暗殺嬢は轢死したい。

 例の政治家とターゲットの男ふたりは、パーティ会場と同階に位置するやや小さなバルコニーへと向かって歩いて行った。近くには彼らふたり以外に客はいない。辺りを見回してそのことを確認したターゲットの男は、何やら書類やCDケースやらを政治家へ手渡しながらこそこそと話をし始めた。そんな様子をは廊下の角から盗み見ていた。

 程なくして、政治家の男だけが先にパーティ会場へ戻ろうと、が身を隠す方へと向かってきた。はとっさに角から頭を引っ込めて、政治家の男が自分の前を通り過ぎるのを待った。そして男はの存在に気づくことなく彼女の前を通り過ぎていく。はふと、その男のがっしりとした肉付きのいい手元に携えられた黒のブリーフケースを見つめた。

 あの中身は放っておいていいのかしら?

 あのカバンの中には恐らく、パッショーネが数多の幽霊会社を所有していることや、カジノ施設と共謀して金をやり取りしていることとか、不法に開設されている数多の銀行口座の情報だとか……扱うにはあまりにも危険極まりない証拠が大量に収められているはず。だが、彼女は自然に次の結論に思い至った。

 そうか……ターゲットを今夜“処刑”してしまえば、あの政治家さんにもきっと分かるのよね。パッショーネを敵に回してしまったってことが。

 そして内省した。特に証拠を隠滅するように命令があったわけではない。言われたことを、言われたようにやるだけ。変な気を利かせる必要は無いのだ。

 幸い、ターゲットはまだバルコニーのフェンスに身体を預け、ぼうっと夜景を眺めていた。まるで今生に別れを告げているかのように黄昏ている。と、思うのは、彼が死ぬと分かっているだけだ。彼女は意を決して、プロシュートに手渡された赤ワインのグラスを手に持ったまま、酔ったふりをして男へと近づいていった。

 男に話しかけるまであと二、三歩、というところだった。男が突然、パーティ会場に戻ろうと踵を返した。の計画ではそのつもりでは無かったのだが、振り返った男の身体がが手に持っていたグラスにあたり、赤ワインは盛大に宙を舞い、彼女の胸元を濡らしてしまった。

「おおっと、すみません。突然振り返ってしまって……」
「ああ!私ったら……なんてこと……!」

 は申し訳なさそうな顔をして男の顔を見上げた。男はのワインで濡れた胸元をじっと見つめている。そして数秒経つと我に返り、慌てて胸ポケットからペイズリー柄のハンカチを取り出した。

 はありがとうと言うと、男の手からハンカチを受け取り、胸元のワインを拭い取った。せっかくプロシュートに買ってもらったドレスが台無しだ、と本気で残念に思っていた。早く脱いで、シミにならないうちにできることはやってしまいたい。

「ごめんなさい。ちょっと、酔っぱらっちゃったみたいで……。少し風にあたりたかったの。あなたのことはちゃんと見えていたはずなのに、私、ちゃんと順番を待っていれば良かったんだわ……本当に、ごめんなさい」
「いや、いいんだ。私が悪い。それにしても、きれいなドレスが汚れてしまったね……」
「そうね……。早く部屋に戻って、水洗いしなきゃ。ああ、この汚れ……取れるかしら」

 はそう言いながらグラスを呷り、残っていたワインを飲みほした。そして、わざとらしくない程度にふらりとよろけて見せる。男は笑いながらの身体を抱きとめた。

「君、だいぶ酔ってるんじゃあないか?ふらふらだ」

 はコケティッシュな笑みを浮かべ、男を誘うように言う。

「そうかもしれない。私、今日とっても浮かれちゃってて……。でも、このパーティも私にとってはもうお終いね。ドレスがこんなじゃ、あとはひとりで部屋に戻って寝るだけだわ」
「ああ、寝る前にちゃんとドレスも洗わないと」
「そうね、そうだわ……でもそれも、酔っててできるかどうか……」

