がメローネを一人置いてプロシュートたちとイビサへ向かった日のこと。
リゾットは朝目を覚ましてリビングに下りると、いつもの定位置で仕事をしながらメローネの帰りを待っていた。こちらへ着くのは十時頃になると電話で話していたメローネは、それより十分ほど早くアジトへ戻ってきた。
リゾットを目にするなり、メローネが口を開く。
「すまな――」
「詫びは聞かない。とにかくそこへ座れ。何があったのか、詳しいことを聞かせろ」
メローネはバツが悪そうな顔で、おずおずとリゾットのそばに腰を据えた。そして昨晩あった事を、余計な情報は削ぎ落として伝え始める。
昨晩、がひどく狼狽えた様子で、どうしてもここに戻りたくないと訴えるものだから、気分転換がてら遠出した。どうして狼狽えていたのか、どうしてアジトに戻りたくないのかは教えてもらえなかった。一緒にいる間のほとんど打ちひしがれていて、口もあまりきかなかった。見かねて、少しずつ彼女の悩みを探っていこうと会話をする内に――正確に言うと、彼はこの時に馬乗りになられてリゾットにはとても正直に言えないようなことをされていた。だが、とついでに自分の名誉のためにもあけすけに全て話すわけにはいかないと思ったので、はぐらかすことにしたのだ――彼女の口数が増えていった。そして――
「人が変わったように見えたんだ。でいて、でない……例えば、ジキル博士とハイド氏のハイドみたいな……別人格めいたなにかが現れたように感じた。いつもの穏やかで従順な彼女ではなく、何か確かな強い意志を持った女が現れたんだ。……もちろんこれはオレの主観でしかないし、明確にそんな人格がの中に潜んでいると言い切れる訳でもない。ただ、彼女は言ったんだ。確かに、の口で、を思ってくれてありがとうとか、なんかそんな話をさ。そして朝になって、発信機を全部置いてひとりで出ていったって気付いて……妙に腑に落ちたんだ。が連れて行かれたって……そう思った」
「ふむ。それで?お前はが発信機を置いて出ていくのを察知できなかったのか」
「ああ。本当に情けない話だが――」
ヌかれたあと彼女の腕に抱かれて、まるで乳飲み子のようにすやすやと安らかな眠りに落ちてしまって、気づいたら彼女がいなくなっていたなんて、情けなさすぎて誰にも話せないし職務怠慢甚だしい。本当なら自分の罪を洗いざらい話してしまうべきなのだろうが、とてもじゃないが言えない。リゾットはきっと腑に落ちないだろうが、うまくごまかすしかない。
「――眠りこけてしまって、気付けなかった。結構長いこと休みなしでバイクに乗っていたから、疲れたのかな」
まあ、確かにメローネは武闘派ではないのでありえないとは言い切れない。いまいちすっきりしない説明ではあるが、リゾットはメローネを信用してそれ以上の追求をしなかった。
「プロシュートには、向こうで発信機を買うように言っている。じき追跡コードが知らされるだろうから、お前には引き続きの居場所を把握していてもらいたい。そして――」
リゾットは一呼吸置き、メローネの視線を捕えて言った。
「――二度目は無いぞ。メローネ」
今まで、は逃亡の意志など少しも見せなかった。それがが意図して見せていなかっただけなのか、それともメローネが言った通り、逃亡の意志を持った別の人格が現れただけで、今まで付き合っていた彼女は少しも逃亡したいなどと思っていなかったのかは分からない。だが、現時点で確かに言えることは、そのどちらであろうと、ボスから彼女の管理を任されている以上、彼女の行方が分からなくなるということはつまり、チームが存続の危機に瀕するということだ。任務は我々に一任されている、つまり責任は全て我ら暗殺者チームにあるということなのだ。
ギャングの世界では、責任を取ると言うことは命をかけるということだ。責務全うできてこそ、自分たちの命はあるのだ。仕事に生かされている。だから逆に責務を全うできなければ、見せしめにと自分たちの命はいとも容易く奪われる。上の連中がそうして組織の統率を図ろうとするからだ。
ソルベとジェラートは、それで死んだのだ。
「分かった。もう二度と、同じ過ちは繰り返さない」
「が従順だからとお前に全て任せていたオレも悪かった。今後は彼女の監視を強化しよう。やり方は考えておく。……そしてメローネ。お前にはもう一つ任せたい仕事がある。ギアッチョと組んでの仕事だ。詳しいことは、アイツが帰ってきてから話す。以上だ」
メローネは何も言わずに頷くと、ひとまず自室に戻って行った。リゾットはリビングから出ていく彼の背中を見送ったあと、すぐにプロシュートへ連絡を入れた。聞くところによると、今は普段通りの彼女が従順にプロシュートたちについて回っているらしい。だからと言って気を抜くなと、そしてメローネが今しがた話していたことを伝えた。さらに何か些細なことでも、に異変を感じたらすぐに連絡をするようにと伝え、リゾットは電話を切った。
