の母親、リメッタ・はの父を避けた。子は授かれなかったが、父は妻を心の底から愛していたからだ。愛人でしかなかったリメッタは、彼の愛を勝ち取れないと知ると早々に田舎町へ移った。彼女が愛する者を忘れるための、できる限りの逃避だった。
だが、リメッタはやがての父との子を授かっていることに気付く。彼女は中絶を考えながらも中々決心がつかないまま、そして誰にも相談することなく日々の生活を送っていた。程なくして、経験のある女性が見れば妊娠していると分かる程に腹が膨らんできた頃、彼女は初めて胎動を感じた。その時、中絶を選択肢として思い浮かべるなど、自分がどれほど恐ろしく愚かなことを考えていたのかと後悔した。そうして望まれて生まれてきたのが・だった。
リメッタは器量も愛想も良かったので、の夜泣きに疲れると近所の子育て玄人に世話を頼んで息を抜き、仕事の間は近くに住む母親に世話を頼んだ。稼ぎは少なかったが、ふたりで過ごすには十分だった。彼女は娘を愛していた。あやせば笑い、泣いていても抱き上げればすぐに泣き止む娘と同じベッドで寝ると、日々の疲れが吹っ飛ぶようだった。もちろん、毎日毎日笑顔でいられるほど、シングルマザーでいることは楽では無かったが、娘に必要とされているということが、彼女にとっては幸せで生き甲斐だった。
自分にはお父さんと呼ばれる男性がいない。そのことにが気づいのは、彼女が保育園に通いだした頃のことだった。そのことを寂しそうな顔をした娘に指摘された時、リメッタは心を痛めた。だが、絶対にあの男には頼らないと頑なに決心していた彼女は、自分が父親分の愛情をへ注げば何も問題は無いと思った。父親は事故で死んだのだと名前すら教えずに嘘をつき、その場をやり過ごした。
父親は死んだ。幼いながらに衝撃を受けたのだろう。それは、が生まれて片手で数えられる程にしか年が経っていなかった時に一度だけ聞かされた事だったが、彼女はしっかりと覚えていた。だがじきに、それが母親の嘘だったと知ることになる。
父親が、突如として家を訪ねてきたのだ。が6歳になった頃だった。
名を、グラナート・エテルニタと言った。叩かれた戸を開けたのはだった。グラナートがを見て、感極まって何か話しかけようとしたところで、の後を追ってきたリメッタが顔を出した。リメッタは顔を蒼白させて、を自分の部屋にいるようにと追い立てた。は絶対に下に降りて来てはいけないと母親に言われたが、母親を心配して言いつけを破り、訪ねてきた男と母親がリビングで何か神妙な面持ちで話す様子を見ていた。話の内容を聞いて、は愕然とした。母親は嘘を吐いていたのだ。父は死んでなどいなかった。今まさに、彼女の目の前にいるのが、恋しくてたまらなかった、顔も名前も知らなかった父親だったのだ。
グラナート……私の、お父さん……。
とてもハンサムな顔つきをしている、と幼心には思った。学校の授業参観とかで見る友達のどのお父さんよりもかっこいい。まだ話してもいないのに、は父親を誇らしく思えた。しばらく父親の顔に見入っていたので、何を話しているのかということに関心が向かなかったが、ふと母親が立ちあがったのを見ては慌てて壁の影に隠れた。すると母親が、呆れた様子での前に立った。
「まあ。盗み聞きなんてする子に育てた覚えはないわよ。」
リメッタはを窘めたが、困ったように笑ってしゃがみ込み、を抱きしめた。母親の抱擁は慈愛に満ちていて、とても長く続いた。何だか、永遠の別れを前に抱きしめられているようだと、はぼんやりと思った。リメッタはを解放すると、彼女の背後にまわって背中を押した。
「あの男の人がね、あなたとお話したいって」
そう言ってグラナートの傍にをやると、母親はキッチンへと向かった。母親の後を目で追ったが、ソファーに腰掛ける父親の方へ視線を戻すと、よく顔もうかがえない内に抱擁を受けた。
「やあ、。僕の可愛い子」
グラナートはそう言ってを長いこと抱きしめた。これが、の父親との出会いだった。
