よろしく決して表立って行動はしなかったが、彼に歯向かえば命は無いとクラブの取締役達は理解していた。夜中に彼がふらりとクラブを訪れようものなら、彼を知る者は皆口を閉じて拳を収め、彼を知らない者――今やそんな人間はほとんど存在しないが――は大抵が“見えないなにか”の餌食になって命を落とした。
今、死神を前にして跪き泣き喚いているのはメキシコのギャングだった。彼とインヴィートはメキシコからニューヨークへ麻薬を流す仕事で提携を結んでいた。だが、男はインヴィートのファミリーが買った麻薬の一部をくすねてはこそこそと私腹を肥やしていた。男のパートナーであるらしい女はカレンに拘束されて、首元にナイフを突きつけられている。そこまでされてやっと男は自分がしたことの重大さに気付き、罪を白状したのだった。
「ああ、そうだよなあ。オンナってのは大事だよな。オレもお前の気持ちは痛いほどわかるぜ。なんたってオレは最近そのオンナってのを、クソったれ共に奪われちまったんだからな。あの夜のことを思い出すと、もうそれだけで死にそうなくらい胃がむかむかむかむか……こう、はらわたが煮えくり返るって言うのか? それが物理的にどういう状態になることを言ってんのかさっぱりわかんねーが、とにかくいてもたってもいられなくてよ。なんか衝動的に人ひとり殺しちまいそうな気分なんだよな。おまえなら、そんなオレの気持ちを分かってくれるはずだ。……まったく、羨ましい限りだぜ。そのオンナの心の中にはちゃあんとおまえがいる。だよな? じゃなきゃ、あの女はおまえの子を孕んだりしないし、おまえが死にそうなのを見て泣いたりもしない。オレと比べれば、おまえの方が断然幸せ者なんだぜ」
カレンは人質にした女の首に据えるナイフを持つ手に力を込めた。拘束する男を脅迫するつもりでは無かったが、結果的に女は小さく悲鳴を上げ、男は焦燥した。
彼女は自分が不在にしていた間に起きた、インヴィートの言っている話を理解するために必要な事の顛末を当人から聞いているので、インヴィートが言いたいことが理解ができたのだ。対して、インヴィートを取り囲むクラブの取締役や従業員、そして目下のメキシコ人……今この倉庫にいる人間の大半が、たらたらと気だるげに喋る男の話を少しも理解できなかった。だが、そんな彼らにもただ一つだけ分かることがある。
今夜この倉庫で人が死ぬ。
「ところで、誰がこの問題に落とし前をつけるのかって話をするんだが……おまえでなく、おまえのオンナを見せしめに殺すと、おまえには復讐心が芽生えるだろう? だから結局おまえもなんやかんやで色々あったあと殺すことになると思うんだ。対して、そのオンナを生かしておまえだけ殺したら、腹の中の赤ん坊が可哀想だと思わねーか。父ちゃんには会わせてやりてーと、オレは思うんだぜ。なあ、こういう時どうすればいい。命の選別なんてオレにはとてもじゃあないができそうにない。オレにそうする権利があるなら、みーんな死なずにハッピー・エンディングを迎えられるんだが、オレにも立場ってもんがあるんで、何もしないで帰るわけにもいかねーんだよ。だったらもういっそのこと、てめーもオンナも腹の中の赤ん坊もみんなここで派手にぶっころしちまうって手も、最悪あると思うんだ。なあ、カレン。おまえもそう思うよな?」
カレンの腕の中で、女がさらに縮み上がる。カレンは無表情にインヴィートを見つめ返した。他の皆は、冷酷無比な目の前のギャングスターに恐れをなして固唾を飲み、男と女は、やがて来るであろう死を予感して恐怖のどん底にいた。今この場にいる時間をひどく長く感じ、息苦しさに喘いでしまいそうだった。
