暗殺嬢は轢死したい。

 幾人もの血に濡れて錆びついた現在から、光に満ち溢れた追憶の中へ。

 感情をコントロールできなかった。力もコントロールできなかった。そんな不自由に苛まれどうしようもない怒りが発露したとき、不運にも近くにいた人間は皆死んだ。遠巻きにそれを見ていた人間は、オレを悪魔の子と罵った。

 感情をコントロールできないから力をコントロールできないのだと、遠い昔に“あの人”が言った。不思議と“あの人”の前でだけは、心は凪のように穏やかだった。それが何故かと考えるより前に、オレは“あの人”に、無条件の信頼を寄せた。そうしなければ生きていけないと、幼いながらに思ったからだ。

 “あの人”は、“あの人”だけは、オレを認めてくれた。関わる者皆が、オレをひどい欠陥品のように罵り遠ざける中で、“あの人”だけはオレのそばにいてくれた。オレの極端な怒りを、彼は欠陥とは言わなかった。それは君の個性だ。大切にするべきだ。コントロールさえできれば、君は誰よりも強くなれる。そう言って、優しく頭を撫でてくれた。

 振り返ることもしなかった。脇目も振らずに、暗殺者として生きる道を突き進んだ。それをおかしいこととは思わなかった。だから、今まで自分の内側に目を向けたことなんか無かった。現状を疑わなかったからだ。なら、今は疑っているのか?

 怒りが全く沸き起こらなくなって、どうしてこうなったんだと考えようとしていた。その原因を探る前に、今のように怒りが全く沸き起こらない人間でいられたなら、オレは人なんか殺さずとも生きていけたのではないかという、僅かばかりの良心の呵責に苛まれて空想に浸る。――そうだ。疑っている。確かに疑っている。オレは本当にこうなってしまう運命だったのか。他に道は無かったのか。

 だが、怒りはオレの個性。オレの強さだ。これまで、完璧では無いにせよコントロールできていたはずだ。さすがに物凄い怒りを抑えつけたまま黙っていることは今でも出来ていないが、短時間で発散してしまえば、その後は理性的かつ論理的に、クールに物事を考えられた。ものにしていたはずだ。だが今は、その飼い慣らしていたはずの猛獣の姿さえ見当たらない。

 怒りが沸き起こらない自分の現状を疑っている。つまり、自分自身の存在を、現在を疑っているということだ。

 幼い頃から何も変わっていなかったはず。迷いすらせずに、突き進んできたはずだ。なのに、何故オレは現状を疑っている?

 違う。疑っているのは、過去の自分だ。いや、違わないか。過去があるから現在がある。現在を疑うなら、過去は疑って然るべきだ。

 “あの人”にすがるしか方法は無かった。それは疑いようのない事実だ。けれど、何故自分はこうなってしまった?

  物心ついて、初めて人を殺めてしまったと気付いた時、確かに傷ついた。そして怖くなった。トラウマだ。そのシーンは――今思い出しても何とも思わないが――脳裏にしっかりと焼き付いている。人が死ぬということも、自分のコントロールできない得体の知れない力も、自分を咎める周りの人間も、すべて恐ろしく思えた。その感覚も覚えている。元のオレには、そんな良心があったはずなのに、オレは何故あの時、“あの人”を拒めなかった?

 すべてを許されたからだ。人を殺してしまうことすら、許容されたから。人を殺すということは良くないことだと、成長過程で普通の人間が普通に教わることを刷り込まれる前だった。そして、孤独や恐怖といった概念を前に、“あの人”の言葉はあまりにも強大だった。だというのに、“あの人”の顔は思い出せない。

 待てよ、“あの人”が自分から離れた時「置いていかれた」と思わなかったか。それも、そんなに昔の話じゃあないだろう。十年くらいだ。ひとりにしないでくれと、思わなかったか。それは恨めしくなかったか? なのに、どうして、オレにそこまで思わせた人間の顔を思い出せないんだ?

 光の中で撮ったふたりの写真。その写真の“あの人”の顔だけが、何か鋭利なもので引っ掻かれて白く傷つけられているみたいに、分からない。

 ――忘れた。でもどうしてそんなことを今、気にしなきゃならない?

