「オレにおまえは殺せない」
リゾットは言った。は息を詰まらせ、彼の顔をじっと見たあと目を泳がせた。
「私が、死ねばいいのよね」
は自ら死を選べと言われているのだと思った。これまで幾度となく繰り返してきた、快楽を得るためのそれではなく、永遠の死を選べと。
取り返しのつかないことをした。仲間に明らかな殺意を向け、皆の命を礎にチームからの脱却を図ろうとした。これ以上、何をやらかすか分からない、制御不能なもうひとりの自分をそのままにしておけば、同じことが起こりかねない。
そうならないように、“彼女”をしずめ、ふたりが満足するような何か解決策をと、イタリアへ戻る間には考えた。だが結局どうすればいいのか分からないまま、今このときを迎えている。問題が明らかに浮き彫りになっただけなのだ。
問題の解決を迫るリゾットに、死ねばいいのね?と問うた結果、彼に死ねと言われ、言われるがままに永遠の死を選んだとしたら、それは“彼女”への裏切りに他ならない。
見放さないと言った。そう言って、“彼女”を鎮めただけのつもりはない。でも、今の自分にできる提案は、これしかない。
「あなた達の為なら私、永遠の死を選べるわ。……ただ、自分で死ぬのはやっぱり怖――」
「違う、。そうじゃない」
リゾットはの手に手を重ね、じっと目を見つめて続けた。
「オレはおまえを殺したくないから、おまえに生きていて欲しいから、例え殺すことが出来たとしても殺しはしないと、そう言っているんだ」
リゾットはプロシュートから、ペッシから、そして本人から、イビサ島で起こったことの全てを聞いた。結果、ハイド――の第二人格――が確かに存在することや、ハイドの方がボスへの復讐を果たすことを渇望していることなどを知った。つまりリゾットは、・という新人がこのチームに仲間入りを果たした時から危惧していたことが、事実なのだという確証を得ていた。
対して、リゾットはを殺すようにと命じられている。他の誰も知らない、リゾットにだけ下されたボスからの忌まわしい命令がある。
を殺せば、我ら暗殺者チームの待遇は良くなるかもしれない。もしかすると、使い捨ての鉄砲玉と何ら変わりない扱いや冷遇も、いくらかマシになるかもしれない。ボスの期待に答えればあるいは。
だが、そうやって手に入れた未来に、の存在しない未来に、価値などあるだろうか?――いや、あるはずがない。
期限のない仕事など与えられていないも同然であるし、そもそもあの男の――顔も本名も何も知らない、ただただ憎らしく、恐怖の源でしかないあの男の――ご機嫌取りをしようなどとは思えない。
ならば、の命を守りながらチーム皆の命も守り、ボスを王座から引きずり下ろす。
なに、前々から心に決めていたことだ。と出会おうが出会うまいが、昔からそうするつもりでいたのだ。は、このオレの思いを加速させただけに過ぎない。
ボスの管理下に置かれ続け、苦しむ彼女“たち”の姿を見てきた今、リゾットの誓いはさらに強固なものとなっていた。
「だから、オレがお前に手をかけることは絶対に無い。むしろ以前にも増して、おまえを死なせはしないと思う気持ちは強くなった」
は下唇を噛み締めて、涙を浮かべた瞳でリゾットを見つめた。手の甲から伝わってくるリゾットの熱が、途方もなく愛しく感じられた。あの、スクリーンの前にいる“彼女”にも、きっとこの感情は伝わっているはずだ。
「。一度しか言わないから、よく聞くんだ」
リゾットはの手をしっかりと握った。緊張を紛らわすために、彼は無意識のうちにそうしていた。
「オレはおまえの……いや、おまえたちの意志を尊重する。オレもいずれ、ボスに反逆するつもりでいるからだ」
「え……?」
あまりに唐突で衝撃的な宣言を、は呑み込めずにいた。大きく目を見開いて、彼女もまたじっとリゾットの瞳を見つめ返す。
彼は決して、から目をそらそうとはしなかった。目は泳ぎもしなかった。彼女には、嘘で言っているのではないと、確かに感じられた。もとより彼は決して、仲間に嘘をついたりするような人間ではない。
「わたしが、あなたに……そうさせようとしてしまっているの?」
ボスに反逆する。ボスの殺害を目論む。ボスの正体を探ろうとする。――絶対の禁忌を破ろうとする。それがどれだけ危険なことか、彼が知らないわけはない。
リゾットはに、ソルベとジェラートというチームメイトがその禁忌を破ったせいで、ボスの手先に惨殺されてしまったという話を聞かせていた。彼女はそれを思い出した。もう二度と、仲間に悲惨な死に方をさせないためにも、彼はこの先ずっと、冷遇に甘んじ、黙って耐え続けるつもりでいるのだろうと、彼女は思い込んでいた。