 男はの言葉尻から、彼女がひとりでホテルに部屋を取っていることを汲み取った。そして、彼女がドレスを脱いだ後の姿を想像した。もちろん、彼女がドレスを脱ぐと間接的に伝えたことも、部屋に戻ったらひとりだとほのめかしたことも、あからさまにが仕掛けた罠だった。だが彼は今、自社で行っている資金洗浄の証拠という重荷を分け、政治家に内部告発の片棒を担がせた解放感で気を緩めている。そして仮面を付けていることで、自分が誰かなど誰にも分からないと思い込んでいる。そんな彼を部屋に誘うことなど、にとっては容易なことだった。
 
「部屋まで送ろう。そんなに高いピンヒールじゃあふらふら歩いてるうちに足首を捻りそうで、危なっかしくて見ていられないよ」
「ありがとう。嬉しいわ!私実は……その……このまま一人で寝ることになるなんて、寂しいなって……思っていたの。ごめんなさい。あなたにそんなつもり、無いわよね。今夜はおひとりじゃあないんでしょう?」
「いや。生憎独身でね。一人で来たんだ。だから……キミがそのつもりなら」

 は恥ずかし気に微笑むと、男の腕を取り自然と身体を寄せて肩へ頭を預けた。

 ワインをこぼしたのは逆に良かったかもしれない。

 彼女が男に近寄って5分と経たない内に、は男を客室へと導き出すことに成功してしまったのだ。逆にプロシュートの準備はできているだろうか?と少し不安に思ったが、彼は銃の用意はしっかり行っていた。今頃押し開けられるドアの蝶番側に立って、ターゲットが訪れるのを今か今かと待ちわびていることだろう。それに、彼が信頼して仕事を任せてくれたのだ。自分もまた、彼を信頼しなければ。は疑念を持つこと自体が失礼だと、再び内省するのだった。

 は部屋の階はひとつ上なだけだと男に伝えたが、覚束ない足元で階段を行くなんて危ないと言われ、ふたりはエレベーターホールへと向かった。まだパーティが終わるまでだいぶ時間がある。そんな中で客室に戻ろうとするものはおらず、そこは閑散としていた。部屋の前の廊下も同じ理由で、人とはひとりともすれ違わなかった。何もかもが順調だ。

 はハンドバックからカードキーを取り出すと、スロットにそれを刺し込み客室の鍵を開けた。男はドアノブを握り扉を押し開けると、レディーファースト、とを部屋へ入るよう促した。は振り返り、男の手を取って部屋へ引き入れる。引き入れ、扉が閉まるか閉まらないかというタイミングでどちらからともなく唇を寄せ、情熱的なキスを交わす。男の舌は無遠慮にの唇を割って入ってきた。手はドレスの背面にあるジッパーに伸びていた。

 ……大丈夫。プロシュートがもうすぐ、助けてくれる。

 ジッパーを引き下ろされる中そう思いながら、は甘い吐息を漏らしつつうっすらと目を開けた。ゆらりと男の背後に近寄ってきたプロシュートの手が、男のうなじを掴む。の唇を貪る男を彼女から引き剥がすと、彼は能力を発動させた。

「……!?なっ!?」
「ザ・グレイトフル・デッド」

 ターゲットの男は目を白黒させながら自分のうなじを掴むのは一体だれか、と精一杯顔を背後へ向けた。金髪の端正な顔をした男が視界の隅に入った。

「だっ……誰だ……」
「パッショーネって言えば分かるか」

 は後ずさりして男から離れた。男はの方へ再度顔を向けると、騙したな、と言いたげに顔を歪める。は特段焦った様子も見せずに、男が萎れいく様を観察した。

 次第に男の瞳から生気が無くなっていく。それは絶望して、というのもあったが、それよりもプロシュートに与えられた“老い”によるものと考えるのが適切であるように、には思えた。髪は白く染まり、頬はこけてやせ細り、肌という肌からハリが消えてしわくちゃになっていく。タキシードの中を満たしていた肉も削げ落ちてしまったかのように細くなっていって、袖や裾から露わになっている手首や足首は骨と皮だけになってしまっている。そしてには、男には見えていない物がしっかりと見えている。