もはやリゾットの心配事は、イビサでプロシュートとペッシに任せた仕事の進捗には無かった。がメローネの前で見せた異変の方が気がかりで仕方なかった。
静まりかえったリビングで、リゾットはひとり思考を巡らせた。ジキルとハイドのハイド。メローネの前に姿を現した、の別人格。確固たる意志を持ったようなその存在について。
が以前、プロシュートとふたりで仕事へ行った後に明らかとなった彼女の過去。全てが明らかになったわけではないのだろうが、それはこの上なく悲惨なものだった。
父親、母親、そして養父。住処も何も全てを組織に奪われた。ここからは想像の域を出ないが、おそらく組織に捕らえられ管理されるまでの過程で、自身もボスあるいは組織の者に何度も何度も殺されてきただろう。殺せないと分かったから、彼女は自由を奪われて今このチームに“囚われている”のだ。
リゾットには、今回の出来事はやっとが正常な意志を取り戻した結果であるように思えた。そもそも、今まで大人しくしていた彼女がおかしかったのだ。
愛する者を全て奪われた上、自身も何度も何度も殺され、今も尚その命をもてあそばれている――もてあそんできたのは他でもないこのオレだ――のに、おとなしく組織の一員としてアジトに身を留めていたのが不自然極まりないことだったのだ。何故がおとなしくしていたのか。方法も、誰がどうしたのかも何も分からないが、何となく組織の中の誰か――ボスの忠実なるしもべ――のスタンド能力なのだろうと想像していた。
でなければ、正常な人間が憎しみに狂わずに黙っていられるはずもない。ましてや、底なしの憎しみの心を自身で制御したまま、憎しみを生んだ元凶の元で文字通り身を粉にして働くなどできるはずもない。
正常な人間が復讐にいたる精神構造は自身が一番よく分かっている。だからリゾットは、メローネの前に姿を現し、組織からの逃亡を企てたの“第二人格”の存在を疑わなかった。
何かが契機となって姿を現したのだろう。復讐の名の元にボスの正体を探り、結果長きにわたり抑圧を受け管理され続けてきた、“彼女”が覚醒したのだ。
しばらく考えた結果、そんな結論に至った。いつの間にか時間は過ぎ去っていて、気付けば昼時を超えていた。やがてプロシュートから連絡が入り、発信機の追跡コードを知らされる。それをメローネに伝え、絶えずリビングでの動向をチェックしていたが、それでも心配は少しも払拭できない。
は今、でいるのだろうか。それとも、彼女の中の第二人格がそうと隠していつもの彼女を演じているだけなのだろうか。そもそも、・の真の姿とは何なのか。自分たちの前で明るく振舞っていた、快楽至上主義の彼女は真のなのか?どちらがジキルで、どちらがハイドなのだ?
散々考えた末にリゾットは気付いた。どうであれ、それはに変わりない。自分が愛してしまった、殺せと命令されているひとりの女に変わりはないのだと。
64:Enter Sandman
午前二時にはっと目が覚めた。リゾットはそうと意識する前に慌ただしく上体を起して窓の外に目をやった。
何か嫌な予感がする。
寝起きにそう意識したとたん、額から汗がじわりと滲みはじめた。得体の知れない危機感に身体が反応を示している。
がイビサへ行った日から今日までずっと、無駄に神経を尖らせて――尖らせたところでアジトにいる自分には何もできないから無駄なのだ――彼女のことばかり考えていた。その所為だろう。
そう思い至ったのに、脳も身体も完全に覚醒してしまって、再度ベッドに寝転がっても全く眠れそうになかった。
考えすぎだ。今の今まで、はいつもと変わらずにいたとプロシュートに報告を受けている。きっと明日には三人そろって戻ってくるはずだ。
目を瞑った。だが中々寝付けない。リゾットは深い溜息をひとつ吐くと、キッチンへ降りてグラス一杯のワインをあおった。寝酒などめったにしないのに、この日は飲まずにいられなかった。目が覚めてからずっと、胸騒ぎがしていても立ってもいられないのだ。だから酒を飲んで気を紛らわせようと思ったのだが、そもそもたったグラス一杯のワインごときをあおったところで、ほろ酔いすらできない彼には焼け石に水だった。
リゾットは寝るのを諦めて自室のデスクに向かうことにした。やることは山積している。つい最近舞い込んできた暗殺の仕事で、ギアッチョとメローネを送り込む算段をつけなければならない。だがそれよりも喫緊の課題は、の監視体制をどう強化するかである。
キッチンでコーヒーを淹れ、マグカップ片手に二階へと戻る。暗い部屋の奥に置いたデスクのアームライトだけ点灯しデスクチェアに腰掛ける。それからノートパソコンを起動させ、立ち上がるまでの間にモニターを見つめながらコーヒーを一口飲んだ。
その時、デスクの上に置いていた携帯電話が鳴り響いた。
