ペッシはまだベッドの上にいた。発熱はだいぶ落ち着いて体温もほぼ平熱に戻ってはいたが、プロシュートが大事を取ってもう一日休んでおけとペッシに言い、リゾットにペッシをそうさせると言ったので、彼はベッドで横になっているしかなかった。
「ペッシ。何か買ってきて欲しい物、ある?」
「……いいや。無いよ、姉貴」
の表情は相変わらず暗かった。そして、その表情のままペッシに背中を向けようとしたものだから、彼は彼女の申し出を無碍に断ってしまったことを後悔して、すぐに付け加えた。
「無いけど、姉貴の料理が食べたい」
に帰ってきて欲しくてそう言った。今の彼女は、触れるとすぐに崩れ落ちてしまいそうなガラス細工のように繊細で不安定に思えたからだ。彼女がもう一度このアジトから離れたなら、もう二度と会えないような気がしてならなかった。
「もし、良ければだけど。……皆が作るメシがさ、病人には塩っ辛すぎて。もっと胃に優しそうな味がいいんだ。姉貴が作るのは丁度いいから」
「分かった。それじゃあ、トマトと鶏肉を煮込んだお粥を作ってあげる。チーズも入れてね。それでいい?」
そう言ってが少し微笑んだのを見て、ペッシは安心した。
「うん。楽しみに待ってる」
「それじゃあ、お仕事に行ってくる」
「気を付けて」
「ええ」
はペッシの部屋を出てリビングへ下りた。そこはプロシュートの淹れたコーヒーの香りが充満して、天井付近にある明かり採りから朝日が挿し込んでいた。久しぶりに見た気がする、穏やかな朝の光景だった。
「おはよう。」
ソファに腰掛けていたメローネが、コーヒーをすする手を止めて言った。
「おはよう。メローネ」
「よく眠れたか」
メローネの向いで新聞を広げていたプロシュートが言った。
「ええ。おかげさまで」
本当のことを言うと、彼女の見張りのために一晩中ホルマジオがそばに座っていたので、良くは眠れていない。は人肌が恋しくなっていたし、ホルマジオも硬い椅子に一晩中座っているんじゃお尻が痛いだろうしで隣で横になって欲しいと言いたくなったが、はそんな出来心を抱いてすぐに、今自分が横たわるこのベッドでメローネと何をしたかを思い出した。その後すぐ、別の夜にホルマジオと何をしたか、その後の夜にイルーゾォと何をしたかを次々に思い浮かべて、自己嫌悪に陥った。
いい加減、は自分の節操の無さに嫌気が差していた。そうせずにいられなかったという言い訳を頭に思い浮かべて、他にやりようがあったのかと自分に問う。けれど、他に思い浮かぶのは死ぬという選択肢だけで、それはもう嫌だと思った。だからそうせずにはいられなかったのだと堂々巡りになって、自己嫌悪という渦中に自らの精神を落とし入れるのだ。そうしたところで、自らの汚点が洗い流されるわけでもない。
プロシュートからいつの間にか受け取っていたマグのコーヒーをすする。せっかくの美味しいコーヒーのはずなのに、心にはそれを味わう余裕も無かった。居ても立っても居られないが、相変わらずやりようが無くて心がざわつくだけだ。こんなことは早く終わりにしたいのに。
「」
メローネが彼女の名を呼んだ。優しいその響きに、束の間心が洗われた。声はすぐ隣から聞こえてきて、そうと気付いて初めて、自分はメローネのすぐ隣に座っていたのだと知った。
「なに、メローネ」
「なんか、浮かない顔してる」
膝の上に乗せていた手をそっと取って甲にキスを落とすと、メローネは憂いをはらんだ瞳でを見つめ、続けた。
「。オレはいつだって、君の味方だ」
手に力をぎゅっと込めてメローネは呟いた。はとりあえず、力なく頷いてみせた。だが、彼の手を握り返していいのか、そうするべきでないのかも分からなくなって、はありがとうとだけ呟き返して、そっとメローネの手から逃れた。居心地が悪くなってどうしようかと考える内に、部屋に入ってすぐに目に入っていたもの――キッチンカウンター上にあるパン屋の紙袋――の存在を思い出した。おなかすいた、とこぼしてソファーから離れていくの姿を、メローネの目が名残惜しげに追いかけていた。
