暗殺嬢は轢死したい。

 獣は地下に身を隠していた。汚物にまみれた地下の迷宮だ。滝落としになった水の飛沫が飛散してできた霧が浮かぶ暗闇に紛れ、獣は皮を脱ぐ。頭頂に両手の爪を割り込ませ、上から下へ、割くようにして脱いでいく。びちゃりと音を立て、汚物に濡れた足場に皮が落ちる。

 深夜、新しい姿に成り代わった獣は錆び付いた足掛けをよじ登る。警官のパトロールカーが過ぎ去ってすぐの、道路の中央にある鉄蓋を押し開け、地上へ戻る。隠し置いていた衛生用品で身体を清潔にし、小綺麗な衣服を纏うと、そのまま夜の街に躍り出た。

「会ってくれて嬉しいよ」

 待ち合わせの場所まで行くと、獣は言った。売春婦は答えた。

「働かなきゃ、生きていけないの」

 ぶっきらぼうに。これは仕事なんだと、最初にそう言われて、獣は悲しげに笑った。



72:Beast And The Harlot



 静まり返ったリビングで、リゾットは珍しく頭を抱えていた。そんなリーダーの姿をメローネがじっと見つめる。

「どうした、リゾット」

 そう問いかけたメローネに、特段リーダーへの気遣いがあったわけではない。リゾットが眉根を寄せて黙っているのは珍しいことだし、彼を悩ませているのだからそこそこヘヴィーな問題なのだろうという好奇心が災いしただけだ。偶然の結果として、彼がリゾットの役に立つことはままあった。だからリゾットもまた、メローネの好奇心には感謝しているのだった。

 しかし今回は、こいつの知恵を借りるだけでなく、能力に頼らざるを得ないな。

 リゾットは重たい口を開いた。

「情報管理チームが仕事を丸投げしてきたんだ」
「それは、わりといつものことじゃないか」
「ああ。だが、今回ばかりは……さすがのオレも堪忍袋の緒が切れそうでな」
「おお。ブチ切れリゾット。見てみたい気もするな」
「冗談言え」

 情報管理チームの仕事の丸投げ。それは、暗殺が仕事なのに、ターゲットの身辺調査まで押し付けてくることだ。これに関してはメローネの言う通り割と常態化していて、むしろ連中に任せるよりこちらでやったほうが暗殺もやりやすい。だが、今回は違った。ターゲットの名前はおろか、姿形すら分からない人間を、なんとか殺せと押し付けてきたのだ。

「なんとかって何だ。こいつら、ふざけているのか」
「ふざけてるな」

 警察の手にも負えない、野放しになったままの連続殺人犯を殺せと言うのだ。こんな事件が起こっているのだから、娼婦たちは休業すればいいと思えてしまうが、借金を抱えていて取り立て屋に脅されているとか、売春業を担うチームに働けと脅されているとかそんな理由があるのか、働きに出る者は一定数いるらしい。今日の朝、また新たに売春婦が殺されたとの報道があったのだ。


「一応、仕事を達成したらウチに成功報酬をよこすとの念書を書かせるつもりでいる。こちらも、それ相応のリスクを負うことになりそうだからな」
「それはつまり、今回の仕事が成功するって見込みがあるってことか?」
「ああ。おまえの能力があれば、今回の仕事も達成可能だろう」

 ただし、人一人探して殺すのに、全く関係ない女一人の命が必要になる。リゾットがリスクと称したのはそのことだった。

「ターゲットのDNAが必要になる」
「ああ。おそらく入手可能だ」
「だが、報道では証拠は何一つないと言っていなかったか?」
「表向きにはそう言われているな。子供の目につくようなテレビのニュースで“被害女性の膣内に犯人の精液が残されている”なんて言えないからな」
「なるほど。警察のモルグか証拠品の保管庫にでも侵入できれば、犯人のDNAは手に入れ放題というわけだ」
「ああ。話が早くて助かる」

 それにしても、それだけ立派な証拠が残されておきながら、未だに犯人が捕らえられていないとはどういうことだろうか。メローネはリゾットに訊ねた。

「これは情報管理チーム曰くだが、まるで見せつけるかのように、犯人は現場付近のカメラに姿を現すそうだ」

 メローネは眉根を寄せた。ますます捕まってない理由がわからなかった。彼はそう感じたのだと察したリゾットが続ける。

「その姿が現場ごとに変わっているらしい。なのに、検出されるのはすべて不明人物のDNAひとつなんだ。完全に一致しているんだと。つまり、見た目が毎回違うのに、遺伝子情報は全て一致しているということだ。普通の人間なら、絶対にありえないことだ」
「普通の人間じゃないのかもな」
「おまえの能力、人間相手でないと使えないのかどうか試してみるといい」

