暗殺嬢は轢死したい。

 夏本番を迎えた頃のイタリアはナポリの昼下り。半地下の、地表から半階分ほど掘り下げられたアジトのリビングはことのほか涼しかった。その暗くひんやりとした静かなリビングにいるのはメローネだけだ。彼はいつものようにの監視に勤しんでいる。ノートパソコンの画面には地図を映し出していて、その地図上にの現在位置を知らせるアイコンがある。彼女は近場のコインランドリーにいた。しばらくして、道路を挟んで向かいにある喫茶店に移る。これはいつものパターンだ。

 彼女は今誰とも一緒にいない。もちろんメローネは、以外のチームメイトにまで発信機をしかけてはいない。野郎共がどこにいようと彼には関係ないし興味もないことだ。では何故彼女がひとりでいると確信を持って言えるのか。それは彼女が出掛ける前、ポケットに盗聴機を忍ばせておいたからだ。

 普段から盗聴していたいのは山々だが、盗聴器というやつはいかんせん使い勝手が悪い。拾った音を電波に乗せて飛ばすのにはエネルギーがいるので電池の減りが早いのだ。例えば、コンセント増設用の電源タップと一体になった盗聴器であれば、ブレーカーでも落ちない限り延々と盗聴していられる。しかし、電気を供給できる物が何もない外だとそうはいかない。今彼女に持たせているのは盗聴器そのもの。よって、盗聴できる時間は限られている。

 今日も大した収穫はないままバッテリー切れになってしまうのだろうか。そんな憂鬱に身を委ねモニターの別のウィンドウで仕事をこなしつつも、メローネはへ思いを馳せていた。

 意外かもしれないがメローネが盗聴器を使い始めたのはつい最近のことだ。

 彼はこれまで、一応超えてはならない一線というものを自分の中に設けていた。おかげで監視という任務の一環だと言えば、ぎりぎりまかり通るレベルのことしかしていない。メローネがに発信機を持たせて位置情報を取得していることははもとより、チーム全員が知っていることだ。仕掛けられている本人もそのことについて文句は言っていないし、他のチームメイトも気持ちが悪いと悪態をつきはするが、任務のことがあるので彼のストーカー行為を黙認している。

 メローネのそれがの位置情報の取得までにとどまっていたのは、知りたくないという恐怖心があったからだった。自分以外の誰かと愛し合っているのではないか。確信が得られなかったからこそ、彼は知らないままでいることを選んだ。その間は幸せだった。まだ、悪夢に苛まれるだけで済んでいたから。

 だがつい最近メローネは、その悪夢が夢でなく現実だと知った。がイルーゾォと肉体関係を結んでいるという確信を得てしまった。だからタガが外れたのだ。これ以上知って恐ろしい事など何もない。だから彼は自分の中の一線を取っ払い、に付入る隙を探るために盗聴を始めた。

 イルーゾォなんかより、オレの方がを愛しているに決まってる。イルーゾォの物になったから何だと言うのだ。奪われたのなら、奪い返すまで。

 彼が求めているのは、が何故イルーゾォを選んだのか。イルーゾォに対する不満は無いか。そう言った類のとっかかりだった。彼は根気よく待った。アジトの中では彼女の声に耳をそばだてて、彼女が外出するときはできる限りで盗聴機を持たせた。

 だが、は誰にも何も相談しなかった。恐らく、イルーゾォには自分たちの関係について誰にも口外しないこと、とかなんとか、そんな制約を設けられているのだろう。それでも、いつかボロが出るだろうという予感がメローネにはあった。

 バリ島から帰ってきたが日に日に元気を無くしていったからだ。皆が海外での仕事に駆り出される話を側で聞いていていれば、いつもなら一も二もなくついて行くと目を輝かせるのに、最近はそれすらもなくなっていた。

 明日からプロシュートとペッシのふたりがイビサ島に仕事に行く。イビサと言えばヨーロッパ中の若者が、音楽、酒、セックス――と、ハイになるためのあれ――を求めてこぞって夏に赴くリゾート地だ。が前述のような一般の若者が求めるものを同じく求めているかどうかは疑問だが、ハイになりたいには違いないだろう。メローネはそう思っていたのだが、はイビサへ行くとは言わなかった。ペッシに、気をつけて行ってくるのよ。と、まるで母親みたいに言うだけだったのだ。――もっとも、母親なら年頃の娘や息子を単身イビサ島に行かせたりはしないだろうが。

