ニューヨークでインヴィートに問い詰められた時、は彼にこう言い放った。父が殺された当時自分はギャングではなかったので、鞍替えも何も無い。父が殺されたことに対して怒りだとか憎しみだとかはてんで湧いてこないし、そんなことよりとにかく自分は死にたいのだ。と。
もう十年以上会っていなかった彼に、父親を殺されたのにパッショーネにいるのはおかしいと指摘されても、はそれを少しもおかしいと思えなかった。
確かに彼女は、父親を殺された当時底知れない怒りと憎しみに囚われて、父親を殺した者を追っていた。そして、父親を殺した“パッショーネ”という組織を壊滅させるには、頭を取るのが手っ取り早いとボスの存在に探りを入れたのだ。今の彼女には、昔の自分がなぜそこまでして亡き父の仇を討とうとしていたのか理解できなかった。
その結果招いてしまったのが、愛する養父の死。故人を追う自分の身勝手で軽率な行動が原因で、生者の――愛する者の命がいとも容易く奪われてしまった。はその後、亡くなった養父をどうしたか、そしてその後自分はどうなったのかと考えたが、すべてを完全に思い出すことはできなかった。
そんなあやふやな記憶を頭に思い浮かべたまま、自身が現在身を置いている環境や心境を正当化するために、は自分に言い聞かせた。
彼の死で、私は目を覚ましたんだわ。ボスを追えば追うほど、自分は愛する者を失っていくって……。そう、あのメッセージカードに書いてあった呪いの言葉通りになるって思い知った。だから私はボスを追うことを止めたのよ。きっと、そう……。
自分は決しておかしくなんかない。狂ってなんかいないんだ。
言い聞かせてはみたものの、彼女の意図に反して、瞳からは涙が零れ落ち続けていた。ボロボロととめどなく湧き出るそれは、赤いアルファロメオを見た時や、インヴィートに昔のことを思い浮かべさせられた時ほど簡単に、短時間で止まるような気配は無かった。
「おかしいな……ごめんなさい。私、何でこんなに……」
プロシュートは涙を流しつづけるを前にして、未だにどう声をかければいいかわからず口を噤んだままだった。泣き続けるが手の甲で涙を拭うのを見て、彼はポケットチーフを取り出し彼女に差し出した。はまたごめんなさいと言ってそれを受け取った。
他の女性相手であればいとも容易く出せる、慰めの言葉や、優しく頭を撫でる手。今の彼にはそれが出せなかった。彼女の過去を思うと胸が苦しくなった。その過去に悩まされている彼女の痛ましい姿を見ると、身が引き裂かれそうな思いがした。彼にとってはとても他人事として済ませられるような、軽々しく慰められるようなものではなかった。そしてそもそもが、今彼が前にしているのはいわば職場の後輩なのだ。
ターゲットの前でぶっ倒れたのがペッシなら、オレは今ごろあいつの顔を踏みつけて怒鳴り散らしてるだろうに。
ふと、プロシュートはそんなことを思った。の場合理由が理由だが、殺したターゲットのすぐ傍で放心状態になって身動きが取れなくなるなど、暗殺者としては致命的なミスだ。殺人に気付いた隣人や警官なんかが駆け付けたとき、暗殺者が殺した人間の傍に立っていたらそれは到底“暗殺”とは呼べない。今回は幸い事なきを得そうだが、同じようなハプニングが再度別の仕事で起こったとして、そのときもまた無事に済むとは言い難い。
彼女は記憶を喪失していた。喪失していた過去に酷似した光景を見せつけられ、それを思い出してしまい、著しいショック状態に陥った。知りもしないことを予見して、未然に防止するのはとても困難なことだ。だから彼女を執拗に責めることはできない。しかしながら、だからと言って彼女は仕事の責任から逃れられる訳ではない。
「……」
プロシュートは意を決して、重い口を開いた。
「お前は嫌うだろうが、今日のことはリゾットに報告させてもらう」
「いいえ。……当然のことだわ」
はハンカチで涙を拭いながらそう答えたが、プロシュートと目は合わせなかった。泣きはらした顔を見られたくないのだろう。そんな彼女に同情の言葉一つかけてやれない自分に腹を立てながら、プロシュートは立ちあがって、の頭をくしゃりと撫でた。
「お前が軽くて良かったぜ」
今回のことは気にするな。と言ってしまうと、ペッシを始めとする他のチームの仲間たちに示しがつかない。しかし、彼女のことは必要以上に責め立てたくない。彼が考えに考え抜いた挙句口にした言葉がそれだった。
「今日のところはひとまずシャワーでも浴びて、早く寝ちまえ」
「ええ、そうする」
