暗殺嬢は轢死したい。

 はひとりで空港にいた。手にはイビサ行きの航空券。大開口の硝子窓の向こう側――目の前を行き交う航空機。天気は良好。フライトにはいい日よりだ。

 いつの間に搭乗手続きを済ませたんだったっけ。ぼうっとした頭で思い出そうとしたが、叶わない。――これは夢?

……?」

 自分を呼ぶ声がすぐそばから降りかかってきた。ははっとして声が聞こえてきた方を見上げた。

「お前一体、こんなところで何やってんだ」

 プロシュートと、彼のすぐ後ろにペッシがいた。小さめの旅行カバンを手に携えて立っている。そう言えば、ふたりは仕事でイビサに行くと言っていた。

 ここまで考えては改めて自身の現状に立ち返り、自分が何故今ここにいるのかをよく考えた。だがやはり、考えたところでその問いに対する答えは得られなかった。

 どうやら夢では無いらしいのだが、完全に無意識でここにいる。まるで夢遊病患者にでもなった気分だ。けれど、これはちょうどいいんじゃないだろうか。もともとアジトに戻るつもりはなかったのだ。ふたりと一緒にイビサに逃避行。――悪くない。

「姉貴ぃ!皆心配してたんですぜぇ?……あれ?でも、待てよ?姉貴、メローネと一緒にいたんじゃあ……」

 そう。そうだ。メローネと確かに一緒にいた。覚えているのは彼の泣き顔。思い出すと、まるで自分のことのようにずきりと胸が痛んだ。実際にそれを前にしていた時もこうなって、いたたまれなくなってとっさに彼を抱きしめた。以前まで、自分から彼に触れようとはしなかった――自分から意思的に触れると、身体が彼を愛しているのだと勘違いしてしまいそうだったので極力避けていたのだ――のに、昨晩は体が勝手に動いてしまった。そしたら次はメローネにベッドに押し倒されて――。

 その後から今までの記憶がごっそりと抜けている。は何も思い出せなかった。眠ってしまったのだろうかとも思ったが、そうすると、自分が今ここにいる理由がつかない。メローネがここまで運んだ?いや、まさか。もしそうなら彼は私と一緒にいるはずだ。

「ごめんなさい。何も思い出せないの……。いつ彼と別れたのか……彼が今どこにいるかもわからないわ。昨日の夜……確か、八時頃まで一緒にいたのは覚えているのだけれど……」

 急にメローネの行方が気になって――最後に一緒にいた時の表情を再び思い返した。すっかり傷心した様子のメローネ。放っておけない――は彼と連絡を取ろうと考えた。持っていたハンドバッグの中を確認する。もともと持ち物は最小限に留め身軽に動く性質だ。携帯電話も、バッグの中の決まった場所に入れるようにしている。だから携帯電話が無いことがすぐに分かった。念の為に着ている服のポケットも漁ってみたがどこにも無い。

「どうした。お前、なんかおかしくねーか」

 プロシュートは言った後に思った。彼女がおかしいのは元からだ。だが、平常時と様子が違うという意味合いで“おかしい”のは昨晩――もっと言えば、バリ島から帰ってきて――から。皆が心配していたというペッシの言葉は本当だ。

 がうーんと唸って必死に記憶を辿っている内、ふたりの会話を邪魔するかのように館内でアナウンスが流れ始めた。はとっさに自分で買った覚えのない航空券をもう一度見て、何便と書かれているかを確かめた。搭乗口へ向かうように話す客室乗務員が言った便と一致している。

「行かなきゃ」

 は立ち上がった。メローネがどこにいるか、無事かどうかは気がかりだ。だが、逃避のチャンスをむざむざ手放す訳にはいかない。相変わらずアジトに戻る勇気は少しも湧いてこないのだ。

「行かなきゃって、お前リゾットに了承は得てんのか?」
「いいえ」
「ならダメだぜ」
「じゃあ、あなたから連絡してくれない?私、どこかに携帯電話を置いてきてしまったみたいなの」
「はあ!?」

 の携帯電話にはメローネのしかけた発信機がついている。リゾットとは常に連絡を取れるようにしておけと言われているのはさることながら、携帯電話を携帯していないということは、彼女が今どこにいるかをチームが把握できなくなる可能性が高くなるということだ。