 記憶の中で、おまえはオレを見つける。大きく見開いた目が血走っている。ぶちギレた瞳。まるで今のオレを咎めるようなそれに、オレは怯む。



 こうしてギアッチョは目を覚ます。夢から目覚める。だが、夢は夢だ。それが過去の実体験に基づいた追憶の繰り返しだとしても、全く非現実的な虚構の数々だとしても、彼は覚えていない。たまに、覚えているときもある。けれど彼は、すぐに忘れてしまう。そんな夜を、彼はこれまでに何度も繰り返してきたのだ。

「おい、ギアッチョ!」

 目を開けるとそこにはメローネの顔があった。普段寝起きに今のように彼の顔が至近距離にあったら、十中八九殴り飛ばしているが、不思議とそんな気が起きなかった。

「あんだよ。うるっせーなあ……。なんだっててめーの顔を寝起きに見なくちゃならねーんだ」
「ふざけてんじゃあねぇ! 仕事の最中に寝るヤツがあるかッ!」

 仕事の最中?

 ギアッチョはメローネの胸に手を当て押し退けると、目をパチクリさせて辺りを見回した。愛車の運転席から見えるのは、夜の闇、路面を照らす街頭の明かり、道路沿いに走る塀、門扉、そこから伸びる山を切り分けるような山道。

 ギアッチョは腕時計を見やった。時刻は午前二時。誰もが寝静まった頃だ。仕事をするには頃合いだ。そして思い出す。メローネが先に一人で行って、ターゲットの家の警備システムを落とす。準備が整ったら電話で呼ぶから来い。そんな手はずだった。携帯電話を開く。メローネからの何十件という着信履歴。――確かに、ここには仕事で来ていたのだと、ギアッチョは思い出した。



69:Forgotten



 今回のターゲットは、世界各国を股にかけ、環境問題について公演を繰り返す――とりわけ、CO2の排出量削減を訴える――団体のトップだった。ただワンパターンに石油燃料の使用量削減を訴えていれば良かったものの、最近になって、麻薬――特にマリファナ――の製造過程における環境破壊や電気の消費量にまで言及し、この国に蔓延る麻薬を根絶せよと言い始め、リベラル派の政治家を援助し始めたがためにボスの怒りを買ったのだ。

 そんなに二酸化炭素の排出量が増えて困るなら、排出量の削減に自らの命をもって一役買わせてやれ。氷河期に戻ったみたいな中で死なせてやれば尚いいんじゃないか。と、リゾットがブラックすぎるジョーク――本人は至極真面目に言っていたのかもしれないが――をかましたあと、ギアッチョと、その補佐としてメローネを駆り出したのだ。

「とかく二酸化炭素を悪者にする昨今の風潮は気に食わない」

 メローネがまたどうでもいい話を始めた。ギアッチョは溜息こそつきはしたが、いつものように声を荒げることはしなかった。車を運転しての移動の最中にあった彼だが、不思議とハンドルを握る手に力も入らない。