は紙袋からスフォリアテッラを一つ取ると、メローネの隣には戻らずダイニングテーブルについた。起きぬけのチームメイトが入ってくる扉には、ご丁寧に背中を向けた。目は出口を見据えていて、耳は朝のニュースが映るテレビの音を拾ってはいたが、内容などちっとも頭に入ってこなかった。
メローネの優しさに甘えちゃいけない。今の自分を真っ向から肯定してくれるからと言って、彼にすがってはいけない。心から愛している訳でも無い――親愛は抱いている。けれど、あんなことを“させて”いい仲では無いので――彼と、金輪際性交渉を持つべきではない。だから、もう絶対に死んではいけない。快楽に依存してはいけない。今は孤独に、耐えなければならない。例え皆がおまえは孤独なんかじゃない。そう言ったとしても、今の私には恐らく、そんなものは現実から逃れるだけのまやかしに過ぎないから。
まやかし。
そんな言葉を思い浮かべた瞬間、胸が締め付けられて涙が溢れてきた。今まで彼らと過ごしてきた日々が全てまやかしだったなんて、本当は思いたくなかった。けれど、もうひとりの自分に言わせてみれば、私が今身を置く世界は虚構に違いないのだ。
あのガレージだけが、その中にあったものだけが、私に残された真実だ。焼け落ちたはずのガレージ。父の愛車、アルファ・ロメオのジュリアGTC。消失したはずの写真。もうひとりの私。
あのスクリーンは、この目に映る世界を映していた。虚構を見せていたのだ。
ははっとして手を止めた。何か、言いようのない虚無感に全身全霊を支配される。
味気ない、ただ生理的欲求を満たすためだけの朝食を済ませ、は仕事へ出た。行ってくる、という挨拶は忘れた。
慌ててプロシュートが彼女の後を追った。の遠隔監視以外の任を解かれたメローネは、ひとりになったリビングでしばらくぼうっと考え事をしていた。
どうしたらはオレに心を開いてくれるだろう。
には、自分が彼女を深く愛していると知っていてくれるだけでいいと言った。だが、それは嘘だった。本当は、彼も自分と同じ熱量でに愛されたかった。――報われない未来を思い浮かべて、予想通りそうなった時、自分を守るために張った予防線でしかなかったのだ。
に心を開いてもらった上で愛されるためには、自分を監視するもうひとりのとも相対し、彼女にも愛され、受け入れられなければならない。けれど、彼女の言いつけは守ることができなかった。もう挽回の余地は無いのだろうか。に求められたから、快楽を与えてやっただけだと言い逃れることはできないだろうか。
だって、そうして満たされたはずなのに、オレは満たされなかった。むしろ傷付いた。オレがに求める愛は、彼女の中には無いと痛感した。
そうだ。傷付いたんだ。オレは傷付いた。虚しくなって、泣いたんだ。一度自殺して生き返ったばかりの彼女を犯した。なんで自殺したのかも聞かずに。彼女の心を慰めもせず。欲に負けて。そうしてしまった。だから傷付いたのは自業自得だ。
待ってほしかった。オレの手を離さないで欲しかった。せめて離れるときに、目を見て微笑んで、また夜に会えるという確信を抱かせるような、安心できるような言葉が欲しかった。だから彼女がオレの手を離して席を立った時、身を引きちぎられるような痛みを感じた。頼ってほしかった。不安なら、オレが君の拠り所になりたかった。頼ってもらえるということは、オレが彼女と一緒にいられるということだからだ。
もうそうはなれないんだろうか。そんなの嫌だ。。ああ、。愛してる。愛してる。愛しているのに。
君はオレを愛していない。
メローネは頭を抱えた。体を交えても愛を得られないというなら、他にどんな手立てがあるというのか。彼には分からなかった。どうしても彼女に受け入れられたくて、愛されたくて。どうか、待ってくれ。オレと一緒にいてくれ。そう何度も頭の中で繰り返す内に、涙がこぼれた。
そんな彼の耳にもニュースの音声が流れ込んでくる。
『――さて、シェイプ・シフターの死因についてですが……』
『はい。警察の調べによると、犯人の死因は、無数の刺創からの失血死ということになっています。刺創の大きさは、小さなものだと釘、大きなものになると肉切り包丁のようなものまで様々で、同じ刃物でなんども刺されたものではないとの見解です。しかも、傷はどれも内側から外に向かって刃物が飛び出してきたと思わせるもので、一体どうやればこんな傷が出来るのかと専門家も頭を悩ませているみたいですね』
