スタンド能力とは能力者の魂、心のあり方である。よって、その者の魂、心を醸成してきた過去の経験は、能力発動に要する条件や能力発動によってもたらされる結果などの性質に大きく寄与する。
例にもれず、メローネの能力や、殺しに向ける精神的なエネルギーの根源も、確かに彼自身の過去にあった。
彼の過去――幼少期における経験は、彼に酷い精神的外傷を負わせた。酷く痛む深い傷を自ら開きたいなどとは誰も思わない。それはメローネも同じだった。故に彼はその過去を誰にも明かしたことがない。彼が彼になった理由は、彼の他には誰も知らないのだ。
この先ずっと、誰にも言うつもりが無い過去。それをどうにかして完全に切り離し、幸せになることだけがメローネの悲願だった。
仮に打ち明けてしまえば、他人と過去を共有することになる。それが打ち明けた相手にとってあまりにも衝撃的な内容であれば、忘れろと頼んでも、きっと死ぬまで忘れてはもらえないだろう。気を遣われればそのたびに自分が過去を意識する羽目になるので、ますます過去を完全に切り離せなくなる。だからメローネは、自分の過去については誰にも話すつもりがなかった。そしてその憂さを晴らすように、彼は人を殺してきた。決して忘れることなどできない、心の奥底に根付いた悪しき傷の痛みを忘れようとしていた。忘れられないのは百も承知だったが、の愛に触れ、彼のその傷は少しだけ薄れかけていた。毎日が楽しく、幸せを感じることが少なからずできていたからだ。
しかし今、彼の目の前で起きたことは、彼のトラウマを如実に呼び起こした。呼び起こされ、彼の心の中でのたうち回り、内側を引っ掻き回す悪しき記憶。そのあまりの衝撃を前に、彼が悲惨な過去を悟られまいと平静を保ったままでいることは至極困難だった。
母は美しかった。メローネにとっては誰よりも美しく、清らかで正しい存在だった。母に似た彼自身も稀に見る美少年だったのだが、当時の彼は、巷の自分についての噂などは歯牙にもかけずに過ごしていた。何不自由なく暮らしていたし、母がそうあるべきと望んだので文芸に励み、教会にも通っていた。
父親は仕事人間だった。朝早くに家を出ては夜遅くに帰ってくる。けれど、酒に溺れて母や自分に暴力を振るうでも、他に女を作るでもない真面目な優しい性格の人だったので、特に悪い思い出は無い。ただ、共に過ごす時間が短かったので、母ほどの印象深さはなかった。だからといって特段恨んでいたわけでもないし、愛していないわけでもなかった。
そんな父がある日突然、不慮の事故で亡くなった。メローネの人生が狂いだしたのは、それからだった。
母は美しかったので、再婚相手はすぐに見つかった。
「はじめまして、メローネ君。今日からぼくが、君のお父さんだ」
当時のメローネは、そう言った男の目つきが気持ち悪いと確かに思った。生理的に受けつけなかったのだ。けれど、この男は最愛の母が選んだ男だ。疑ってはいけない。愛想よくしなければならない。そう思って、メローネは自身の直感を殺し、子供らしく素直でいることをやめた。母の目の前で差し出された手を拒絶できなかった。
そうだ。オレは昔からひどく大人びていた。自分の心を殺して、母が望む自分でいることに徹した。そうしていれば母は笑ってくれた。
母の再婚相手の狙いが、母親でも、ましてや母の財産でもなんでもないと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「母さんにはナイショだよ」
そう言って男はよくメローネを外に連れ出した。外に出れば、母には禁じられていた甘いジェラートやキャンディを買ってもらえた。それが嬉しくて、男へ抱いた第一印象を忘れ、メローネは男によくついていった。
そのうち、男は本性を現し始めた。自分の女でも愛でるかのように――この男が母にそうしているところを見たことなど一度も無かった――メローネの髪を撫で、頬に、首にとキスをする。嫌がると、男は言った。
「母さんに言ってもいいのか?」
ばらされて困るのは男の方だ。もしも自分の訴えが大人に信用されれば、男は小児性愛者というレッテルを貼られ、児童虐待という罪を獄中で贖うことになる。頭ではそう理解できていた。けれど母への愛の前にメローネは盲目だった。
母さんが知ったら悲しむ。母さんが知ったら失望する。母さんが知ったらきっと、ぼくを愛してくれなくなる。そもそも、真実を話したところで、それを信じてもらえるはずがない。
