暗殺嬢は轢死したい。

 聞くに堪えない電子音楽。ダンスホールはビートに合わせて体を揺らす若者たちでひしめき合っている。その周りを囲む連中は隅によって秩序も何も無くただ快楽を追い求めているかと思えば、片やくんずほぐれつの乱闘騒ぎを起こしている。明滅の激しい照明。不味い酒と萎びたチップス――どうせ連中には味なんか分からないと、ここのオーナーが気にも留めていないであろう、鶏のエサと大差ない、およそ人間の糧とは似ても似つかないクズだ――に、汚れた、得体の知れないシミの付いた座り心地の悪いソファー。そして――

 ここの汚点を挙げだしたらキリがない。プロシュートにとっては、ここにあるすべてのものが醜悪だった。ただ、彼が心を許す仲間たち――ペッシと――だけが美しく、心のよりどころだ。まあ、そのふたりも今はいつもの元気がなくてシラけた顔をしているのだが、それでも、乱痴気騒ぎに見を投じて、薬物に侵された脳みそで自分たちは最高だとイキって無茶をやっている連中に比べれば、断然に高潔だった。

 内心辟易としながらも、ようやく彼は目当ての男をその視界に捕らえた。

 この低俗極まりないステージの創造主は、ホールに迫り出した二階の柵にもたれ掛かり、ロックグラス片手に階下を見下ろしていた。名はマルセロ・メネンデス。筋肉質で肉厚かつ大きな体に、黒シャツと紺色のベストが張り付いている。後頭部へ向けて撫でつけた短い黒髪をワックスで固定していて、こめかみから顎、そして反対側のこめかみにかけてを、綺麗に狩り揃えられた髭が覆っている。――このクラブのオーナー、兼用心棒。ターゲットだ。外見が、事前に把握しておいたそれと完全に一致した。

 この騒音の中だと会話は難しい。だからと言って無理に大声で話してしまう訳にもいかない。例え騒音の中だとしても、どこに敵側の耳があるか分からないからだ。これに備えプロシュートは、予めハンドサインを決めてふたりに伝えていた。ほとんど軍隊で使われているものを流用した形のそれで、プロシュートはターゲットを捕捉した旨をふたりに伝えようとした。

 ペッシはプロシュートのアイコンタクトに気付いて、すぐにそれとなく彼へ視線を向けた。だが、は心ここにあらずといった調子で、視線を上へ向けてぼうっとしていた。――否。ぼうっと呆けている訳では無いようだ。はしっかりとその目で、マルセロの姿を捉えていた。そしてプロシュートへ目配せすらせず、おもむろに立ち上がる。

 すぐ横を通って二階席へ伸びる階段へ向かおうとするの手首を、プロシュートが掴んで引き留める。そして、気持ち強めにの上半身を引き寄せて耳打ちをした。

「何やってる。戻れ」

 顎先でが元いた席を指し示す。その隣にいたペッシはぽかんと大口を開けてを見ていた。プロシュートの言うことも、ペッシがの行動に驚いて呆然としていることも歯牙にもかけず、は言った。

「あなたが彼の所へ行ってどうするの?こんなにうるさい場所じゃ、ちょっとやそっと近づいたって何も聞き取れやしないわ。それとも何か喋るまで、彼にぴったりとくっついているつもり?……私なら聞き出せる。彼のことも、彼の雇い主のこともね」

 プロシュートは困惑した。先程までとは、の様子がまるで違って見えたからだ。憂鬱そうで気怠げで、仕事に対するやる気などこれっぽっちも無い――もとより、彼女に仕事をさせる気は無かったので、従順でさえいてくれればやる気のある無しは特に問題とはならないのだが――ように見えたのに、話を終えて自分の目を見つめる今のの眼差しからは、自信とか気高さとかしたたかさといったものまで伺えた。

「これ、借りていくわね」

 プロシュートが呆気に取られている間に、はテーブルの上にあったロックグラスを手に取った。プロシュートが一口飲んで不味いと思って以降、手につけていなかった安酒が入ったグラスだ。そしては、手首を握るプロシュートの手の力が緩んだスキをついて彼の拘束から抜け出した。

「……おい待て!!」

 プロシュートは騒音の中、立ち上がりざまに声を荒げてを呼び止めようとした。だがは振り向きもしない。聞こえなかったからではない。ここが例え音一つ無い静寂の中であっても、彼女はプロシュートの制止の声には応じなかっただろう。彼にはそう思えた。