 メローネ曰く、彼女の持ち物には無数の――無数の、は言い過ぎだが――発信機を取り付けているという。それはもう、バッグというバッグ、靴という靴全てにだ。もっとも、彼女は物持ちがよく物欲も強くない方なので、そうするのは難しいことでは無かっただろう。とは言え、身体から離れる物にどれだけ発信機を付けていても、それらは逃げたいという意思の前ではたちまち無意味な飾りと化してしまう。要は、監視から逃れるのは簡単だと言うことだ。何と言っても、には自分が監視されていることを知っている。だから、彼女の私物である携帯電話だけが頼みの綱だったのだ。契約の際に身分証明を求められる携帯電話なんて、彼女の出自のこともあって、そう簡単に買い替えられるものでもない。

 その携帯電話を失くしたというのだ。しかも、彼女はなぜ自分が今ここにいるのかすらよく覚えていないと言う。メローネはどうなった?あいつは仕事――の監視――をほったらかして何をしてる?

 プロシュートの頭の中で警報が鳴る。彼女をこの場に置いてイビサへ行くのは危険だ。根拠は無いが、何か胸騒ぎがする。

 プロシュートはひとまずメローネへ電話をかけた。彼の悪い予感通り、待てども待てども応答は無い。通話の終了ボタンを押すついでに舌打ちをかまして、次に急ぎリゾットへ電話をした。言わずもがな、ワンコール鳴り終わる前に彼は応答する。

『どうした』

 が携帯電話も持たず、ひとりで手荷物検査を済ませてイビサ行きの航空機に乗ろうとしていたこと。とメローネは一緒におらず、彼女が昨晩彼と一緒にいた夜八時以降から今までの記憶が無いと言っていること。メローネと音信不通であること。自分たちはもう飛行機に乗らなければならないこと。その全てを、プロシュートはリゾットへ伝えた。

『メローネのやつ、一体何をやってる……。仕方ない。プロシュート。ひとまずをイビサへ連れて行け。彼女から目を離すな。仕事にも同行させるんだ』

 恐らく、アジトへ帰れと言ってもは聞かないだろう。それは昨晩、メローネからあった電話で分かっていたことだ。無理矢理手荷物検査のゲートの向こう側へ突き返して、行き先を変えられ、全く見当もつかない場所に姿をくらまされたらそっちの方が大事だ。が発信機を持っているかどうか分からない上、メローネと連絡が取れない今、情緒不安定と思われる彼女――プロシュートは、ちらとに目を向けた。そして、前にと仕事をしたときのことを思い出す。今の彼女には、あの時と近い憂いの表情が見て取れる――をひとり残して飛び立つのは賢明な判断では無い。

 きっと、リゾットが考えているのはこんなところだろう。プロシュートはリゾットの判断を尊重した。

「了解」
『メローネのことはこっちに任せろ。お前たちは任務を達成することに集中するんだ』

 突如任務がひとつ増えた。ペッシの実地訓練も兼ねたイビサでの仕事。その中での監視もしなければならない。アジトに帰りたくないと宣って単身イビサへ行こうとしていたの監視だ。メローネとも今の所連絡がとれないし、前回を同行させた時よりも重く責任がのしかかる。

「分かった。メローネと連絡がついたら、昨晩のことを聞いておいてくれないか」
『ああ。分かり次第連絡する』

 プロシュートはリゾットとの通話を終え、携帯電話をポケットに戻した。そして手のひらを上に向けての顔の前に差出した。

「リゾットの了承は得た。行くぞ」
「ありがとう。プロシュート」

 が差し出された手を借りて立ち上がると、プロシュートはぐいと彼女を自身へ引き寄せた。さらに顔を近づけじっと目を見つめて言う。

「ただし、オレからは何があっても離れるな。いいな?」
「ええ。分かった」

 目の前で美男美女が顔を寄せて約束を交わす。顔が近い。ペッシはふたりへの憧れが高じて興奮していた。爪を噛むように手を口元へやって顔を真っ赤にしていると、プロシュートがちらと彼へ目を向けた。ペッシは咄嗟に姿勢を正して歯を食いしばり、緩んだ口元を引き締める。

「ペッシ。お前も気を引き締めろ。が同行するからって気を緩めるんじゃねー。遊びに行くわけじゃあねーんだからな」
「お、おう!兄貴!」
「よろしくね。ペッシ」

 に満面の笑みを向けられたペッシは顔をさらに真っ赤にして、一度引き締った顔を緩めてしまう。プロシュートはペッシをねめつけ、一足先に搭乗口へと向かった。はペッシの手を引きながら言った。

