好奇心は猫をも殺す。
イギリスのことわざだ。なんでも、イギリスの猫は魂を九つも持っているらしく、そんな猫でも、好奇心が災いして死ぬことだってあるんだぜ。って話で、いらぬ好奇心は命を縮めるって教訓だそうだ。
「セックスの百倍はイイって話よ」
そんな話も耳に入った。どこだかのクラブのボックス席。その日オレは確か失恋したてで、飲み仲間とヤケ酒を呷ってた。多分今日も、酔った挙句の果てに、知らない女の部屋のベッドで目を覚ますんだろうなって思ってた、そんな矢先のことだった。いつの間にか隣に座ってた女が、何やら危なそうな白い粉の入った透明の小袋をちらつかせていた。ヤバいやつだって分かってたから、オレは女の腕を掴んで退けて、顔を覗き込んで言ってやった。
「なら、アンタとシた後、本当にその百倍いいかって確かめてやるよ」
「……いいわ」
初めてはその夜だった。ヤバいクスリだってことは分かっていたが、本当にそうなのかって知りたい気持ちもあった。それに、あの時はどうなったっていいって思っていたんだ。安宿のベッドの上に女を突き飛ばして、さあやろうって気持ちで、オレは準備万端でいたのに、女はクスリを先にキメやがった。まな板の上に転がった死んだ魚を相手にしてヤッてる気分だった。虚脱状態の体。もちろんあっちの締まりも悪い。ガバガバだ。あんな最低最悪なセックスは初めてだった。
すっかり興覚めしてしまったんで、オレもサイドテーブルに乗った残りの白い粉を、女がやってたみたいに鼻から吸い込んだ。あんなセックスに比べれば百倍なんか楽勝だろ。なんて思いながら。そしてオレは床に転がった。くらくらして、頭をバブルヘッドのフィギュアみたいに揺らしながら、ホテルの汚い床で仰向けになった。
沈む。沈む。沈んでいく。木製のはずの床は樹脂製の何かみたいに伸びて伸びて、オレの体を囲むように壁を作った。天井が遠く、遠くなる。魂だけを上の方に残して、体だけが沈んでいく。魂の解放。きっとこれが、死ぬときに人が、これまで頑張ってきたご褒美に与えられるっていう快感だ。感覚と言う感覚が冴えわたって、迸って、蒸発していくような――
筆舌に尽くし難い、至上の快感。百倍? そんなもんじゃない。比較になんかならない。
この夜から、オレはクスリの虜になった。クスリのために金が必要だったので仕方なく働き続けた。けれど、オレの稼ぎじゃ足りない。足りない。もっと、もっといる。結構危ない仕事も、たまにやったりした。その内、素行の悪さが災いして、元の職場をクビになった。そして行きついたのがリコルドさんの店だった。そこには、美人でやさしい先輩ディーラーがいた。今度は、オレはその人の虜になった。気を引きたくて、あの人とつり合うようなまともな人間になりたくて、元の悪い友達とは手を切った。けど、悪い友達の中で一番の仲良しとだけは手は切れなかった。――クスリだ。
好奇心は猫をも殺す。言い得て妙だ。
オレは死ぬのか? 死んだのか? 心残りはないか? ない。ない。そんなものない。いや……ひとつある。誰かに、愛されたかった。自分が確かに生きてるって実感したかった。こんな、自殺未遂を繰り返すようなやり方じゃなくて。きっとそれがあれば、オレはクスリなんかやらなかった。
「先輩……助け、て……」
「可哀想に。あなたをこんな風にしたのは、誰?」
女が聞いた。そう。またも、オレの隣にいるのはどこの誰だか知らない女だ。けど、オレにクスリをくれた。しかもタダでだ。ああでも、タダより高いものは無いって言うよな。高くついたんだ。きっと、オレは魂を持っていかれるんだ。
「あなたの魂に、それだけの価値があるかしら?」