はゆっくりと立ち上がると、ハンカチを手に持ち頬に当てながらバスルームへと向かった。いつもしゃきしゃきと動く彼女の姿が嘘のように、今のの後姿は物憂げで、弱々しく見えた。プロシュートはそんな彼女がバスルームの扉の向こうへ消えるのを見届けると、苛立たし気に頭を掻いた。
オレは一体何を考えてる……。
暗殺者の先輩として振舞いたい彼の理性と、ひとりの男として彼女を掻き抱いてしまいたい本能とが、プロシュートの中でせめぎ合っていた。これは仕事なんだと先程から何度も自分に言い聞かせてはいたが、彼女の初めて見せた弱々しい側面に打ちのめされ、プロの暗殺者としての彼の信念が揺らぎそうだった。
の前だと、どうも調子が狂っちまう。
プロシュートは少し頭を冷やそうと、客室のベランダに出て夜風に当たることにした。だが、そこで考えるのもやはりのことだった。
28:Help On The Way
が養父とどれほどの仲だったのかをプロシュートは知らない。だが、彼女のあの泣き方から察するに、それ相応に愛していたはずだ。だというのに、彼女はただ悲しみだけを表に出して、さめざめと涙をこぼすだけだった。怒りだとか憎しみだとか、そんな感情が彼女の口から吐き出されることは無かった。
父親を殺され、母親と生家を焼き払われ、次に養父まで奪われて、彼女は悟ったのだろうか。パッショーネに仇なす者は皆、それ相応の代償を求められるということを。特に、ボスに関して探りを入れることは絶対のタブーだ。彼女は彼女自身が死なないが故に、どれだけの代償を支払ってきたのだろう。それとも彼女は今も尚、代償を支払い続けているのか。はたまた、組織のために働くことでそれは免れているのだろうか。
の過去をすべて白日の下に晒す。その上で、何のわだかまりも無く仲間として接したい。それができればベストだ。だが、彼女が過去を語りたがらないのには何か理由がある。実際、今しがたそれが証明された。愛する者を、自分が組する組織の人間に殺されていたという、あまりに悲惨な過去だ。きっと、自分が組織のことなど追っていなければと、必要以上に自分を責めただろう。そして、うら若い女性が目の当たりにするには、あまりにも残酷な絵面だっただろう。彼女の防衛機制が、その記憶からを遠ざけていたという理屈にも頷ける。それは彼女を守るために無意識のうちに彼女自身が封印した記憶だ。思い出させることに何のリスクも伴わないとは言い難い。
彼女の過去に暗い影を落とす記憶が、今回のことで出揃ったのならまだいい。しかし、彼女の秘密はそれで全てか?まだ何か彼女が彼女自身に忘れさせている過去があるんじゃないか?迂闊にそれを聞いてしまって、彼女が忘れていた“復讐心”を思い起こさせることはないか?
仮に復讐心を取り戻した彼女が、暗殺者チームに身を置いた状態でボスに叛旗を翻してしまったら……?ボスがを監視しろというのは、回りくどい脅迫のようなもので「彼女の過去を探り彼女を制御できなくなれば、お前たちに命は無い」というメッセージなのか?
――考えれば考えるほど深みにはまる。プロシュートはベランダの手すりに背を預け、とりとめのない思考で飽和した頭を振って項垂れた。もう考えるのはやめようと部屋に目を向けると、バスローブに身を包んだがベッドへと腰掛けるところだった。バスルームが空いたのなら、とプロシュートはおもむろに客室へ戻った。
の傍を通ると、ドライヤーをあてたばかりで、まだ少し湿り気を帯びた髪からシャンプーのいい香りが漂ってきた。まとめ上げていた髪を下ろし、片側に寄せて保湿クリームを塗るの姿はとても扇情的で、考えることを止めたプロシュートの本能を擽った。だが彼は毅然とした態度でバスルームへと向かった。
プロシュートがバスルームに入ると、真っ先に目に飛び込んできたのは、タオルハンガーに吊るされたドレスだった。胸元だけが濡れている。
洗ったのか……?
ふと、を抱き上げて殺したターゲットのもとから離れる時、そこそこ強めの赤ワインの香りが漂ってきたのを思い出した。逃走中はそんなことを気にかける余裕はなかったし、黒地のドレスに目立つシミは確認出来なかった。洗われたと思われるそれを見て初めて、自分が手渡したワインが悪さをしたのだろうと、プロシュートは思い至った。
胸元にワインをこぼして男の同情を誘い、もうパーティには戻れない、そんなシンデレラを演じたのか?この場合の自分は、王子になれるのか?はたまた、彼女の美を引き出しただけにすぎない魔法使いでしかなかったのか?
