「皆、これっきりソルベとジェラートのことは忘れろ」
リゾットはふたりの仲間を弔った教会で、チームのメンバーにそう伝えた。誰も何も反論せず、ただ仲間が安らかに眠れるようにと祈り、彼らはアジトへと戻っていった。リゾットだけは日が暮れるまで教会に残った。
後悔の念が、湧きおこる感情の大半を占めていた。
何故、パッショーネにおける絶対のタブーを彼らが犯していると気づいてやれなかったのか。気付いてやれていれば、彼らはあれほど残酷な死に方をしなくて済んだかもしれない。
そして、とめどなく沸き起こる後悔の念を自身の犯した罪として、神の御前で手を組み、懺悔した。後に肝に銘じた。――二度目は無いと。
暗殺者チームはボスのために働く傍ら、他のチームから忌み嫌われる存在だった。ボスの怒りを買った時、自分たちを殺しに来るのが彼らだからだ。ボスの怒りを買うことになるであろう自分の非なる行動を差し置いて、死神のように命を狩りに来る暗殺者チームの人間を、誰もが疎ましく思った。さらに彼らはボスにさえ、自身が利益を得るための捨て駒としか認識されていなかった。社会からつまはじきにされた存在であるギャングの集団の中でもことさらに、暗殺者チームは孤立した存在だった。
そんな彼らの命を尊重できるのは同じチームに属する仲間だけ。暗殺者チームのリーダーを務めるリゾットは、しっかりとそのことを認識していた。チームに宛がわれるメンバーの面々は皆、一癖も二癖もある社会不適合者たちだったが、心を持たない殺戮人形という訳では無い。仕事以外で生活を共にするうちに見えてくる人間性があった。例え傷の舐めあいと罵られようとも、リゾットにとってはチームこそが愛すべき家族だった。
仲間以外の命がどうなろうとリゾットにとってはどうでもいいことだった。しかし、家族同然の仲間が命を落とすことだけは絶対に許せなかった。だから彼は自分を責めた。そして、二度と仲間が命を落とさないように、そしてこんな思いを二度と自分がしなくて済むようにと、彼はボスによって命を奪われたふたりのことを忘れろと部下に告げたのだ。
「ソルベとジェラートも過去のお前のようにボスについて詮索していた。ふたりはその“罰”として殺された。だが……ボスの言う罰ってのが、残忍な殺され方をしたソルベと、それを見せつけられたショックで死ぬことになったジェラートだけに向けられたものと思うか?」
はかぶりを振った。今の彼女には分かる。残された者にこそ、家族や仲間の死が、罰として重くのしかかるのだ。
「チームを統率できなかったオレへの罰だ。今も尚、オレはその罰に苦しめられている。組織に冷遇され、もともと少ない報酬がさらに目減りしたことなんかが些細に思えるほどにな。仲間の命を守れなかった過去こそ……オレが背負わされた重い十字架だ」
はいつも無表情で感情をめったに表に出さないリゾットが、今日はやけに感情的だと思った。だが窺えるのは怒りとか憎しみといった負の感情だけ。彼が笑うところを見てみたいとは常日頃思っていたが、今日もその望みは叶いそうにない。そう落胆しながらも、彼もまた自分と同じ境遇にいるのだと知り、は少し安堵した。そして、深い悲しみを覚えた。
話によれば、ソルベとジェラートが殺されてからまだそれほど日は経っていない。まだ傷はできたばかりで、その傷が癒えるほどの時も過ぎていないのだ。彼らのことを忘れるようにと部下に伝えるのも辛かっただろう。きっと彼こそがふたりのことを忘れられず、一番ボスに怒りを覚えていて、復讐心を滾らせたいはずなのに、メンバーの命を尊ぶあまり、自分の感情を押し殺さざるを得ないのだ。そしてその重い十字架を彼は一人で背負いこんでいる。にはそれが、自分のことのように辛く思えた。もちろん、彼女は悲しみ以外の負の感情を抱けないので、彼の辛い過去を憂うことしかできなかったが、彼女はリゾットに寄り添い、その重荷を少しでも分かち合いたいと思った。
