いつの間にかビーチ・ボーイが手元から消えていた。だが、ペッシは感知できていなかった。しきりに生唾を飲み込んで、ただ立っているのも困難というほどの負の圧力に耐えるので精一杯だったからだ。メガデスが姿を現した途端に気圧され、怯んだ彼は完全に戦意を喪失していたのだ。
全長六メートルはあろうかというほどの大きさの死神が闇夜に浮かび上がっている。まるで天を覆う暗雲のようだ。暗雲は雷鳴のように唸りを上げ、渦巻く怨念は気流を変えるほどの圧を中心から放っている。ペッシは強大なトルネードのそばに立っているような気がした。少し手を伸ばせばすぐさま巻き込まれ、木っ端微塵に砕かれ、どこか遠くへ吹き飛ばされてしまいそうだった。
真下に立つは、あからさまな敵意を、鋭く鷹のような目をペッシに向けていた。凄まじい怒りをあらわにしたのはほんの一瞬で、その後は、邪魔をするのなら致し方ない。とでも言うような――愛する者を犠牲にすることすら厭わないとでもいうような――覚悟を、揺るがぬ意志を宿した顔になった。
ペッシがこの島に滞在している間にを見て、まるで別人だと思ったのは初めてではなかった。マルセロのナイトクラブで自分を視界に入れながら、少しの目配せもせずに隣を素通りしていった時と同じ彼女だ。それが、今まで接してきた、すべてを許し包容してきた優しいではないことも分かった。
だが、チームから離れ逃げ果せる未来を明るいと称したが、本心で――つまりは、今表に出てきている彼女が――求めていたものとは一体何なのだろう。がチームから離脱することを許容してしまう自分たちの命を礎にしてでも果たしたい思いとは何なのだろう。
がこれまでひた隠しにしていた――彼女の意志かどうかはわからないが――あからさまな、そして熾烈を極める怨念を前にしても、ペッシにはやはり何も分からなかった。
自分は今まで、何をしてきた?のためにと、何ができていた?
そんな問いが生まれた。
こんなに凄まじい思いを内に秘めていたのに、今までそのことに少しも気付けなかったし、何故なのかが全くわからない。何となく彼女の過去に起因するものだと分かりはする。だが、それは愛していた人たちを殺されれば、怒り怨み涙を流すのは当たり前だろうという、中身の伴わない社会一般の価値観に則った粗雑な想像でしかない。それがここまで肥大してしまうものなのか?
自分がのことを何も知ろうとしなかったからだ。彼女の過去に、まるで腫れ物か何かみたいに触れようとしなかったから。腫れ物というのは自分にとってもそうで、組織への反感とはすなわちチームへの反感であるから、刺激したくなかったのだ。刺激すればするほど、彼女が自分たちから離れて行ってしまうと思った。そのくせに、自分は彼女の無償の愛に甘えていた。もらうだけもらって、返すことをしていなかった。姉貴はオレを知ろうとしてくれたのに、オレは姉貴を知ろうとしなかった。
この島から早く抜け出して日常に戻りたいと思ったのだって、姉貴が自分を拒絶しない日常が戻ると思い込んでいたからだ。それが無くなってしまいそうな今になって、離れないでいてほしいと心の底から思っている自分がいることに気付いた。
なんて我儘で、卑怯で、図々しいんだろう。……いや、どう思われようと構わない。やっと、姉貴のことをもっと知りたいと思えたのに。やっと、姉貴がどうして泣いていたのか知ることができそうなのに。
やっと、姉貴のことを心の底から好きなんだと気付けたのに……!