『そんな傷を負わせた凶器も、今のところ発見には至っていないと』
『はい。付近の空き家からいくらか刃物は発見されましたが、そのどれにも犯人と思しき者の指紋はおろか、シェイプ・シフターの血液すら付着していませんでした』
『結局、現場ごとに姿を変えることが出来たということに説明もつかず仕舞いでしたね。その謎を明らかにすることに意味があるかと言われれば、シェイプ・シフターが死に、被害者がこれ以上出なくなったということに比べればさほど重要ではないかもしれない。が、これは警察の沽券に関わる話なんじゃあないのかな』
『そうですよね。だって、シェイプ・シフターの居場所を何者かに先に掴まれて、公的に責任を取らせる前に始末されてしまったわけですから』
『警察当局は今後も調査を進め、シェイプ・シフターを殺した者を追う……との説明を――』
しかし、右から左だった。
きっと警察はすぐに調査を打ち切るだろう。この惨たらしい殺し方はギャングの処刑を匂わせる。つまりギャングが関与していると想像ができるからだ。この場合、深入りしていいことはない。そしてすぐに、シェイプ・シフターという存在は世間にも忘れ去られる。彼が何者であったかなど、誰も気にしなくなる。
彼を殺した張本人たちですら、すでに気にしなくなっていた。彼らチームを襲った衝撃的な事件の前に置いては、もはや嫌悪感以外何も残らない、塵芥も同然の存在だったからだ。
すべて休みの間に起きたことだったので、は何食わぬ顔で仕事へ出ることができた。とは言え、何食わぬ顔でいられるのは服務上の問題が生じないという点に置いてのみだ。はまたも携帯電話を確認しないまま出勤してしまう。癖がついていないので仕方がないのかもしれないが、その一言で済ませられはしなかった。世間――酷く狭苦しかったはずのそれ――が、珍しく彼女を放っておいてはくれなかったのだ。
居ても立っても居られずに早出したのか、店のカウンターにはすでに新入りのカレンが座っていた。彼女は約束を反故にされたことに怒っているというよりも、心底心配していた、というような表情での元へ駆け寄った。
「!」
「……カレン。おはよう」
まるで何十年来の親友がそうするように、カレンはの手を取り言った。
「お、おはよう。……って、そうじゃなくて! あなた、大丈夫なの? 私心配で心配で……散々連絡したのに! 携帯電話、見なかった?」
「あ、ああ……ごめんなさい。私……」
ああ。ちっとも言い訳なんか考えていない。こんなとき、なんて言えばいいんだろう。彼女を安心させるために、なんて言えば……。
「体調を崩してしまって。本当にごめんなさい。私、すぐにでもあなたに電話するべきだったのよね。でも、私は大丈夫。もう、体は良くなったから。心配かけてごめんなさい」
「いえ、いいのよ。あなたが無事だったなら、それで」
「今度からは、あなたから連絡があったらすぐに返事をするようにする。……約束ね」
「ええ。そうして」
カレンはを抱きしめて、二度軽く手のひらで背中をタップした。カレンの体温がじわりと広がっていって、まるで魔法のように、に安心感を与えた。
「……や、やだ。どうして泣いているの?」
言われて初めて自分が泣いていると気付いたは、指先を頬に伸ばし水滴に触れる。確かめた後、急いでハンドバッグからハンカチを取り出して涙を拭った。
「ごめんなさい。……なんか、久しぶりにほっとできた……気がして。やだな、でもなんで泣いてるんだろ。……みっともない」
「」
カレンは一度離したの体を再度抱き寄せて、優しく呟いた。
「ねえ、。私……まだ、あなたと会って日が浅いけれど……あなたとは、それ以上のものを感じるの。あなたが安心できるというなら、私が力を貸すわ。だから、何だって話してほしい」
ね? と微笑むカレンの笑顔。それがひどく美しくて、そうやって笑う彼女が羨ましくて、胸はまた締め付けられて、涙はどんどん溢れ出していった。