しかし彼女は思い出してしまっていた。自分もまた、戒めの重い十字架を背負っているということを。それでも、自分のことはいい。ただ今は、リゾットに寄り添いたいと切に願った。
はたまらずテーブルの上に置かれていたリゾットの手に、自身の手を重ねた。リゾットは触れられた瞬間にぴくりと手を震わせたが、乗せられた手を振り払うことはしなかった。冷たいその手の甲に、彼女の暖かな手のひらから熱が移っていく。優しい暖かさを与える彼女の手の感触がリゾットには心地よく感じられた。
いつもなら身体に触れさせるようなスキなど相手に与えないんだが。
気を抜いている。その所為だと彼は自分を咎めたが、は否応なしに安らぎを与えてきた。他者を決して拒絶せず、笑顔を絶やさず、他人を喜ばせるのが上手い彼女の懐の深さこそが、その正体なのだろうとリゾットは思った。そして、ひとりの女性に対して安らぎを覚え、それに黙って身を委ねるのは、彼がギャングとなってから初めてのことだった。添えられたか細い女の手を、リゾットはしばらくぼうっと眺めていた。
「……リゾット」
は名前を呼ぶだけだったが、リゾットにとっては十分だった。彼女の鈴の音のような優しい声音が心の奥底に浸透していく。彼女に与えられる安らぎをすんなりと受け入れられるのは何故か、とリゾットは考えたがすぐその答えに行きついた。
リゾットもまた、に自分自身の姿を重ねていた。怒りや憎しみを忘れただ過去を憂う彼女と、怒りや憎しみを押し殺し過去を悔やむ自分の姿が、彼には同じもののように感じられていた。復讐心を忘れきっているが、完全には自分の気持ちに共感できているとリゾットは思わなかったが、ただ境遇が同じというだけでも、慰め顔で差し伸べられた手を簡単に受け入れられたのだ。下手に大丈夫か、気持ちは痛い程に分かるなどとお決まりの言葉をかけられるよりも随分と心地がいい。
だが、今回をわざわざアジトから呼び出したのは、こうやって慰め合いに興じるためではない。リゾットは心を改める。なるべく彼女の気分を害さないようにと、重ねられたの手をもう片方の手にとって、温められた方の自分の手を引っ込めた。添えられていた彼女の手の甲も、夜風に撫でられて冷えていた。温めてやりたいと思いながらも、彼はゆっくりとそれを手放した。
「オレにはお前たちの命に責任がある。だからお前はじっとしていろ。何か――例えば、お前が過去に抱いていたパッショーネに対するどうしようもない怒りや憎しみ、復讐心なんかを思い出すことになっても、絶対にひとりで動くんじゃあない」
は何かと自分の命を軽く扱う節がある。どれだけ身体が損傷しようとも、望めば完全な形で生き返ることができるので、彼女がそう振舞ってしまうのは仕方のないことだと、自身もチームのメンバーも思っていた。しかし、リゾットだけは違った。彼女が簡単に死のうとすることは、命を軽く扱うことと同義。例え自分が軽く扱うのは自分の命だけだといくら彼女が豪語しようとも、その向こう見ずで軽はずみな行動は仲間の命を危険に晒す可能性がある。彼女の口から語られた過去からもそれは明らかだ。自分が死なないからとボスを深追いした結果、彼女の養父は命を落とすことになった。
「お前は死なないかもしれんが、他の連中は死ぬ時は死ぬんだ。お前がアイツらのことを少しでも大切に思っているのなら、一度立ち止まって、オレにどう身を振るつもりか話せ。お前がどう行動するか決めたのなら、オレはそれを咎めもしないし止めもしない。ただ一度、オレに話してくれ。それだけでいい」
「……私、あなたに忠誠を誓うって言ったわ。覚えてくれているでしょう?だから私、あなたの言いつけは絶対に守る。じっとしてる。それに今思い出せるのは、さっき話したことで全部だもの。やっぱり私には、どうして自分がそんなにボスのことを恨んでいたのか分からなかった。だから当分は安心して……とも言えないのよね。その、“空白の期間”に何があったのか……そこまで明らかにならないと、私、信用してもらえないのよね」