シャワーを浴びながら、プロシュートは彼女の美しい姿に思いを馳せた。ボールルームで彼女と踊っていた時、仕事を忘れそうになるのを必死に堪えていた。表情を読めなくする仮面を剥ぎ取って、仕事に集中できないと恥じらう彼女の顔を、じっくりと見てやりたいと思った。
だが、あんな風に踊っていられたのも、それが仕事だったからなのだろう。仕事だから、は誰とでも踊るし、誰とでもキスをする。オレがキスしようとしたときは拒んだくせに。仕事じゃないからか?なら逆に、リゾットに命じられた仕事なら、お前は誰とでも寝るのか?こんなにもオレの心はお前に掻き乱されているのに、お前はオレのことを何とも思ってないのか?さっきだって、あんなに悲しそうな顔を見せて泣いていたのに、胸を貸せとも言わなかったし、頼ろうとする素振りすら見せなかった。――一体何なんだ?
気づくと彼は体を洗うことも忘れ、ただただ頭上から落ちてくるお湯に打たれていた。そもそもが無理だったのだ。と、プロシュートは苛立たし気に据付のボトルのポンプを数回押して、シャンプーを手に取った。爪を立てて荒々しく洗髪するのは、のことでいっぱいになった頭をどうにかしたいという意思の表れだった。
監視のことさえなければ、彼女と同じ部屋で寝るなんてことにはならなかった。もはや監視と言っても、今彼女からは目を離しているし、ボスに命じられた監視に求められているクオリティーすらよくわからない。こんなことなら、メローネの言う通り、定点カメラでもしかけて別の部屋を借りるんだった。と、プロシュートは後悔していた。
彼がバスルームを出ると部屋の明かりはついたままで、は先程までのプロシュートと同じように、ベランダに出て夜風に当たっていた。肩に少しかかるくらいの長さの髪をタオルで覆い水を拭いながら、プロシュートはの傍に近寄っていく。
「早く寝ろって言ったろーが。風邪ひくぞ」
プロシュートはフェンスに寄りかかりの隣を陣取って夜景を眺めながら言った。するとは困ったように笑いながら、プロシュートの顔色を伺った。彼女の視線に気づいたプロシュートは、チラと横目でを見る。
「……眠れそうにないの。そんなお父さんみたいなこと言わないで、ちょっと好きにさせて」
「お前死にはしねーが風邪はひくんだろう?」
「ええ。人並みにね。死にはしないけど、残念ながら免疫力は人並み」
「ならダメだな。せめて部屋に入ってろ。無理に寝ろとは言わねー」
そう言ってプロシュートは部屋へと戻り明かりを消した。ベッドのヘッドボード側の壁に据え付けられたラインランプの明かりだけが、ほんのりと部屋を照らしている。プロシュートは、に手渡したあとナイトテーブルに置かれたミネラルウォーターのボトルを呷り喉を潤すと、が寝る側のベッドに背を向けて身を横たえた。
ガラガラと音を立てて、ベランダの扉が閉められる。そして、部屋に戻ったであろうが履いたスリッパと、床がこすれる音が静かな部屋で響く。それは段々とプロシュートの背後に迫ってくる。音が止まって、五秒程度無音の状態が続いた。その後、プロシュートが身を横たえている腰のあたりのスプリングが沈みこむ。マットレスを這う手がシーツを捲りながら近づき、やがてプロシュートの脇腹のあたりに添えられる。まるで夜一人で寝るのを怖がる子供が父親の寝床に潜り込むように、何も言わずに、はプロシュートと同じベッドに身を横たえ、シーツの中にもぞもぞと入り込んで彼の背後に体を沿わせた。
「おい。場所、間違えてるんじゃあねぇのか。ここはオレのベッドだ」
「分かってる……でも、ごめんなさい」
プロシュートは気が狂いそうになった。オレは自分の意思で男のベッドに潜り込んできた女を放っておけるほど紳士でもなければ、意気地なしでもないし、勃起不全症なわけでもない。それが、さっきから頭を悩ませてくる女なら尚更だ。ごめんなさいで済む話じゃない。
「お前……覚悟できてんだろうな?」
そう言ってプロシュートはむくりと起き上がると、の横向きの体を仰向けにして肩をマットレスへと押さえつけた。そうして現れたの表情に、プロシュートは再度打ちのめされる。
下唇を噛み締めて必死に泣くまいと堪えていたが、既に彼女の瞳には涙が浮かび上がってきていた。瞬きをすれば涙が零れ落ちてしまうと、必死に目を閉じまいとするが、堪えきれずに眉を寄せながら目をぎゅっと瞑ると、大粒の涙が零れ落ちる。
