暗殺嬢は轢死したい。

 相変わらず容赦なく照りつけてくる太陽に焦がされながら、ペッシは透明度の高い遠浅の海に浮かぶ浮きを眺めていた。海は穏やかだが、ペッシの心の中は反対に荒れ模様。おかげで、これまで釣りの一番の醍醐味だと思っていた“ぼうっとして頭を休ませる”ことすら今は叶わない。そう言えば、こうして釣りに集中できないのは二回目だ。――前に姉貴と釣りに行った時もそうだった。

 いつもペッシの頭を悩ませるのはだ。

 彼がプロシュートに殴られたり蹴られたりしながら叱責を受けるのはいつものことで、それでひどく落ち込んだり悩んだりすることはなかった。きっと、兄貴は全て包み隠さず言葉や態度で示してくれるから安心できるのだろう。と、色々と思う中で、ペッシはなぜこうも今自分が落ち込んでいるのか、その原因のひとつを突き止めた。

 が何を考えているのか、彼女の本当の姿とは一体何なのか、それが全く分からないのだ。女心が分からないとかその程度の話ではなく、何故彼女はチームに配属されたのか。何故彼女は死にたがるのか。前からそうなのか、最近そうなったのか。生まれ持っての性質故にそうなっただけなのか、後発的にそうなってしまったのか。彼女は、何が悲しくてあのとき泣いていたのか――。

 肝要なところがペッシには何も分からない。自分がいったい何をすれば、彼女を悲しみから救い出せるのか。それとも何をしたって無駄で、自分なんかにはどうにもできないことなのか。

 はペッシにとって憧れであったし、これまでの人生で初めて自分と優しく、対等に人として接してくれた女性でもある。そんな彼女が死ぬところなどはもちろんのこと、泣いている姿さえも見たくない。

 だからどうにかしてやりたいと思ってみても、そんな気持ちが先行するばかりで、具体的かつ現実的な解決策など思い浮かびもせず、最終的にはお前なんかが何をやったってと、ペッシの中に巣食う希薄な自己肯定感の産物がぼやく。

 そいつが生まれたのはもう随分前だが、ここ最近で急成長を遂げた。



 の歩みはスーパーモデルさながらだった。どうやったらそんな靴で歩けるのかと思わずにはいられないほどの高さのヒールで、まるでモーゼのように人の波を割ってどんどん先へと進んで行く。割られてすぐに閉じていく波間を、ペッシはそのスーパーモデルを追っかけるパパラッチか何かのように、なりふり構わずもみくちゃにされながら進んだ。

 手元にはビーチ・ボーイ。伸ばした糸の先はついさっきの持つ小ぶりなハンドバッグのチェーンに引っ掛けた。だから、そこまで必死になって彼女を追う必要は無いといえば無いのだが、後で二階に上がってきたプロシュートにはどこだと聞かれた時のために、目で追えるところまでは追っておきたいと思ったのだった。するとは突然、酒を呷って――と言うより浴びるように飲んで――騒いでいるグループの女のひとりと派手にぶつかった。恐らく、がワザとぶつかったのだ。が手に持っていたグラスは床に落ちて割れたようだが、割れた音は当然聞こえないし、明滅の激しい照明と人混みの中では足元の様子など分からない。

 次にペッシがの顔を見たとき、彼女は今まで一度も見たことの無い剣幕で女の胸ぐらを掴み上げ、何か大声で叫んでいた。ペッシは仕事の都合上、今は黙って事の次第を見届けるしかないには違いないのだが、それはともかく、今まで一度も怒りの感情を表に出して見せたことのなかったが、あんな顔で初対面の人間にケンカをふっかけて怒鳴り散らしているという現状に驚いてただ呆然とする他無かった。

 やがては小競り合いのうちに、敵対する女が持っていたワイングラスから赤ワインを顔面にぶっかけられてブチ切れて、どつき合いの果てにわざと――恐らくだが――倒れた。倒れた先は、お見事。ターゲットのマルセロ・メネンデスの足元だ。ふくらはぎのあたりに軽く衝撃を受けたのか、彼は後ろを振り向いて、顔面や胸元を赤ワインで汚した美女の介抱を始めた。敵対していた女は一緒にいたグループの男連中に羽交い締めにされながら尚もに向って牙を剥くが、目的を達したは最早女のことなど眼中に無いようだ。はマルセロを上目遣いに見つめていた。赤で汚れた白いカットソーの襟元から覗くものが気になってしょうがないのか、対するマルセロは彼女の魅惑的な、困ったような笑顔と胸元を交互に見ながら何か話す。最終的にはの肩を抱いて奥の方へ向かい、プライベートと記された看板の掲げられたドアの向こうに消えていった。