一方、インヴィートには今ここに居る時間のことなどどうでも良かった。誰が今夜ここで死のうが関係無かった。この倉庫で神妙な面持ちでいる人間には悪いが――いや、彼は悪いとすら思っておらず、完全に上の空だが、彼にはこの面倒ごとに適当に落とし前をつけて問題を解決したあと、すぐさま取り掛かりたいことがあるのだ。最早ルーティンワークと化したファミリーの仕事よりも優先したい“私事”に対する熱意だけが彼を生かしていると言っても過言では無かった。珍しく喋り散らかしたのは、ためにため込んだ鬱憤を晴らすのにちょうどいいステージがあったので喋らせてもらったというだけのことだった。だが、いくら喋ろうとここにいる人間は蝋人形みたいに動かないし、こちらの話にまともな反応なんかしてくれない。喋ったところで大して鬱憤など晴れなかった。
クソ。あのメローネとか言う変態と、訳わかんねー髪型したでけー男――名前忘れた――のムカつく顔が脳みそにこびりついて吐きそうだ。きっと何したってこの気分は変わらねーんだろうな。をパッショーネから取り戻すまでは。だからこんなクソみてーな仕事は、さっさと終わらせなくっちゃな。ここで変な気を起こして後片付けを面倒にする前に。
インヴィートはパンと一度手拍子を打った。驚いた皆がびくりと身体を揺らした。
「さて、おしゃべりはしまいだ。オレがやるべきことは、実行犯の始末。それだけなんだよ、実のところ。オンナなんて殺したって意味ねーし、その意味ないことで増えた死体を処理することが何よりも面倒だ。脅かして悪かったなねーちゃん。カレン。放してやれ」
カレンはパッと腕を開き、ナイフを懐に仕舞った。彼女に拘束されていた女が恋人の傍に寄ろうと地を這い始めたその時、唐突に倉庫内で男の断末魔が響く。見えない何かに喉元を食い破られ、男は血をまき散らす。熱い血しぶきが女の顔に貼り付いたが、女がぼろぼろと零す涙がそれを下へと押し流した。
男が大量の失血によって死を迎えると、常人には何もいないようにしか見えない空間のひざのあたりの高さで、インヴィートが何かを――大型犬くらいの大きさの動物の頭を――撫でるような素振りを見せる。皆はそれを見て恐怖しながら、きっと彼は地獄の番犬を連れているのだと考えた。インヴィートはひとしきり目に見えない何かを愛で終えると、カレンを連れて倉庫の外へ向かった。戸口付近でクラブの責任者がインヴィートに耳打ちする。
「インヴィートさん、ここで殺しは――」
「うるせーな。何とかしろ。できんだろ? そもそもサツなんかにこの倉庫を嗅ぎつけられた時点で終わりなんだ。ここで何かが起こっていると知られないために最善を尽くす。それが責任者であるアンタの仕事だ。……当たり前のことを、今さらオレに言わせんじゃあねーよ」
「は、はい……。すみません」
いつにも増して不機嫌だ。クラブの取締役は、取り付く島もないインヴィートの様子を見てそう思った。
インヴィートはカレンを引き連れてアジトへと向かう。倉庫から出て、夜の街の闇に紛れゆっくりと歩いていく。
「インヴィート。最近、あなたおかしいわ」
しばらく歩いた後、カレンはそう言った。前を眉のラインより少し上で、後ろを肩のラインで横一線に切りそろえた黒髪の彼女は、目の周りを太い黒のアイラインで囲って、真っ赤な口紅をさしていた。彼女の表情は変化に乏しく、まるでゴス文化に傾倒した少女が持つ人形のようにも見える。彼女はインヴィートに負けず劣らず細身かつ長身で、ファッションセンスは彼譲りなのかはたまた彼女の後を彼が追ったか知らないが、まるで仲良しのカップルに見えてしまうほど、ふたりの装いは似通っていた。
「カレン。おかしくはねーさ。オレが本来の目的に向かって動き出したってだけだ。だがどうも出鼻をくじかれちまったみてーだ」
「……またパッショーネのこと。最近、そればっかり。私、そんな話にキョーミないわ。あなただって、そんなことに構っている暇なんかないはずよ。インヴィート」
「おまえがキョーミあろうがなかろうが知ったことじゃあねーよ。オレの言う通りに動くのがお前の仕事だろうが。それに、今回このオレの鬱憤を晴らしにいくのはオレじゃあなく、おまえだぜ。カレン」
カレンは下唇を噛んで眉を顰めた。
