暗殺嬢は轢死したい。

 憧れていた――恐らく、密かに、そして僅かながらにペッシが思いを寄せていた――の唇が、自分の唇に重なろうとしていたその時。客室の扉がガチャリと音を立てた。

 ロマンチックなムードに浸っていたペッシの頭は、その音を聞いた瞬間、まるでスイッチでも入れられたかのように瞬時に切り替わった。憧れの兄貴分、プロシュートに従える舎弟のモード――マンモーニのペッシ――に切り替わったのだ。

 親の目にさらさないようにとポルノ雑誌――の半裸をポルノ雑誌なんかに例えるのはペッシの本意ではないが――をベッドの下へ隠すかのごとく――この行為はまさに、マンモーニそのものといったところか――、彼は自分の胴体に跨った彼女の体をどかすことに成功した。

 ついさっきは両腕を塞がれて、尚且のエロティックな姿を見ていたからと、体に力が入らなくなって微動だにできなかったというのに、あられもない姿のに馬乗りになられている自分なんか兄貴には見られたくないという羞恥心にかかれば、全神経が――それこそ末端神経の隅々まで――瞬時に活性化して、自分でも驚くほどの瞬発力と怪力を発揮できてしまった。

 ペッシの火事場のバカ力によって、酔いどれのはバランスを崩し、そう広くないベッドの上に転げ落ち、勢いでベッドの向こう側に転落した。きゃっ、なんて悲鳴が聞こえたが、自由になったペッシはのことなどお構いなしに跳ね起きて、に剥がされかけた上着を整えると、まるで主人が帰ってきたと喜ぶ――あるいは、主人の不在中にいたずらをしてしまって何とかシラを切らんとする――犬のように戸口へ駆け寄った。

 対するプロシュートは、どこか慌てた様子で自分の元へ駆け寄ってきたペッシを訝しげにねめつけた。

「お、お帰りなさい兄貴!」

 何か悟られたのではないかとヒヤヒヤしながら口内の少ない唾液を飲み込んで、ペッシはプロシュートに笑って見せた。引きつったようなその笑みがまた、プロシュートの猜疑心を煽った。

「おいペッシ」
「へ、へい!何でしょう兄貴!」
はどうした。オレはお前に、あいつから離れるなと言ったと思ったがなァ?」

 今のところ、プロシュートの視界にの姿は見受けられない。が脱いだ服も上手いこと向こう側に落ちていたので、窓に近い方のベッドのシーツがいささか乱れているということしか彼には確認できないのだ。はベッドの向こう側の床上にうずくまっていたが、プロシュートはまだそのことに気付いていなかった。

「い、いるんですぜ!姉貴はこの部屋に、ちゃんといるんだ!」

 部屋に、とボカされた答えを聞いた瞬間、プロシュートは極限まで眉根を寄せた。

「部屋のどこにいるってんだ?ああ?まどろっこしいこと言ってんじゃあねぇぞ。お前がオレの目の前にいるってのに、オレの目の前にがいないってのが問題なんだよッ」

 プロシュートはいつものようにペッシを蹴り倒し、情けない悲鳴を上げた彼の胴体を跨いで胸ぐらを掴み上げた。そして利き手を握りこぶしにして振りかざし、ペッシの頬めがけて振り下ろそうとした瞬間、はっきりとしたうめき声が前方から聞こえてピタリと手を止めた。

 見やると、ベッドの向こう側から床を這うように手が伸びて出てきた。まるでホラー映画のワンシーンだ。だが、あれは幽霊でも何でもない。だ。と、プロシュートは瞬時に思った。そもそも、ペッシの言うことが嘘で本当は部屋にがいないと想像がついたなら、今頃プロシュートはペッシと戯れてなどいないのだ。

「おい、。お前そんな所で一体何を――」

 プロシュートは目を丸くして言葉を詰まらせた。伸ばした手の平を支えにしてむくりと起き上がったは、見える限りではあるが、薄いラベンダー色のブラジャーしか纏っていなかったのだ。

「ペッシ……。オレはから離れるなとは言ったがよォ。……そこまで密着していろとは言ってねー!!」
「ご、誤解だよ兄貴!オレは何もやってな――」

 行き場を無くしたかに思われたプロシュートの拳は、結局予定通りペッシの頬を殴りつけに行った。を抱き同じベッドで一夜を共にした――純粋に、泣き通しの彼女を抱きしめて就寝した。これは驚くことに真実だ――ことがあるという自身の経験を棚に上げて、ほとんど憂さ晴らしで振り下ろした拳だった。

