白い装甲を――ホワイト・アルバムを纏ったギアッチョは、白目を剥いたまま、体をぐるぐる巻きにする鎖の拘束から逃れんとするようにもがき始めた。何か、言葉にならない声を、うめき声を上げながらもがいていた。声を上げているのは変わらず白目を剥いたままのギアッチョだ。よってメローネには、ギアッチョが無意識にそうしているように見えた。まるでスタンドが――彼の、拘束されて自由を奪われていた精神だけが苦しんでいるように見えたのだ。
それにしてもこの鎖、そして錠前。見覚えがある。恐らく、のスタンドが身につけていたものと同じだ。
ギアッチョのスタンドはこれまでに幾度となく見てきた。スピードスケーターのユニフォームに少し厚みを持たせ猫耳を付けたような、白い装甲型のスタンドだ。だから、メローネにはギアッチョの体を束縛する鎖と錠が、彼には何ら関係の無い“何か”であることがすぐに分かった。
スタンドに攻撃――を始めとする何かしらの力を作用させることが――できるのはスタンドだけ。そのセオリーに則ればこの鎖と錠は、ギアッチョではない他の誰かのスタンドであるということになる。そのスタンドが、今目の前にあるのと全く同じそれが、のスタンドにも纏わりついていた。
やはりあれはメガデスの一部では無かったということか……。だが一体、何故? とギアッチョの共通点とは、一体――
メローネが考えを巡らせ始めたと同時に、彼の体の周りを冷気が漂い始めた。ホワイト・アルバムだ。ホワイト・アルバムが、自身の周りにある物質の運動を止め始めている。それに伴って、ギアッチョの、はたまた彼の拘束された魂の叫び、つまり唸り声は、飢えた大型の獣を彷彿とさせるほど大きくなっていた。
幸いターゲットの屋敷は人里離れていて、さらには門扉から邸宅までも距離があった。なので、唸り声を人に聞かれることはないだろう。そう思い至った時、ピシ、と小さな音がメローネの耳に届いた。彼は身の危険を感じた。仕事がうまくいくかどうかと考えている場合ではないと思った。ギアッチョ――否、ホワイト・アルバムを拘束する鎖が氷結を始めていたからだ。
鋼は極低温環境においては脆くなる。低温脆性だ。一見強固に見える炭素鋼製の鎖も、外気温が氷点下二十度を下回り冷やされれば、少しの衝撃を与えただけで破壊できてしまう。この性質を利用して、これまで何度もギアッチョは行く手を阻む鋼のあれそれを破壊し、ふたりはターゲットを仕留めてきた。もちろん、今目の前にあるのは鎖に見えるだけのスタンドだ。そんな物理特性がスタンドに当てはまるとは断言できないだろう。だが、メローネはホワイト・アルバムの冷気を肌で感じていた。つまり、おそらくギアッチョの凶暴性を抑え、スタンド能力をも封印していたらしいその鎖が機能しなくなっている。――壊れ始めている。だから冷気が漏れ出ているのだ。
主のコントロール下にないホワイト・アルバムの力を肌で感じ、視覚的に、そして経験的に、間もなく鎖が壊れるだろうという判断を即座に下したメローネは、ドアも開けずにギアッチョの車の運転席に飛び乗った。シリンダーに刺さったままだったキーを回し、エンジンをかけ、ギアを一速に入れてアクセルペダルをベタ踏みする。地面をのたうち回りながら小さくなっていくギアッチョをサイドミラーで確認しつつも、二速、三速……次々とギアを変えていき、田舎の舗装されていない一本道を三百メートルほど駆け抜けた。そのあたりで、背後から一気に凄まじい冷気が襲いかかった。メローネはゴクリと喉を鳴らして生唾を飲み込むと、後ろを確認することなくさらにアクセルを踏み込んだ。
メローネは冷気が届かなくなったあたりで徐々に車のスピードを落としていった。もう大丈夫だろうと思ったあたりで停車し、恐る恐る背後を振り返る。そしてギアッチョがいた場所に向けて目を細めた。