「さあ、行きましょう。……イビサ島、きっと海が最高にキレイなはずよ!」

 先が思いやられるとでも言いたげにプロシュートがため息を吐いた。がいなければ、ため息の代わりに強烈な膝蹴りを鳩尾へお見舞いされていただろう。いつも厳しいプロシュートだが、と一緒にいると態度が軟化するのだ。それはペッシにとっては嬉しい効果だった。



57:Here It Goes Again



 いつの間にか、自分が閉めたはずのカーテンが開いていた。窓の向こうから朝日が挿し込んでくる。その眩しさに開きかけた瞼を一度きつく閉じて、慣れてきた頃に寝ぼけ眼をゆっくりと開いた。そして気づく。

 がいない。

 だが、メローネは慌ててベッドから飛び起きたりはしなかった。圧倒的な安らぎと充足感。そして虚脱感が、彼を支配していたからだ。

 さっきから、携帯電話の呼び出し音が何度も枕元で鳴っている。だがメローネは電話に出る気にもなれなかった。一応、文字盤をちらと見て発信者が誰かを確認する。――プロシュートだった。

 何だって今お前がかけてくるんだ?……ああ、うるさいな。もう少し寝かせてくれ。今は以外の誰とも喋る気は無いんだ。……そのは今いないけどな。ああ、今、が隣で寝ていて、微笑みながら頬を撫でてくれていたら、どれだけ良かっただろう。でも、待てよ?何ではいないんだ?どこに行ったんだ?……ああ、そうか。まただ。またやっちまった。――オレはまた失敗したんだ。

 メローネが思い出していたのは、手錠でベッドへ拘束された夜のことだった。あれから彼はずっと、にお預けをくらっていたのだ。“待て”と言われた忠犬さながらの彼は、またも自分の得たい物を得られずに今、ひとりでここにいた。



 メローネに跨ったは、彼に馬乗りになったまま服を脱ぎ出した。涙を流した跡の残る目元を見られまいと手の甲で覆いながらも、メローネは夢にまで見た、それはもう喉から手が出るほどに欲していた光景に目を凝らした。心臓は今まで生きていなかったんじゃないかと言う程に大きな音を立てて鼓動し始める。その鼓動によって次から次へと送られていく血液が、彼の中心へと詰め込まれていく。

「あなたは私を愛していると言うけれど、じゃあ一体、それをどう証明する?」

 下着だけを身に付けたがゆっくりと顔を近づけて、熱っぽく呟いた。そして目元を覆い隠すメローネの手を掴んで退けると、彼の手の甲をベッドへ押し付けながら耳元に口を寄せた。

「口先だけで言うのは簡単よ。だから私はこれから、あなたのその愛を試すわ」

 熱っぽく囁いて、囁いたその口ではメローネの耳を食んで、そのまま首にキスをしながら舌を這わせていった。ぞくぞくと、甘い痺れがメローネの脳髄を侵していく。

 顎を甘噛みして、もう一度じっと見つめられる。妖艶で、底なしに強欲な瞳。こんなに欲深い表情をしたは初めて見る。やはり、いつもの彼女ではない。

 唇に触れるだけの優しいキスが幾度となく繰り返される。焦らすように、誘うように。堪えきれなくなって手や上体を動かそうと体をよじると、それを窘める様に腕はさらに押さえつけられ、重心を前にやられて動けなくされる。メローネが抵抗をやめるとは元の位置に戻って、また快感の一歩手前程度で感覚を刺激する愛撫を再開した。

 試すって、一体、どうやって?オレはその試練で、どうやって彼女にオレの愛を証明すればいいんだ?

 もう少しで張り裂けてしまいそうという程に膨れ上がってパンパンになった股間はもうずいぶん長いことそのままだ。存在すら忘れかけていた――性感帯だなんて思ってすらいなかった――乳首。に舐られ吸い上げられると気持ちがいい気がしてくる。そこを執拗に責められて、はだけた胸や腹をそろそろと撫でられて、ああもうはやくひとつになりたいのにとじれったくってしょうがない。

「な、なあ、。もう、我慢できそうにないんだ、早く、早くオレと――」
「ダメよメローネ。私、あなたの言う愛が本物かどうか見極めないと、あなたのことは受け入れられないわ」
「どうして……どうしてオレはダメなんだ?」

 きっと、ホルマジオとイルーゾォともやったんだろ?アイツらなんかより、絶対にオレの方が君のことを愛しているのに。どうしてダメなんだ?一体、オレの何がいけないっていうんだ?