「言っただろ。オレはあのファッキン変態野郎の所為で身動きが取れねえんだ。……おまえ、イタリア語は喋れたよな?」
「……ええ」
「なら、ナポリに行って、をこの国に連れてこい。相方にレヴを付けてやる。アイツはオレと同郷だからな。あっちのことはよく知ってるはずだ」
詳細は後で伝える。そんなインヴィートの言葉で、この話題は唐突に終わりを迎えた。
カレンは再三打ちのめされたような気分になって、少しの間足を止めた。だが、愛する者との距離を縮めようと、彼女の身体は反射的に動き出していた。
80:Without Me
カレンはファミリーでも群を抜いて優秀な諜報員だった。
スウェーデンから届いた手紙の経路をたどり、出所がどうやらイタリアはナポリであるらしいと突き止め、各所に匿名の電子メールで効果的に餌を撒いて裏の情報を収集し、・と言う名の“故人”の隠れ蓑を探し当てたのは彼女だった。ファジョリーノから、の仕事の予定と住所を聞きだしたのも彼女だった。
そして、これらの調査にかかった費用はすべて、インヴィートの自費で賄われていた。彼は幹部としての役員報酬を多分に受け取っていたが、が生きていると知る前まで、彼の祖国に巣食うギャング組織、パッショーネへ復讐の炎を燃え上がらせる一方で、ただ黙々とファミリーの仕事をこなすだけの人生を送っていた。女、酒、車、その他もろもろのギャングが嗜む娯楽はもとより、衣食住という生活の柱さえもないがしろにするくらい金を使わなかったので、彼の懐には金が有り余っている。
カレンはインヴィートの“趣味”に付き合わされていると思った。仕事じゃない。我らが属する組織への金銭的還元は皆無。だから完全に趣味なのだ。インヴィートは、の周辺を探ればパッショーネ壊滅の足掛かりを得るはずで、いずれ多勢の部下を引き連れてイタリアの地に返り咲き、ファミリーをより大きな組織とするためにも必要なことだと豪語した。だが、カレンにはなんの根拠も無い戯言に思えた。彼が愛し尊敬していた男の死んだはずの娘をパッショーネから取り返すことこそが当面の彼の目的であって、今身を据えているファミリーのことなど――つまり、自分を含めたニューヨークにいる仲間のことなど――どうでもいいという気持ちが透けて見える。詳細を知るカレンにとってはこの上なく不愉快極まりない話だった。
カレンはインヴィートを愛していた。インヴィートも自分を愛してくれていると信じていた。だが彼は例の手紙を受け取ってから、という――まだ姿も見ぬ――亡霊を愛し求めるようになった。いや、もともと彼女は既に死んでいると思いつつも、彼の中にずっと存在し続けていたのだろう。私がそれを知らなかっただけ。
けれど、それがカレンにはたまらなく辛かった。許せなかった。インヴィートをこの腕に取り戻したくてたまらなかった。
インヴィートに命じられたイタリア行きについて、表向きは気乗りしない風を装ったカレンだったが、ある覚悟を決めた彼女には実は好都合だった。
ファジョリーノを再び重度の薬物依存症へ陥れたのもカレンだった。そうして彼を病院送りにしたのも彼女だった。病院送りにした後で、の職場へ潜り込むために。潜り込んだ後、相棒に黙ってを殺人鬼に襲わせたのも彼女だった。
ねえ、インヴィート。あなたは、私なしでも生きていけると思っているのね。あなたを今まで支えて来たのは私。なのにどうしてそう簡単に、私を突き放すの? それが分からない。
だから殺すの。・を。死んだはずの女を今度こそ永遠に葬り去って、せめてあなたが、あの女を手に入れられないようにする。そしたら今度こそ、私はあなたを完璧に失うんでしょう。それに、もしかしたら私はあの女の取り巻きに殺されてしまうかもしれない。それでも、何もしないまま生き続けるよりマシだと思えるわ。
そして一人になったとき、あなたは何を思うのかしらね。
――それは遠からず来る死と、死に伴う愛情と記憶の喪失を思っての涙だった。