「姉貴……」
ペッシは呟き、一歩前に踏み出した。
「イヤだよ。オレ……姉貴に、離れていってほしくない。いや、――」
まるで向かい風の中を進むように、息苦しくなるような圧力を身に受け、にゆっくりと近づいていく。
覚悟しなければ。例え姉貴に殺されたって、姉貴を見放したりしないと。姉貴がこの先、ひとりで泣くことがないように。
「――絶対に離さないッ!」
「それ以上私に近付かないで!」
は声高に言い放った。ペッシは再びビーチ・ボーイを発現させ、手に持ち構え、ピタリと足を止めた。
「それより先に進んだら、あなたたちを私の敵とみなして排除するわ!」
ペッシははっと後ろを振り返った。嗅ぎなれた紙巻たばこを口に咥えふかし、マールボロの赤箱をジャケットの内ポケットにしまいながら、プロシュートがペッシの肩に手を乗せる。
「おまえ、よく立ってられるな?」
滅多にあることではない。あのプロシュートの兄貴がこめかみに汗を滲ませ、乾きを潤すのにごくりと喉を鳴らして生唾を飲み込むなんて。
「あ……兄貴こそッ!」
「バカ野郎。生意気言いやがって。お前にしちゃあ、良くやってる方だって褒めてやってんだ」
プロシュートは深呼吸の代わりにタバコを深く吸いこんで頭をスッキリさせた後、吸った煙を長く吐きだす。そして続けた。
「そら、どうした。行かねえのか」
ペッシもまた、再度ごくりと喉を鳴らし、意を決した。こうしてふたりは、ほぼ同時に足を踏み出し一線を越えた。
「来ないでと言っているのよ!私に……私にあなたたちを殺させないで!!」
が叫ぶ。しかし、ふたりは足を止めなかった。
「どうせお前をここで逃したら、少なくともオレ達ふたりはツケを払わされて死ぬことになる。なら、ここでお前に殺されたって一緒ってもんだ」
「止まりなさい!止まれば、少なくとも、今ここで死ぬことは無いわ!!どうせ同じだと言うのなら、私のことは放っておいて!!」
は当惑した顔で大粒の涙を零しながら言った。自分でも、その矛盾した物言いに気づいているようだった。殺させないでと彼らふたりの命を尊重するようなことを言いながら、片や自分のことは放っておけと――自分のために死んでくれと――言っている。
「どうした。殺すんじゃあなかったのか?あと四十秒たらずで、おまえにまで手が届いちまう距離にまで来てるぜ。その威勢の良さが口だけじゃあねえって所を見せてみろよ、」
死を覚悟してでも、自分を離さないと言っているのは何故?もしも彼らが命惜しさに私を逃さないと言っているのなら、彼らの行動も矛盾している。
分からない。どうして?何故彼らは、私のことを手放そうとしないの?
「やめてよ……。やめて、来ないで!!命が、惜しくないの!?」
「惜しいさ。だが、その命に、この先のオレ達の人生に、おまえがいないんじゃあ死んだも同然なんだ。だからオレ達は、お前を放さないと言っているんだ」
私の覚悟とは――あの全ての苦しみの根源を、あの悪魔のような男の息の根を止めてこそ永久の平穏が訪れると信じ、それが自分にしか果たせない宿命なのだと信じてやまない思いは――この程度なのか?情に絆されて、歩みを止めてしまう程に脆弱なものだったのか?
いや、思い出せ。思い出すんだ。あの男に負わされた全ての屈辱を。あの男に与えられた全ての悲しみ、痛み、苦しみ――そして死を!!
「私は征服する!!」
が叫んだ途端、プロシュートとペッシの目に、メガデスの背負う光背の中央が光り輝く様が映った。プロシュートは戦慄し、咄嗟に自身のスタンドの名を叫び発現させた。ペッシは足を止め、ビーチ・ボーイを大きく振りかぶった。ふたりはその一瞬の内に死を覚悟した。
だが、炸裂する寸前という程の、メガデスを中心に広がった閃光弾のようなまばゆい光は、メガデスにゆるく纏わりついていた鎖が音を立て、死神の体を縛り上げるのと同時に収まった。死神は、地獄の底から響いてくるかのような凄まじい悲鳴を上げながら、の体に吸い込まれるように姿を消していく。傍ら、は気を失ったり取り戻したりを繰り返すように、頭を抱え、うめき声を上げながら覚束ない足取りでよたよたと波止場の上を彷徨った。ついに彼女は完全に意識を手放し、波止場の天端を踏み外して海へと落ちていった。
「!!」「姉貴!!」
プロシュートとペッシのふたりはまた、ほぼ同時に足を踏み出し、がいた場所に駆け寄って、冷たい水に身を投げた。波止場の先端近くの深い海の底へ、闇の中へと沈んでいくの体を一心不乱に泳いで追っていった。ペッシが月明りを頼りにの手首を掴んで、海面に向かって引き上げる。プロシュートも反対側のの手首を掴んだ。ふたりで、一人沈んでいこうとするを必死になって救おうとした。
