はメローネにすがりひとしきり泣いて少し落ち着くと、どけとも帰ろうとも言わずじっとしている彼の膝に頭を預け、目の前の夜景を見る間に逃亡を企てた。とはいえ、リゾットに迷惑をかけたくないという思いが根底にあるので、イタリアにいるのにアジトに帰らない、という程度の逃亡だ。
最初はそのつもりだった。だが、今日この日帰らずに過ごせても、明後日はどうなる?明々後日は?弥明後日は?考えれば考えるほど帰りたくない。イルーゾォの顔を見たら、悲しくなってきっとまた涙が溢れてくるし、それがこれから先ずっと続く?耐えられるのか?そう考えると、彼女は国外逃亡をしたいとまで思い至った。
はメローネに自室の鍵を渡し、パスポートを持ってくるように言った。財布やクレジットカードなんかは落とさずハンドバッグに入れている。着る物は現地調達すればいい。
言われた通り、メローネはアジトへ戻りの部屋からパスポートを持ち出すと――の代わりに夕食を作っているホルマジオと、何事も無かったかのように夕食を取っているイルーゾォを尻目にリビングを素通りし――バイクで彼女が待つ公園まで戻った。
メローネとのふたりは、およそ二時間のツーリングを経て、アルバノ湖に臨むリゾートホテルの一室にいた。ローマよりニ十キロメートルほど南にある湖で、近くに空港もある。
逃避行の幕開けにはいささか豪勢すぎるホテルだとは思ったが、今はだいぶ気が大きくなっている――と言うよりも、自棄になっている――ので、それ以降は気にしなかった。テラスからはアルバノ湖が一望できる。とはいえ今はすっかり夜もふけてしまって真っ暗だった。その眺望には明日の朝に期待したいところだ。
は客室に着いて奥へと進むなりベッドへ寝転がった。窓の外の闇を見つめながらまたとりとめもなく色々と考える。
ああ、泣きすぎたせいか頭が痛い。かなり疲れている。今日はもうこのまま寝てしまいたい。けど、化粧落としもなにも持ってこなかった。どうしよう。でもきっと、アメニティで何とかなるだろう。……それにしてもメローネが今日はやけにおとなしい。いつもの調子ならとっくの昔に、無防備にもベッドへ寝転がった私に覆い被さっているだろうに、彼は今背後で荷解きか何かを静かにやっている。
がメローネの様子が変だと思った矢先のことだった。彼のズボンのポケットに入っている携帯電話が音を立て、彼はすぐさま応答する。きっとリゾットだろう。そう予想のつく話の内容だった。電話が終わるとはメローネにたずねた。
「リゾット?」
「ああ。……聞いていただろうが、今日は帰らないと伝えておいた」
「彼、何て?」
「君のことをきちんと連れ帰ればいいと言われた」
「……そう。ありがとう。でもね、メローネ。やっぱり、帰りたくないのよ。私」
「そうは言っても、いずれ金は尽きるだろう。いつまでもこうやってホテル暮らしを続けられるわけじゃあない」
そう言うと、メローネはおもむろに窓辺へ歩み寄ってカーテンを閉じ、が身を横たえるベッドの傍にあったシングルソファに腰掛け、彼女をじっと見つめた。窓の外という視界を奪われたはメローネを見るしかなくなった。バツが悪そうな顔で彼と目を合わせる。
「どうして帰りたくないのかって、あなたに言わなきゃダメ?」
「言わなくてもいいさ。言わないまま、アジトに戻りたくないって言う君とこうやってずっと一緒にいられるなら、オレはそっちの方がいい。だが、その間君がずっと浮かない顔して辛そうにしてるのは見たくない。……だから、オレに原因を教えてくれ。そして、解決策を一緒に考えよう」
とても建設的な話だ。だが、それについてはすでに嫌というほど考えているし、その結果解決方法など無いと思い至って絶望して、は今国外逃亡を企てているのだ。
「君はどうして泣いているんだ」
「……メローネ。私、孤独でいるのが怖いの」
「孤独?君がかい?」
「ええ。あなたがいつも私を見守ってくれていることは知っているわ。アジトを出れば皆、最低でも誰かひとりは私と一緒にいてくれる。でもそれって、仕事だから仕方なく一緒にいるのであって、あなた達みたいに信頼しあって、仲間として一緒にいる訳ではないでしょう」