 従順さとはかけ離れた、今までに一度も見たことが無い様なだった。彼女の後ろ姿を尻目にプロシュートが元の位置へ戻ると、すかさずペッシが慌てた様子で訴えた。

「あ……兄貴!いいんですかい!?あのまま行かせて……!」

 プロシュートは唇の真ん中に人差し指を当てて、ペッシへ黙るように指示した後、彼のそばに身を寄せて告げた。

「ペッシ。ビーチ・ボーイを使え。に気付かれないように、針を体のどっかにひっかけておくんだ。そうすればがどこへ行こうと、お前にはそれが分かるはずだ」
「でっ……でも兄貴!早くしないと」
「だから、お前だけ早く行けってんだ。オレは後で追っていく。……あんまりぞろぞろターゲットに近づいても怪しまれかねねーからな」

 そら、と追い立てられたペッシは、スタンドを発動させながらの後を急いで追っていった。

 プロシュートは昼食を終えたあと、メローネの指示の下、発信機を買いに行っていた。家電屋の隅にこっそりと置いてあるような、恐らく浮気調査とかそんなことに使われる程度の安価で性能の低いものだが、無いよりはマシだろうという程度で購入したそれを、がベッドに突っ伏している間、気付かれないようにそっとハンドバッグの中へ忍ばせていた。追跡コードはイタリアにいるメローネに伝えているので、万が一にも彼女が自分たちから離れて行ってしまったとしても、どこにいるのかというざっくりとした情報を掴むことは可能だ。

 だが、胸騒ぎを覚えたプロシュートには、そんなおもちゃ程度の発信機――安物の小型化されていないそれは、少しバッグの中を漁ればすぐにバレてしまう大きさだ――をしかけたくらいでは安心できなかった。

 は、メローネが彼女にしかけていた発信機を全て取り外して空港にいた。逃げる意思がなければそんなことはしなかっただろう。発信機どころか、携帯電話すらどこにやったか知らない風だった“いつもの”だが、今、自分から離れて行ったのはその彼女ではなかった。あの、確固たる信念の元に行動しているような、異様なしたたかさを感じさせたならやりかねない。――逃げかねないんじゃあないか。

 そんな疑念が沸き起こったから、プロシュートはペッシを追い立てたのだ。

 を仲間として心から信用したいという願望はある。だが彼はそれよりも、がチームから離れることで彼女以外の仲間の命が危険にさらされることを危惧し、安全策を取ることを優先したのだった。



60:Out of Control



 の意識は、光の一切無い闇の中に浮遊していた。例の死んだ後に来る空間だ。五感の働かない、ただ、もうひとりの自分とテレパシーか何かで会話するだけの空間。だが、今回はいつもと様子が違った。――“彼女”の声以外の、音が聞こえるのだ。

 薄壁一枚隔てた向こう側の音を聞いているような感覚だった。くぐもってはいるが、話している内容は聞き取ることができる。向こう側で会話をしているのは男女で、しかもその女の声には聞き覚えがあった。いや、聞き覚えも何も、それは恐らく自分の声だ。自分が話している時に聞いている自分の声と、他者が聞いている自分の声は違うと言うが、そう大して変わりはしないだろう。恐らくだが、話しているのは自分だ。

 今壁の向こう側で話をしているのは自分であるはずなのに、私はそんなことを話そうなんて思っていない。考えもせずに喋っているとか、そういう次元の話ではない。まるで他人の話を聞いている気分だ。

 他人?いや……もう一人の、私?

 は現状を把握しようと耳を澄ませた。

『いやぁ、全く驚いた。このクラブで顔面に赤ワインぶっかけられた女なんか初めて見たぜ!』

 男の声。これは知らない声だ。赤ワインをぶっかけられた?私が意識を失っていた間に、一体何が起きたと言うのだろう。

『驚いたのは私の方よ。私の言い分を聞いてくれる?』
『それならさっき聞いたさ』
『いいえ。あのうるさい中じゃ、私が話していたことなんか聞こえやしないわ』
『あ!今うるさいって言ったな?』
『だって、普通に話をしていて相手の話が聞こえない環境はうるさいに違いないじゃない』
『オレがプロデュースしてるステージの悪口はよせよ』

 何だかひどく打ち解けた様子で談笑している。

『ねえそれより聞いてよ!あっちの方から先にぶつかってきたのよ?ちょっとどこ見て歩いてんのよって言ってやったら突然――』
『ああ、分かった分かった。ほら、タオルと着替えだ』
『ああ、マルセロ……だったわよね?』
『ああ』

 男の名はマルセロと言うらしい。確か今回、暗殺のターゲットになっている男だ。プロシュートは私に、仕事で何かさせるつもりは無いと言っていたのに、どうしてターゲットと接触しているのだろう。これは、もう一人の自分の――彼女の意思によるものなのだろうか。