この時、は人生で初めて恋に落ちていた。それを恋心とついぞ知ることは無かったが、人見知りしない子供と称される以上に、は自分の人生にすんなりと父親を受け入れてしまった。リメッタはそんなの姿を複雑な心境で眺めていた。今まで必死に育て愛してきた娘に裏切られたような気持ちがした。彼女は、に父親を拒絶して欲しいと思っていたのだ。だが、それはどうにも叶わなそうだと、人知れず溜息をついた。
グラナートは、突如として姿を消したリメッタをずっと探していた。彼は近くに住むリメッタの母親の元へ何度も押しかけては、娘の居場所について嘘を吐かれ追い返されていたらしい。嘘で言われた地を歩き回ってリメッタを探しては、そんな女この街では見ないと言われてナポリへ戻るという徒労を繰り返していた。彼も仕事があって暇では無いし妻もいたことから、リメッタの捜索になかなか時間をかけられなかった。こうして、自分に子供がいると知らずに六年もの歳月を過ごしていたのだ。
彼は子供が欲しかった。もちろん、自分がギャングであることで苦労をかけることになるとは分かっていたが、周囲の人間が結婚し、子供を授かり、幸せな家庭を築き上げていく様を見ては羨んだ。妻との間には子を授かることができなかったが円満な夫婦生活を送れていたし、彼は妻を愛していたので傷つけまいと子供の話などは絶対にしなかった。だが、自分の望みを叶えられないことで、どこか鬱屈としている自分に嫌気がさしていたのも事実。そんな折に、彼は風のたよりで、リメッタの母親――の祖母の家を幼子が出入りしているという話を聞いたのだ。問い詰めると、祖母はしぶしぶ白状した。リメッタの子供だと。それを、お前の子供だとは言わなかったが、グラナートは町中を駆け回って彼女を探した。そう大きな町でも無い。かつて愛した女は、すぐに見つかった。そうして、喫茶店で働いていた彼女の仕事が終わるまで近場で待ち、後をつけて彼女の家の扉を叩いた。
が自分との子だと知ったグラナートは、当然の様に金銭的支援を申し出た。リメッタは断固として拒否したが、自分の子でもあるのためだと言って引き下がらない彼の申し出を、なくなく受け入れた。そして、月に一度、と過ごすことを許してほしいという申し出もされた。リメッタは図々しいと嫌がったが、がグラナートに会うたびとても喜ぶので、のためと思ってその申し出も受け入れた。リメッタは、とグラナートが一緒に過ごしている間は家を離れて、恋人と旅行に出るようになった。彼女は絶対に、グラナートと家族ごっこをしてやるつもりはなかった。それが、彼女がへ自分の意思を知らせる唯一の方法であり、かつて愛した男への復讐だった。
こうして、思春期を迎えたと母親はすれ違うようになる。は自分に嘘を吐いていた母親を裏切り者のように思うようになり、決して父親と一緒にいることを良く言わない彼女を疎ましく思うようになった。リメッタは、を育てることを放棄することは無かったが、ある程度手がかからなくなってきたとき、身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてやるのを止めるようになっていた。彼女もまた、に裏切られたように感じていたのだ。突如訪れた父親を、いともたやすく受け入れたからだ。それでも、ふたりは同じ空間で過ごしていたし、表立って激しい喧嘩をしたり、激しく拒絶しあったりはしなかった。全く愛情が無くなってしまったわけでは無かったが、ふたりの間には確執が生まれていた。
そしてが十二歳の時、パッショーネによってグラナートは処刑される。その知らせを受ける間もなく、の生家に一人の男が押し入り、ベッドで眠るリメッタと、ガレージにこもっていたを射殺し、家に火を放った。は確実に一度死んだが、その時、特殊能力で復活を果たした。