メローネを煩わせたくないと思っていたはずなのに、言葉が勝手に溢れてくる。はまた目頭を熱くして、泣くまいと必死になりながら声を震わせていた。
「……。オレは、他の奴らとは違う。オレは君を仲間として、それ以上に、女性として尊敬しているし信頼している。君ほど強く美しく優しい女性を、オレは他に知らない」
「そう言っておけば、私は気を良くして黙ってお利口さんでいるものね」
何て嫌な言い方だろう。は言ったあとに後悔した。恐らくメローネの言葉に嘘は無いだろうという事はなんとなくわかっているのだが、それでも今は誰の言葉も心から信頼するなと脳が言っている。そして続ける。
私はあなたの脳みそ。イルーゾォが言っていたことは、事実無根の嘘っぱちなんかではありません。
は気付き始めていた。パッショーネのボスに父を殺されたという事実。そして、自分の内側に潜む悪魔。これらのことが指し示すのは、自分に紛れもない復讐心があるということ。それがありながら、大人しくパッショーネの構成員となり仕事をこなし、同時に管理されているという現状。自分が意図的に封じたのか、他の誰かに管理されているのか知らないが、表に出てきていないだけ――それこそ、自分ですら認知できない深層心理で縛られているだけ――で、自分は復讐鬼なのかもしれない。
それで何度も何度も、死んでも復讐を果たすまでは絶対に死んでやるものかと自分は生き返ることができるのだ。それが自分の精神だ。その精神を抑え込もうと、暗殺者チームの全員は必死になっている。だから彼らは皆自分に優しくするし、甘言でなだめすかしてくるのだ。
そんな疑惑から生まれた言葉など、メローネにとっては決めつけに違いないかもしれない。は胸を痛めた。しかし、鬱積した思いを発散せずにはいられなかった。案の定――彼女にしては激しい――感情をぶつけられた方は苦虫を噛み潰したような顔を見せる。
「……!よしてくれ。何度だって言うが、他の奴らがそう思っていたとしても、オレは、オレだけは違う!誓って言う。オレは君を愛してるんだ、」
「……どうして?どうしてそんなことが言えるの?私は、あなたに何をしたの?」
今は何を聞いても、と脳みそがブレーキをかけていても、孤独を恐れる心は信じられる確かな何かを得たいとアクセルを踏みつける。愛しているという、一番欲しかった言葉をくれたメローネの真意を知りたい。心は、彼の言う愛が嘘でないという確証を欲しがった。
メローネは顔を伏せ、ゆっくりと話し始めた。
「君は……オレを肯定してくれるだろう。こんなオレを、拒絶しないでいてくれる。こんなオレに笑顔を向けてくれる」
震える声で、ゆっくりと彼は続けた。
「……死なないで、いてくれる」
話し終わって彼は一度ズッと鼻をすする。そして左の頬を涙が滑り落ちる。――涙?
「メローネ……?」
メローネは泣いていた。
彼の泣き顔――いや、男性のだ。男性の泣き顔なんて初めて見る。は戸惑った。いつもの彼じゃない。私はこんなメローネを知らない。
は気付いた時には、ベッドから身を起こしてメローネを抱きしめていた。
「メローネ……。泣かないで。私もよ。私も、あなたが泣いているのを見ると、苦しいわ。お願い。泣かないで……?」
泣かせているのは他でもない自分なのだろうと、は自責の念に駆られた。
「ごめん。ごめんなさい、メローネ。あなたは、どうすれば泣き止んでくれる?どうすれば、あなたはいつものあなたでいてくれるの?」
メローネは突然立ち上がると、沸き起こる激情に任せてをベッドの上へ押し倒し、仰向けになった彼女に覆いかぶさった。
「オレを……受け入れてくれ。オレを愛してくれ。オレが、君を愛するのと同じくらい……愛してほしいんだ」
メローネが目からこぼした涙が、今度はの頬を濡らした。
私達は似た者同士。彼と初めて仕事をしたとき、そんな話をしたのを覚えている。おかしな自分を誰かに受け入れてほしくて必死だった。ふたりとも必死に愛を求めていた。でも、あのときとは私が求めているものは違う。そう。変わったのは、私もだ。私が変わったから、メローネも変わったの?なら、彼を元に戻すなら、私も元に戻らないといけない?