 そう言ってすぐ、リゾットは思った。お試しで女一人殺せと言っているのと同じだと。だが、このことについては仕方がないと自分を説得させる他無かった。

 我々は無能と思われたが最後、簡単に切り捨てられる存在だ。“生存”の二文字を冠した過酷なレースに、負けてはいられないのである。――だからやはり死にたくないオレに、正義など貫けはしない。

 もう幾度となく繰り返した葛藤に蓋をして、冷に徹する。リゾットは、押収された証拠品の在り処をメローネに伝えた。

「明日の昼までを調査に充てて、侵入経路を確立させよう。署への侵入は折を見て。……まあ、普通に考えて、人の目につかない夜だろうな。リゾット。侵入自体はあんたが能力を使ってやったほうがいい」
「ああ。それは無論、分かっている」

 メローネは水を得た魚のように、活き活きとしだした。元来、立ち入りが禁止された場所への侵入や謎の解明などが好きな質なのだ。好きこそものの上手なれ。メローネという男は、たとい例のスタンド能力を持っていなかったとしても、調査要員として重宝しただろう。

「ただいま〜」
ッ!!」

 チーム屈指の調査員は、愛する女の帰宅を受け、ラップトップでの調査を瞬時に打ち切りさらに目を輝かせた。そして立ち上がってに近寄っていく。激しく右へ左へと揺れる尻尾が尻に生えて見える。メローネの背中を見ながら、あいつはまるで犬だな、とリゾットは思った。

「おかえり! 今日も今日とて美しいな、!」
「あら、ありがとう。メローネ、あなたも素敵よ」

 屈託のない笑顔でにそう言われると、メローネはクウーッなどとよくわからない雄叫びを上げながらのけ反った。一体何を見せられているのか。リゾットはやれやれと首を横に振ったあと、ペッシの様子を伺った。

 彼は腕にスーパーで買ったであろうものが詰め込まれた紙袋を抱えていた。の監視という仕事を終えた彼はキッチンへと向かい、買ってきた食材を仕舞いはじめる。そう言えば、今日はペッシが夕飯当番だ。

「ねえ、リゾット」

 半分抱きついたようにしてキスを迫るメローネの顔面を片手で鷲掴みにして押し退けながら、はリゾットの側に腰掛けた。

「どうした」

 は何かねだりたそうだった。期待を込めた目でリゾットを見つめている。彼女の願望は全て叶えてやりたいと思うリゾットだったが、例の一件依頼、彼は慎重になっていた。警戒心を持ちつつ、彼はが話し始めるのを待った。

「明日、会社の人と夕食を一緒にしてもいいかしら?」
「会社の……? ああ、ディーラーのか。だが、何でまた急に。ひどく珍しくないか」

 今まで一度も、そんな願いを聞かされたことは無かった。だから余計にリゾットは警戒しはじめた。には悟られないように、平常を装って。

「最近、同僚が……その、倒れちゃって。長く戻って来られないそうなの。穴埋めに、新しく女性が入ってきたの。カレンって言うんだけど……その子に夕食に誘われたのよ」

 イビサから帰ってきてから、驚くことに彼女の精神は安定していた。もちろん、同僚が倒れたからなのかひどく落ち込んではいたものの、例の第二人格が姿を現すことは無かったし、表向きの職場で生じた憂いもカレンとかいう新人の登場によって少しは晴れたらしい。精神的に安定していて、ペッシもそばにいて、メローネの仕掛けた無数の発信機が仕事をしていれば問題はないだろう。

 ただ、明日の夜、メローネが自分と仕事に出ている間は、アジトで他の誰かに追跡を任せなければならない。今日中に誰かにあたっておこう。

 リゾットはに応えた。

「ペッシが外で待っていていいのなら、かまわない」
「やった! ありがとう! 私、女の子の友達っていたときがなくて。だからとっても嬉しいの。それにね、彼女、チャレンジャーとマスタングとカマロが好きなのよ! 趣味が合いすぎてて興奮しかできないわ!!」
「チャ……?」