「いてぇ!!」
「ああ……乱暴はやめて、プロシュート。……私が、悪いんだか……ッ、うっ」

 プロシュートは殴られた頬を痛そうに押さえたペッシを捨て置いて、青ざめた、ひどく気分の悪そうな顔を見せたの元へ駆け寄った。

 ああ。上半身だけでなく、下半身も下着だけになっている。オレがふたりと離れていたここニ、三時間の間に、一体何が起こったっていうんだ。

 プロシュートは下世話とは知りつつも、ついさっきまでここで何が起きていたのかと考えながら、床に腕をついて口元を押さえるの背中をさすって言った。

「どうした」
「――っ、きもち、わるッ……」

 の答えを聞いた瞬間、プロシュートは何の迷いもなく彼女を抱きかかえてバスルームへと向かった。移動の最中、吐くか?とプロシュートが問うと、は口を抑えながら頷いた。プロシュートはを便器へ凭れさせると、バスルームに入ってすぐ左手の壁にあったステンレス製のシェルフから、綺麗に畳まれた大判のバスタオルを取って広げ、はだけたの背にそれを掛けてやった。酒を飲みすぎて気分が悪くなると寒気がしてくることがあるし、女性を男の目がある中で下着姿のままにしておく訳にはいかないという紳士的配慮による行動だ。

「おいペッシ!そっちでいつまでもボケっとしてねーで、水くらい持ってこねーか!」

 水なら用意していたさ!それに……姉貴が気分悪そうにし始めたのはついさっき、兄貴が帰ってきてからなんだ!

 ペッシは心の中でプロシュートに反駁するも終ぞ口にはしないまま、ベッドの上にほったらかしになっていた開栓済みのミネラルウォーターのボトルを手に取りバスルームへ向かった。



 昼に食べたガスパチョやパエリアやらを、飲み下した酒と一緒にほとんどそのまま吐き出してスッキリした。――体の方は。だが、精神的にはズタボロもいいところだ。

 正気を取り戻したは、あまりの恥ずかしさにベッドに突っ伏してふさぎ込んでいた。

 男の前で裸になることにすら羞恥心を抱かないだが、だからと言って彼女に羞恥心が全く無いという訳では無い。やぶれかぶれになって、大して酒に強い訳でもないのに、決して度数が低くない酒を小さなグラスとは言え二十杯近く呷り、酩酊の末に――

 まだ十代の、かわいいペッシに跨って……抱いてくれですって?ああ、もう勘弁して。……頭がどうかしてるわ。どうかしてる。

 ――しかも、下着姿なのはともかくとして、便器に顔を突っ込んで胃の内容物を吐き出すところまでふたりにしっかりと見られてしまった。見られただけならまだどれだけ良かったことか。放っておいてくれればいいのに、ふたりともしっかりとそう広くもないバスルームの中でずっとに付き添っていた。無論、彼らには犬並みではないにしても嗅覚があるのだ。

「で?どうしてはああなったんだ」

 バスローブを纏って窓側のベッドの上でうつ伏せになっているを見ながら、プロシュートはペッシに投げかけた。少し聞くのが躊躇われたが、最初に少しだけ想像したようなこと――例えば、ペッシが童貞を喪失したとか――は起こっていないという確信があった。何と言っても、ペッシはやはりマンモーニなのだ。プロシュートには、そんな彼の根性を叩き直すのが己の役目であるという自覚があるが、今回に限ってはペッシが成長していなくて良かったと思った。もしも彼が、に尻を叩かれながら大人の階段を無理にのぼってしまっていたら、それはきっと双方にとっていい思い出にはなり得ないからだ。そのことは、ほぼシラフに戻ったであろうの姿を見ていると分かる。彼女は完全に後悔している。でなければ、今彼女はベッドに突っ伏してなんかいないはずだ。

の姉貴……、ひどく落ち込んでたんだ」

 落ち込んだ女性をどうやって励ませばいいか分からない。憂さ晴らしに飲んでいるのであろう酒を取り上げる訳にもいかず、限界と思われるところまで飲ませてしまった。部屋に入ったのはプロシュートがこの部屋へたどり着くほんの十分ほど前で――。