「二酸化炭素がなきゃ植物は育たないんだ。植物がなきゃ人間は生きていけないってことは言うまでもないし、大気中の二酸化炭素濃度が高くなって逆に地球上の緑が増えているっていう、環境問題に関心のある人間なら喜びそうなデータだってある。なのに、何故かそんな事実を報じるマスコミは存在しない。あと、地球上のほとんどの物質が炭素で構成されていて、人間はその恩恵を多分に受けているにも関わらず脱炭素とか、マジで何を言っているのかオレには理解できないんだよ。化石燃料を使うな、二酸化炭素の排出量を抑えろっていう話は、石油生産国に金や軍事力を持たれるのを恐れる某大国や、原子力発電を推進する電力会社が無責任に触れ回ってることなんだ。なのに、二酸化炭素の排出量を抑えたところで、一年の削減量をものの数日で大国にパーにされる小さな国々のトップたちは言われるがまま、必死に二酸化炭素の排出量を抑えなきゃって頑張ってる。石油を買うなって強制されてるんだ。ちなみに、もう二十年も前から二十年後には石油が枯渇するとか言われていたが、一向に枯渇する気配はない。なんなら、枯渇したはずの油田にまたたっぷりと石油が溜まっていたなんて話もある。地球のマグマで絶えず作り続けられているわけだから、無尽蔵にあると言っても過言じゃない。要は石油燃料を燃焼して得られるエネルギーだって、立派な自然エネルギーなんだよ。動植物が朽ちて大地となり取り込まれ、高圧高温の環境下で変性したものが、何千年、何万年という時を経て湧き出てくるわけだから、明らかに再生可能エネルギーだろ。今俺たちが足を乗せてる大地だって、地殻変動の繰り返しで、何万年、何億年か後に石油や石炭、天然ガスになってどこかから吹き出すのさ。だから枯渇なんかしない。これらの事実をひた隠しにしてる理由は――さっき言ったな。にも関わらず、北極のシロクマが住処を奪われるとか、グリーンランドの氷が溶けて海水面が上昇するとかツンドラがなくなるとか、過去に幾度となく起こってきた地球規模の変化に対処すべく、二酸化炭素の排出量を削減するっていう途方もなく無駄なことに金をつぎ込まされてるんだぜ。一番二酸化炭素を多く排出してる大国が全く真面目に取り組んでいないのにだ。バカみたいだと思わないか。もっと根本的な話をすれば、地球の何万年、何億年という歴史の中で言えば今は氷河時代だ。恐竜が生きていた時代の二酸化炭素濃度は今の十倍で、確かに今より気温は高かったが、言うまでもなく恐竜は産業革命なんか起こしていない。そもそも、温暖化して何が悪いんだ。植物も生きられないほどの寒さになったら食物も育たないし生物も生きていけないので人間は滅ぶが、あったかい分には困らないじゃないか。植物も良く育つしな。これはホワイト・アルバムというスタンドを持つお前になら容易に理解できることのはずだ。今は昔より気温が高いとか、殺人的な暑さだとか言っているが、それは人間が住んでいる所に圧倒的に水が無いからなんだよ。地表にきちんと水や、水を保持する植物があれば、気温が上がって水が蒸発する時に熱を奪うからな。そこらじゅうアスファルトやコンクリートばかりにして川や池を排除しておいて、暑いのは温暖化の所為だ! なんて科学もろくに勉強していないアホの言うことだ。これは蛇足だが、温暖化して北極や南極の海面に浮く氷が溶けたところで海水面は上昇しない。ツバルで海面が上昇したって一時期騒いでいたが、あれはサンゴ由来の緩い地盤にコンクリート構造物なんかの重い物を人間が造りまくったり、地下水をくみ上げすぎた所為で地盤が沈下した結果なんだ。環境活動家やマスコミ連中は、それを温暖化で北極や南極の氷が溶けたせいだってほら話を吹聴して回っていたんだぜ。アルキメデスの定理を知っていればすぐに嘘だと気付くんだがな。あと、プラスチックを燃やしたら人体に有害なダイオキシンが出るから燃やしちゃあダメだって話。あれも嘘だ。プラスチックなんか燃やしてしまえば処分に費やす金もエネルギーも最小で済むのに、バカみたいにリサイクルしてる。リユースならまだ分かる。けど、傷ついたところで菌が繁殖しやすいプラスチックなんか誰もリユースしたがらないだろう。なら、リデュースすればいいんだが、肝心の大企業がそれに取り組まない。リサイクルなんて一番無駄で本末転倒な行為だ。もちろん、それで雇用が生まれて国から金をぶん取れるので、いい金になるいいビジネスという側面はある。だが、環境問題の対策としてだけの話をすれば、最も無駄でくだらない行為だ。というか、対策にすらなっていない。だって、二酸化炭素の排出量を抑えようとしているのに、リサイクルの過程でたくさん二酸化炭素を排出することになるんだからな。それに、リサイクル業者なんか優良企業ばかりとは限らない。回収されたプラスチックが海外の悪徳業者に流れて、埋め立て地でそのままほったらかしになっていたり、海の沖の方――要は人の目につかないところに大量に捨てたりするなんてザラなんだ。それこそ海洋汚染の原因に他ならない。燃やしてしまえばそもそもこんな問題は起こらないじゃないか。あと、海水温の上昇は大気の温暖化の所為なんかじゃない。発電に使われる冷却水が大量に海に流されているからだ。海水温の変化は海の生態系、ひいては海産物に悪影響を及ぼすから、それを抑えようっていうのは間違いじゃないだろうが、驚くことに大量の水を吸って大量の温水を吐き出す原子力発電所が海辺に次々と建設されている。二酸化炭素の排出量を抑えるためにだ。一体何がしたいんだって話だ。狂ってるとしか言いようが無い。持続可能な社会が聞いてあきれる。原発なんて持続可能の真逆を行く発電方法だぞ。核廃棄物の処理方法すらまともに確立できないのに。しかも、インフラとしては最もハイリスクな施設だ。もしも戦争が起こって他国からの侵略を受けたとすると、インフラというヤツは真っ先に叩かれるからな。水道、ガス、通信ケーブル、電気。原発の推進なんて、核兵器を所持していて絶対に他国から攻撃を受けない自信のある地震も少ない国以外がやっているとしたら、その国のトップは、もしも原子力発電所を爆撃されたらって可能性を考えられない能無しか、利権を手放したくない大企業の傀儡だ。こんな世界の現状を、てめーの懐事情しか考えていないクソ金持ち連中とろくに国の舵も取れないアホな政治屋共の賜物と言わずに何というんだ? とにかく、オレが何を言いたいかと言うとだ。二酸化炭素の排出量を削減しろと言って回る環境活動家とか、抗議しかしないで迷惑行為を繰り返すデモ集団なんて、権力者に刷り込まれた真偽も定かでない情報を疑わない、純心で真実の追求を放棄した宗教団体の信奉者か、金持ち連中に金を掴まされて何も知らない一般人にデマを刷り込もうとするクソ野郎のどっちかだ。一般人の敵とみなしていい。一番迷惑を被るのは税金を搾取される権力も金も無い一般人だからな。今回のターゲットに限って言えば、ヤツが所属する団体は王手電力会社がスポンサーについているし、ヤツ自身は世界を股にかける操り人形だ。そんなこんなでオレは、今回の仕事ってとても胸のすく思いがするんだ。普段は仕事に感情なんか微塵も持ち込まないんだが、今回は個人的にとてもスッキリする。明らかにパッショーネという犯罪組織による慈善事業だ。おまえもそう思わないか、ギアッチョ」
「いや、おまえどんだけ喋ってんだよ」