 恐らく、それもイルーゾォの制約があってのことだろう。だが、その制約を受けてでもイルーゾォに愛されることを望み、愛されていて幸せならばは元気でいるはずなのだ。

 元気が無い。あの、好奇心旺盛で、美しい笑顔を惜しげもなく振りまくいつもの彼女ではなくなってしまった。いつもを気にかけ、顔色をうかがい、叶わぬ望みに身を焦がすメローネだからこそ分かった。彼女は変わってしまった。元の彼女を、イルーゾォから取り戻さなければ。

 こうなると、ストーカー行為にも熱が入って当然だった。

 突然、そんな彼の熱意に応えるかのようにの声がイヤホンから聞こえてくる。どうやらホルマジオが喫茶店にいるに近寄っているらしい。メローネは眉根を寄せ、キーボードを叩く手指を止めた。そしてふたりの話に耳を傾ける。会話の内容を盗聴しだしてすぐにメローネは目を剥いた。

 ――これは……!そう、これこそ、オレがずっと求めていた情報だッ!ホルマジオ、グッジョブ!!

 この時ばかりはメローネも、あの節操のないヤリチン男、もとい、ホルマジオを褒めずにはいられなかった。まさかこうもあけすけに皆が気にしていることを聞いてしまうなんて。メローネは興奮した。だが、興奮のさなか重要な情報を聞き逃す訳にはいかない。彼は素早く深呼吸を済ませ心を落ち着かせると、会話の内容がよく聞こえるようにと、両耳にはめたイヤホンに手を当て押し込んだまま身をかがめ目を閉じた。やがて驚愕の事実を耳にしてしまう。

 ――ホルマジオが、を殺した?

 そんなホルマジオの発言があってから、は取り乱しはじめた。だけでなく、それを聞いたメローネもまた取り乱してしまう。

 オレのを、殺した、だと?許せない。許せない許せない許せない。一体何がどうなったら、あの可憐で美しいを殺せると言うんだ?……が、殺せと頼んだ?……彼女はどうもしていないと言っていたが、やはりターゲットの男に拷問を受けたのか?その傷を癒やすために……?いや、だからと言って、どういう経緯であれ、許されることではない。

 腹の底から沸々と怒りが込み上げてくる。ホルマジオが言う通り、自分たちの世界は信頼こそが物を言う。仲間相手に盗聴をして、そこで得た情報など迂闊には漏らせない。憤懣やるかたなし。しかし、を手に掛けた男になんて絶対には譲れない。を自分のものにするというメローネの決意はさらに強固なものとなる。

 はらわたが煮えくり返るような思いと、肺を握り潰されるような息苦しさに苛まれながらも、メローネは引き続きふたりの会話に耳を澄ませた。

 そうしてやっとのことで、メローネは奪還の糸口を掴むことになった。

 によって、メガデス――彼女の内側に潜む死神――のことにフォーカスが当てられる。聞くところによると、彼女がイルーゾォと蜜月の仲になったのは、あの男がメガデスを目にして、尚かつそれ以降も彼女と普段通りに接していたからだという。

 待てよ。それならオレだって条件は一緒じゃないか。しかもあのバカ。メガデスとを合わすなと言ったのにへまこきやがって。――メローネの怒りの矛先はホルマジオからイルーゾォへと向いた。それさえなければとも思ったが、起きてしまった事を今さら悔やんでも意味は無い。そしてホルマジオがまた至らないことを言い始める。

 余計なことを。メガデスを見せてみろ、だと?お前が見てどうするって言うんだ。これ以上、彼女を苦しめるようなことを言うんじゃあない。

 メローネの怒りの矛先はころころと変わる。そして新情報に次ぐ新情報。溢れんばかりの激情と情報の波に襲われたメローネは、とても平常心を保ってはいられなかった。だが、幸い今はリビングにひとりだ。どんなに取り乱そうとも怪しむ者はいない。