彼女は頭を抱え、眉根を寄せて目を瞑り歯を食いしばる。どうにかして何か思い出せないかと唸る。そのまま数分経過する。するとリゾットがおもむろに口を開いた。
「……信用できないわけじゃあない。オレがさっき言ったことだけ忘れないでいてくれれば、それでいい。後は何が起こっても、まあ大丈夫だろう。か弱そうに見えるのに、お前は死なないから……それだけが救いだ。他の連中には自分の命を最優先に行動しろとだけ伝えておく。だからもう顔を上げろ。そんなに眉間に皺を寄せていたらせっかくの美人が台無しだぞ」
はきょとんとした顔をリゾットに向けた。
「美人?今私に……美人って言ってくれたの?私のこと、美人だって思ってくれていたってことなの?」
「……何故そこに食いつく。流せ。世辞を言ったつもりはないが変に食いつかれると面倒だ」
「だってあなた私と話してたって全然楽しそうじゃないんだもの!私のことなんてただの変態女としか思ってないとばかり……」
「まあ、変態と思っているのは事実だがな」
「自分で言っておいて何だけどとてもショックだわリゾット。言っておくけれど、私が変態ならあなたは鉄仮面なんだからね」
「それは悪口なのか?」
「たぶんね」
頬袋いっぱいに木の実を詰め込んだリスのように、は頬を膨らませて唇を突き出し拗ねて見せる。そんな彼女の表情を見てリゾットは少しだけ頬を緩ませ、ふんと鼻で笑った。
「あ!今、少しだけ笑ってくれたわね!すごく嬉しい!鉄仮面ってあだ名は撤回してあげるわリゾット!」
そう言ってははしゃぎ始めた。
妖艶に男を誘う様を見せつけたかと思えば、無邪気な子供の様に屈託なく笑う。物憂げな顔で涙を零し同情を誘ったかと思えば、全てを包み込むような慈悲深い眼差しを向けてくる。
最初はやけに物静かな女だと思った。玄関口でリゾットが彼女をアジトへと迎え入れた時、簡単に自己紹介を済ませると、疲れていると言って彼女は酷く気だるげな様子で自室へ向かった。かと思えば、翌日メンバーの前で口を開いた時、彼女は酷く興奮した様子で自分は不死身だと宣った。彼女が初仕事を終え、念願の死と快楽を得ると、その翌日には恍惚とした表情で、自分は死にたがりの快楽中毒者だと言った。
しかし普段の彼女は至って普通だった。家事も仕事もそつなくこなし、愛嬌もあって美しい。彼女は、曲者揃いのアジトに身を置くことになったが、それをすんなりと自分の居場所としてしまった。それはチームの全員に受け入れられた結果だった。
彼女は本当の自分を曝け出せる環境に身を置けることを、幸運なことだと言った。そして彼女は日に日に快活になっていった。自身の過去に関する話でなければ率先して会話に加わったし、チームのためとあれば率先して動いた。そして毎日を、楽しそうに、そして幸せそうに過ごしていた。
そんな彼女が笑うと場の空気は一気に和らいだ。屈託なく振りまかれる無邪気な笑顔を、リゾットはいつの間にか好きだと思うようになっていた。
逆に彼が今晩初めて目にした、彼女が涙を流す姿は、もう見たくないと思った。そして彼女を泣かせる原因となる何かを、永久に取り除いてやりたいと思った。
願わくば、その末に、過去から解放された彼女にずっと傍にいて欲しいと、リゾットは思い始めていた。
31:The Day That Never Comes
思えば裏切りの心は、暗殺者チームに身を置いた時から既に生まれていた。とリゾットは懐古した。
彼は十八歳で悲願の復讐を遂げ、以降裏社会に身を置くこととなる。齢二十一の時にパッショーネへ入団した。入団当初、暗殺者チームのリーダーから、儀式のような位置づけの初仕事を言い渡された。新入りには毎回やらせること。リーダーはそう言っていた。