なんだこの女。なんでオレの考えてることが分かるんだ。……ああ、でも、もうそんなのどうだっていい。死ぬのもいいさ。死んだら、さすがにあの人も、オレのこと思ってくれるだろう。……だと、いいな。
「……・。オレの好きだった、人」
「疲れたでしょう。眠ったら?」
「ああ……そうする……」
68:Heads Will Roll
・の夏は終わった。今日からまた、表向きの仕事がはじまる。
「これ、メローネから預かってたもんだ。おまえが帰ってきたら渡してくれって」
が車のセールスレディの姿になって出かけようとした朝のことだ。ホルマジオに声をかけられふりかえると、数日前にどこぞのホテルに置きっぱなしにしてそのままだった自分の携帯電話が差し出されていた。
「ああ。忘れてた」
はそう言って、ホルマジオから――分解されたのが元通り綺麗な姿になって、多分また追跡用の発信器でも埋め込まれているであろう――携帯電話を受け取った。
プライベートで大して役にたたない、無くても特に困ることはないそれだから、出かけに寝床に置いたままにするのもよくあることだった。もちろん、暗殺者チームのみんなからすれば、自分の管理のためにも持ち歩くのは大切なのだろうと分かってはいるし、できるだけ忘れずに持ち歩けとリゾットに言われてもいた。だが、発信器は携帯電話だけに仕掛けられているワケではないので問題は無いだろう、という自己判断の末にそうすることがままあったのだ。
だってきっと、自分の居場所を示す無数の――無数の、は言い過ぎかもしれないが、明確な数を知らないので、無数のと思っていた方がいい――点のうちのたったひとつが、アジトにとどまって見えるだけなのだから。それに、日々使っていた機能と言えばアラームを目覚ましのためにセットするくらい。それすら、休みの間ほとんど使わなかったなぁ。なんて、怠惰で荒んだ長期休暇をふりかえる。
「ありがとう。それじゃあ、行ってきます」
こうして、玄関口の向こう側に立っていたペッシに迎えられ、はふたりで職場へと向かった。
「ニット帽、素敵ね」
のお付きの者に任命された隣を歩くペッシ。彼の奇抜な頭髪は目立つので、なるべく目立たない格好をしていろとリゾットに言われていた。鮮やかな緑の頭髪は右側に寄せられているのか、通気性の良さそうな生地でできた黒いサマーニットの裾から数センチはみ出していた。そして灰色のTシャツに薄手の黒のジャケットを羽織り、黒のパンツとあたり障りのない無難なデザインのスニーカーをはいている。彼の鍛え上げられた筋肉が隠されているのはもったいないが、これはこれで新鮮でいいとは思った。
「ホルマジオには大根にコンドーム被せたみたいだって言われた」
ああ。せっかく素敵だって思って言ったのに。ホルマジオの余計な一言を聞かされて一気に残念な気分になる。
「彼の想像力が豊かでお下品なだけ。……あなたは素敵よ、ペッシ。自信を持って」
笑いながら、は言った。ペッシもつられてはにかんだ。
ふたりはまるで何も無かったかのように何気ない会話を交わしながら歩き、公共交通機関を乗り継いで進んだ。そしての職場を目前にして、ふたりは別れた。ペッシは帰りの時間までどこにいるとは言わなかったが、天井から床までガラス張りの店内を覗けて、尚且ビーチ・ボーイの針が自分に届く範囲内にいるつもりだろうということは想像がついた。
『信用できないかもしれないけど』
店の入口までの数十メートルを歩く間、は別れ際でペッシに言ったことを思いだしていた。
『トイレ休憩とかお昼休憩とか、ちゃんとしてね。メローネがきっと、また私の持ち物に発信器を付けているだろうし、それに――』