驚きはした。が、妙に腑に落ちた。そして携帯電話の文字盤を見る前に、かけてきたのはプロシュートだろうと思った。携帯を手に取って応答すると、リゾットの勘は当たっていた。もっと言えば、何か良からぬことが起こったのではという嫌な予感で目を覚ましたのも正解だったということだ。
「……どうした」
『が逃げようとしている』
「今どこにいる」
『ホテル前にある港の波止場に。ペッシがビーチ・ボーイでを拘束してる。……オレは客室のベランダからそれを見てる』
は今、波止場にいる。恐らく、そこに係留された船の類で逃げるつもりでいるのだろう。それをペッシが何とか食い止めているらしい。
受話器の向こうにいるプロシュートは、一聴したところ落ち着いて話をしているように思えた。ある程度は、が逃亡するかもしれないという予感があって覚悟もしていたのだろう。そうなっても問題無いように、ペッシに監視を任せていたと考えられる。そしてペッシは自身のスタンドを使い、プロシュートに与えられた務めを果たそうとしているらしい。
だが、が逃げ出そうとしているということ以上の、予期せぬ事態に見舞われている。プロシュートの話しぶりからはそんな焦燥も伺えた。聞いたことにだけ答えて、それきり話をしなくなってしまったプロシュートに、リゾットは指示を出した。
「絶対に逃がすんじゃあない。何としても――」
『もちろん、そのつもりでいるッ……!』
プロシュートが食い気味にそう答えたのは、覚悟故というより、未知のものに対する畏怖と焦燥故だった。心を落ち着かせるために口をついて出た言葉だ。
『だが……だが、できるか分からねぇ。……なんだ……何なんだありゃあ一体!!』
声が震えている。
「落ち着けプロシュート。説明しろ!いったい何がどうなって、お前は今そんなに狼狽えている……!?」
プロシュートが弱音を吐くところなど久しく聞いていない。そして、あのプロシュートをそうさせるのだから、ただならぬことが起きているのだろうと予想でき、リゾットの危機感はさらに募っていく。
『……死神だ。あれがのスタンド――』
死神。以前ニューヨークでメローネが見たと言う、無数の核弾頭を、聖母マリア像の背後によく置かれる光背のように放射状に背負い、ボロボロのローブを身にまとった大きなガイコツ。リゾットはプロシュートの言葉からすぐにそれを連想した。
『――メガデスなんだッ……!!』
「プロシュート!」
慌てふためくプロシュートをたしなめるように、リゾットは一度、彼の名を大声で呼んだ。自分にはメガデスが見えていないし、その恐ろしさに怯むこともできない。だから彼を責めることはできないかもしれない。だが――
凄惨な死を遂げたソルベとジェラートの亡骸が、脳裏に焼き付いた二人の姿がフラッシュバックする。
――もうこれ以上、仲間を失いたくなどない。
「いいかプロシュート。は死にはしない。だが、お前のグレイトフル・デッドで老化させることはできるはずだ。電話を切って、すぐにペッシの応援に行け」
『……了解。電話は切るぜ。せいぜい、オレから連絡がくるのを期待して待っているんだな』
通話を終えた。プーッ、プーッと掌の上で電話が虚しく鳴る。今はふたりを信じて待つしかない。それは分かっている。
パソコンを立ち上げたはいいものの、仕事なんて手につかなかった。もちろん、寝ることなんてできるはずも無い。為す術もなく、ただただ考えることしかできない時間が過ぎていく。
メガデスがペッシの前に姿を現している。プロシュートが戦慄するのだから、それは恐らくペッシに剥き出しの敵意を向けて威嚇しているのだろう。
つまり、彼女の精神は明らかに、チームからの離脱を望んでいるということだ。何故?考えるまでもない。もまた、ボスへの復讐を望んでいるからだ。
オレがいずれ果たしてやると心に決めて、そうと知られぬように隠し続けている復讐の意志を、彼女も同じく内に秘めていたのだ!
その意志を否定するつもりはない。だが、まだ時期ではない。だからオレたちは何としても、彼女の逃亡を食い止めなければならない。彼女の勇み足が故に、他の仲間の命を危険にさらすわけにはいかない。
・を逃がすな。チームの一員として仕事をさせながら監視しろ。そして、殺せると分かったその時に殺せ。期限は設けない。が、期待しているぞ。
ボスからの指令を思い出す。それがいかに難しいことか、ボスは知っていたのだろうか。知っていて彼女をこのチームに置いたのだろうか。いや、それがどうであれ結局のところ、自分がやるべきことは変わらない。
闇から、いつ伸びてくるとも分からない黄泉への誘いの手から、部下の命を守る。ただそれだけだ。
リゾットはプロシュートからの連絡を待つ、ひどく長い時間の中で再度、固く決意した。そして自分たちの運命が大きく変わろうとしている、そんな予兆に胸を騒がせるのだった。