 計算尽くなのだろう。にとっては、起こるべくして起こったことなのだ。ペッシは驚きの連続でほとんど放心状態だった。しっかりとビーチ・ボーイのグリップを握り、壁や扉を透過する釣糸の先をぼんやりと眺めながら、ペッシは空いたボックス席のソファーに腰を下ろした。

 ペッシはしばらく黙って自分の手元を見つめていた。すると唐突に肩を誰かに掴まれハッとして顔を上げる。するとプロシュートが、ビーチ・ボーイの糸の伸びる先を見つめていた。彼はがどこに行ったかは聞かなかった。そして黙ってペッシの向かいに座り、内ポケットからタバコを取り出して火をつけた。

 それから数分でバッグの動きは止まり――それはそうだ。バッグをずっと持っているワケが無い――十分、二十分と時が流れるに連れて、ペッシは不安に駆られ始める。一度生まれた不安はどんどん肥大して、彼の頭の中をいっぱいにする。

 ビーチ・ボーイの竿や釣糸、釣針なんかは、能力を持たない一般人には視認できない。だが、釣針に刺されれば痛みは感じる。追跡するためと人体に攻撃をしてしまえば、能力者であるには痛みだけでなく、それと共に釣糸にも――見えにくくさせることは可能だが完全に隠せるワケではないので、カンが鋭ければ――気づかれてしまうだろう。だからバッグのチェーンを的にしたのだ。だが、それだって、バッグすらいらないと置いていかれ逃げられたら最後じゃないか?兄貴がバッグの中にしかけた発信機と同程度の役目しか果たしていないことになる。兄貴は何といった?を追跡しろと言った。のバッグを追跡しろとは言ってない。ああ、どうしよう。の姉貴は、本当にオレたちを置いてどこかへ逃げようとか企んでいるんだろうか。もしそうなら、今の状況ってまずいんじゃあないか?言ったほうがいいのか?この糸の伸びている先がのハンドバッグだって兄貴に言ったら、兄貴は何て言うだろう。でも、兄貴だってオレのビーチ・ボーイの性能くらい把握してるよな――

 不安や焦りしか湧いてこない時間はひどく長く感じた。そうして一時間近く時間が過ぎた頃、やっとバッグに動きがあった。それを持っているのが誰かまでは流石に分からないが、揺れ具合から察するにに違いないだろう。ペッシはやっと生きた心地というやつを取り戻すことができた。やっぱりオレたちの考えすぎだったんだ。姉貴は逃げようなんて思っちゃいないんだ。

 やがてが上着を着替えて扉から出てきた。そして彼女は、ペッシのすぐ隣を素通りした。

 ペッシの特徴的な外見ならすぐに彼と見分けがつくだろうし、少しではあるが客の数は減っている。ペッシには、自分の姿がの視界には入ったという確信もあった。彼女が扉の向こうから姿を現した途端に能力を解除して、それからずっと彼女を見つめていたので確かだった。だが反対に彼女は、まるで自分のことなどはなから知らないとでも言うように、少しの目配せすらせずに彼の脇を素通りしたのだ。それこそ、ランウェイを歩くスーパーモデルのように無表情で、ただ一点を見つめて歩いていた。

 それがペッシには酷くこたえた。

 はいつだって目が合えば合うなりにっこりと笑顔を見せてくれた。目が合っていなくても、彼女はペッシを見るなり背後から顔を覗き込んできて、元気?とかそんな他愛のない声掛けをする。いつもの――思い出すだけで顔が火照ってくるが、昼間に自分を求めてきた時までの――とは、まるで別人だった。