 自身が言った通り、は鼻息を荒くして目をキラキラと輝かせ、興奮気味に話した。途中で呪文のように連ねられた聞き慣れない名称が何かはよく分からなかったが、リゾットは――彼の微笑みを見て微笑んでいると分かる人間は少ないのだが――微笑みを浮かべて言った。だが、釘を刺すのは忘れない。

「……まあいい。良かったな。ただ、ペッシがいるからと気は抜くなよ。今、殺人鬼が巷を騒がせているのを知らない訳じゃあるまい」
「え?……ええ。でも、襲われているのは――」
「ああ。だが、それはたまたまかもしれないだろう。夜中に出歩いていたのが皆たまたま、そうだっただけかもしれない」

 はリゾットから目を逸らすと、つぶやくように、小さな声で言った。

「彼女たちの代わりに私が捕まるのなら、そっちがいいに決まっているわ」

 リゾットとメローネは瞬時に湧き起こった不快感に眉をひそめた。――が性犯罪に手を染めた悍ましい殺人鬼に蹂躙されるなど、想像しただけで虫酸が走る。

。バカなこと言うなよ」

 メローネが言った。だけは、そうなってはいけない。他の誰が犯されて殺されようと、だけは。

 メローネが抱くのは、への偏った計り知れない愛情だ。もしもが襲われたりしたら? そんな想像から沸き起こる底なしの嫌悪感と怒りに息を詰まらせて、彼はそれきり何も言えずに黙り込んでしまった。

 リゾットもまた、の誤った自己犠牲精神に苦言を呈す。

「記憶は消せないんだ。……死なない限りな」
「でも、彼女たちが死ぬよりいい。そうでしょう?」

 リゾットはの目を見て言った。

「被害に遭えば、死んで忘れてしまいたいと思う人間だっている。そうなったときに、死んでも生き返るか死ぬか選べてしまうおまえが、死を選んだりしないだろうかと恐ろしい。……分かるな?」

 は、いつの間にかリゾットの大きな掌に包まれていた自分の手をじっと見つめると、嬉しそうに、けれどどこか悲しそうに笑って答えた。

「……ええ。分かった。気をつけて、ちゃんと帰ってくるわ」

 そう言うと、は立ち上がってキッチンへ向かった。テキパキと夕飯の支度をするペッシの横に立ち、明日は帰りが遅くなるから、お昼に職場で、夜用のお弁当作ってあげる、なんて提案をはじめた。その提案を嬉しそうに快諾したペッシは、メローネに怨念のこもった目でねめつけられ、ひっと息を呑んだのだった。



 あくる日の晩、はカレンとの待ち合わせの場所で待っていた。たまに使う町中の喫茶店の前だった。向かいの薄暗い路地裏にはペッシが潜んでいる。

 今日、カレンは休暇を取っていた。なんでも、夕食はレストランで済ませるのではなく、彼女のフィアンセ宅で振る舞う予定らしい。昼から支度を始め、彼女が料理を手掛けている間に彼女のフィアンセが車で迎えにくるとのことだった。このことは事前にペッシにも伝えていたので、彼は今日、アジトのガレージで埃を被っていた黒のランブレッタ――イタリア製の原動機付自転車――に乗って来ている。行き先は聞いているし、念には念を入れ、彼はが車に乗り込み次第、車にビーチ・ボーイの針を仕掛けるつもりでいた。アジトには、メローネから借りた私用のラップトップの前にイルーゾォと、プロシュート、ホルマジオの三人が控えている。

 ギアッチョはリゾットが仕事に出るとのことだったので彼の足になり、メローネは自分のバイクで、ギアッチョとリゾットを乗せたロードスターと共に、件の証拠品が保管されている警察署へと向かった。

 いつもよりも平穏が遠のいたように感じる日だ。チームが暗殺の仕事を実行する日というのは、別に自分が直接携わっていなくとも神経が張り詰める。こういう日は大抵皆がそうで、アジトにいるものだ。今日は土曜の夜だというのにホルマジオもアジトにいる。

 とにかく、ペッシはいつも以上に気を張り詰めていた。殺人鬼が街をうろついているということも災いしているのだろうか。だが、それについては今夜、リゾットとメローネのふたりが解決してくれるはず。そう信じて疑っていないはずなのに、何故か心がざわついていた。

 やがて、の前に一台の車が停まった。白のアバルト――ペッシはアバルトの何かまでは知らなかった。町中をよく走っている、なんの変哲もないこぢんまりした乗用車だ。スポーツカーと呼べるような見た目をしていないにも関わらず、たまに魔改造して町中を爆走するやつを見かけることがある。そんな車――だった。運転手の顔はよく見えない。は緊張からか、ぎこちない笑顔を浮かべて車に乗り込んだ。

