「私の記憶が確かなのはそこまでよ。その後急に、記憶が飛ぶの。……思い出せない。今まで、思い出したいと思ったこともなくて。いえ、そんな過去が自分にあるとすら思ってもいなかった。私はただ、快楽に溺れたいって、それだけで今まで生きてきたの」
日中は夏が近く暖かい。だが、湿度の低いからっとした空気で夜は冷える。そんな空気の中、ナポリ湾を臨むレストランのテラス席で、とリゾットのふたりが静かに語らっていた。は動揺を隠すようにワイングラスを手に取って、その内容物を一口飲み下す。リゾットは、そんな彼女の様子を黙って眺めながら、重く冷たい昔話に耳を傾けていた。
彼女がアジトに身を置くようになって、それはリゾットが初めて見る表情だった。いつもニコニコと微笑んで表の仕事も裏の仕事も器用にこなし、家政婦さながらにチームの面倒を見て、毎日幸せそうにしている彼女の表情が、今は一転して憂を帯びている。眼下に広がる夜景を瞳に映して煌めく彼女の瞳を、リゾットは不謹慎であることを理解しつつも美しいと思ったが、それよりも彼女が辛そうにしているのが、リゾットにとっても心苦しかった。
はプロシュートとの先の仕事で失態を犯した。ターゲットが確実に死んだことと、ふたりの犯行であると今のところ誰に特定されたわけでもないことで事なきを得ているが、二度目は無い。今後にはあるが、とタッグを組むことになるであろう他のチームメンバーには、二度目は無いのだ。仮にあったとして今回のように事なきを得たとしても、チームリーダーであるリゾットには、その失態がもう一度起こって以外の人間の命が危険にさらされることにならないよう、彼女を追求する必要があった。の抱える、過去の追求だ。
そこまで、と言われて語られたのは、パッショーネに父親と母親の命を奪われ、生家を焼き払われたという過去。そして、ウリーヴォという彼女の養父もまた、がボスの影を追った見せしめに殺されたという凄惨な過去だった。
だが、彼女の過去はそこで一旦途切れる。
「お前の過去には空白がある、ということだな。……思い出せる限りでいい。その後のことを話してくれ」
はリゾットの顔を見て、躊躇した。やはり彼女は、どこか躊躇っている。まるで、自分を守るために自分自身に失わさせていた過去を掘り起こさせまいとするように。だが、は分かっていた。チームメンバーの命を預かるリーダーの責任の重みを。彼女は二の足を踏みながらも自身の記憶をたぐり寄せるように、ゆっくりと話し始めた。
「気付いた時には、私、ふらふらとアマルフィの海岸沿いを歩いていたの。あれは……夕暮れ時だったわ。多分、養父を殺されてから1カ月以上の時は経ってない。……ウリーヴォさんが殺されたのが夏の夜で……アマルフィにいた時もまだ暑かったから。……そして、そこで何故か私は、養父の家に行かなくちゃって思ったの。でも、自分は身分証明になるような物なんて何も持ってなくて。小銭入れに一枚だけ入れてた10万リラ札だけが頼りだった。その時、信じられないことに……養父が殺されたなんて思ってなくて。とりあえずお腹も空いていたから、近くのレストランに寄ったの」
そのレストランで、リコルド・リガーレという男に会った、とは続けた。自分よりも三十歳近く離れた、白髪交じりの温厚そうな男。ウェリントン型の黒縁眼鏡を掛けた中肉中背のその人が、憔悴しきった様子でレストランのテーブルについていた彼女に話しかけてきたと言う。
「何日も寝てないみたいに見える。何かあったのかい?」
リコルドはの対面に腰掛けると、藪から棒に質問を投げかけた。