そして、頭の中のガレージにいる、もうひとりの自分のことを再び思い出す。
『――私自身が、私がどこかへ行ってしまわないか不安でしょうがないのよ。だから、何か自分に異変を感じたら、すぐにあなたに、その後でリゾットにも連絡するわ』
ホルマジオに携帯電話を渡されていなかったらこうは言えなかったわけだが、いつかメローネからおまけをつけて――いや、おそらく、この携帯電話については電話とかメールの機能の方がおまけだろう――渡されるだろうと、当然そうなるだろうと心のどこかで思っていたのかもしれない。
自分は復讐心に取り憑かれた反乱分子。そうしっかり自覚したからだ。そんな自覚を持ちながらも、いつもどおりの二重生活がまた幕を開ける――
「……あれ?」
――はずだった。
は店の扉の前に立っていた。いつもは自動で開くはずのその扉が開かなかったので、彼女ははて、と小首をかしげた。よくよく見てみると店内は暗く人気が無い。さらに、ガラス製の自動ドアの右側に、見慣れない張り紙があった。
“諸事情により、当面の間休業します。ご用命の際はまず、お気軽にお電話にてご連絡ください”
紙の中段に印刷された文字に続けて右下の方に、代表者“リコルド・リガーレ”の文字と、店の代表電話番号が書いてある。
「え……?」
はとっさに携帯電話を取り出した。電源は切られたままだった。電源ボタンを長押しし、端末が起動してしばらくすると、着信履歴が数件残っていることを知る。一昨日――まだがイビサにいた時――の昼から夕方にかけて数回、店からの着信だった。伝言を一件預かっています、との女性の声の後に続く――おそらく店長からの――メッセージが流てくるのを、は恐る恐る待った。
『。……ああ、休みなのに申し訳ないね』
店長が、ひどく取り乱したような、震えた声で言う。この時点で、は何か良くないことが起こったのだと確信した。
きっと、ファジョリーノに何かあったんだ、と。
『残り少ない休みの、最後を迎えようっていう時に、こんな報告をしないといけなくなるなんて……。ああ、用件は、手短に済ませないとな』
時間は限られている。そんな理性が働いたのか、店長は思い切ったように続けた。
『ファジョリーノが家で……倒れているのを見つけたんだ。昏睡状態で、今も病院のベッドの上だ。だから今、店は閉じているよ。優秀なセールスマンもセールスレディもいないんじゃあ、商売にならないからね……。とにかく、電話をくれないか。。……心細くてしょうがないんだ。……それじゃあ』
は居ても立ってもいられなくなり、急いで店の横にある工房に向った。工房のシャッターは開いている。メカニックはいなかったが、壁にある窓の向こうに見える事務室の、そのまた向こうの扉のガラス窓から廊下の灯りが漏れていた。店長の姿は見えないが、きっと社長室にはいるはずだ。
急いで扉へ駆け寄り鍵を開けて中へ入った。廊下の右側に社員の事務室が、そして反対側には社長室と給湯室がある。見慣れた光景のはずなのに、誰もいない薄暗いホールに突き抜ける先の暗い廊下は、をどこか知らない場所にいるように錯覚させた。
「店長、店長……!」
社長室の扉を叩きながら、は叫んだ。泣き崩れそうになるのを必死に堪えながら。程なくして、が額と両腕をつけて体をもたせかけていた扉がゆっくりと開く。
普段の正気がすっかり消え失せた顔を下げて、店長がを部屋へ迎え入れた。は体の支えを扉からリコルドの胸へと移すと、とうとう泣き出してしまった。
「店長、ごめんなさい、ごめんなさい」
「ああ、。君が謝ることじゃない。……君が、どうにかできたことじゃあないんだ」
いいえ。違うの。もしかしたら、どうにかできたことかもしれないの。