「ありがとう。……ありがとう」
泣きじゃくるが落ち着くまで、カレンは彼女を抱きしめた。
仲間だと言ってくれる人がいる。あたたかい体温を分けてくれる人がいる。その言葉を、その行動を、ただ純粋に信じたい。以前までの私なら、信じられた。盲目でいられた。
けれどもう、はそうしていられなかった。誰を、何を拠り所にすればいいのか分からない。彼女は迷い始めていた。
79:Maps
仕事終わり。辺りが闇に包まれた頃。生活感のないこざっぱりした部屋にひとり、カレンはいた。日中は隣の大きなアパートのせいで大して日も入ってこない出窓の縁に腰掛け、閉塞感しか感じられない窓の外へ向かって紫煙を吐いていた。
そうしていると、足元に置いていた携帯電話が震えはじめた。カレンは顔をしかめる。そして、タバコをひと吸いして長く吐いた後、面倒そうに応答した。
『は』
男の声が聞こえてきた。カレンは答えた。
「……来たわ」
『ふぅ。ひとまず安心ってわけだ。で? なんでおまえの電話に出なかったんだ?』
「体調崩してたって。それだけしか聞いてない」
『ふーん。……で、オレを差し置いて彼女を攫ってった男は一体どこのどいつだったんだ? パッショーネの人間か?』
「私が知るわけないでしょう」
意味ありげな沈黙が向こう側から返ってくる。カレンは大して話すことは無いとでも言いたげに黙ったままでいた。
『まあいい。で、次はどうする』
「今度こそって言って誘い出せばいい。彼女は私を信用してる。……たぶんね」
『だといいがな』
カレンは眉根を寄せた。やりたくもない仕事を任されて、好きでもない国にいる彼女には、この環境で起こる全てのことやものが不快でならなかった。例え相手が、生まれ故郷から一緒にこの場所へ出てきた仲間であっても、この国にいるという時点ですでに、彼女には何もかもが鬱陶しかった。
ニューヨークが恋しい。早く帰りたい。全てにケリをつけて、さっさと、煩わしい全てのものにサヨナラを言って。そうしたらきっと“彼”も、思いなおしてくれるはず。
「段取りがついたらまた連絡するわ。レヴ。あんたは引き続き、悟られない程度にの身辺調査をお願い」
『あの、妙な釣り竿みてーのを使うガキ以外にも、のファンがいるってのか? いやしかしあの女、愛されてんなァ』
愛されてる。彼女は愛されてる。
そう思うと、自然と眉間に皺が寄った。カレンは、ここに誰もいなくてよかった、と思った。
「がパッショーネにとって重要人物ってだけでしょう。……何でそうなのかまでは知らないけれど」
『おー。ジェラシーか? そうヤクなって。おまえにだってファンはたくさんいるんだぜ』
「クソ……どうだっていいわよ、そんなこと。あのね、アタシあんたと無駄話するつもりなんか無いの。……それじゃあね、レヴ」
カレンは相手の返事も待たずに通話をオフにして、苛立たしげにベッドの上へ携帯電話を投げ付けた。そしてガサガサと音を立てて頭を掻いたあと、窓枠に後頭部をぶつけ、建物の狭間から覗く三日月を眺めた。
私は狂ってなんかいない。道を見失ってもいない。迷いもない。迷っているのは彼の方。私は彼を“正しい道”に連れ戻す。そのために今、ここにいる。
ねえ。インヴィート。きっと、私のように愛してはもらえないわ。だから私のそばにいて。待って。私の優しさは、あなたのため。すべて、あなたのためだけにあるの。だから迷わないで。
今度こそ、彼が迷わないで済むようにしなきゃ。
カレンはもう後には引けなかった。きっと、パッショーネの連中もいい加減警戒を強めるはずだからだ。彼女は決心した。
殺してやる。殺してやるわ。・。私がこの手で、あんたを殺してやる。
今度こそ。今度こそは。カレンはそう思った。けれど、そうしたところで彼女の思いが報われるとは誰も断言できない。彼女自身すら、報われるという確信も自信もあるわけではない。まるで暗闇の中で手探りをして先に進むような気分だ。その足元すら見えず、闇雲に歩き続ける。ただ光を拝みたいだけなのに、一向に視界は晴れない。もう何も見えないままに自分は死んでしまうのかもしれない。
月を仰ぎ見ながらカレンは一筋、静かに涙を零した。