は、額に銃痕を残し、焼けただれてしまった母親の亡骸を見て涙し絶望したが、すぐにその場から立ちあがった。そして自分たちを襲った悲劇を、周囲の人間に知らせようとは思わなかった。父親がギャングだと知っていたは、歳の割に大人びた思想を持ち利に聡い性格だったので、迂闊に自分が殺されかけたことや、自分が生きていると周囲の人間に言うべきではないと思ったのだ。この時から彼女はパッショーネというギャング組織に並々ならぬ憎悪を抱き始めていた。父親が死んだと知った時、その憎悪はさらにの心に深く根を差した。彼女の憎しみと怒りが、確実に彼女の心を蝕みはじめた瞬間だった。
29:Alive
「何かあったら、この人を尋ねなさい」
は、母親を殺され生家を焼かれた後、生前の父に言われた場所へと向かった。は人目を避け公共交通機関を使わず、身一つで――駅に打ち捨ててあった放置自転車を拝借し――ウリーヴォ・ラメットという男の元を尋ねた。
そこは公共交通機関もろくに発達していない田舎町だった。山の麓にある、広大なオリーブ農園の中にポツンと、こぢんまりとした古い家が建っていた。父親に一年ほど前、誰にも教えてはいけないと言って渡されたメモを頼りにたどりついたその家は、小高い丘の上に建っていた。山の向こうに、小さくシチリア島が見えた。
一人の農夫が、煤けた服を身に纏い暗い顔をしてシチリア島を眺めている少女に気付いた。どうかしたのかと尋ねると、少女は憔悴しきった顔で一言も話さず、メモ用紙を男に手渡した。
「これは……グラナートさんの字だね。君がちゃんか。父上から、話は聞いているよ」
男は柔和な笑みをたたえ、を家へと迎え入れた。
ウリーヴォに子供はなく、妻は数年前に他界していた。彼は天涯孤独の身で、数人の従業員を抱え細々と農園を切り盛りしていた。彼は過去に農園を開く際、グラナートに作った借りを返したいと常々思っていた。その機会がやっと巡ってきたのだと、を見て嬉しく思った。グラナートは、金銭的支援をしてやったというだけで、大した貸しとは思っていなかったが、ウリーヴォにとっては違った。そして、彼はグラナートという男の人柄の良さに魅了された人間のひとりでもあった。なので、もし自分に何かあったら娘をよろしく頼む、という彼の頼みも、二つ返事で引き受けた。彼がギャングで、彼の身に起こるであろう“何か”が厄介事以外の何物でもないことを分かっていながらである。
ウリーヴォはグラナートに、多額の資金と偽名のパスポート、クレジットカード、銀行口座等、が将来必要になるであろう全ての物を託していた。そして彼女の成長を見守るようにと言われていた。彼こそが、の養父だった。
ウリーヴォはまるで自分の娘のようにに接した。彼がグラナートに預かった多額の資金にも一切手を付けず、彼女が安全に、安心して暮らせる環境を提供した。はそのことに心から感謝していたし、徐々にウリーヴォへ心を開くようになった。だが、彼女が心の底から笑う姿を、ウリーヴォは見ることが無かった。
は復讐を誓っていたのだ。自身からすべてを奪ったパッショーネという組織を決して許しはしない。そしてパッショーネという組織を壊滅に追いやるために、人生を捧げると。そして、彼女は十八歳の時に独り立ちのためにウリーヴォの家を出た。独り立ち、というよりも、パッショーネへの復讐に自分の人生の全てをかけるためだった。
ウリーヴォは、若かりし頃にナポリの市街地付近に買った小さな持ち家をへ貸すと言った。はその申し出を喜んで受け入れた。彼はバイトで食いつないでいるらしいを気遣い、月に一度はその家を訪れて新鮮な野菜や日持ちのする缶詰などの食べ物を差し入れた。その内に、が亡き父親の影を追って何か物騒なことに足を突っ込んでいるのではないかと思うようになった。
だが、危ない真似は止めるようにとへ伝える前に、彼はの住む家で、パッショーネの人間によって“処刑”されることとなった。それはが十九歳の時。仕事終わり。冷たい雨が窓に叩きつける夜のことだった。