 そこでペッシは口を噤んだ。部屋に着いた後のことは察してくれといった風だった。

「それで、服を脱いだ酔っぱらいのに馬乗りになられてたって訳か」

 プロシュートがみなまで言った瞬間、は顔を伏せたまま頭上に両手を伸ばし枕を掴むと、それを後頭部に被せて耳を塞いだ。プロシュートはのそんな仕草を見てにやりと笑った。

「……まあいい。仕事の時間までまだ余裕はある。も吐いて少しはマシになったみてぇだしな。ペッシ。午後七時過ぎにここを出る。それまで好きにしてろ」
「好きにって……?」
「七時までにこの部屋にいればいい。のことはオレに任せろ」

 ペッシはこくりと頷くと、腰掛けていたスツールから立ち上がり、へ心配そうな眼差しをちらと向けた後に客室から出て行った。すんなりと部屋から出て行くあたりから察するに、彼はしばらくひとりになって、心の整理をしたかったのだろう。

 手が届きそうで届かない。例え届いたとしても、すぐにするりと手の中から抜け落ちてしまう。それがなのだ。そのことを、ペッシもようやく理解したのだろう。そして自身の彼女に対する思いと、彼女自身の思いとのギャップに気付く。ギャップを埋めて何とか歩み寄りたい。だが、上手くいかない。そんな心を落ち着かせるために、ひとり思い悩むのだ。

 この一連のプロセスはチームの男たちほぼ全員が踏んでいた。誰もかれもが、形はどうあれを思っているのだ。全てを笑って受け止めてくれる彼女がまるで救いの女神のように見えて仕方が無い。だから皆が、彼女を慕って止まないのだ。

 だが、その女神にも限界はあるようだ。これほどまでに落ち込んで自棄になっているを、プロシュートは未だかつて見たことが無い。

 だがそもそも、麻薬中毒者が麻薬を求めるように死を追い求め死にたがっていた彼女は、実のところ最初から自棄を起こしていたのではないか。自殺を繰り返すなど、――完遂して生き返るそれは、本来であれば人間には成し得ないが――自傷行為に他ならない。自傷行為は、自身の生を実感するために行うというのが通説だ。生を実感するために死を求める。それを自ら禁じたが、酒に溺れ、それではまだ足りぬと性的な快楽を求めたのだとしたら?

 プロシュートはに優しい目を向けて微笑んでいた。

 女神様が、ひどく人間臭くなったもんだ。

 チームの誰もが、が死ぬところなどもう二度と見たくないと、初めて彼女が轢死した現場を目の当たりにして思ったのだ。こんなに美しく、優しく、自分たちに決して虫けらを見るような目を向けず、すべてを受け入れてくれるような人が無惨に死ぬところなど、もう二度と、絶対に見たくないと。

 プロシュートも言わずもがなそう思っていた。彼はが、あの悍ましい死に羨望の眼差しを向けて夢想する姿も、夢想に留まらず「死にたい」と口に出すのも、実際に死んでしまうのも、すべて我慢ならなかったのだ。だからこの度確認できた彼女の変化は、彼にとってはとても良いものだった。

 だがそれも、度を越すと身を滅ぼすことになる。ましてやドラッグなんてもってのほかだ。プロシュートはそのことも十分過ぎるほどに分かっていた。



59:Sober



 クラブハウスの奥側中央に大きなステージがあった。ステージに上がり、会話すら困難なほどの大音量のクラブ・ミュージックに合わせて踊るダンサーたちは女性だけでなく男性も皆が全裸で、申し訳程度に曲部を隠すようにボディペイントを施しているだけだった。

 ステージの中央、ダンサーたちが列を成す奥の方ではディスクジョッキーが曲のリズムに合わせて頭を縦に振りながら、たまにターンテーブルの前から離れて、黒いアンプの上に引いた“ホワイト・ライン”を吸引しに向かっていた。

 ステージを前にした客たちも予めキメているのか、ハイになって酒を飲みながら踊り狂っている。隅では性別など関係なく人間たちが体を重ね交わりあい、仮初めの愛をもって快楽を得ていた。