 今この時に思い出したくもない男たちの影がちらついて、メローネは顔をしかめた。

「メローネ。私、まだ誰のことも心から愛してない。……これは、あなたにとっては朗報なんじゃない?」
「いいや、。オレのことを愛してくれてないってことだから、朗報とは言えない」
「でも、まだ私の心は誰の物でもない。……私が今、試しているのはそういうことなのよ」
「え……?」
「いくら体だけで愛し合ってるふりをしたって、愛は語れない。セックスするだけが愛じゃないわ。男性がセックスしたいって、女性に向かって言う時なんかは特に疑ってかからないとね」

 視線をそらして、どこか自分に言い聞かせるようには言った。

。ああ、。オレは君の全てを受入れているんだ。そんなオレが、君に受け入れられたいって、考えるのはおかしなことじゃあないだろう?……どうして、どうして君はオレを愛してくれないんだ?オレは一体、どうすれば君に愛してもらえるんだ……?」
「だから、セックスだけが愛情表現じゃないと言っているでしょう?それにね、メローネ。あなたは嘘を言ってるわ。嘘って、愛し合うのに最も障害になるものだと思うのよ」
「嘘なんか、オレは君に、一度だって嘘なんかついたことはない!」
「いいえ。たった今嘘をついた」

 はメローネの腹の上から横に退いて、彼の膨れ上がった股間に手を添えた。そして優しく、布の上から擦り始める。

「っあ、ああっ……!」
「あなたは私の全てを、受け入れてなんかいないわ。あなたは恐れているのよ。私を、恐れているの」
っ……?っ、あ、や、やめ」

 いつの間にかズボンのジッパーを下げられていて、パンツの中から自身を取り出されていた。そろそろと直に筋を撫でられてそそり勃つそれを、はじっと見つめたあとメローネに深く口付けをした。

「……久しぶりね。あなたとキスするの。……あなた、私のことずっと待ってたの?」
「ああ、、っ、オレは、オレは君と、ずっと、キスがしたかった。オレは……オレはッ、キスだけじゃなくて……っだあ、ああっ!せ、先端は、よ、よしてくれッ!いきたくないっ、いきたくないんだっ!頼む、頼むから、待って、待ってくれっ……あ、ああ!!」
「あなたは……嘘ばっかりだわ。あなたは私のことなんかこれっぽっちも待ってなかった。だから、私だって待ってあげない」
「はあっ!?……、君はさっきから一体、何を……」

 一体、は何の話をしているんだ?話が噛み合わない。そんな疑問は、カリの部分を掌でこねくり回されて与えられる鋭利な刺激と快感でかき消されてしまう。

「あなたは、私と会いたくなかったはずよ。あなたは、最初から気づいていたはず。……だから、伝えてくれなかったんだわ」
「え……?っ、あ、ダメだ!よしてくれ、それはッ――」

 はメローネの訴えなど聞き入れはしなかった。ぱくりと先端から口に含まれて、舌がぬるぬると動いてカリを撫でた。受け入れられたと言えばそう捉えられないこともない。たが、それは彼の本懐ではなかった。

 愛するにフェラチオなんかされたら、すぐにいってしまう。

「ッ、。よせ、よしてくれ。いきたくないんだ。こんなので……達したくない。オレは君と、ひとつになりのに!」
「メローネ。今のわたしじゃ無理よ。それに、あなたの言うひとつになるというのが、それこそ物理的な意味でというだけなら尚更ね」

 は一旦メローネのペニスから口を離して、唾液を纏わせたペニスを片手で扱いた。先端から付け根までをまんべんなく。その上下の手の動きはだんだんと早くなっていく。

「これから先で、証明してみて?あなたが我慢できなくなって、これから先、私のことを押し倒して無理矢理ひとつになろうとするようなことがあれば、あなたの言う愛はその程度だったのだと判断するわ」

 ああ、オレはまた、お預けを食らうのか。

「本当に私のことを愛していると言うのなら、私があなたに愛していると示すその時まで、待っていて?それができたなら、私はあなたを受け入れるわ。その時まで溜め込んでたら体に悪いし……今日のところは、これで満足してもらう」