「ごめんなさい。ひとりでいると、色々考えちゃって……でも、考えても、考えても……何も思い出せないの。私、何か大事なこと……忘れてる気がするって、思ってた……。今日……思い出したのが、それだったのかもしれない。でも、納得いかなくて……考えても、考えても……分からないの。なにも……何もわからない……。私がおかしいの?……気が狂ってるの……?さっきから、どうやっても涙が止まらないの……でも、私には、なんで自分が泣いてるのかもよくわからないの……それなのに、苦しくて、苦しくてたまらない……」
は無様な自分の顔を見られまいと、きつく拳を握りしめた右腕で目を覆い隠した。プロシュートは彼女の肩を押さえつけていた手を離した。欲に煽られて彼女を襲おうとした自分の浅はかな行動に嫌気がさして深い溜息を吐く。
彼女が求めているのはオレじゃない。今ここにいるのが、メローネでもホルマジオでもイルーゾォでも……他の誰であってもきっと彼女は、安心するために背を借りにきただろう。自分はたまたま、彼女が自分の過去に直面して取り乱しているところに、運良く――彼女にとっては最悪な一日だっただろうが――居合わせただけだ。それは、彼女が先程からずっと言い続けている“ごめんなさい”という謝罪の言葉にも現れている。愛しているわけでもない男のベッドに潜りこむことが悪いこととは分かっているが、今はただ泣かせてほしい。そういう意味だ。
「私、怖いの。全部思い出すのが……怖い。でも……思い出さないと、あなたたちに迷惑がかかるでしょう?今日、みたいなことが……また起こったら……って、思うと……私は死なないけど、あなたたちは違うもの……私が足をひっぱって、死んじゃったらって……思ったら……怖いの……。仕事でしくじって、クビになるのも……イヤ。私……こんなに、生きてて良かったって……楽しいって、思えたの……初めてなのに……あなたたちから、離れたくなんてないのに……」
プロシュートはたまらなくなった。彼女の顔を覆う腕を取って、それを枕へと押し付け、鼻先が触れるか触れないかという距離まで顔を近づける。そして彼女の泣きはらした目を、しばらくじっと見つめていた。
迂闊に慰めの言葉を吐けないなんて、ただの言い訳だ。こいつがどこで、どんな状況でぶっ倒れようが、オレがへましなきゃいい話だ。そしてオレがどんな状況にいようがお前を連れて帰ればいい。仲間の失敗をカバーするのは当たり前のこと。何のためのツーマンセルだ。だがこれだって言い訳だ。オレは今、苦しんで、自分の前で弱さを見せてくれたお前を、抱きしめずにいられないってだけなんだ。誰が見てるわけでもない。誰が咎めるわけでもない。今は、オレに慰められてればいい。それでお前が安心できるってんなら背中だって胸だって、何だって貸してやる。だからどうか、泣かないでくれ……お前が泣いてるのを見るのが辛いんだ。
溢れ出る感情を押し殺すように、プロシュートはゆっくりと言葉を紡いでいく。
「。お前が何を思い出したって、オレ達はお前を見捨てたりしない。お前に心配されるほどオレ達はヤワじゃあねーんだ。だから、安心しろ。お前はひとりじゃない。オレ達はいつだってお前の傍にいてやれる。監視が仕事だからってワケじゃあねーぞ。お前はもう立派なチームの一員なんだ。だから自信を持て。怖がるな。……そして、今はオレがついてる」
プロシュートは彼女の目尻から零れる涙を親指で拭い、愛おしげに頬を手のひらで覆った。そしての額に優しいキスを落としベッドに身を投げると、の浮いたうなじとベッドの間に腕を差し込んで、彼女を荒々しく抱き寄せた。
プロシュートの高鳴る心音が、を安心させた。不思議と緊張などはなく、プロシュートの腕の中は暖かくて心地よかった。彼女の出所の分からない不安と恐怖がゆっくりと熱に溶けて消えていくようだった。
「思う存分泣け。気が済むまで泣いたら、寝ろ。早く寝ねーとどうなったって知らねーからな。わかったか?」
は無言でこくりと頷くと、擦り付けるようにしてプロシュートの胸に顔を埋めた。愛らしい素振りを見せ、尚もひくひくと身体を揺らし泣き続ける彼女の頭を撫でながら、プロシュートは思った。
……これ、マジに辛抱できるのかオレは。いや、できる訳ねーわな……。