 オレは見限られたんだ。そんな絶望感に苛まれながらゆっくりと自分の前を過ぎ去っていくを目で追っている内に、脛に凄まじい痛みを感じた。ペッシは目を剥いて唇を引き結び、楔でも打ち込まれたのでは無いかという程に痛むすねを手で押さえるついでにうずくまる。プロシュートの履く革靴の鋭利な先端が叩き込まれたのだ。何するんだよと言いたくなって顔を上げると、プロシュートが眉間に皺を寄せてこちらを睨みつけていた。

 プロシュートはその後すぐに立ち上がって、の後を追った。クラブの外へ出ると、は道端に停まっていたタクシーに乗り込んだ。ペッシは急いでスタンドを出し、車に釣針をくくりつけた。

「追うぞ」

 プロシュートもまた言葉少なにタクシーへ乗り込んだ。行き先は?運転手にたずねられたので、プロシュートはあのタクシーを追ってくれと頼んだ。――行き着いた先は、昼にチェックインしたホテルだった。

「オレから離れるなと言っただろうが」

 部屋に着くなり重苦しい沈黙を破って、プロシュートが静かに怒りをあらわにした。は少しも反省の色を見せずにハンドバッグから赤ワインで汚された白いカットソーを取り出すと、プロシュートの前を横切ってバスルームのシンクへと向かう。

「だって、ターゲットと接触してすぐに“いかにも”な二人組と仲良くしてたら怪しまれるかもしれないじゃない。どこにマルセロの知り合いがいるかもわからないのに。私、あの人に言ったのよ。男連れじゃあないって。じゃなきゃ、彼をおびき寄せることだってできないでしょ」

 水を流し汚れた部分を再度洗いながら、は少しだけ大きな声で言った。プロシュートはひどく不機嫌そうな顔をしていたが、反論の余地は無いと押し黙る。ペッシはいたたまれなさげに二人のやり取りを傍観するしかなかった。

「それに、私はちゃんと仕事をしてきたわ。……あなたは私に仕事させるつもり無かったみたいだけど」

 は固く絞った服をパンと鳴らして皺を伸ばしながら部屋に戻る。クローゼットの中からハンガーを取り出してテラスに置いてあったタオルスタンドに干す。その一連の動作を、プロシュートと会話をしながらこなしていく。ペッシは肝の据わった態度でプロシュート相手に淡々と話を続けるを見て肝を冷やしていた。自分には到底真似できそうにない。

「――で?マルセロが明日、仕事前――十七時頃に、すぐそこの波止場にクルーザーで乗り付けてくる。その話を信じろってのか?」
「ほんと私って信用無いのね、プロシュート。あなたが私のハンドバッグの中に入れておいてくれた発信機を、マルセロのクラッチバッグの中に忍ばせておいた。だから、私が話したことが信用できないなら、明日メローネにでも聞いてみたら?」

 ターゲットがそのクラッチバッグを持ってこなかったら?発信機の回収は?バレたらどうする?――他にも色々と言いたいことはあった。だが、に発信機を持たせたとバレていたことが衝撃的過ぎて、プロシュートはポカンと口を開けたまま一言も発せなかった。

「ねえ。もういい加減、発信機なんか持たせるのやめてよ。それとも、まだ何か問題がある?私は今ちゃんとここにいるし、あなた達から離れようなんて少しも考えちゃいないわ。そのことは、今ちゃんと私がここにいるということで証明しているつもりよ」

 はやっとプロシュートに向き直って、またカツカツと床を鳴らして彼に歩み寄った。そしてプロシュートの胸に掌をそっと当ててゆっくりと顔を上げた。

「あなたは何を心配しているの?」

 艷やかな声。ペッシは元より、プロシュートでさえも、のなまめかしさにあてられて柄にもなくゴクリと唾を飲んだ。

「私は逃げたりなんかしない。あなた達のことが大好きだからね」

 そう言って、はにっこりと屈託のない笑顔を見せ、胸に当てていた手をそっとプロシュートの頬に伸ばした。指先が顎の先から耳の裏側まで滑り込み、てのひらは輪郭に沿ってぴたりとあてがわれる。そして熱のこもった瞳でじっと見つめられ、プロシュートは息をするのも忘れてに見入っていた。

 ペッシはそんなふたりの様子を、やはり映画のワンシーンでも見ているかのような気分で見つめていたのだった。



61:Creep



 竿に引きを感じて、ペッシは急いでリールを巻いた。だが、感じていた重さは途中でストンと抜ける。ああ、バラしちまった。そう呟いて、ペッシは気だるげにリールを巻き上げた。釣針にしかけていたエサは持っていかれている。