 プロシュートの傍らで、下半身の無い人型のスタンドが腕でその上半身しかない体を支え、体中に散りばめられた目をぎらつかせている。途切れた腹部から何か触手のようなものが生き物のように動いていた。

 スタンドを中心に、部屋の中でガスが漂っている。“直ざわり”されたおかげで急速に老化したターゲットは、自分の脚力で立つこともままならないほどに衰えて、ばたりと床へ倒れ込んだ。一体自分の身に何が起こっているのか理解できていない様子だった。それは、床に突っ伏した彼が顔を横にして、しわくちゃに干からびたようになった手の甲を見ても同じだった。助けを呼ぶために声を張り上げてはみたが、しゃがれ声が空しく部屋に響くだけだ。

 そしてプロシュートは、手に持っていたサプレッサー付きの自動拳銃をおもむろに持ち上げると、身動きの取れないターゲットの頭目がけて、トリガーを立て続けに3回引いた。発砲音は部屋の中には響いたが、閑散とした廊下で酷くこだまするほどの大きさでは無かった。

「……。帰るぞ」

 プロシュートがそう言って顔を上げると、は蒼白した面持ちでターゲットの亡骸を眺めていた。

 赤い血だまり。頭部に暗く開く3つの穴。見開かれたままの目。確かにそれは、殺しの経験が豊富とは言えないにとって衝撃的な情景ではある。だが、彼女の狼狽え方は尋常では無かった。

 彼女はこれまで仕事で、何のためらいも無く一人を事故に遭わせ殺し、もう一人を毒殺している。人を殺すことに躊躇を見せるという話は誰からも聞いていない。そんな躊躇を見せるくらいであれば、そもそも殺すと分かっているターゲットを部屋に誘い込むことにすら抵抗するはず。

 彼女の仕事は早かった。プロシュートがから離れて、おそらく十五分と経っていない。躊躇などしているはずもない。なら何故、銃殺された男の亡骸を見て狼狽えているのか?

「おい、。どうした」
「……いや……」

 か細い声で力なくそう呟いて、は頭を抱えながら床へ頽れる。頭部に添えられていた両手はやがて交差して、ガタガタと震えはじめた肩を抱いた。項垂れた彼女の瞳からはぼろぼろと涙が零れ落ちていく。

 プロシュートはたまらず彼女へ駆け寄った。

「事情は後で説明しろ」

 肩を抱き寄せられ耳元でそう呟かれても、は何も反応を見せずにただ涙を零し続けるだけだった。プロシュートは急いで荷物をまとめ動けないでいるを抱きかかえると、血と火薬の匂いが充満する部屋を後にして、非常階段から外へと抜け出した。



27:New Born



 はターゲットを殺害したホテルからワンブロック離れたレストランの前で、客を待っていたタクシーの後部座席へねじ込まれた。プロシュートがの隣の座席につき宿泊先のホテルの名前を告げると、運転手は何か只ならぬ雰囲気を感じながらも黙って車を走らせはじめた。プロシュートの「何も聞くな」と言わんばかりの気迫が、運転手をそうさせた。

 はターゲットの男の死を目の当たりにした時よりも、少し落ち着いた様子で車窓の外へ視線を向けていた。彼女は眉をひそめて過去を思い返していた。思い出したくない過去。何故思い出したくなかったのか、その理由はつい先ほどまで漠然としていたが、今の彼女にはそれが何故か理解できた。