 ――とてもじゃあねーが、こんなところにはいられねー。仕事はさっさと終わらせてしまおう。

 プロシュートはそんな思いは顔に出さず、ステージを取り囲むようにして設置されたボックス席の真ん中で、それとなくあたりを見回していた。

 はプロシュートの向かいに座り、特にこれといった目標物も定めずにステージの方を見ていた。ホテルから出るぞと言われ、はい、と答えたきり喋らないでいる彼女は、今も尚自責の念に苛まれている。そんな彼女が、ペッシやプロシュートの方を見ていられる訳もなかった。だからステージの真向かいに備え付けられたボックス席から、テーブルに肘をついて仲間たちから顔を背けているという訳だ。

 ナイトクラブに来たのは、覚えている限りでは初めてだった。クラブミュージックというやつは好き好んで聴くタイプの曲ではないし、この大音量にも、ウーファーが吐き出す大地を揺るがすかのような重低音にも耳は慣れていない。普段であればあまりの居心地の悪さに浮足立っただろうが、今は逆に、この心を掻き乱すかのような騒音が心地良かった。

 そして何度も繰り返される閃光。暗い室内を光速で駆け巡るそれが、脳に直接働きかけてくるようだった。まるでフラッシュバックだ。理性で抑え込み、忘れ去ろうとした欲求を思い出させる。

 呑み込まれていく。そんな感覚があった。

 良いも悪いもない。今は全てを忘れてしまいたい。羞恥心も、自己嫌悪も、ズキズキと虫歯のようにうずく胸の痛みも、何もかも……。

 今、ここで生きていたくない。何も感じていたくない。そう願うは、また心を閉ざし始めていた。代わりに、またあの悪魔が脳裏を過りはじめた。閃光の明滅に合わせて。



 。見てみなさいよ、あの、奥の方にいる女。あの子たぶん、クスリやってるわよ。……自分を見失ってバカ笑いしてる。彼女の周りも何人かは同じね。だけど、遠目で引いて見てる人たちは、冷めた目で見てる。――あんたって、ああなりたいの?

 いいえ。私はあんな風になりたいわけじゃない。

 じゃあ、あっちを見て、。あの子。あの子もたぶんキメてるんだけど――

 ああもう、よしてよ。見たくないわ。

 ――彼女はきっと、独りでいたくないって家を飛び出してきたのね。それで我を忘れて、求められるままに与えてるんだわ。まるで今のあんたみたいね。

 今の、私……?

 見たくないって言ったわね。それって、自分を見てるようで見てられないんだわ。独りでいたくないって、今のあんたはそれだけでしょ?寝た男の数覚えてる?小さなコミュニティで、しかも短期間の内にもう二人……ああ、私の方で半人分。そしてついさっき三・五人目に突入しようとしてた。全員と寝るのも時間の問題よね。

 やめて、やめてよ。あなたのせいじゃない。あなたがいなければそうはなってなかったわ。あなたが、私の中にいるって気付いてからなのよ。その前まで私は優等生だった。……自分だけで処理できてたのよ。死んで、気持ち良くなれて、誰も私には触れられなかった。怖いものなんて何も無かったわ。……でも、覚めてみれば空っぽで、虚しくなるばっかりで……。それでも、今よりうんとマシだったわ。それって、あなたのおかげだったのよね。

 ……ごめんなさい、。あなたを咎めるような言い方だったわね。例え何人の男と寝たって、自殺するよりましよ。最初にあなたは答えたはずよ。バカになりたい訳じゃないって。あれは、あなたが私の存在に気付く前の姿なのよ。

 もう、勘弁して……。生きていたくないわ。どうしようもなく、辛いの。今私は、世界で一番家に帰りたくないって思ってるはず。……私に居場所なんて無いんだわ。

 ああ、。可愛そうな子。それじゃあ、私が助けてあげる。私でいれば、あなたはきっと、もう苦しまずに済む。

 それ、本当?どうすればいい?

 大丈夫。今のままでいてくれればいいのよ。そうやって、自分の殻に閉じ籠もるように。でも、何も考えないで、じっとしていて。――私があなたを守ってあげる。



 ペッシはちらと横目での姿を伺った。まるで魂でも抜けたかのような彼女の姿を見て、何とも言えない雑駁とした不安に駆られる。その不安を払拭しようと、彼はしきりに手元のドリンクへ手を伸ばしていた。