 やがてホルマジオがから離れていく。今度はひとりさめざめと泣く彼女を抱きしめに行きたいという衝動に駆られたが、メローネは必死に自分をその場に押し留めた。

 今の元へ駆け出しては、盗聴していたことが彼女だけでなく、ひょっとするとホルマジオにまで割れてしまうかもしれない。そして、今得た情報の使い所は見極めなければ。

 もう我慢の限界だ。今すぐにでも君が欲しい。

 メローネは、ひとまずこの場は落ち着いて、冷静な頭で計画を練るべきだと考えた。に対する思いに報いてもらうために。この、ひどく一方的な彼女への愛を受け入れてもらうために。もう彼に猶予はなかった。失敗は許されない。大丈夫。条件は揃っている。あとはタイミングさえ合えば確実にの心を掴むことができる。

 メローネにとってのその“タイミング”というのは、幸運なことにすぐに訪れた。

 メローネはがどこで何を耳にしているか、そして憎き恋敵たちの会話の内容、そのすべてをリビングにいながらにして把握していた。彼はが慌ててアジトから抜け出すのをモニターを見て確認する。そして茫然自失となって部屋の出口を見つめるふたりの男の姿に、チラと目をやる。

 ――久々に生きた心地がした。メローネは沸き起こる喜びを必死に抑えようとしたが堪えられなかった。そうして漏れ出たのが、件の微笑だった。



55:Hysteria



 は、ただただ恐怖している自分に気が付いた。平穏の内の喜び、受容の末の信頼というものを知ることができた日常が、一瞬にして自分の元から遠く離れて行くような感覚に呑まれそうになっている。そんな危機感が今現状から逃げるようにと警鐘を鳴らし、彼女の下肢を動かさせていた。

 イルーゾォは自分のことを愛しているわけではない。それは心のどこかで薄々気づいていたことだった。ただ孤独を紛らわすために、気づかないふりをして自分を誤魔化していただけ。だが、実際に突き放される覚悟があった訳ではない。

 イルーゾォに現実を突きつけられたは、帰りたくないと思ったことなど一度も無かったアジトに、初めて帰りたくないと思った。

 この胸の苦しさは前にも味わったことがある。途方も無い喪失感。それは絶望とすら呼称してしまっても良い程の物だ。こうなりたくなかったから、他人に、簡単に心を許さないようにしようと思っていたはずなのに、快楽と言う名の拠り所を失くした途端その信念は揺らいでしまった。

 ――もう何も考えたくない。逃げ出してしまいたい。

 気づけば、は例の公園に来ていた。チョコラータと別れ、リゾットに優しく抱きしめてもらえた場所。来たくないと思っていたはずなのに、今ではすっかり慰みのための場所になっている。は夕焼けに染まる街を見下ろすベンチに腰掛けた。そして美しい景色を眺めながら、イルーゾォが言っていたことを思い出した。

 私は、ボスに厄介払いをされて暗殺者チームに行きついた、復讐心を忘れているだけの反乱分子。

 確かにそう言っていた。無いものがあると決めつけられている。父を殺したボスへの復讐心だ。そんなもの、今でも微塵も感じない。だがイルーゾォにはそれを確信させる何かがあるのだろう。

 “決めつけ”られているのだ。ホルマジオに自分も言われたことだ。彼もきっとこんな気持ちなのだ。“決めつけ”とは、それが正か否かと考えることすらせずに拒絶すること。拒絶される方がこんなにも苦しくて辛い思いをすることになるとは。被害者の側に立って初めて、はそのやるせなさに気が付いた。

 そうやって自身の行いを省みてみるものの、は現状に対する解決策を見いだせない。どうすればこの胸の痛みは消える?どうすればホルマジオのことも悲しませずに済む?どうすればイルーゾォは私を心から受け入れてくれる?