『ここが貴方のクラブで本当に良かった!じゃなきゃあ私今頃、赤ワインでベトベトになったまま島の反対側のホテルまで帰るはめになるところだったわ』
『あんたが男なら、例えゲロまみれであっても部屋には入れなかったがな。……ほら、体が冷えちまうから、さっさとシャワー浴びてこいよ』
『ええ。ありがとう』

 今自分がいる場所は――いや、自分の体がある場所は――マルセロの部屋?話を聞く限り、誰かにワインをぶっかけられてそう時間は経っていそうにない。クラブの中に自分の居住空間を持っているのだろうか。

 ともかく、ハイヒールを履いた足はカツカツとコンクリート製の床を鳴らし、バスルームの扉を開けて中へ入ると扉を閉めた。――もちろん、見えている訳では無いので、そんな音がするという想像の域は出ない。

 恐らく今は個室にひとり。このタイミングで、は話をしてみることにした。恐らく自分の体を乗っ取って好きにしているであろう、もう一人の自分に話しかけてみることにしたのだ。

 もしもし。聞こえてる?私よ。……確か私、あなたの言う通りにしたはずよね。珍しく質問もしないで、あなたのルールに従ったわ。そうすれば、あなたが私を助けてくれるって……私がこれからどうすればいいかはっきりするって思ったの。

 あら、もう気付いたの?……早かったわね。

 心底煩わしそうな声だった。聞いた瞬間、は危機感を抱いた。

 自分ではない自分が何を考えているのか、何をしようとしているのか分からない。もうどうにでもなってしまえとやけっぱちになって、藁にもすがる思いで身体を“彼女”に明け渡してしまったようだが、それは果たして正解だったのだろうか。

 すぐにそんな疑問までが浮かんだ。そしてメガデス――もう一人の――は続ける。

 もう少しそこで大人しくしてなさい。私に全部任せるの。万事うまくいくわ。

 は釈然とせず、問いかけを続ける。

 ならせめて、何をするつもりでいるのか教えて。……プロシュートは、私に仕事をさせるつもりは無いと言ったわ。なのにどうしてあなたはターゲットに接触しているの?彼の言うことを聞かなかったの?

 ……はあ。

 深い溜息が聞こえた。そして、シャワーハンドルを回すような音と、シャワーヘッドから降り注ぐお湯だか水だかが身体や壁、床に打ち付ける音が響く。

 彼らの……チームの皆が言うことを聞いていたら、あなたは一生囚われの身よ。いい?。あなたは抜け出さなきゃいけないの。いい加減、パッショーネの連中に従順でいるのは止めなさい。従順なのは当たり障りのない良いこと、平穏のように見えて、案外恐ろしいものよ。自分を見失う。……今、あなたは完全に自分を見失っているわ。だから私が助けてあげると言っているのよ。あなたは私。私はあなたなのよ。あなたは常に、あなた自身に従順でいるべきだわ。

 質問の答えをはぐらかされている。メガデスは――あの悪魔は――何とか私を説き伏せ大人しくさせようと必死になっているようだ。

 何をするつもりか聞いていないと言ってはみたが、答えは返ってこない。それ以降、メガデスは――彼女は黙ったままだった。

 シャワーを浴び終えてバスルームへ戻ったようだ。すると、マルセロがすかさず声をかけてくる。

『どうだ?風呂上がりに一杯』
『まあ……それ赤ワインじゃない。嫌がらせ?』 
『ははっ!案外根に持つタイプなんだな』
『顔面に液体を浴びせられるなんて屈辱、そうそう無いわ。根に持って当然よ』
『じゃあ、こっちのスパークリングはどうだ?』
『ありがとう。いただくわ』

 ふたりは酒を飲みながら話を始めた。ほとんど何処から来たのかとか、いつまでイビサにいるのかとか、マルセロから彼女に向けての質問攻めだ。彼女はその問いかけにほとんど正直に答えて――もちろん、あなたを殺しに来た二人組の付き添いです、なんてあけすけに話すことはしなかったが――いた。
 
『あんた、一人でここまで来たのか?例えばその……ボーイフレンドなんかと旅行中とかじゃ』
『そんなのいないわ。……ああ、正直に打ち明けるとね、ふられてすぐなの。その傷心旅行で、たった一人でイビサに来たのよ』

 ふむ。それもほとんど真実だ。でも、何も出会ってすぐの男にそんな話をしなくても。まるで男をあさりにイビサへ来たみたいだと言われても文句は言えない。そう思わせることこそが彼女の目論見なのかもしれないが。