ギアッチョの姿は靄のおかげて確認できなかった。だが、それはつまり、ホワイト・アルバムが確かに、静かに怒りをぶちまけ、それと同時に周囲のありとあらゆる物質の運動をゼロに近づけ冷却したということだ。そよ風に乗ってきた季節外れな鋭い冷気が、メローネの肌を撫でる。だが、一度凄まじい冷気を放った後も尚、あたりを凍らせ続けているわけではないらしい。彼は身震いして再度生唾を飲み込むと、車をUターンさせて元の場所に戻ることに決めた。道の両サイド――一方は牧草地、もう一方は樹林だった――にある草木は凍りついて、ひんやりとした冷気――靄があたり一面に立ち込めている。低速で走る車のタイヤに敷かれる大地は、まるで凍原のようにサクサクと小気味よい音を立てた。
進むに連れ、靄は濃くなり霧と化した。やがて、ホワイト・アルバムを纏ったまま立ち尽くしているらしいギアッチョの影が、車のヘッドライトに照らされて浮かび上がった。メローネは車を停めて、ヘッドライトを点灯させたまま車から降りると、その人影に向ってゆっくりと近付いた。
「ギアッチョ……?」
小さな声で相棒の名を呼んでみる。すると、前方二メートル先で立ち尽くしていたギアッチョが、ゆっくりと彼の方へ顔を向けた。
「おい。いてぇじゃあねーか。……メローネよォ」
瞳孔が開ききった、大きく見開かれた目が、スーツのガラス窓の向こうから覗いた。彼の体に纏わりついていたはずの鎖は跡形も無く消え去っている。
「正気に……戻ったのか?」
メローネが問いかけた。ギアッチョは無言のままメローネへ向って歩き出し、彼の顔に向ってぬっと手を伸ばした。メローネは殴り返されると思って、とっさに目を閉じた。だが、顔へ来ると思っていた衝撃は、肩に乗っただけだった。しかも、想定していたものよりもずっと軽い力で。
「悪かった。手間ぁかけさせちまったみてーだな」
メローネの肩に手を乗せたギアッチョは、相棒の顔を見ないままに言った。メローネはぎょっとした。あの鎖から解き放たれた今も、もしやまだ感情を制御されているのでは、と。
「いや。おまえが元に戻ったなら良いんだが……一体何があったんだ?」
自身に何が起こったのか、ギアッチョは考えた。
「おまえにボコ殴りにされて……そう。普通なら、普通のオレなら……いやあの場合オレでなくたってブチギレるよなァ。一発くらった瞬間に、ホワイト・アルバムが出てきたっておかしくなかった……なのに何で……」
いつもなら、怒りを覚えた瞬間頭で「出てこい」と考える前に出てきていたものが、少しも出てこなかった。ただ呆然と、何の変化も現れない掌を見ている間、心がからっぽになったような気分だった。――ただそれだけだった。どうしてこうなってしまったのか、それを全く説明できそうにない。
「何があってスタンドが出なかったかなんて、オレにもわかんねーよ。クソ……いてぇな。口の中が切れていて、血の味がするぜ。ああ……畜生。こんなんほとんど生まれて初めてだぞ。おいメローネよォ。オレをブチギれさせようったって、こりゃあちっとばかしやり過ぎってもんじゃあねーのか。……クソッ。思い出すと今にもおまえをぶち殺しちまいそうだ……ムカついてきたぜッ!!」
みしり、と音がした。メローネの肩が怒りに任せてむしり取られそうになっている音だ。そこはかとなく、また冷気が漂い始めている気もする。
良かった。いや……良くはないのか? とにかく、こいつの精神がまだ誰かに制御されているのではないかという勘繰りは、ただの思い過ごしだったらしい。鎖は無くなった。つまり、ギアッチョは本来の彼自身に戻ったということでいいのだろう。
「そ……その怒りの矛先は是非、オレではなく、ターゲットに向けてくれ。……オレはおまえのためを思ってやったんだ。だから、頼むから肩から手をどけてくれ。へ、ヘッぶしッ……! さ、寒い! そして肩が、肩が壊死する……壊死するッ!」
「うるせーッ! 年がら年中そんな狂ったデザインのジャンプスーツ着てるおまえが悪いんだよヘンタイッ!!」
こうしてギアッチョは本来の彼と、彼のスタンド能力を、何者かから取り戻したのであった。
だが、メローネの中ではめでたしめでたし。とはならなかった。何故ギアッチョがこうなってしまったのか。その原因を何も掴めなかったからだ。そして当人も何も覚えていない。まるで、ベイビー・フェイスで子を孕まされた女が、事後に何も覚えていないような。それが術者にとって好都合であるような、そんなスタンド能力の仕様を思わせた。