この手は絶対に離さない。一人になんか、絶対にさせやしない。
それは死を恐れての打算的な意志ではなく、を思って、彼女と自分たちが共にある未来を望んでの、至極純粋で衝動的な意志がもたらした行動だった。
66:Cold Water
苦しみから逃れたかった。孤独でいたくなかった。愛すべき者をすべて奪われてもなお、誰かを愛したかったし、愛されたかった。そんな思いでしかいなかったはずなのに、気づいたら私は完全に孤独だった。現実から、過去から、自分を形作ってきたすべてから逃げおおせようとして、招いた結果がこれだ。
私は今、やっとみつけた愛すべき者たちを、自らの手で殺そうとしている。
「そんなこと……絶対にさせない!」
闇の中では叫んだ。
「……っ、お願いよ!はなして!今は、私を放っておいて!私がすべきことを果たしたら、私は消えるから!だからお願い、私を自由にして!!」
「……はなして?私が一体、あなたの何を……」
交差した鎖が擦れ合って、カラカラと耳障りな音を立てる。闇の中ではその様を見ることはできないが、確かに似た音が背後で響いた。振り返ったところで視覚は働いていないし、振り返ったという実感も沸かない。だが確かに、が絶対に仲間に向かって攻撃などさせないと宣言した途端に、“彼女”は苦しみ始めた。
「あなたが私を放っておいてさえいてくれれば、今なら、私は私でいられるの!逃げて、目的を果たせば、私はきっと、消えることができる……!いいえ、消えると、約束するから……だから――」
「あなたが消えてしまったら、きっと私は私じゃなくなってしまうわ」
「いいえ。純粋だった頃の、優しいあなたに戻るだけよ。私は、あなたのままでいたかった。あなたになりたかった。けれど、そうなるにはもう、手遅れなのよ!」
“彼女”が要領を得ない話をするのは初めてでは無い。けれどそれが“彼女”の意思によるもので無いのだとしたら?言わないのではなく、言えないのだとしたら?ならば、私が“彼女”のことを知る努力をしなければ。
「ねえ、さっきの音は何?何の音なの?」
「言えないの、言えないのよ、言えないから、あなたには一生、私の考えていることなんか理解できない。言うつもりもないわ。私だけでいいの。苦しむのは私だけでいい」
「あなたを苦しめているのは私なの?」
「あなたじゃない、あなたじゃない」
「じゃあ誰なの?」
「みんなよ。だから、ひとりでいたい。ひとりでいるべきなの。ひとりでいないと、みんなが死んでいくの。だから――」
「私は、あなたのために、何ができるの?」
「放っておいて!」
「それがあなたのためだと思えないから、それ以外の方法を知りたい。私は……あなたを見放したりしない」
はひとつの結論に至っていた。
逃げてばかりだった。簡単な方ばかり選択して、楽をして、考えることをやめていた。認めたくないものを認めないまま、過去をなかったものとして生きていきたいとばかり考えていた。
けれど、問題はいつも過去からやってくる。過去に過ちをおかしたから、今が辛いのだ。逃げ続けていては、過ちは山積みになって自分に重くのしかかる。今がまさにそうだ。
“彼女”は私だ。切り離すことのできない、自分の過去だ。今まで少しずつ取り戻してきた過去を、自分を、私は投げ出してはいけないのだ。
大切な仲間の命が危険にさらされて、初めてそう思うことができた。
“彼女”を放っておいてもなんの解決にもならない。“彼女”も私も孤独なままだ。孤独なまま、人を殺し続ける、実りも何も無い日々に戻るだけ。だから今度は間違わない。私は決して忘れない。私は“彼女”で、“彼女”は私。
「もう二度と、あなたを虐げたりなんかしない。私はあなたを羨んでいるのよ。あなたみたいに、強くありたい。強い自分を、何者をも守れるかもしれないあなたを、手放したくなんかない!」
「――っ!今まで、散々突き放してきたくせに!いまさらなんなの!?自分よりも、あいつらのほうが大切なんでしょう!?私が殺すと脅したから、それで怖くなって、手のひらを返すみたいに、私のことをなだめすかそうっていうのね!?」
「違うわ!……彼らを大切に思っている私が、彼らに大切にされているあなたが大切なのよ!」
気付いたのだ。自分の命を尊重することこそ、愛する皆の命を尊重することだ。そして遠い遠い島国の老人の言葉が、今になって心に響いた。