 バイクの運転が無くて助手席で暇だからってどうでもいい話をしないでほしい。明日の我が身のこと以外考えられないような人生で、環境がどうとか、二酸化炭素の排出量がどうとか本当にどうでもいい。子供を作る気なんかさらさらないので、将来の子供たちのためにとか、マジでオレには関係ない。今を生き抜ければそれでいい。そもそもオレに言わせてみれば、環境にやさしいとか地球に優しいという言葉は思い上がりが過ぎる。自然環境とは美しくもあるが強く、それであって厳しいものだ。人間は地震、火山噴火、津波、トルネード、豪雪その他もろもろの強大な力の前にひれ伏すしかない。その自然を相手に「やさしくしてやる」だって? 一体何様だ。大体、持続可能な生活が立ちいかなくなって困るのは人間で、別に地球は困らない。核廃棄物で汚染されて居住地が無くなって困るのは人間で、何万年か後にはまた元の緑でいっぱいの健全な地球に戻るだろう。地球は何千年というスパンの中で寒冷化と温暖化を繰り返しているし、それに動植物たちは適応してきた。制御できない物を制御できないと当然のことを騒ぎ立ててどうにかしようと、どうにかできると思い込んでいるのは人間だけだ。自然からもたらされる脅威への対策だけ考えればいいのに、善人ぶって地球のためにとか言いやがって。そう言って誰が何のために何をすればいいのか肝心なことをはぐらかすくせに、温暖化を食い止めようとか言って回って意見を押し付けるのはまったくもって理不尽だ。ビニール袋を飲み込んで死ぬウミガメが可哀想だという環境活動家の人間は、ウミガメより心を通わせやすいはずの人間であるホームレスを助けようともしない。それにも納得いかねー。何が宇宙船地球号だ。同じ船に乗るはずの話の通じるクルーすら大切にできてねーじゃねぇか。そもそも地球にそんなつもりなんか微塵もねーし、操縦できるもんでもねーんだよ。どんだけ傲慢だ。人類皆イルーゾォかよ。クソが。――という理由で、オレは温暖化なんてクソどうでもいいと思っているわけだ。だって、暑くてたまんねーってんなら、オレだけは涼しくなれるからな。