 どうすれば、と考えれば考えられるほど追い詰められていく。そしてすべての問題の根源はメガデスという存在に収束している。だが、彼女に対してどうアクションを起こせば事態が好転するのか皆目検討もつかない。できることなら綺麗サッパリいなくなってほしい。だが、そもそもスタンド能力というものを失くすことができるかどうか知らないし、ホルマジオの話に寄ればスタンドとは自分の精神とか魂とか心とか、そんなものだ。それを失くすと、それこそ自分が自分ではなくなってしまうんじゃないか。あの遠い異国の地の呪術師が言うとおり、やはり彼女のことは受け入れるしか手立てはないのだろうか。

 ――そんなの無理だ。

 ここのところ、こんな堂々巡りが続いている。完全に行き詰まっている。だから、ここから逃げ出してしまいたいと思ったのだ。逃げたとしても、きっとまた同じ問題に直面するだろうという予感はある。だとしても、今はすべてを忘れてしまいたかった。今のままでは、胸が痛くて息苦しくて、とてもじゃないが耐えられない。

 空はだんだん暗くなっていく。このまま帰らずどこかに逃げ出してしまいたい。けれど、どこへ行く?ひとりで行きたいところなんてない。でも、このままずっとここにいて、メローネあたりが迎えに来るのを待っている?まるで親に構ってほしくて帰らないでいる子供みたいでかっこ悪い。でも、それは逃げたって同じことだ。メローネには私が今どこにいるかなんてお見通し。誰にも迷惑をかけず、いい子でいるべきなのは分かっている。けれど、どうしてもアジトに帰る気にはなれない。構ってほしくない訳じゃない。孤独でいたくないのだから、それは当然だ。だが、構ってもらえたとて、私に構うことなど彼らにとっては仕事でしかない。



 背後から声をかけられてはびくりと体を揺らした。メローネの声だ。彼女は身を固くして、振り返ることもせずに手の甲で涙を拭った。

「今日、君が料理当番だったよな?皆腹を空かせて待っているぜ」

 メローネが隣に腰掛ける。それでもは顔を伏せたまま鼻をすすっていた。

「……?泣いてるのか?」

 優しくされると自分が情けなくてたまらなくなって、ますます胸が締め付けられる。止めたはずの涙はまた溢れ出してくる。

「ごめん、なさい……。忘れていた訳じゃあないの、料理当番」
。料理当番はもういい。今は、君が何故泣いているのか、そっちの方が問題だ」
「聞かないで。きっとまともに、喋れないわ」
「なあ、。帰らないか。帰ってゆっくり話を聞くよ。皆心配してる。だって君がこれまで料理当番ほったらかして帰ってこないなんてこと、無かったじゃあないか」

 皆心配してる?本当に?私は煩わしいだけのお荷物なんじゃないのか。リゾットにだって、つい最近もう使わない――誰にも殺させない――と言われたばかりだ。言いたいことは次々と思い浮かんだ。だが、それを口にしてメローネを煩わせたくはない。――嫌われたくない。だが、涙は留まることなく流れ続けていた。

「……

 濡れた頬に、メローネの指先がそっと触れた。は促されるままに顔を上げ、目尻からぼろぼろと大きな涙の粒をこぼしながら初めてメローネの顔を見た。今まで一度たりとも見たことが無かった彼の顔がそこにあった。

 まるで自分と同じように胸を痛めるように悲し気に眉根を寄せ、けれどどこか優しく包容力を持った表情を浮かべている。はしばらくの間、メローネの顔に見入っていた。

「ああ、。泣かないでくれ。……オレは、君が泣いているところなんて見たくない。ひどく、胸が痛むんだ。何があったのか、話したくなければ話さなくて構わない。ただ、君を慰めることだけは許してほしい。……構わないかな」

 ああ。これは甘えだ。彼の優しさにつけこんで、私は今、彼を利用しようとしている。

 そんな罪悪感を覚えた。けれど、は泣かずにいられなかった。泣いているのだと、悲しんでいるのだと誰かに訴えたかった。孤独でいたくなかった、愛されたかった、愛されていると信じたかった自分を誰かに知ってほしかった。

 メローネの膝を借りてはむせび泣いた。訳も話さず泣くの頭や背中をメローネはただ黙って優しく撫でた。



 しばらくの間泣き通したところで、やっと落ち着きを取り戻したはぽつりと呟いた。

「メローネ。私……帰りたくないわ」

 メローネは人知れず、腹の底から込み上げてくる歓喜と期待におののいていた。