「薬物中毒だそうだよ。コカインか、ヘロインか……そのあたりのやつだ。意識は戻っていない。戻るかどうかも……」
知っていた。ファジョリーノが、薬物を濫用していることは知っていたのだ。ただ、こうなるとは思わなかった。何の根拠も無く、きっと大丈夫だろうと思っていた。思い込もうとした。
なんの悩みもなく、ただの好奇心で、自らクスリに手を出す人間はいない。そもそも、この世界に大した不満もなくまっとうに一生懸命生きている人間と、そんな彼らの元に生まれ落ちた教養ある子供たちならば、所持しているだけで罪に問われるようなものを入手しようなんて思わないし、アンダーグラウンドという名の墓穴に片足を突っ込むような真似はしないだろう。
しかし、パッショーネの台頭によって、薬物濫用の敷居が低くなったのは確かだ。だから、はじまりこそ純粋な好奇心、出来心だったかもしれない。依存性の高い薬物というのも災いしたかも。だが、この街の薬物濫用者が死亡したり、昏睡状態におちいったり、一生涯ものの後遺症と付き合いながら生きていくはめになる、より根本的な原因は、薬物を手に入れられるような人間が仲間内にいること。そして、知り合いないしは家族や恋人などの親しい人物が、やめたほうがいいと、堕落一途を辿る者の歩みにブレーキをかけてやらないことだ。――孤独だ。
本人がひた隠しにしていて気付けなかった――大抵の場合、薬物を濫用すれば情緒が不安定になるとか、肌の血色が悪くなって正気が感じられないなんて目に見える変化が何かしら現れるので、親しい仲でそれに気付けなかったのなら、そもそも親しい仲とも呼べない間柄だということだろう――、親元が離れているとかなら仕方がないかもしれない。
ところで、ファジョリーノの親しい人とは誰だろう。と、は思った。こうなる前に、彼を助けてやれたかもしれない人間は? この前のクリスマスに実家に帰ると言っていたから、両親はいるのだろう。けれど彼の交友関係はよく知らない。私が彼のプライベートにあまり立ち入ろうとしなかったから。だから私が言及できるのは、私と彼の関係についてだけ。
まだ私がどうしようもない孤独に苛まれ、発散の術も持たずに窒息死しそうになっていた頃、そばにいてくれたのは店長と、ファジョリーノだけだった。彼は何かと私を放っておいてはくれなかった。そんな彼がかわいかったし、自分が死んだ事になっていて、何度死んでも生き返るびっくり人間でもなければ、もっと親密な仲になれていたかもしれない。つい最近までおとなりさんだった彼は、あの、店長のアパートで、ひとりきりで何を思って、クスリに溺れていたのだろう。――ぎゅっと、胸がしめつけられて、苦しくなる。まるで、ひとりぼっちだった頃の――いや、ひとりぼっちだと思い込んで他者と関わりを持たなかった頃の――自分そのものだ。
親しい仲だったはずだ。私の世界には、つい最近まで彼と店長しかいなかった。だからと言って彼の世界にも私と店長しかいなかったわけではないだろう。けれど、こうなってしまった今だから分かったことだが、彼がクスリをやっていると知って、止められたとしたら、それは私だった。私だけだった。
知っていて止めないのが罪だ。一歩踏み外せば死に直結するような自傷行為。いや、ほとんど自殺と違わぬ行為を、やっていると知っていて止めないのが罪なのだ。思い悩んで絶望し、その果てに橋の欄干の向こう側に行き着き眼下の激流をみつめる者の背に、さっさと死んでしまえと投げかけるようなものだ。
私はそれを、彼にしたのだ。
でも、どの口でやめろと言えただろう。死にたいと、殺してくれと懇願し続け、至上の快楽に身を委ね続け、現実逃避を繰り返してきたこの私の口で?