同じようなことが二度起こらないためにも、原因の解明は必要か否か。メローネは口にはしなかったが、仕事を済ませた後にアジトへ帰る道すがら、ずっと考え続けていた。
70:Losing My Mind
「や、やだ! ギアッチョ、どうしたのよ、その顔!」
朝、アジトのリビングにギアッチョとメローネの二人が帰ると、表の仕事に出る前のと、その監視――あるいは護衛――を任されているペッシが朝食をとっていた。メローネが目玉と殺意を剥き出しにしてペッシにがんを飛ばしている内に、はどこからか取り出してきた救急箱を片手にギアッチョのそばへ駆け寄った。
「メローネに殴られたんだよ。……だから問題ねー」
「え? 敵にやられたとかより問題あると思うんだけど」
「スタンドが出なかったから、オレをぶちギレさせようとしたんだ。だから殴らせてやったんだよ」
「スタンドが……? きっとストレスのせいね。お腹にいいもの食べて、夜は質のいい睡眠をたっぷり取らなくちゃ」
「人を便秘みてーに言ってんじゃあねーッ!! あ、おい、痛っ、何勝手に処置始めてんだこらァっ!」
は消毒液を染み込ませたガーゼを動かすのを止めて、きょとんとした顔でギアッチョを見つめた。
「あんだよッ」
ギアッチョは顔を赤くして――赤くしたところで、腫れ上がって青あざだらけになっている彼が照れているとは察し難いところだが――自分をじっと見つめるから目をそらした。
「ギアッチョが怒ってる……!」
「ああ!? 普通だろうが!!」
「そうよ。普段のあなたが戻ったんだわ! ああ、ギアッチョ! 私、とっても嬉しい!」
「は!? バカかおまえ」
「私はありのままのあなたが好きだから」
「あ、朝っぱらから好きとか言ってんじゃあねーぶっ飛ばすぞッ!」
「夜ならいいの?」
「そうじゃねーッ! 問題はそこじゃあねー!!」
「あはは。耳真っ赤にして。カワイイわ、ギアッチョ。……すごく、久しぶりよね。こんなやりとり」
そう言って嬉しそうにニコニコと笑ったまま、はギアッチョをリビングのソファーに座らせてテキパキと処置を施していった。その間、ギアッチョはおとなしくしていた。これも珍しいといえばそうだが、彼にも何か、引っかかることがあるらしい。処置を受けながら、あらぬ方向をぼうっと見つめて何か物思いに耽っているように、メローネの目に映った。
「あんなになるくらいまでギアッチョの顔を殴ったんだから――」
メローネがぼうっと思案に暮れているうちに、の手がメローネの手に触れていた。メローネははっと我に返って、彼もまた顔を赤く染めた。
「――メローネ。あなたの手も……ああ、やっぱり、思った通り。グローブ、してなかったのね。手の甲の関節あたりが裂けてるわ。ほら……あなたもここに座って」
「い、いや……オレは……」
大丈夫だ。そう言い返そうとしたのだが、思えばとまともに顔を合わせて、体に触れられたのは久しぶりだった。最後がいつだったかと考えた途端、例の失態をおかした夜の出来事を思い出す。
「……ギアッチョが元に戻ったと思ったら、今度はメローネが人が変わったみたいね。変なの」
がそう言ったのは、いつものメローネなら手に触れられた瞬間にセクハラ発言を機関銃から撃ち出される弾のごとく繰り出しそうだからだろう。彼女は笑いながらメローネの手の甲にも処置を施し始めた。
ああ、そうか。は、あの夜のことを覚えていないんだ。あのときのは、という器に入ったもうひとりの彼女だったんだから。
ほっとするような、でもどこか寂しいような。寂しいと思うのは、あの夜に、愛するにこれまでで最も接近出来たからだ。接近できただけでなく、ゼロ距離で彼女の熱を感じることができた。それを、今目の前にいるは覚えていない。――やはり、メローネの、彼女を愛し、彼女に愛されたいという思いは少しも薄れていなかった。けれどその一方で、彼の愛の前に立ちはだかる問題は、今回のことでさらに浮き彫りになったのだ。
の笑顔を見ていると胸騒ぎがした。
ホワイト・アルバムには確かに鎖が――要はスタンドが巻き付いていた。間違いなく、メガデスがその大きな体に巻き付けていたものと同じだ。ここのところギアッチョがおとなしかったのは十中八九そのせいだろう。怒りという感情は間違いなく、ギアッチョの能力発動におけるトリガーだからだ。だが本人はそのことについて知らなかった。それを本人に伝えるべきか否か。伝えた後どうなるかまでを、アジトへと戻るまでの間に、メローネは考えた。