がアマルフィにいると自覚してから、まだそれほど時間が経っていない内に入った店だ。店に訪れた彼女に挨拶をした店員にがとりあえず水をくれと頼んだきり、彼女は人と話をしていなかった。が店の出入り口付近のテーブル席を陣取って初めて店内に足を踏み入れたのがリコルドだった。彼が、目の下にクマをつくり、茫然自失として窓の向こうに視線を向けるを心配して声をかけようと思うのは必然とも言えた。
「養父の家に……行かなくちゃいけないんです。どうやって行けばいいか教えて欲しい」
はまるで幽霊のようにぼそぼそと呟いた。少し耳が遠くなりつつあったリコルドが眉根を寄せて、彼女の口元に少しだけ耳を寄せる必要があるほどに。そうしてやっと聞き取れたの養父の住所を、リコルドは知っていると言った。
「それは、ウリーヴォさんの農園じゃあないか」
「……父のことを、ご存知なんですか」
聞くところによると、彼は農業用のトラックをウリーヴォに売っていたという。そして、そのメンテナンスも時々自分の店で行っていて、ウリーヴォとはよく知り合った仲だと。
は、ウリーヴォがその農業用のトラックに乗って、農園の外に出ていくのを幾度となく見ていたが、自身が農園から外に出ることが滅多になかったので、今目の前に佇む中老の男性も見たことがなかった。だがリコルドの言うトラックの特徴が、彼女が毎日目にしていたそれと似通っていたことで、はその話を真に受けた。
「大変だったね」
突然、リコルドにそう言われ、は目を白黒させた。無言でリコルドの顔をじっと眺め、次の言葉を待った。すると、リコルドは躊躇いながらも続けた。
「ウリーヴォさんは、亡くなったって聞いたよ。葬式の後なんだろう?……そうか。それで君には元気が無いんだね」
はリコルドのそんな話を聞いて、顔から血の気が引いていくのを感じた。その時の彼女にとっては、寝耳に水だったのだ。それは彼女が目の当たりにした過去だった。だが、その時の彼女はすでに、ウリーヴォがギャングに頭部を撃ち抜かれ死んだという記憶を、完全に失っていた。
は料理も頼まず、アマルフィから慣れ親しんだオリーブ農園までの道筋も聞かぬまま席を立った。いても立ってもいられなかった。彼女が思い出せる限りの最後の記憶。それは、この場所に来る前まで自分がナポリで小金を稼いでいたということだった。そして、知らない内に死んでしまったらしい養父。彼の死に目に会えなかったという絶望感と焦燥感しか、その時の彼女には起こらなかった。衝動的で無鉄砲に移動しようとするを、リコルドは引き止めた。
「行き方、分からないんだろう?」
自分の実家も農園に近いし、なんならここには車で来ているので、農園まで送っていこうと、リコルドが提案した。
「その前に、何か食べたほうがいい。ここのマルゲリータは絶品なんだよ」
はそれどころでは無かったが、リコルドの申し出を無下にすることは無かった。そして、気が染まない様子でピザをふたきれほど口にして水でそれを流し込むと、ふたりは誰もいない農園へと向かった。
彼女が絶望に打ちひしがれていたとき、ウリーヴォが優しく笑いかけ、彼女を我が娘のように扱い、育ててくれた家がそこにはあった。暗い家屋に明かりは灯らない。電気が止められている。玄関口に、蝋燭と蝋燭台とマッチが備えられているのをは覚えていた。蝋燭の明かりを頼りに、とリコルドは家の中へと入っていった。その家はウリーヴォが最後に過ごしたままの形で残っていた。
は何故そうなってしまったのか、詳しい理由も分からないままに膝から崩れ落ち、泣いた。そんな彼女の背中をさすりながら、リコルドは彼女を慰めた。
「……君はこれからどうするんだい?」
そう問われて、は何も答えられなかった。ナポリに戻り、大して好きでも無かった仕事に専念する気にもなれなかった。ナポリにある、養父の持ち家に戻るしかない。だが、その後のことには何も展望を抱けなかった。
私はこれから、何のために生きればいい?何をして生きていけば?