自分が、そしてもう一人の自分が抱き続けていたボスへの反感を打ち明け、それを尊重したいというような思いを滲ませてしまったから、彼の内に秘められ、押し殺されていた反感を発露させてしまったのだと思った。だが、リゾットは首を横に振った。
「違う。元から考えていたことだ。オレはもうずいぶん昔から、ボスを信頼してなどいない。死にたく無いから、誰も死なせたくないから、言うことを黙って聞く。それだけだった。おまえの存在は、おまえを……そして皆を苦しめているあの男を、殺してやりたいという元からあった気持ちに、拍車をかけただけだ。おまえを、たったひとりで戦わせるつもりはない」
そう聞かされても、は喜べなかった。何と言ってこの問題を切り崩していけばいいのかがわからない。
けれど、やはり私は――いや、私たちは、孤独では無かったのだ。
問題は山積している。解決策など、その糸口すらつかめていない。けれど、リゾットがそばにいることが、今はただ心強かった。心を落ち着けられる、あたたかな拠り所。それさえあれば、自分の過去を――彼女を――受け入れることができると思った。
「ありがとう、リゾット。……私を、“彼女”を、見放さないでいてくれて、本当にありがとう」
リゾットは小さく頷いた。
「おまえの言うことが本当なら、オレの言葉はもう一人のおまえにも届いているはずだな?」
もまた、こくりと頷いた。
「いいか。同じことを何度繰り返しても、同じ結果しか得られない。今、おまえがここに囚われているのは、過去におまえがたったひとりでボスを殺そうと嗅ぎまわっていたからだ。兆しも何も無いのに、ひとりでボスのことを探っていたからだ。……何事にも絶好のチャンスというものがある。……それは今ではない。今、オレとおまえが躍起になっても、オレは殺されてしまい、おまえはボスの管理下から逃れることはできないだろう。現時点で、いつと名言はできない。だが、おれは必ず復讐を果たす。必ず、チームの誇りを取り戻す。……今は、オレの言葉を信じていろ。そしておまえは、オレが良いと言うまで、身を隠しているんだ」
リゾットはソファーから立ち上がるのと同時に、重ね合わせたの手を握り腕を引いて、彼女に立ちあがるよう促した。そうしておもむろに立ちあがった彼女を抱き寄せた。大きく温かな体に包まれて、はより一層の安堵感に胸を熱くした。大きく温かな掌が頭を包んで、慈しむように指先に力が込められた。
「よく戻ったな。」
「心配かけてごめんなさい」
「いいんだ。おまえが今、ここにいる。それだけで十分だ」
ねえ、これで少しは安心できた?
はリゾットの胸に顔を埋め、彼の心音に聞き入りながら目をつむり、もう一人の自分に問いかけてみた。――答えは返ってこない。何も言わないということはきっと、いいとか、了解したとか、そういう肯定的な意志の表れで、反論の余地などないということなのだろうとは結論付けた。そして彼女は、自分の過去を、もう一人の自分を受け入れる覚悟を決めたのだった。
やがてふたりは定刻を迎え、ふたりきりだった死の世界から、現実世界へと戻った。
イルーゾォはリゾットとの体が、鏡の中の世界から完全に戻ってくるのを確認するなりスタンド“マン・イン・ザ・ミラ―”を内に収めると、すぐにふたりに背を向け、リゾットの私室から、そしてアジトから抜け出そうとした。
に合わす顔などない。“あんなこと”を言ってしまったのを――恐らく――聞かれた手前、面と向かって話をする気など起きなかった。
言いたいことはたくさんあった。本当は、心の底からおまえを愛しているんだ、とか、言ったってしょうがないような、がいないあいだ、ずっと言おう言おうと思い浮かべていた言い訳がましいセリフとか。しかし、いざを前にするとやはりプライドが邪魔をして言えそうになかった。溢れんばかりの彼女への思いを、打ち明けられそうになかったのだ。
だが、逃亡は失敗に終わる。イルーゾォは後方へ振り出した腕を階段を下りかけたところで掴まれ、引き止められてしまった。
「待って、イルーゾォ」
振り返ると、が悲痛な面持ちを向けて立っていた。
「少し、話せる?」
イルーゾォは断ることもできなかった。に許してもらいたいという思いが、彼女の誘いを断ってまで自尊心を尊重するという意志を上回った。彼は何も言わずにうなずいて同意を示した。
「あなたの言うとおりだった」
例の――景色はいいのに何故かいつも人気の無い――公園のベンチに腰掛けるなり、は言った。
「やっと、それが事実だって受けとめることができたわ」
言葉は少なかった。だがイルーゾォには分かった。