――元には、きっともう戻れない。私はもう、彼が愛していた私じゃない。だから、簡単に彼を受け入れるなんて言えない。
「待って、メローネ。私は、あなたに愛してもらえるような女じゃないわ。私は、あなたが言うような、女神みたいな女じゃあないのよ。私は……私の中には……恐ろしい悪魔が――」
「知ってるさ」
「……え?」
「そんなの、とっくの昔から知ってる。ニューヨークで見てるんだ」
イルーゾォだけでなく、メローネもあれを見ていた。まあ、それは当然かもしれない。ニューヨークにはその三人で行ったのだから。だが、メガデスと対面して時間が経って冷静になって、そして“疑念”を抱いて初めて思った。
では何故、私にそれを教えなかったのだろう。まるで示し合わせたみたいに、二人でメガデスのことを黙っていたのだ。
確かに知らないなら知らないままで幸せだった。バリ島でメガデスに会わなければ、そもそも今こんなところで逃亡しようなんて思っていなかったかもしれないし、もっと言えば、イルーゾォに恋なんかしなかったかもしれない。――今、こんなに辛い思いをしないで済んでいたかもしれない。
だから、わざわざ伝えられなくて良かったとも言えるが、今となっては“黙っていた”ことは疑念をさらに深める要因でしかなかった。それに、イルーゾォに拒絶された今、メローネもまたそう思っているのではないかという、新たな疑念も生まれる。
もう傷つきたくない。はまた、心を閉ざし始めた。
「なら、あなたは――」
逃げ出しましょう。
「――私のことが怖くないということ?」
しがらみを解いて。留まっていてはだめ。
「怖くなんかあるもんか」
ごまかされないで。私を信じて。私だけを。
「私がどんなになっても、変わらず愛せる?」
無駄よ。今のままじゃ、誰にも愛されない。
「当たり前だ。オレは、君のためなら死んだっていい」
この男は、愛の意味を履き違えてる。
「メローネ。私は、あなたの為には死ねないわ」
残された者の辛さを考えてみたことがある?
「私は……あなたのために生きる」
そう。そうよ。それでいい。
「生きて、大切にするの。本当に死ななきゃならない時まで。生き抜くのよ。本当に大切だと思ってくれているのなら――」
ところで、あなたはどうなの?
「――簡単に死ぬなんて言わないで。愛していると言うのなら、最後まで責任を持って」
責任ある愛を、あなたは誰に注ぐ?誰のためなら、生きていられるの?
まるで映画のカットインのように、例の悪魔が脳裏をちらついた。自分が自分ではないようで、いったいどこから言葉が出てきているかもわからなかった。サブリミナル・メッセージをそのまま口にしている。生きる?自分は今、そう言ったのか?
そしていつの間にか、ふたりの位置は逆転していた。ベッドに押し倒されたメローネは当惑した顔でを見つめる。
――……?君は一体、誰だ……?
56:Cute Without The 'E' (Cut From The Team)
「はどうした」
午後八時半。日課のトレーニングを済ませシャワーを浴びた後、リゾットはリビングへ入るなり部屋の中を一通り見渡し開口一番にそう言った。彼もまたしっかり、今日の料理当番はであるとの認識を持っていたのだ。だがはいない。それなのに料理がソファーに囲まれたローテーブルの上に置いてある。そしてメローネと以外の皆がその料理を囲んでいた。
「さあな。買い物袋だけ置いて出てったっきりだ」
一足先に食事を終えて酒を呷っていたイルーゾォがリーダーの質問に答えた。正確に言うと、買い物袋だけ落として、だ。だが、そうとは言わなかった。別に見たわけじゃなしに、オレが確証も無いことをベラベラ喋る必要はない。――正確に言うと、喋る必要が無いと言うより、彼女が自分の発言にショックを受けて出ていったかもしれないという可能性を否定したくて喋る気がしなかっただけだ。
自分がやらかしたことをきちんと説明しようとしないイルーゾォを、ホルマジオが対面からねめつける。
「……そんなこと、今まであったか?」
リゾットは怪訝そうな表情で首を傾げながら定位置についた。
「あ~ああ。イビサに行く前に、姉貴が作る料理食べておきたかったなぁ」