そう思う前の彼女は、パッショーネという犯罪組織への復讐心に憑りつかれていた。だが、今の彼女にとって、それは遠い過去の話だった。父親を殺されたことも、生家と一緒に母親を焼かれたことも、遠い昔の話。復讐心を抱くほどの恨みなどあろうはずもない。憎らしいと思う気持ちが少しも無いわけではないのだろうが……と、は完全に、彼女を復讐へと駆り立てた底知れない怒りや憎しみといった感情を失くしていた。
リコルドは、虚空を眺め、一向に口を開こうとしないを見かねて言った。
「……。もし、君が良ければ、僕のところで働かないか?職場の近くに、アパートも持ってる。君が良ければそこに住んで、一緒に仕事をして欲しい。車のディーラーをやってるんだ。最近立ち上げたばかりで、従業員がまだ集まってなくてね」
そうしては、リコルド・リガーレという男に誘われて、例のディーラーで働くことになったのだった。
30:In Loving Memory
「それで?」
リゾットはに尋ねた。
「私、チームに来る前、チョコラータっていう男に攫われたの。彼もパッショーネの人間だって言っていたわ。うちのディーラーに医者を装って来て、ジャガーを買ってくれるって言ったの。ああ、ジャガーって、イギリスの高級車なんだけれど……。口約束ではあったけど、商談が一応成立した後ディナーに誘われて。てっきり近場のレストランかどこかに行くんだろうと思っていたんだけれど、彼の家に招かれちゃったのよね」
ある程度組織の主要人物については把握していたリゾットだったが、チョコラータという名前に聞き覚えは無かった。きっと新参者だろうと思い、一旦そのチョコラータという男に思いを馳せるのは止め、の話に続けて耳を傾ける。
「そしたらびっくり。気付いた時には身ぐるみをはがされて、寝台に縛り付けられていて……。きっと、彼の家についてすぐに振舞われたウェルカムドリンクに、クスリでも仕込まれていたのね。彼は身動きの取れない私のことをあの手この手で殺そうとしてきたの。最初は腹をメスで裂かれたわ。私、ショックで気を失っちゃったみたいで、その間に一度死んだのよ。……ああ、あの瞬間も最高に気持ちよかったわ」
は陰鬱とした表情から一転して、恍惚とした表情でナポリ湾に視線を投げる。リゾットは、はあっと溜息を吐くとかぶりを振った。
「……お前のその良く分からん脳内麻薬の話は省け」
リゾットは眉根を寄せて苛立たし気に続きを話すようにを急かした。リゾットは、自分が死ぬときの話をすると必ず機嫌が悪くなる。にはその理由が何か分からなかった。彼女は肩をすくめ、その緊張を解いてすとんと肩を落とすと話を続けた。
「相変わらず冷たいのね、リゾット。……そしてその後、理由も良く分からないまま、アジトに送り届けられたの。ただ一言、チョコラータに言われたわ。“パッショーネのために働け”って。プロシュートが後ろから歩いてくる寸前まで、チョコラータに見送られたわ。彼、すごく私のこと殺したがってた……。あれもきっと、ボスの命令だったのよね。私ボスにはだいぶ嫌われているみたい。私が望まない限り、私のことは誰にも殺せないからね。それで、監視されながら組織のために仕事させられてるのよ」
の表情は、また物憂げなものに変わっていた。だが、涙が涸れ果てたのか、気持ちが落ち着いたのかは分からなかったが、どうしようもない悲しみに暮れているというものでは無かった。どうしようもないから現状に甘んじて、死によってもたらされる快感を追い求めている。
それが、今の彼女が語ることのできる、精一杯の過去だった。
は、自分が思い出した過去の出来事を振り返っていた。やはり、信じられなかった。ウリーヴォという養父の死に様を、つい最近まで忘れていたことをだ。