 そしてすぐに、ペッシはビーチ・ボーイを発現させた。見えない糸を白のアバルトにくくりつける。壁などのあらゆる障害物を透過し、ビーチ・ボーイの糸は最短距離で車と竿――ひいてはペッシを繋いでいた。そのまま、ペッシがそばに置いておいたランブレッタにまたがろうとした、その時。

「……ッ!?」

 ペッシの足――アキレス腱のあたり――に何か小動物に噛まれたかのような痛みが走った。反射的に地面を見やった彼は驚愕した。足元に、まるまると太った無数のネズミたちが、まるで絨毯のようになって向かってきているではないか。

 あまりに悍ましい光景に、ペッシは腰を抜かして尻もちをついた。

「ひっ、ひいいッ!! やめろ、来るなッ、あっちへ行けェ!!」

 悲鳴を上げながらネズミたちを蹴ったのと同時に、身体全体に衝撃が走る。衝撃の中心は、おそらく胸のあたり。誰かに正面からどつかれたようなそれ。だが、尻もちをついて正面を見ていた彼には、何に攻撃を受けたのかが分からない。

 混乱してはいたが、彼はビーチ・ボーイを離さなかった。の監視という仕事すらまともに出来ないようであれば、面目丸つぶれだ。唯一の、そして最後の自分の居場所すら失ってしまう。

 そんな葛藤の内にも、ネズミたちはペッシへの進撃を止めてはくれなかった。このままでは、漫画に出てくるチーズよろしく身体を食い破られて、出血多量になるか、破傷風にでもかかって死んでしまう。ペッシは自分にむらがりたかるネズミたちを、片足を左右に振ってなぎ払おうと考えた。右足を使って、左へ足を振る。すると今度は、凄まじい衝撃が左からペッシを襲う。彼は右に倒れる。肘をついて上体を立て直し、左を見やる。左にあるのはレンガの、家屋の壁だ。人などいない。――一体、何が起こっているんだ!?

 このままではの追跡どころか、自分の命すら落としかねない。ペッシはネズミに足をかじられ身体をよじ登られながら、携帯電話を取り出してアジトへ電話をかけた。

 頼む! 頼むから、早く電話に出てくれ!!

 三コール目でやっと、ガチャと音がした。

『どうした』

 声の主はプロシュートだった。ペッシは泣きつくようにして訴えた。

「あ、あああっ、兄貴っ、兄貴助けて、助けてくれーーーッ!!」
『何だ、何事だッ。に何かあったのか!?』
「違う、違うんだ!! オレが死にそうなんだッ!!」
『落ち着いて話せ! 何がどうなってる!?』
「ネズミの大群がオレを襲ってくるんだ! ネズミを攻撃したら、何故かオレに攻撃が返ってくるみたいに……!! ああ、もう、訳が分からねぇよォッ……!!」
『おまえはまだ、喫茶店の前にいるんだな!?』
「あ、ああっ! 頼む、頼むよ! 早く来てくれッ、でないとオレ……死んじまうよぉッ!!」

 ブツっと音を立てて、電話は切れた。するとネズミは、もう目の前にまで迫ってきていた。首に噛みつこうとするところだった。頸動脈を食い破られたら、溜まったものではない! 

 ペッシは先頭の一匹を手で払い除けた。するとやはり、まるで自分が大きな手に払いのけられたかのような衝撃が身体を襲う。

 のたうち回り、ネズミたちに襲われている間に、ペッシは気付いた。三回目にして気付いたのだ。ネズミと同じか、それ以上のダメージを、同じ方向から受けている。これは自然現象ではない。超常現象――間違いなく、スタンド攻撃だ。

 新手のスタンド使いか!?

 そう思いあたりを見回しても、それらしき人物の姿は見当たらない。探し歩いて回れるわけでもなく、身動きはすこしも取れない。どこからともなく湧いてくるネズミたちに襲われ続けるペッシは、なんとか致命傷を避けようとネズミを払う。払うなり、衝撃を受ける。それを繰り返し、彼の精神は消耗していく。やがてペッシは、ネズミたちの進軍に為す術もなく、ビーチ・ボーイを手放し、スタンド能力を消し去ってしまった。

 その様子を、物陰から一人の男が見つめていた。男は、長居は無用と踵を返し、路地裏から姿を消した。