「何だ?死ぬ予定でもあんのかペッシ」
「よ、よしてくれよイルーゾォ!縁起でもねぇ!」
「なら文句垂れてんじゃあねーよ。……あいつならそのうちひょっこり帰ってくるだろう。帰ってこなきゃ、メローネのヤツがストーカーやってんだから連れ戻させりゃいい」
「そのメローネもいないようだがな」
プロシュートに言われ、そう言えば、とイルーゾォは思った。ホルマジオがの落とした買い物袋を拾い上げキッチンカウンターに向かったあと、しばらくして席を立ち彼はガレージに向った。そして何分か――あるいは一時間ほど――前に一度自分の視界をちらついた気がしたが、その際に彼とは何も言葉を交わさなかった。だから、彼が今どこで何をしているかは分からない。
イルーゾォだけでなく、料理に没頭していたホルマジオと、他の四人も皆メローネが今どこにいるか把握していないようだった。
「あいつらのケータイにかけてみるか?」
プロシュートのそんな提案に、ホルマジオとイルーゾォのふたりが一瞬の動揺を見せる。リゾットはふたりのその反応に気付いたが、特段詮索もせずにそうしよう、と答えると、手始めにに電話をかけた。
だが、に電話が繋がらない。携帯電話の電源が入っていないか、電波が届かない所にいるらしい。いつも連絡が取れるようにしておけと言っておいたはずだし、今まで連絡が取れなかったこともない。やはりいつもの彼女らしくない。彼女らしくないことが立て続けに起きている。いよいよ胸騒ぎがしてきた。少しでも通常と異なることが起こると、リゾットは安心していられないのだ。ソルベとジェラートが死んでから――ボスにふたりを殺せと命じられた組織の人間に殺されてから――は特にそうだった。
すぐにリゾットはメローネへ電話をかけた。すると、三コール程度で彼は応答した。
「メローネか」
『ああ、リゾット』
「が帰ってこない。彼女が今どこにいるか分かるか」
『彼女なら、今オレといる』
「そうなのか?どこにいるんだ」
『ラーツィオのアルバノ湖』
「なんでまたそんな所に……。今日は帰らないつもりか?」
『ああ。は……そっちに帰りたくないんだと。何だかひどくまいってるみたいでね。彼女が行きたいと言ったから、ドライブがてらここまで来たんだ』
片道二時間のドライブ、か。リゾットは腑に落ちないながらも指示を出す。
「……分かった。明日以降きちんと連れ戻せ。が落ち着いたら、オレに電話を入れていつ帰るつもりなのか報告するんだ」
『了解』
通話を終え携帯電話をポケットへしまうと、リビングにいる皆の視線がリゾットへ集中した。リゾットは皆に声に出して問われる前に話し始めた。
「は今、メローネとアルバノ湖にいるらしい」
「アルバノ湖?なんでまた」
「さあな。帰りたくないんだと」
「何かあったのか?」
事情を知らない皆にとっては青天の霹靂である。悩みなんてなさそうに毎日楽しそうにニコニコとしている彼女が、人並みに何か悩んでいるとでもいうのだろうか。だが言われてみれば確かに、最近の彼女はどこか物憂げで大人しかったようにも思える。
「……別に門限がある訳じゃねーし。放っておけよ。あいつだって一人になりたい時くらいあんだろ」
ホルマジオが言った。の今の心境を考えてのことだった。きっと涙を流して悲しんでいるんだろう。コインランドリーの前にある喫茶店で、しっかりと彼女のことを慰められていれば。イルーゾォを選ばれたことにイラついて、あんな話をしていなければ。彼の後悔は積もり積もっていくばかりだった。
「ひとりじゃあねーだろ。あのメローネが一緒にいるんだ」
ギアッチョの声で場は静まり返った。いくら相手がメローネとはいえ、弱った今の彼女ならもしかすると――。そんな想像しか、皆の頭に浮かばなかったのだ。どうかそんなことにはならないでほしい。各々にとっての良くない想像――妄想――と願望で頭がいっぱいになって、皆口を開けないでいた。
その静寂に耐えかねてイルーゾォはおもむろに立ちあがった。そしてケッ、と言葉にもならない鬱憤だけを吐き出した。そのまま何も言わずに自室へ戻ろうとするイルーゾォの背中を、ホルマジオが憎々し気に目で追いかけていた。