とうとう男は、夜にメローネの部屋へ訪れるようになった。母が寝付いた頃、そっと寝室を抜け出して毎夜やってくる。当時まだ十歳だったメローネは、快感も何も伴わない肉体的な暴力に必死に耐えるしかなかった。男の指が体の側面を撫でる感覚に身の毛をよだたせ、舐るように言われたものの味に眉をひそめ、無理矢理ねじ込まれるものの痛みに必死に耐えた。まるで拷問のような夜がほぼ毎日続いた。
もう耐えられない。メローネはそう思い、男のやっていることを密かに母に告げた。すると母は、鬼のような形相をして言った。
「そんな冗談、二度と言わないで! 気持ちが悪い……気持ちが悪いわ!!」
母は昔から厳格だった。人は常に清く、正しい行いと、信仰心を持っていなければならないと信じていて、そうでないもの――聖書の教えから外れたもの――は排他した。我が子を愛するというよりも、面子のために家庭を、子を持った。そんな敬虔なカトリックの彼女が亡き夫の代わりに婿とした男が、同性愛者というだけならまだしも、それに輪をかけて小児性愛者だったなどという事実を受け入れられるわけが無かったのだ。
けれど薄々、勘付いてはいたのだろう。新しい夫が息子にばかり愛情を傾けていることに。そこに、息子からの証言が加わったことで、彼女の中で、再婚相手に対する疑心は疑いようのない裏切り行為となったのだ。けれど彼女は火消しに回った。対外的なことにしか意識は回らなかった。メローネの身を案じるよりも、血を分けたはずの我が子を救うことよりも、自分の面子を保つことに躍起になったのだ。
絶対に口外するなと母に言われた。だから、期待した。母が何とかしてくれる。あの変態のクソ野郎を、この家から追い出してくれる。もうあんな夜は来なくなる。
幼き日のメローネは変化を期待していた。けれどメローネの夜は何も変わらなかった。逆に、母が変わった。変わってしまった。そのしわ寄せは当然、メローネに回った。
「……うるさい!」
ピアノの練習をしていたとき、鍵盤に指を乗せた状態のまま、まるでギロチンの刃でも落とすように、蓋を閉じられた。指は折れたのか、捻挫したのかよくわからなかったが、微塵も動かせないほどに腫れ上がり疼いた。それから、金輪際ピアノの稽古には行かなくて良いと言われた。
つかいを頼まれて買ってきた卵を誤って落として割ってしまったときは、思い切り頬をはたかれた。
「ごめんなさい。ごめんなさい母さん。すぐに片付け――」
片付けようとして床にかがもうとしたメローネを突き倒して、母は叫んだ。
「あっちに行って! 掃除なんかやらなくていいわ! ここにいられると目障りなのよ!」
母は日に日に精気を失くしていった。表に出ている時は、精気だけでなく正気もなくしていることなど露にも見せないのだ。その反動のように、家ではメローネをまるで奴隷のように扱って、気に入らないことが起こるとヒステリックに喚き散らした。
「あんたなんか産まなきゃ良かったんだわ」
素面の母にそう面と向かって言われた時、メローネは限界を迎えた。それでも、メローネは母親のことだけは責めなかった。
そう。ぼくが産まれなければ、母さんはきっと幸せだった。それはそうだ。ぼくのせいだ。できそこないの、ぼくの、ぼくのせいなんだ。だけど、あいつがこの家に来るまで、ぼくの世界はまだ正常だった。母さんはめったに愛していると言って抱きしめてはくれなかったけど、それでも、ぼくを虐げたり、怪我させたり、ひどい言葉で罵ったりは一度もしなかった。あいつさえいなければこうはならなかったんだ。
殺してやる。
もはやそうするより他に道はない。メローネはそう思った。家を出るという手段も頭に浮かんだが、現実的に考えて生き抜けやしないという結論に至った。それに、最愛の母をあのペドフィリアの虐待男とふたりきりにするなんてことは、そもそもメローネの心が望んでいなかった。
まだ幼く、心がすりきれ荒み疲弊しきっていたメローネは、男を殺した後にどうなるかまで予見して思い直す余裕などなかった。男が死ねば、綺麗サッパリこの家からいなくなれば、自分を取り巻く世界はすべて元の正常なものに戻るはずと信じて疑わなかった。
こうしてメローネは、いつもの夜を迎えたあと、階下の便所へと向かう男の背中を思い切り、両手で押した。