彼女は、過去を受け入れる覚悟を決めたようだ。――そんな覚悟を、させてしまったようだ。オレが、彼女の中にいる死神を見せたから。オレが、心にも無いことを言って彼女を傷つけたから。
イルーゾォは、遠く離れて行ってしまいそうな彼女を引き止めたくてしょうがなかったが、未だに彼女の顔を見ることができずにいた。後悔に崩れた情けない顔を、彼女に見られたくなかったからだ。
「あれは、嘘だ。本心であんな風に思っことなんか、一度だって無い。オレはおまえを――」
「分かってる」
はイルーゾォの言葉を遮るように言った。それが彼には、続きを――愛しているなどと――言われたくないからそうしたのだと思われて余計に情けなくなり、唇を引き結んで押し黙った。
「分かってるわ、イルーゾォ。だってあなたは、本当はとっても優しい人だもの。そんなあなたが、私は大好きなのよ」
は、背を丸めて膝に肘をつき項垂れるイルーゾォの肩にそっと手をあてた。
「確かに、傷付いたわ。私は今でも――さっきも言ったけれど――あなたのことが大好きだし、あの時は、私にはあなたしかいないと思っていたから、絶望した」
あの時――イビサへ飛び立つ前、が最後にアジトにいた時のことだ。言われずとも、それもイルーゾォには見当がついた。
「でも、元を辿れば悪いのは私だったって気付いたの。孤独だと思い込んで、問題をすり替えて、それをあなたにすべて押し付けようとしていたんだわ。自分の過去の問題から目をそむけて、あなたに愛してもらおうと必死だった。けれど、それじゃあダメだってわかったの」
イルーゾォは、ダメなんかじゃあない。悪いのは全部オレだったんだ。そう言いたかった。だが、の声音からは何か、決意めいた確固たる意思が感じられた。だから彼は、引き結んだ唇の裏側で歯を食いしばり、やはり何も言わなかった。
「自分の過去には自分で蹴りをつけるわ。それは私のためでもあって、あなたたち皆のためでもあると思ってる。……あなた達がそばにいてくれるなら――」
はふと、今と同じ場所で、チョコラータに言ったことを思い出した。
「――私、それだけで強く生きていられるわ。過去を乗り越えられる。そんな気がするの」
あの時は、ただ与えられるだけの愛に――死と快楽に――依存していた。けれど今は違う。私は変わったんだ。かけがえのない、守るべきものを手に入れた。与えられるだけでなく、愛を与えるために、強く生きていかなければならないと気付いたのだ。自分は確かに変わっている。そう実感できる。だからきっと、私は私の過去を乗り越えることができる。
「ねえ。イルーゾォ」
はイルーゾォの頬に手を添えて、自分の方へ顔を向けるように促した。そして彼の手を取り、大切なものを慈しむように両の手で包み込み、続けた。
「いつとは明言できないけれど、私が私の過去の問題に決着をつけることができた時、もしもあなたが私のことを愛しいとこころから思えたのなら……今度こそ……愛してるって、言ってほしい」
はイルーゾォの手をぎゅっと握り、彼を見て微笑んだ。そして口ごもる彼を前に答えを聞かないまま手を放し、立ち上がって彼に背を向けた。
離れて行くあたたかな手にすがりたかった。遠ざかっていくの背を追いかけ、抱きしめて、本当にこころからおまえを愛しているんだと言いたかった。けれどそうしてもきっと、今の彼女には受け入れられないだろう。
イルーゾォはひとり後悔し続けた。終わったと思われた関係は、の話を信じるのであれば、終わりを望まれてはいない。それが唯一救いだが、今はただ、途方も無い喪失感に苛まれ、尽きない後悔に胸を締め付けられるだけだった。
67:My Own Soul's Warning
ホルマジオはが帰ってきたと聞いて、外での用事もそこそこに済ませて帰路へとついた。いつも使う大通りを足早に歩く。早くに会いたかった。すると急ぐ彼の視界に、見覚えのある草の束が入り込む。それは、いつもならば陽光を浴びるように天に向かっているのだが、今日はむしり取られた後のように、しなびて横になっている。
コンビニエンスストアだ。ホルマジオはその、大通りに面したはめ殺し窓――雑誌類が並んだ棚――の前で足を止めた。そして眉根を寄せねめつけるようにして、広げられた大判の雑誌の向こうをうかがった。
やがてペッシはホルマジオの視線に気づき、雑誌の向こう側からちらと双眼を覗かせた。ホルマジオは苦笑しながら通りの進行方向へと目を向けた。コンビニエンスストアの奥隣にはコインランドリー。そしてその向かいの喫茶店には、がいた。
彼女の姿を見ただけでホルマジオの胸が踊った。だが彼は、ひとまずペッシの元へ行くことに決めた。