 舌で先端を舐められながら手でもしごかれて、メローネは確実に追い詰められていた。だが、彼はこんなことで達したくはないのだ。

 達すのは、彼女の中がいい!口の中って意味じゃない。上のとか下のとか言うやつがいるが、口ってのはひとつしかないんだよ!やめてくれ、やめてくれ

「あ、ダメだっ、もう……っ、あ、が、我慢できないっ」
「我慢なんかしないで、メローネ。早くイッて楽になりなさい?」
「あっ、ああ、っ出る……出るッ――!」

 ――幾万もの子種が巣立っていった。はそれを口で受け止めて、ごくりと喉を鳴らして飲み下した。唐突に訪れた虚脱感に呑み込まれ、メローネは茫然自失となって天井を見つめる。はメローネの横に身を投げて、微笑みを浮かべてじっと彼の横顔を見つめた。

「これで気持ちよく眠れるんじゃない?」
「ああ、こんな、だって……こんなのって。あんまりだ。だって、オレだけ……なんて……。虚しくなるばっかりじゃないか……!、オレは君とセックスがしたかったんだ!」
「メローネ。ごめんなさい。私、もうこれ以上、誰にも体を好きにさせるつもりないの。本当の愛が無いセックスなんて、あなたが言うとおり、余計に虚しくなるだけだもの。……あなたとする時が来るとしたら……それはさっき言ったわね。覚えておいて、メローネ」

 はメローネを抱き寄せて、額に優しくキスをした。そして、頭を胸に抱き込んで、頭を撫でる。まるで子供を寝かしつけるように。

 の香り。の体温。の心音。ある程度落ち着きを取り戻したメローネはそれら全てに抱かれて、その心地良さにうとうととし始めた。

 不本意ながらも、心の底から安心できた。恐らく、この世に生を受けて初めての、心の底からの安らぎだ。

「私ね、あなたのこと……好きよ。メローネ。あなたが、のことを愛してくれているのはよく分かるから」

 のこと?今話しているのは、。君じゃないのか?

 そう訊ねたくなったが、襲い来る眠気を払い除けてまでそれを口にする気力は無かった。

「けど、あなたはきっと……私のことまでは、最後まで受け入れられないでしょうね」

 優しくも、どこか憂いを帯びた静かな声音が、まるで子守唄のように聞こえた。の話の内容はあまり頭に入ってこない。微睡の内に、明日にはきっと忘れているだろうとメローネは思った。



 また電話が鳴り始めた。メローネは鬱陶しいとため息をつきながら再度、しぶしぶ文字盤を確認した。――リゾットだ。

 メローネは電話に応答する。

『メローネ。お前一体何やってる』

 ああ、それを今自分に問いかけようとしていたところだった。そうとは言わずに、メローネは正直に話した。寝ている内に、が居なくなっていた。言い訳はせず、のせいにもせず。全て自分の落ち度だと話した。リゾットは、起きてしまったことを今さら責め立ててもしょうが無い。二度目は無いから覚悟しておけ。そう釘を刺して本題に移った。

は携帯電話を持たずにイビサ行きのチケットを持って空港にいたらしい』
「……携帯電話を、持たずに?」

 メローネは客室をざっと見渡した。すると、電話が上に乗った小さなチェストの上にの携帯電話が置いてあるのを見つける。そしてその周りに、にこっそりと持たせていた発信機――彼が覚えている限りで全部――が置かれていた。

「携帯電話、発信機……全部置いていってるな」
『……万が一、ニューヨークの時のようにが何者かにさらわれるようなことがあれば、追跡ができないということだな』
「すぐにオレが後を追いかけよう」
『……いや。こっちも人手が惜しい。ついさっき仕事が入ってきたばかりだ。お前にはこっちでブレーンとして働いてもらう。発信機くらい向こうで入手可能だ。ひとまずこっちへ帰ってこい。の様子だとか……詳しいことはそれから聞かせろ』

 リゾットは言いたいことを言い終わると、メローネの返事も何も聞かないうちに電話をきった。怒りを露わにしているというより、焦燥しているようだった。リゾットも少なからず、に何か変化が起き始めていると感じているらしい。

 メローネはすぐに気持ちを切り替えてベッドから抜け出した。服を着て、が残したものを全てカバンに詰め込み客室を後にした。

 またやり直すんだ。ああ、分かってる。いい加減学習すべきだろう。でも、やるしかない。

 メローネの頭の中に、諦めの二文字は無かった。彼はが何を言おうと、周りが何と言おうと関係なく、ただひたすらに彼女を愛すのだ。彼女を我が物とするまで。――否、我が物とした後もずっと、彼が死ぬその時まで。彼は――今日も本人にはしっかりと伝えられなかったが――に永遠の愛を誓っているので、そう簡単に諦めたりはしないのである。