夜中、十二時を超えた頃、尋常ではない物音がして、白い大理石でできたフロアに血の海ができた。男はその海に顔を突っ伏して息絶えていた。メローネは放心状態で、男を突き落とした時の態勢のまま黒い血の海を見つめていた。
「あ、ああ……。なんてこと、なんてことなの……!!」
後ろから母の声がした。母はメローネを脇に押し退けて階段を駆け下り、男を揺り起こそうとした。男は返事をしない。すでに完全なる屍と化していた。
母は狼狽えていた。血のついたシフォンのナイトドレスを纏ったまま、血の海の近くで右往左往し、時に苛立たしげに頭を掻き、うめくようにして泣いた。
そして母は夜中のうちに裏庭に穴を掘り男を葬った。土中の虫に肉を食わせた後、骨になったのをどこか遠くへ持っていこうとでも思ったのだろうか。男の体を引き摺ってできた血の跡を、母は昼を迎えるまでかかって綺麗に拭いた。気が狂ったように洗剤を使って床を延々と磨いた。メローネはその間、ずっと自室にこもっていた。
平日を迎えると、母は普段通り学校へ行くようにとメローネに言った。男の職場から電話がかかってくると、母は平然と嘘をついた。
「休日のうちにひとりで旅行へでかけて、そこから帰ってきていないんです」
とにかく、メローネの悪夢のような夜は、憎きペドフィリアの死をもって終わりを迎えた。罪悪感など少しも沸かなかった。けれど、メローネの悪夢は続いた。夜だけでない、悪夢のような現実が続いたのだ。母が日に日に狂っていくのをそばで見ることしか出来ない日々こそ、本当の悪夢の始まりだった。
母は昼に外へ出なくなった。絶対に欠かさなかった礼拝もやめた。そしてクスリに溺れるようになった。どこで手に入れているのかはっきりは分からなかったが、すっかりみすぼらしくなってしまった母は、クスリを売って回る輩がうろつくような裏路地によく馴染んだのだろう。入手にそう苦労はしていないようだった。そして財産がクスリに消え、日々の生活さえも苦しくなるのに、そう時間はかからなかった。
ある夜、母はメローネをリビングに呼んだ。母の手元には、どこで仕入れたか知れない黒い拳銃があった。母はそれを握りながら言った。
「こうなったのは……全部、あんたのせいよ」
握った拳銃を持ち上げた途端、メローネは身を強張らせ後ずさった。そんな息子の様子を見て、母親は薄ら笑いを浮かべる。
「あんたを殺すと思った? まさか。殺して、楽になんかさせないわ」
母親は拳銃の銃口を、自分の頭に突き付けた。メローネは母親に向かって手を伸ばすが、足はあまりの恐怖にすくみ、微塵も動かなかった。声も出せない。
「母さんのこと、愛しているわよね?」
愛してる。母さん。母さん。やめて。やめて。ぼくをひとりにしないで。死なないでお願いだ、いやだ、やめて、やめてやめてやめて……!
「あなたに一生忘れられない苦痛を植え付けてあげるわ。……今の私のような、ね」
それが最愛なる母の、最後の言葉だった。
75:Disarm
「母さん、母さん、やめてくれ、ぼくを、ぼくをひとりにしないで」
メローネはベッドの上に近寄りながら言った。ベッドに広がる血。強烈なその匂い。散らばる肉片。亡骸。
メローネは錯乱状態に陥っていた。わけもわからず、血を、肉片をかき集め、亡骸の周りに寄せ集める。手を血に染めながら、必死に言う。
「いやだ。いかないで、ひとりに、しないで。やめて、やめてくれたのむから」
「メローネ。メローネ。指示を、指示をしてくだサイ」
行き場を失くした子供の声は、メローネの耳に届いていなかった。
「彼女を殺シたのは、私ではありまセン」
ターゲットを殺せと命じられていたジュニアだったが、どうやら暗殺には不向きな性格に育ってしまったようだ。精神が錯乱したメローネの異常を察知して、精神を錯乱させた原因は何か明確にわかってしまったがために、主の命を果たせずにいた。絶対にを傷つけさせるな、との最後の命令が頭に残っていたからか、それとも、メローネの強い思いが言わずと知れてしまったのかはわからない。ただ、とても感性が豊かだったのだ。そういった察知能力は暗殺には不要。普段ならば出来損ないと吐き捨てられ、瞬時に消されたはずの存在はターゲットを取り逃がし、ただその場に立ち尽くしていた。
ただの子供に何が出来ると言うのだろう。
指示を待ってその場に立ち尽くすジュニアはまさに、幼い頃のメローネにそっくりだった。拒絶され、弱らされ、置き去りにされた孤独な子供だ。メローネは、自分を恨んで自死を遂げた母の怨念を――殺したいほどに憎いのに、苦しい自分をそのままにあっさり死なす気にもなれない。そんな殺意を――内に宿しながら、成長し、今ここにいる。