 と、絶対零度を再現できる特殊能力を持つギアッチョは思うのだった。もっと言えば、自然環境がどうなろうと生き抜く力を持っているという自覚と自信があるのだ。彼はこの夏の間に、チームメイトたちからちょいちょいリビングで「暑いからホワイト・アルバムを出せ」と言われたことを思いだす。知るか、と彼らの願いを一蹴したのは記憶に新しかった。

 ギアッチョには、物を考える力はある。そして確かな自分の軸を持っている。まともな教育過程を経ずとも、知性とある程度の知識、思考力を備えている。

 これが、数年間の行動を共にしたメローネによる、ギアッチョの評価だった。

 だからギアッチョは理不尽にひどく敏感なのだ。理屈が通らなかったり、手前勝手な筋の通らないことを押し付けられたりすることに耐性が無い。それは先人たちが言い伝えてきた諺の類にまで及ぶ。往々にして「自分の考えは正しい」という思い込みと、他者の言葉との摩擦によって怒りが発露するのだ。「自分は正しい」と思っていることが思い込みだろうが本当に正しかろうが、それが周りの環境と一致しないから怒りという摩擦が生まれるのだ。世界が間違っている。なのに、自分がその世界に蹂躪されるのは間違っている。それが怒りの本質だ。怒りとは人間が生き残るため、成長するために、生まれながらに備えた重要な感情なのだ。また、ギアッチョは沸いた怒りを内側にとどめておくことができない。それが先天的なものか後天的なものかまでは知らないが、少なくともメローネがギアッチョと出会ってから数年間はずっとそうだった。

 それが、はたと途絶えてしまった。

 メローネは最近の、そして今しがたのやりとりを経た後のギアッチョの様子から、あることを危惧していた。メローネが長々と、某大国の金融街がどうの、秘密結社がどうの、某航空宇宙局と宇宙人がどうのと宣い自論を展開し発信することに執心する陰謀論者さながらの演説を披露したのは、ギアッチョを怒らせようとしたからだ。メローネの知る普段の彼ならば、話の中盤かそれよりもっと前に、百パーセントハンドルをもぎ取りメローネへ投げつけるなどして愛車を破壊していた。人がダラダラと話すのを長時間聞けないのだ。運転の支障になるから黙れと怒り狂ったはずだ。だが、ハンドルが握りしめられて軋む音は終ぞ聞くことができなかった。喉が枯れるくらいまで喋り倒せてしまった。

 スタンドとは精神力が具現化したものだ。精神とは人間の心、核となる部分だ。ギアッチョは憤怒の申し子で、際限なく沸き起こる怒りこそ彼の核、精神――スタンドなのだ。それが無くなっている。彼がすっかりおとなしくなってから、メローネはなんとかギアッチョを怒らせようと躍起になっていたが、試みはことごとく失敗に終わった。

 だからホワイト・アルバムは出てこないかもしれない。



 頬の外側にメローネの拳が、内側に歯がめり込む。殴られた頬とは逆の頬は車のドアの縁にぶつかって、眼鏡のリムとテンプルの留め金が歪み、ギアッチョの耳元でみしりと音がした。

 メローネがギアッチョを殴った。メローネは仕事をすっぽかされて怒っているのではない。メローネは至極冷静だった。至極冷静にギアッチョの横っ面を殴り飛ばしたのだ。第三者視点から見ても、メローネにはれっきとした殴る理由がある。ギアッチョは仕事と緊張感を忘れ眠りこけていたのだから。だが、それは関係なかった。