言ったって無駄だと、あのときは思った。自分も同類だから、心の底からやめろと言えなかった。自分がそう思っていなかったからだ。
自分自身がこのままではいけないという問題意識を持ち、どうありたいという未来を掲げ、現実と理想の差を埋めるべく自己改革に本気になって取り組まなければ、人は変われない。本人以外が何か手助けできることがあるとすれば、問題を指摘して、こうあるべきではないかと諭し、常に寄り添って、再度道を踏み外そうとしたそのときに、そうじゃないと軌道修正を加えること。それを飽きずに、なんの見返りも得られずとも、ただ当人のことを思ってやり続けること。
これまでの人生、散々孤独を謳歌していただが、最近彼女には変革が起きた。自分の過去を、人とは違う側面を認めてくれて、仲間だと言ってくれる人たちに巡り合えた。死なないでくれと言ってくれる、絶対に死んでほしくない愛する仲間たちができた。おかげで問題とも思っていなかったことを問題と知ることができたし、当面の目標も定まった。きっと彼らなら、その目標を達成するまで、自分に根気よく付き合ってくれる。そんな根拠のない確信がにはあった。
今になって、そうだと気付けたのだ。だから、今の自分なら心の底から、ファジョリーノに改心を促してやれたかもしれない。彼が改心するまで、根気強く諭しながら支えてやれたかもしれない。
問題が起こってしまった今、こんなことを考えたって後の祭りなのだが。
ペッシを引き連れては病院へ向かい、ファジョリーノが眠るベッドの前に立ち、窓から射し込む日の光に照らされた彼の姿を見つめた。生命維持のためか、何かよくわからないチューブを腕のいたるところに取り付けられて、ぴくりとも動かない彼を。
まるで別人だった。はりが無くなってこけた頬。落ち窪んで浮き彫りになった眼孔。ばさばさの髪に、節くれだった手。骨と皮だけみたいな細い腕。
とても、ずっとは直視していられない。
はしばらくして、ファジョリーノの顔から目をそらした。ベッドのヘッドボードに向かって左側のサイドテーブルには花瓶があって、見舞客から贈られたであろう花束が生けてあった。眠ったままの彼には何の慰みにもならないだろうが、少なくともの心だけは慰められた。
前の私みたいに、本当の本当に孤独では無かったんだ。
病室に現れた看護師には聞いた。花は昨日家族――ファジョリーノの父と母、祖母と妹の四人――が置いていったものらしい。皆口々に、どうしてこんなにいい子が、と言っていたという。
ああ。やっぱり、私のせいだ。私だけしか、彼を止められなかったんだ。
花に慰められたはずの心はまたどす黒く濁っていく。ファジョリーノ、と彼の名を呼んでも、眉一つ動かない。死んだみたいに、動かないのだ。
「ファジョリーノ。……ファジョリーノ、ごめんなさい、私のせいで……」
ファジョリーノの冷たい手を握り、目をつぶって顔を伏せる。そうすると、閉じた目から溢れ落ちた涙が白いシーツに薄灰色のしみを作った。
最近、泣いてばっかりだ。
「姉貴……」
ペッシは何も言わなかった。顔を伏せて涙をこぼすの、震える肩をじっとみつめるだけだった。早く帰ろうとも言わず、ただただが泣き止むのを待った。時計の長針が病室に足を踏み入れた時から円の半分だけ先に進んだ頃、はか細い声で言った。
「きっと……。きっと目を覚ましてね。ファジョリーノ。あなたがお店に、笑顔で戻ってくるのを……私、待っているから」
言って、は逃げるように病室を後にした。
今日はとても、客に笑顔を向けて営業できそうに無かった。だから、は病院を出てすぐに店長に連絡をした。もちろんそのつもりだったとの返事をもらい、明日から仕事ができるように、何とか気持ちを立て直すとお互いに約束を交わして、はペッシとアジトに戻ることにした。
けれどやはり、戻ろうにも、どんな顔をして戻ればいいか分からない。そこでペッシの了承を得て、例のアジト近くにある公園に向かった。いつものベンチの定位置に腰掛けて、隣の空いた所をぽんぽんと叩く。
「ペッシ。あなたも座って」
「あ、うん」
どうにも、姉貴のそばにいるのには慣れない、と顔を少し赤くして、ペッシはおずおずと、言われた通りの隣に座った。ふたりして街を見下ろし視線をたゆたわせる。
「ごめんね、ペッシ。……病院にいる間、退屈させたわよね」
「退屈というか……姉貴は大丈夫かい?」
「ぜんぜん、大丈夫じゃないわ」