考えた結果、やはり言わないでおくことにしたのだ。言えば、今のギアッチョは必ず原因を突き止めようとするはず、とメローネは考えていた。
これがギアッチョだけに仕掛けられたスタンドなら言ってみても良かっただろう。何故なら、普通は味方にスタンド攻撃など仕掛けないから、ギアッチョに纏わりついていた鎖の持ち主を敵と断定できる。いや、していいかどうかはまた別として、十中八九新手のスタンド使いによる攻撃だと判断しただろう。――この場合も、一体何用で暗殺者チームに戦いを挑んでくるのかなどは知らないが。
けれど、その新手のスタンド使いは、にも同じ鎖をしかけていた。過去にボスへの復讐を果たそうとしていたが、今はすっかり“おとなしく”なってしまった・という死なない女。不死身故にボスが殺害を諦めるしかなかった、我らが暗殺者チームの管理下に置かれた彼女にも、同じスタンドが取り憑いて――
「メローネ。本当にどうしたの? ぼうっとしちゃって」
「――ッ」
思案に暮れ続けていたメローネの意識を、が現実世界へと引き戻した。
「あ、ああ。。そんなに顔を近づけたら、うっかりキスをしてしまいそうだ」
「避けるから平気」
「相変わらずツレないよな。だが、オレは君のそういうところが、ディ・モールト好きなんだッ」
「ええ。私も、あなたのこと好きよ、メローネ。どうやらいつものあなたに戻ったみたいだから、安心したわ」
そう言って、は無邪気に笑った。
こうやって笑う彼女の心にも、本日未明までのギアッチョ同様、鎖――何者か……否、恐らく組織の人間のスタンド――が取り憑いているのだ。つまり、彼女の怒り、憎しみといった感情は赤の他人に抑圧されている。だから彼女はこれまでおとなしく、死にたがりの不死身女として暗殺者チームのアジトに身を置いていたのだ。
メローネは最初から、薄々そうでないかとは思っていた。そうでなければ、組織への復讐に燃えていた彼女がおとなしく組織の一構成員として居続けるわけがない。ニューヨークでメガデスを初めて視認したときから、彼はのチームからの離脱を危惧していた。だから本人にはそれを言わなかったのだ。
いま、彼女は自身の置かれた状況に疑念を抱き始めている。そして、イビサと、その前に起こった一件で、が、いや、の第二人格が、チームから離脱したいという意思を持っていることが明確になった。そんな中でギアッチョのホワイト・アルバムに纏わりついた鎖の話を持ち出し、事もあろうに新手のスタンド使いの正体をあぶり出そうなどというところにまで話が発展してしまったら?
は確実に我らパッショーネからの離脱を実現しようとするだろう。今表に出てきている“おとなしく飼い慣らされた”彼女までもが、そう思ってしまうだろう。
「でも……ふたりとも。お仕事、疲れているだようし、いえ、例え疲れていなくたって、ちゃんと寝るのよ。睡眠不足って本当に、いろんな不調の素なんだからね」
まるで母親のように、は重ねて言った。メローネはその言葉に、そのあたたかさ心地よさ、つまりは彼女という存在そのものに依存していた。
だから、この笑顔の裏で、怒り、憎しみ、苦しみ、その他もろもろの抑圧された凄まじい負の感情が縛り上げられているのではないかと想像するよりも、この笑顔を、彼女の言葉を、そのあたたかさや心地よさ、つまりは彼女という存在そのものを手放したくないと考えてしまった。
がチームから離脱することを許容してしまうと、自分たちがそのツケを払わされてしまう。
だから黙秘を続けるのではない。メローネにとっては、そんなことはどうだって良かった。彼はを、心の底から、真に愛している。だから彼女を離したくないと考えるのは当たり前のことだった。
たとえ今のが、我を忘れたギアッチョ同様、“本来の”彼女ではないとしても、メローネにとっては、彼という一人の男の存在を認め受容し、その上でチームの一員として愛してくれる、穏やかで、やさしく、そして美しい聖母のような彼女こそが、彼の愛する・、その人であった。