いつまでも切り離せずにいる、自分の中の小さな子供。あの時は寄る辺など母以外に無かった。だから愛しているのだと思いこんで、深いところから込み上げてくる悲しみを押さえ込んで微笑みを浮かべた。そうするしかなかった。そうしてでも引き留めておきたかったつながりを、一方的に断たれた。十歳を過ぎただけの小さな子供にはあまりにも残酷な方法で。
母への思いは愛だったはずなのに、今の自分はそれを、心の底から憎らしいと思っている。死んだ母への殺意。自死をもって植え付けられた怨念と言う名の殺意に対抗する気持ち。それが今になって、ふつふつと湧き出してきた。けれどやはり、今の自分がどうするべきなのか分からなかった。確かな寄る辺がないのは、今も変わらないからだ。
「あ、ああッ……!」
メローネはベッドの上の血溜まりにこめかみをつくようにして、愛するものの亡骸を見つめた。彼女はピクリとも動かない。幼い頃の記憶が重なって取り乱していたメローネは、目の前に転がる死体が母のそれでなく、のそれだと、やっと気づくことができた。
だが、錯乱が少し収まっただけで、彼に仕事を続行するだけの平常心は戻らなかった。
なら、完全ではないオレを愛してくれるはずだった。彼女はオレを拒絶しないし、弱らせるどころかオレに強さを与えてくれた。母さんのように、オレのことを置き去りになんかしない。彼女こそ、オレの完璧な、愛する人なのだ。
あの女が、オレをこんなにしたあの憎き母親が嫌がることとは何だろう。そう考えると、きっとオレが心の底から幸せを感じて生き長らえることだろうと思う。真実の愛を得て満たされることだろうと思う。幼い頃の記憶など切り離してしまって、あの売女のことなども完全に忘れてしまって、オレが幸せに笑っていることこそが、最高の復讐になるはずだ。なら、必ずやその復讐を果たさせてくれると信じていた。
そうだったはずなのに、は目の前で、母親のように逝ってしまった。
どうして。手に入れたと思ったのに。オレはやっと、完璧な人間になれるはずだったのに。愛しているのに。愛している人は、愛していた人は、いつもオレを置き去りにする。何が足りない? どうすれば、置き去りになどできないほど完璧で、美しい存在になれる? どうすれば、愛してもらえるんだ? それともオレは一生、完璧な人間になんかなれないのか? あんな過去があるから、あんな過去のせいで、あんたのせいで、あんたのせいで、オレは、ぼくは、ぼくは、ぼくは……!!
メローネは孤独に咽び泣いた。冷えて黒く変色し始めた血の海に横顔を浸しながら、幼い頃にそうしたように。ふと、血の海の向こう側に静かに佇む、自分が作り出した子供の姿が目に入った。
彼は目が覚めたような気がした。
ああ、そうか。この先ずっと、忘れるなんてことはできないんだ。オレが小さな子供を――オレを作り続ける限り。精神の形があんななのは、自分の過去のせいだ。精神が、心がそうなのだから、切り離せるはずがない。仮に切り離せたとすれば、自分はもう、自分でなくなるんだ。
オレは一生、出来損ないのオレのままなんだ。
メローネは再び道を失くした。一度目のときは、まだやり直せると思った。だからこれまで必死に生き抜いてきた。そして矢に射抜かれて能力を手にすると、過去を完全に切り離してしまいたいと願いながらも、彼は完璧な存在を作り上げることに固執していたのだ。まるで自分の人生をやり直すように。けれど、結果はいつも同じだ。父親を殺すために、母親を殺す。母親からは殺意以外を与えられた記憶がないので、彼も殺意以外を子供に与えられない。そうして出来上がるのは、いつも出来損ないの暗殺者。
この負のスパイラルからは一生逃れられない。愛を知らないからだ。愛を、無条件の愛を、オレは知らないから。唯一、それを与えてくれるはずだった存在に、それを与えられないままこの世に置き去りにされたから。
つい最近、こんな自分の存在を認めて微笑みかけてくれる聖母のような存在に――・に出会った。絶対に手放したくなどなく、彼女の無条件の愛に一生酔いしれていたかった。けれどそんな彼女に現実を――殺したいほど憎い人間を切り離す術はとうの昔に取り上げられていたとのだという事実を――つきつけられ、彼は今度こそ、完全なる絶望に打ちひしがれていた。