「……だよね」
大丈夫と答えられたのなら、そうは見えないと心配はより一層深まるだけだっただろう。とは言ったものの、逆に見た目通りの素直な言葉を得ても返す言葉はとっさに出てこなかった。ペッシが何か言えることはないかと考えるうちに、また沈黙がふたりを取り巻いていく。
「私の懺悔を――」
おもむろに、が言った。
「――聞いてくれる? どうしても、ひとりで抱えられそうになくて」
「もちろん」
倒れる前のファジョリーノがどんな男だったか。ニューヨークでの一件と、その後、薬物を濫用していると確信に至ったときの話。クスリをやっているわりに普通に見えたこと。長期休暇に入る前、きっと大丈夫だと決めつけて、そのままにしたこと。こうなってしまった今、彼が自分にとってどれだけ大切な存在だったかを思い知らされたということ。の世界における、ファジョリーノという男にまつわる話をすべて、洗いざらい話した。
「――どうして、私の能力ってこんななのかしら。自分が死んでも生き返るだけなんて、何の意味も無い。誰も救えないじゃない。……彼がああなってしまったのは、全部……全部、私のせいなんだわ」
「それは違うよ」
ペッシは言った。彼はこれまでの人生で、クスリに溺れ苦しみながらもやめられずに自滅していく人間を大勢見てきた。彼の世界は、物心ついたころから荒みきっていた。もう何度も繰り返し見てきた、生産性の欠落した人の営みだ。彼にとっては普通のことだった。その普通のことについて嘆き悲しむ人間を見るのも初めてのことだった。
「兄貴はよく言うんだ。人を殺すということは、自分も殺されると覚悟することだって。……だから、オレはまだ仕事ができないんだ。死ぬのが怖いから。覚悟ができてないからなんだ。……これはオレが仕事できてない暇な間に考え付いたことなんだけど、それって何にでも当てはまるんじゃないかなって。……だから、クスリに手を出すのも、いずれクスリに殺されるって覚悟が必要なんだ。少なくとも、手を出したその時から、手を出した本人に何が起こっても、それは自己責任だよ」
喋り過ぎた。そう思って、ペッシはそっと隣に座るの顔を見る。悲しそうな顔は依然変わらず。何とか、いつもの笑顔を取り戻してほしいのに、気の利いたことの一つも言ってやれない。けれど、珍しく、言いたいことがたくさんあった。元気づけてやろうと言うより、自分の気持ちを知って欲しいと言う気持ちの方が大きかった。
「だから、あの人が倒れてしまったこと自体は、あの人の責任だ。姉貴のせいじゃない。絶対にそうだ。……だけど、こうも思うんだ。もし、オレが一人前になれたとして、仕事をこなしているうちに死んでしまった時に……姉貴がオレの死を悲しんでくれたのなら……それだけで、報われる気がする。それだけで、嬉しいんだ。……そんな素敵な人に巡り合えないまま死んでいくやつらなんて、この世界じゃ珍しくないからね」
ペッシは言ってしまった後に、余計な話をしてしまったと気づいて顔を赤くした。そしてペッシ、と呟いてこちらに顔を向けそうになったと入れ替わるように、急いで前に顔を戻した。
「だ、だからさ! そ、その……あの人も、目を覚ました時に、姉貴が待ってくれていたら――自分が倒れていた間に、ずっと待ってくれていたんだと知ることができたら――それだけで報われると思う。だから、姉貴は元気でいなくちゃ、ダメだぜ。死んだわけじゃないんだ。目を覚まさないって、医者が断言したわけでもないんだろ? なら、何も心配いら――」
「ペッシ……!!」
ペッシの視界をの片腕が遮ったと思った次の瞬間、もう何度目か分からない――イビサへ行く前までの、そしてあの夜にもう二度と得られないかもしれないと危惧していた――温かな抱擁を受けた。
「死ぬなんて、言わないで」
「うん。だから、姉貴も、死にたいなんて、もう言わないでくれよ」
「分かった……。分かったわ」
分かっている。頭では分かっている。けれど、思考回路を切断されたら? あとは転がっていくだけ。
には恐ろしかった。この温かな、それだけで満たされる不思議な感覚が遠のいていくのが恐ろしくて、その後も長いこと、彼女はペッシに縋りついていた。
それは、何度も、何度も、繰り返されたこと。踊らされる人々の物語がまた始まる。続く。続いていく。死ぬまで、続いていく。死んでからも、繰り返されていく。――また、幕を開ける。