ペッシにはホルマジオが自分に近づいてくるのが分かったが、に向けた顔をホルマジオに向けようとはしなかった。ホルマジオがやや乱暴に肩に手を乗せても、少し上体を揺らしただけで、相変わらず顔はの方へ向いている。
「おいどうした。髪にいつもの元気がねーじゃねーかよ」
「う、うん。まあ、その……イメチェンだよ。イメチェン」
「変装のつもりなら、もっとうまくやれよな」
「べ、べつに。……姉貴は知ってるさ。オレがつきまとってることくらい」
ホルマジオは、ペッシがリゾットに言われてそうしているのだと知っていた。
監視の強化だ。相変わらず、に知られたそれにいかほどの効力があるか知れない。けれど万が一にも、また彼女が発作的に第二人格を現し逃亡を試みようとした時に備え、瞬発力と強固な拘束力を兼ね備えた能力を持つペッシをそばに置いておくというのは至極合理的判断とも言えるだろう。
「ならわざわざこんなとこでコソコソやってねーで、ずっと一緒にいりゃいーだろ」
「そ、そんなの……緊張するし……何を話せばいいかわかんねーし……」
ホルマジオは首を横に振りながらはあ、とため息をついた。そしてペッシの背をバシバシと叩いた後に言った。
「そんなまごついてるようならよ。オレがおまえの仕事、取っちまうからな」
ホルマジオはペッシに背を向けながら手を振り別れの挨拶を済ませると、コンビニエンスストアを出てのいる喫茶店へと足を向けた。
はいつもの定位置で、いつも注文するアイスコーヒーを飲みながら本を読んでいた。
「よっ。」
「あら、ホルマジオ。……ただいま。帰ったわ」
「ああ、おかえり。……ここ、座ってもいいか?」
ホルマジオはの向かいの席を指差して、彼女がもちろんと返すなり席についた。店員を呼びつけて、彼もまたアイスコーヒーをひとつ頼む。
「もう帰ってこねーんじゃあねーかって、心配してたんだぜ」
「……心配かけて、ごめんなさい」
「いや、おまえが謝ることじゃあねーさ。ああ、マジでさ――」
ホルマジオは改めてをじっと見つめた。いつもと変わらぬが、目の前にいる。それが自分にとっての幸せなのだと、彼はこの時はじめて自覚した。
「――オレは、お前が戻ってきてくれて嬉しいんだ」
「ホルマジオ。私も、あなたにそう言ってもらえて嬉しい」
は優しげな微笑みをたたえた顔でホルマジオを見つめた。そして、過去を――そう昔のことではないが――思い返しながらゆっくりと続けた。
「ただ、あなたたちのいるところに帰りたかった」
魂の警告に逆らって、快楽を、死を求め続けてきた。すると、何かこじれてきて、何もかもがうまくいかず立ち行かなくなった。そうして壁にぶち当たった時、思い浮かべたのは、皆のいる場所だった。どんなに遠く離れようとしても、結局は皆のいる場所に戻りたくなるのだろうと思った。
「だからそうしたの。……けれど、私があなたたちのそばに居続けるためには、解決しなくちゃいけない問題があるって気付いたわ」
の話は漠然としていた。詮索されるのを避けているように思えた。ホルマジオにはそれが分かったし、彼女が抱えている問題に大方の見当はついている。だからなおさら、今ここで根掘り葉掘り聞くべきでは無いと思った。
「私……あなたが言ったように、いずれ私のすべてを、あなたに見せるわ。そうするためにまず、私自身が私の中の悪魔を――いいえ、もうひとりの、大切な私のことを受け入れる。過去を乗り越える。あなたは、それを応援してくれる?」
問題は何か。その解決策に見当は?これからどうするつもりなんだ。そんな話も必要ない。が言ったことだけで、ホルマジオは満たされていた。この場所で傷つけてしまった彼女は今、この場所で自分に笑顔を向け、共にあろうと言ってくれている。それだけで十分だった。
「ああ。もちろんだ。オレはずっと、おまえのそばにいる。……いや、ほんと、良かった」
良かった。ホルマジオは繰り返し、呟くように言った。
は生きる希望だ。眩しい、朝の日差しのようなものだ。世界を明るく、美しく照らしだす、そんな存在だ。
あ、姉貴が笑ってる……。
ペッシにとってもそうだった。いや、皆にとっては希望そのものだった。彼女がいるから笑っていられる。彼女がいるから強くありたいと思える。――生きていたいと思える。
広げた雑誌の影で、ペッシは笑っていた。が笑っている。それが心底嬉しくて、彼は少しだけ目に涙をにじませながら笑っていた。涙を人差し指で拭って、次にペッシが喫茶店へと目を向けたとき、は椅子から立ち上がって、こちらに来るようにと、隠れていたつもりのペッシに向かって手招きをしていた。