傷心したとメローネがふたりきり。まさか、暗くて何も見えやしない湖畔の水辺で寝るわけじゃあるまい。あの金持ちののことだ。きっとまた贅沢なホテルの客室にでも泊まっているんだろう。メローネと、ふたりきりで。
イルーゾォは今、何が起きているのか正確に理解していた。そしてこれから起こるであろう――もうすでに起きてしまっているかもしれない――ことにも想像がついていた。
自室のベッドに寝転がり目を閉じて眠ろうとしても、考えたってどうしようもないことが次から次に思い浮かぶ。彼はまた、思考の渦に捕らわれた。
相手がじゃなければ、きっと誰の心を傷つけたとて気にはしなかっただろう。そもそも、いつもなら傷つけたかどうかすら気づかずに終わる。言わなければ良かったと後悔をするのも、ほとんど初めてだ。
だが、全くの嘘を言ったわけではない。が寂しがっていたのは本当だ。……まあ、ひどい言い方だった。それに見栄を張って一方通行みたいな言い方をしたが、オレだって確かにあいつの愛を求めている。――愛しているんだ。あいつにホルマジオを近付けたくなくて……現実を見ろって言えば、虫除けにもなるかと思ったんだ。
現実。あいつがボスに管理された反逆者であること。それは明らかだ。イタリアに戻ってから――夢から覚めて現実に連れ戻されたような気分がした――そのことばかり考えていた。オレたちがパッショーネの暗殺者――ボスに飼いならされた捨て駒、そして安全欲求の奴隷――である限り、あいつとの未来など夢見るだけ無駄なのだ。あいつは、死んで生き返りさえしなければ、真っ先に殺されていたはずの女。――だってそうだ。ソルベやジェラートと同じことをやっていたらしいのに、生きてるなんておかしいじゃないか。あいつを殺す方法さえ分かってしまえば、真っ先にボスに殺されるはず。今、裏であいつを殺す方法を必死こいて考えているヤツがいるかもしれない。だから、彼女が離れてしまうという時に――永遠に死んでしまった時か、彼女が本来の自分を取り戻しボスに謀反を働こうと思った時――傷付かなくて済むように、自分が死ななくていいように――そうだ。あいつはいくらでも生き返ることができるかもしれないが、オレは違う。死んじまうんだ――あえて距離を取ろうとした。二つのルールを決めたが、ふたつめのルールはそうするのに都合が良かった。気が向いた時だけあいつのベッドに潜り込んで、夢を見ていたんだ。
今回のことでも目が覚めただろう。過去からは誰も逃れられないのだ。原因は全部、彼女の過去にある。オレは事実を言っただけ。それを言えて、どこかスッとした気分でもある。
スッとしたのは、胸にぽっかりと風穴が空いたからなのだろうか。で埋まって満たされていた心から、がいなくなったから。あんなこと、口に出さなきゃよかった。愛していると言えば良かった。――まだ間に合うだろうか。……いや、もう無理だろう。オレが何を言ったって、全部嘘にしか聞こえないはずだ。
オレはのことをよく知っているから、あいつがもうオレを愛さないっていうことはよく分かる。……アホみたいだな。傷つきたくなくて距離を置こうとしたのに、やりすぎたせいで結局を失って傷ついてる。こんなはずじゃなかったのに。
一体いつからだ。いつからオレは、あいつ以外の誰からも、何も感じられなくなったんだ。いや、前からきっとそうだった。生きていると実感させてくれて、生きていて楽しいと思わせてくれる人間に今まで会ったことが無かったんだ。そんな女にこれから先会えるのか?大切だと思える女に、もしかしたら自分を心から大切に思ってくれるような女に、出会えるのか?
役目を果たすことを放棄したベッドの上でイルーゾォは考え続けた。オレは間違っていないと肯定して、が自分から離れていくことは仕方がないことだと、遠かれ早かれこうなっていたんだと自分に言い聞かせる。言い聞かせたところで心の方が効く耳を持たないのは経験済みであるにも関わらず不毛な自問自答を繰り返し、終わりのない思考という深みにはまってしまうのだ。
こうして彼は、またも感情と理性の板挟みにあいながら眠れない夜を過ごした。疲れて眠りに落ちた後、夢を見た。
が屈託の無い笑顔を向けてくる、そんな夢を見た。