暗殺者には、常に冷酷無比であることが要求される。ターゲットに哀れみの念を抱くなど言語道断。仕事は静かに素早く済ませるのが鉄則。例えターゲットが首の座っていない赤子でも、年端も行かぬ子供でも、美しくか弱い女でも、老い先短い老人であっても、その命を摘むことに躊躇など許されない。
それを新入りに教え込む通過儀礼だった。彼は、どこだかの納屋で身ぐるみを剥がされ、椅子に拘束され、顔を麻袋で覆われ……恐らく酷い凌辱を数週間に渡り受けさせられたであろう女性に、止めを刺すように言われた。能力を使わず、ナイフを手に取り、その手で殺してこいとの命令だった。
彼はいとこの娘が死んで、その復讐を果たした時から、とうに自分の心は死んでいる。完全なる虚無だと思い込んでいた。自分の人生に希望など持たない。ただ、死にたくないという漠然とした願望の奴隷となるしかないのだと思い込んでいた。しかし、それが間違いだったとこの時気づくことになる。――躊躇しないわけが無かった。
彼には、絶対的な正義の心があった。それは、彼が今まで生きてきた中で培ってきた価値基準に過ぎなかったが、彼の世界ではそれこそが絶対だった。その絶対的価値基準に基づき、彼は仇を殺し、彼の正義を果たしたのだ。
彼が言い渡された命令は、彼の絶対的価値基準に悖る行為に他ならなかった。早く殺してくれと懇願する女性を前に、彼は自分の運命を呪った。しかし彼に退路は無い。一度足を踏み入れれば、戻る道程など用意されていない世界だ。彼は彼の正義を押し殺し、任務を遂行するしかなかった。
女は反逆者と聞かされていた。だからと言って、蹂躙し、凌辱の限りを尽くし玩んだ果てに殺すなど、鬼畜の所業としか思えなかった。入団当初からリゾットは、パッショーネという組織に、そしてそのボスに反感を抱いていたのだ。
後もその感情は肥大の一途を辿った。相も変わらずボスは、組織に仇なすものと断定すれば、女こども容赦なく殺すように命じてきた。そしてボスは自分たちのこなす仕事によって莫大な富を得ているにもかかわらず、ただの捨て駒としてしか自分たちを扱わなかった。仲間が死んでも、まともに弔いの意を表することすらなかった。汚れ仕事を受け持つ連中と揶揄され冷遇された上、リスクに見合った報酬は一度たりとも用意されなかった。
そして、仲間がふたり殺された。
“罰”と書かれたメッセージカードを掲げられたジェラート。彼は拘束され、猿ぐつわを飲み込み窒息死していた。不審な死に方をした彼を自宅で発見した数日後、殺しを生業とする彼らに想像すらしたくないと思わせる程、残忍な殺され方をしたソルベが送り届けられた。この時、リゾットのボスに対する憎しみは最高潮に達していた。
リゾット・ネエロはこれまで、ボスを裏切る理由に事欠かない悲惨な人生を送ってきたし、それは今も続いている。
死んだ仲間のことを忘れろと言い放った彼自身は、ふたりのことを、そして、これまでボスに散々味わわされた屈辱の日々を忘れたことなど無かった。そしていつになるか検討もつかないが、いずれボスに一矢報いてやると、彼は大きな復讐の炎を燃え上がらせるための種火を心の内に秘めていた。
しかし、そのことを彼は絶対に口にしなかった。彼はただ黙って、機会を伺っていた。確実にボスの寝首を掻けると確信するに足る情報を掴むまで、叛旗を翻すつもりがあることなど、絶対に口にすることは無かった。リゾットがそれを口にした途端、ギアッチョをはじめとする仲間達が蜂起しようと立ち上がる可能性があったからだ。
口にはしなかったが、彼は確かに、死んでいった仲間と今生の仲間に誓っていた。こんなことは終わらせると。それがいつかと明言はできないが、例え自分が死ぬことになろうとも、必ずボスを殺し、チームに誇りを取り戻すと。
――彼は誓っていた。