 ペッシは小さな木箱からゴカイ――普段は川や海の底砂に生息している環形動物。トゲトゲとしたミミズのような、気持ちの悪い虫だ――を一匹取り出して針にくくりつける前に、自分の掌に置いてしばらく見つめた。

 自分の元の居場所――柔らかな土か何か、そんなところだろう――を求めて、闇雲に体をくねらせ、掌の上から必死に這い出そうとしている。

 まるで今のオレみたいだ。

 この惨めなウジ虫め。気持ち悪いヤツ。お前はここで一体何をやってる?ここはお前の居場所じゃあないんだぜ。

 ああ、わかってる。分かってるんだそんなことは……最初から。オレはいつだって傍観者だ。オレは姉貴のことを救ってなんかやれないんだ。銀幕の前でただ喜怒哀楽を垂れ流すだけの、クソの役にもたたないウジ虫なんだ。

 ふたりは特別なんだ。オレなんかとは住む世界が違うのさ。ああ、オレも二人みたいになれたら。同じ舞台に立てたらいいのに。完璧な肉体が欲しい。完璧な魂がほしい。完璧なふたりに引けを取らないくらい、完璧な存在であれたらどんなに良かっただろう。

 いつの間にか日は傾き、海の沖の方に茜色がさしていた。日没。何故だかひどく感傷的な気分になってしまう、そんな頃だった。

 きっとこんな卑屈で惨めな気分なのはアウェーにいるからだ。そしてあの二人と一緒にいるから。早く仕事が終わればいい。

 まるで他人事のようにそう思っているうちに、一隻のクルーザーがペッシの横を通り過ぎて行った。運転席には、屈強な体つきをした黒髪の男がひとり立っている。――ターゲットだ。

 ペッシはマルセロが波止場に舟を係留し、陸に降り立つのを確認すると、携帯電話を取り出してプロシュートに宛てて、マルセロが――の言う通り――波止場にクルーザーでやってきた旨をショートメッセージで伝えた。

 すると、すぐにプロシュートから返信がくる。

『了解。お前はまたビーチ・ボーイでヤツを追尾しろ』

 さて。釣りはおしまいだ。レンタルしていた本物の釣り道具――ビーチ・ボーイで釣りをしたことがあったが、確実に魚が釣れてしまうので楽しくないのだ。彼は趣味の釣りをやるときは、必ず本物の竿と餌を使った――を一式片付け荷物をまとめると、ペッシはビーチ・ボーイを呼び出しながらマルセロに近づいた。

 ターゲットは港の入口に軒を連ねる店のうちの一つに入っていって、しばらくして出てくると、軒先に停めてあったバイク――ホンダのリトルカブだ――に跨った。ペッシはこれ幸いと、座席の後ろについた荷台の金網に針をくくりつけた。

 その後、ビーチ・ボーイを片手でしっかりと握りながら、釣具屋に借りたものを返しに行って、ホテルの前でふたりを待った。

 程なくしてふたりは下へ降りてくる。プロシュートはペッシと合流するなり、また何も言わずにビーチ・ボーイのベイトリールから伸びる糸の先を見やった。

 針と糸はターゲット以外の全てを透過する。自身と獲物とを最短距離で結び、獲物の位置、動き、質量等を正確に把握することができるのだ。

「どうだ。動きは止まったか?」
「ああ、兄貴。……ついさっき、バイクから降りたみたいだ」

 ペッシもまた、糸の先を見やった。

「なるほど。近くでってのはマジらしいな」

 海岸付近のリゾート施設が建ち並ぶエリアを見下ろすように、一軒の邸宅が建っている。差し詰め、もうひとりのターゲット――マルセロの雇い主。この島のナイトクラブの大半を所有する名家の次男坊――の別邸といったところか。

「さあ。さっさと仕事を済ませるぞ。……いい加減ナポリのピッツァが恋しくなってきた」

 プロシュートはふたりを信じ先陣を切った。もまた何か確固たる意志を湛えた瞳で前を見据え歩き出す。そんなふたりの後ろを、ペッシの歩みはどこか物憂げについて回ったのだった。