 ただ呼び覚ましたかったのだ。彼はまだ、夢から覚めていない。いつものギアッチョを呼び覚ましたかった。ギアッチョに、怒りを思い出して欲しかった。

 ギアッチョは口角から流れ出た血を手の甲で拭った後眼鏡を取り外し、歪んだそれを見ながら言った。大して怒りもあらわにせずに。

「……いてーな。突然何しやがる」
「一体どうしちまったって言うんだ……?」

 メローネは少しだけ感情的になった。今目の前にいるのは、オレの知っているギアッチョじゃない。裏表のない直情的な彼だから、メローネは心の底から彼を信頼できた。そんな彼だから、人生で初めて、親友と呼べるだけの友となれた。だが今目の前にいるのが本当にギアッチョなら、殴られっぱなしで逆上しないはずがない。こいつはギアッチョじゃない。そう思うと、悲しくなった。

 メローネはギアッチョの襟首を掴み上げ、揺さぶりながら言った。

「出せ。出せよ。スタンドを。……ホワイト・アルバムを今、ここで出してみせろッ!」
「あ……ああ。だが、何故だ?」
「いいから、さっさとやれ!」

 ギアッチョはおずおずと車から降りて車道に出ると、頭の中でホワイト・アルバムを纏った自分の姿を想像した。

 ギアッチョは両手を広げ、一向に装甲を纏えないのはなぜかと考えた。いつもは考えずともすんなりと出てきたはずのホワイト・アルバムが、出てこない。そうか、考えるからいけないんだ。そう思って頭の中を空っぽにしてみても、何も変化は起こらない。ギアッチョはてのひらを見つめて棒立ちになるより他なかった。

 メローネは、ただぼうっとその場に突っ立ったままのギアッチョを見ていられなかった。メローネは車から降りると、その外周を半分駆け、反対側にいたギアッチョに殴りかかった。

 ギアッチョは完全に戦意を喪失していた。されるがままに、頬に、鼻に、また頬に、メローネの拳を受ける。受け続ける。暗殺者チームの中で最も非力で、人を殴るなんてほとんどしたことが無いメローネが、人をサンドバッグのようにボコ殴りにしたのもまた初めてだった。しかもその人、というのが、メローネが最も信頼する仲間になろうとは、彼自身これまで露にも思わなかったことだった。

 拳が裂ける。手の甲に、自分の顔に繁吹く熱い血液が、ギアッチョのものか自分のものかもわからない。

「頼む……頼むから」

 メローネは、怒りを、戦意を、生きる気力を失くした肉人形に、拳を振り下ろしながら言った。ギアッチョの目は虚ろだ。そして、もうこれ以上やっても意味は無いだろうし、これ以上殴ったら、いくらギアッチョでも死んでしまうかもしれない。そんな予感から、メローネの拳に力が入らなくなり、殴りつける間隔も開き始めたその時、彼はギアッチョの身に起きた変化に気付いて手を止めた。

 ギアッチョ自身ではなく、スタンドが意思を持ったように現れはじめたのだ。ぼんやりと薄いヴェールのようにギアッチョの体の表面に浮き上がったそれは、だんだんと実体を成していき、やがて彼の体は、例の見慣れた白い装甲に覆われた。

 だけでは無かった。

 白目を剥いて気絶しているギアッチョの腕はひとりでに動きだし、棺桶に死人が入る時の様に胸の前で交差した。ホワイト・アルバムが完全に実体化し終えるか否かと言ったその瞬間、瞬時に“鎖”が現れた。一本の長いそれはギアッチョの体の、肩より下の部分にぐるぐると巻き付いた状態で浮き出てきた。鎖の端と端は交差した腕の前で頑丈そうな錠前によって繋がれている。

 明らかに異質な光景を目の当たりにしたこのとき、メローネがふと思い出したのは、のスタンド――メガデスが、摩天楼の谷間に浮かぶおぞましい光景だった。