 一体何のつもりだろう。チームのためにマルセロの雇い主のことを聞き出そうとしている?けれど、さっき話していたことがどうも引っかかる。

『さっき、日曜まではイビサにいるって……言ったよな?』
『ええ。そのつもり』
『なら、明日の夜にでもまた……会えないか』

 ほらね、やっぱり。なんて男を誑し込むのが上手いんだろう。……まあ、今までメローネに散々おいろけ要員として扱われてきた私が言うことでも無いだろうけど。

『ええ、いいわ。今のところ何も予定は無いから』
『明日は夜の九時頃まで仕事があるんだ。その後になるが、ナイトクルーズでも一緒にどうだ?』
『クルーザー持ってるの?とってもステキ!是非ご一緒したいわ』

 クルーザー。何か、その流れには覚えがある。先月、ギアッチョとシチリアに仕事へ行った。あの時、クルーザーを運転していたのは私だ。だが今回は違う。もしも彼女がマルセロのクルーザーを奪う――クラブ経営の裏で売人に麻薬をさばかせ、その利益の何割かを吸い上げているようなターゲットの用心棒なのだ。トラブルが起きたときに邪魔者を排除して海に沈めるのには、船くらいあった方が便利だろうと予想はつく。彼女は、マルセロがクルーザーなり船なりを持っていると見越していたのかもしれない――つもりなら?そして、私の体を奪ったまま、スペイン本土へ渡って身をくらませるつもりなら?

 は焦燥感に駆られ始めていた。そしてわずかに後悔の念も沸き起こりかけている。

『私は明日、あなたに会うためにどこへ行けばいい?』
『あんたが泊まってるホテルのすぐそばで仕事があるんだ。だから近くの波止場にでも船を留めておくかな……』

 マルセロはそこで話をやめてソファーから立ち上がると、カツカツと革靴を鳴らして何処かへ行った。そしてすぐ元の場所へ戻ってくると、ばさっと折りたたまれた紙か何かを開くような音を立てた。

『あら。お仕事って、このクラブの仕事じゃあないの?』
『ああ、ここは……管理を任されてるだけさ。本業は用心棒なんだ。……ほら、ここがあんたが今泊まってるホテルだ。そして――』

 マルセロが開いたのはドライビングマップか、観光案内用の地図か何からしい。

『――ここが、一番近い波止場。ホテルの目と鼻の先だろ?ここに夜の十時に来てくれ』
『仕事の場所へはどうやって行くの?船で来たら、陸の移動が不便じゃない?』
『オレは知り合いが多くてな。ここのレストランやってるおっさんがスクーター持ってるから借りるさ。最悪、歩いて行こうと思えば行けない距離でもねーしな』
『そう。なら良かった。……ありがとう。もう明日が待ち遠しいわ』
『今夜は……ホテルに戻るのか?』
『ええ。ほら、傷心旅行だから。ちょっとフンパツしていい部屋を取っちゃったのよね。使わないともったいないもの。それに、明日のデートに備えてゆっくりお風呂に入って、マッサージでも頼もうかしら、なんてことを考えてたりするわ』
『ははっ……なるほどね。りょーかい』

 リップ音が聞こえた。頬かどこかにキスでもされたのだろうか。

。……明日会えるのを楽しみにしてる』
『ええ。よろしくね、マルセロ』
『送って行かなくて大丈夫か?』
『大丈夫よ。タクシー呼ぶから。心配してくれてありがとう』

 カツカツとヒールを鳴らす音。そして分厚い防音扉を開けたのか、また騒音が体を包み込んだ。――第三者と会話が出来ないと言う点に鑑みれば、静寂も騒音も同じだ。はまた、考えることしかできない闇の中でひとり苦悩した。



 私はどこに行くべきなんだろう。これから何をするべきなんだろう。

 もう一人の私は……彼女は何か、確固たる信念の元――その信念の正体が分からないのだけれど――に動いているのだけど、それが正しいことかどうかも分からない。

 彼女の言うことを信じていいのだろうか。それとも、私は私なりにきちんと考えて、答えを導き出すべきなのだろうか。

 分からない。自分がどうなりたいのかすら。

 死にたいの?生きたいの?

 いつもはそう彼女が問いかけてくる。今日は自分で、自分に問いかけてみた。

 ――分からない。

 思考ばかりが空回って、体はスピンした車のように勝手に動いている。自分を自分で制御できない。



 彼女に従うべきか否か。従えばどうなるのか。従わなかったらどうなるのか。

 遠くない未来を想像して、どちらがいいか選ばなければならない。がその答えを導き出すには時間が必要だった。導きだした答えに従って、自分自身を制御ができるかどうかも分からない謎の中、彼女はしばらく苦悩し続けたのだった。