“調和ある人生のために、悪と思える自分でも許してあげなさい。”
許すとは、互いを認め尊重し、双方の言い分の妥協点を探すことだ。“彼女”のことはまだ許せていない。許すために、まずは“彼女”を――自分の過去を――認め尊重し、受け入れる。
“彼女”もそう思ってくれるだろうか。
「私はあなたをひとりにしておきたくない!もう、あのガレージの中で、泣くだけでいるのは嫌なの!あなたもそうでしょう!?」
「嫌……っ、嫌よ……うっ……ううっ、あ……、苦しい、苦しい、助けて……助けて、……」
「助けるわ。あなたも、みんなも、絶対に見放したりなんかしない……!」
「ぶはァッ!!」
ペッシとプロシュートのふたりは、意識を失ったままのを肩に担ぎ、ほぼ同時に水面から顔を出した。足で手で水を掻きながら呼吸を整える。いくらか呼吸が楽になった拍子に、プロシュートが怒鳴った。
「バッカおめぇふたりとも海に飛び込んでどーすんだ!つーか、おまえは陸でビーチ・ボーイ使えや!!」
「だ、だってよォ兄貴!体が勝手に……兄貴だってそうだったんだろォ?」
冷静でいられなかった。頭で考える前に、体が動いていた。まさか自分がこんな失態を犯すなんて。おかげでこの高い波止場のコンクリートの壁をよじ登るのも一苦労だ。
プロシュートは、一・五メートルくらいの高さで立ちはだかるコンクリートの躯体を水面から見上げた。地面から数えてそれくらいの高さなら余裕で上がれるが、今自分がいるのは水中だ。足場も無ければ、このコンクリートの躯体には岩肌のように足をかけられるでこぼこがあるわけでもない。普段なら何とも思わない人工的な構造物が恨めしくてしょうがなかった。
ただでさえ完全復活していない気力と体力が、着衣したまま海に飛び込むという非合理的且つ危険な行為に及んでいるせいでどんどん無くなっていく。生憎、マルセロの船は立ちはだかるコンクリートの壁の反対側にあるし、周りに係留されている他の船も無い。
「おいペッシ。さっさとビーチ・ボーイで――」
プロシュートがペッシに指示を出そうと彼を見やった時、プロシュートが意図していたことは既に実行されていた。ペッシはコンクリートの躯体から突き出た鉄のボラードにビーチ・ボーイの針を括り付けて竿を引き、安定して登れるかどうかを確認している。
「オレが先に上がるよ。それまで、なんとか待てますかい?兄貴」
「お、おう」
何やら、プロシュートにはペッシが少しだけ大人びて見えた。ほとぼりが冷めた今になってよくよく考えてみると、あんな悍ましく強大なスタンドの姿を目の前にしながら躊躇いもせずに前へ進むなんて。少し前のペッシなら怯えまくって、何なら失禁までして気でも失っていそうなのに。
プロシュートは隣にいるの顔をのぞいて思った。
を思う気持ちが、ペッシを変えたのだろう。それもそうだ。普段、あいつにあんなに優しく接して、まるで母親か何かみたいに気をかけてくれる女なんて、以外にいやしない。恐らく、あいつのこれまでの人生の中でだって、ほとんど初めての存在のはずだ。そもそも、母親の愛情をたっぷり受けて成長しているなら、ギャングになんか身を落としたりしなかっただろう。唯一無二の、愛すべき女を手放すくらいなら死んだ方がマシだ。ペッシはきっと、そう思ったのだろう。
オレだってそうだ。
ビーチ・ボーイの力を借りてなんとか波止場によじ登ったあと、月明かりに照らされた美しいの顔をふたりで覗き込んだ。
「おい、。目を覚ませ」
「姉貴……姉貴?……死んじゃったのかな。返事をしてくれよ、姉貴……」
「めそめそすんな、ペッシ。さっき脈は確認したんだ。死んじゃいねーさ」
目を覚まして、またあの強気なに戻ったらどうしようか、という心配が少し頭をよぎったが、プロシュートは思いなおした。
何度だって、死ぬ気で連れ戻す。それだけだ。
やがては、眉間に皺を寄せ苦しそうな顔を見せた後にごほごほと咳込んで、飲み込んでしまった海水を吐き出した。しばらく咳込んだ後に呼吸を整え、彼女は再び仰向けになって、ぼやけた視界のなかに浮かんだふたつの人影に目を凝らした。
「ペッシ……、プロシュート……?」
はゆっくりと半身を起こし大手を広げ、ふたりを胸に抱き寄せた。
「よかった……。生きてた……!よかった、よかった……!!」
まるで子供の様に泣き声を上げながら、はふたりをぎゅっと抱きしめた。ふたりもまた、彼女を抱きしめ返して言った。
「おかえり、」「おかえり、姉貴」