彼はいつも彼女のために家にいた。農園の仕事を手伝っていたが家に帰ると、彼はどんな時も微笑みかけてきた。力仕事の多い農園で精一杯恩を返そうと、もまた彼に尽くしたし、彼が苦手とする料理も掃除も洗濯にも、率先して取り組んだ。最初こそ素っ気なく、ただ与えられた物を受け取るだけだったが、彼女は年を追うごとに成長した。それは、かつて母親に与えられた“愛”を思い出し、それをウリーヴォに与えられていると分かり、彼女もまたそれに“愛”で応えたいと思ったからだった。両親を亡くした彼女にとっては、ウリーヴォという養父は彼女の一部となっていたのだ。
だが、彼女は愛する養父を大切にすることよりも、やはり心の中心で亡き父の影を追っていた。そしてその行動が祟って、愛する養父を失うことになった。今のにとって、その過去は心やましいものだった。死んだ父のことなど放っておいて大人しくしていれば、ボスの怒りを買うことは無かったかもしれない。
リゾットはの表情をやはり黙って眺めていた。養父の死を思い出しても尚、彼女の表情にパッショーネに対する怒りや憎しみといった感情は見つけられなかった。リゾットには、そんな彼女の心情が理解できなかった。両親だけでなく、実の父親と同等か、それ以上に育ての親として愛していた養父が、パッショーネという犯罪組織の餌食となったにも関わらず、平然とパッショーネに身を置き、殺しに身を投じている彼女の心情が。
リゾット・ネエロは復讐の末に人を殺し、真っ当に生きる道を断たれた男だった。彼は、幼い時分に甲斐甲斐しく世話してやっていたいとこの娘を、酒酔い運転をしていたドライバーの車に轢かれて亡くしていた。そしてそのドライバーを18歳の時に殺した。つまり、人を憎み、殺してやりたいと思う気持ちは誰よりも理解できた。実際に復讐も遂げている。
だからこそ、彼にとってという存在は不可解極まりなかった。彼女の心が世間の一般常識からして正常なのかどうかということに、真っ当な世界に身を置いているわけではないリゾットは言及できなかったが、復讐に憑りつかれた過去を持つ彼にとってその心境は到底正常と言い難かった。彼女に語られた過去から推察するに、彼女は並々ならぬ憎しみと怒りを持ってパッショーネ壊滅のため情報収集をしていた。だというのに、養父の死を境に復讐を遂げたいという精神がぱたりと無くなっている。それを不自然だとリゾットは思った。
そこでふと、メローネがニューヨークから戻ってきた夜にした話を思い出した。――彼女は何か抱え込んでいる。見るも悍ましいなりをした死神のようなスタンドが、彼女の内側に潜んでいる。
スタンドとは精神力の塊だ。能力を持つ主の精神、つまり心が生み出す“力”だ。そんなスタンドの見た目や性格や性能といった個性は、主の心に依存するところが大きい。
そしてリゾットは、ひとつの仮説にたどりつく。・は、その精神を何者かに制御されている。そして仮に制御されていたとすれば、それはおそらく養父が死んで彼女が意識を取り戻すまでの一カ月となかった空白の期間にそれが施されている。
ボスはに永遠に死んでほしいと、心の底から思っている。チョコラータとかいう猟奇殺人趣味の男を彼女に差し向けたのは、どうしても死なない彼女をどうにかして殺そうとしたからだ。チョコラータという男が、人を殺すということに対してハングリー精神を欠かさない、恐らく常人が思いつかないであろうありとあらゆる“殺し方”を見目麗しい女性に試せる最低最悪の精神力を持った狂人である、という特性を知り尽くしたボスの計らいだったのだろう。
それが何故、養父が殺されてから数年経ったつい最近になって実行されたのかまでは分からなかったが、そこまででリゾットの推察は一旦終了した。そしてその空白の期間に、彼女とボスを繋ぐ何かがあるのではないかと、彼は漠然と思った。
そこまで考えて、リゾットは重たい口を開いた。
「オレ達は、お前がチームに来る前に……仲間をふたり、失っている」
今度はがリゾットによって語られ始めるチームの過去に耳を寄せ、沈黙し、そして悲し気な顔を目の前の男に向けることになった。