 ――私も、あの男と同じなんだわ。あの政治家の男と。

 パッショーネを敵に回したということを分からせるために、処刑されたターゲット。最早その構図は使い古されていたのだ。何も今に始まったことではなかった。



 が部屋の照明に明かりを灯そうか迷うほどに、濃厚な鉄の臭いが充満していた。精神衛生上、明かりを付けずに家から出るべきかもしれないと、彼女は思った。恐らく人か、そうでなければ何か他の動物が近くで血をまき散らして死んでいる……。だが、“ヤツら”が見せしめにするならきっと人だろう。には目の前に広がる惨状がどんなものか、大方の想像はついていた。その“ヤツら”を怒らせるようなことをしている自覚も、彼女にはあった。そしては、自分には恐らく目の前に広がっているであろう惨状を受け入れる責任があることも分かっていた。だから彼女は、部屋に明かりを灯したのだ。

 血の海に伏した白髪の男性。頭部に三発の銃痕。赤というよりも黒く変色しかけた血液が、床に、男性の顔に張り付いていた。
 
 彼女もまた、見せしめに親しい人を奪われていた。それは父親ではない。父親ではなかったが、父親の次に彼女が慕った人だった。

 彼の亡骸の上に、一枚のメッセージカードが乗っていた。

 ――お前はすべてを失うことになる。

 そう書かれていた。



 プロシュートは呆然自失となったままのを支えながら客室へと向かった。彼女はプロシュートには頼らないようにと、何とか自分で歩こうという意思は持っていたが、彼女の視界はピンぼけした写真の様にぼやけている。耳に蜘蛛の巣でも張っているんじゃないかというほど、音もくぐもって聞こえていた。体も思うように動かせない。履きなれているはずのピンヒールも、ひどく歩きづらく感じた。

「ほら。これ飲んどけ」

 客室にたどり着き、がプロシュートの補助を受けながらベッドへと腰を降ろすと、キャップの開いたミネラルウォーターのボトルが差し出された。は大人しくそれを受け取り、二口程冷たい水を飲み下しボトルから口を離した。向かいのベッドに腰掛けたプロシュートが深刻そうな面持ちで彼女を見据えている。

「話せるか?」

 は躊躇った。だが、計画に無かった自分の行動によって、どんな不慮の事態に陥ってもおかしくなかった。暗殺は成功した。だが、犯人として少しでも誰かに睨まれるようなことがあれば組織には切り捨てられる。投獄されても誰も助けには来ない。最悪の場合、仲間だった人間に口封じのために殺される。そんな世界だ。命をかけて仕事をしている。自分は何度でも生き返ることができるが、プロシュートは違う。

 は事の重大さを重々承知していたので、重たい口を開き、プロシュートに過去を打ち明けることにした。もう二度と、仲間に迷惑をかける訳にはいかない。同じ失敗は繰り返せない。話せば済むことではないと思っていたが、話さないでいるよりはいいと思った結果だった。そしては、つい先ほどまで完全に忘れていた過去の記憶を手繰る様に、ゆっくりと話しはじめた。

「……私、養父も殺されたの。父が殺された後のことよ。父が殺されて、私はパッショーネのことを……探っていた。誰が父を殺したのか、そして、父を殺した組織を壊滅させるためにはどうすればいいか……。それがきっとボスの癇に障ったんでしょうね。見せしめに、養父が殺されたのよ。それが……今日の、あの光景にそっくりで」

 彼女は信じられなかった。あんな過去を、何故自分が今の今まで完全に忘れ去ってしまっていたのか。最近、自分の養父が死んだことすら思い浮かべたことはなかった。実の父親が殺されたところをは見ていた訳では無い。父親の名前が掘られた墓石を見ただけだった。それと全く同じで、養父はどこかで何らかの理由で死んで、墓に埋まっていると思い込んでいたのだ。

「ごめんなさい。今の今まで完全にそれを忘れていたの。まさか卒倒することになるなんて思わなくて……。ああなるなんて、想像すらつかなかったのよ。本当にごめんなさい」

 プロシュートは黙った。彼もまた、がパッショーネに身を置くのは不自然だと思い始めていた。実の父親だけでなく、養父まで殺されても尚、パッショーネに身を置く彼女。組織のために文字通り身を粉にして尽くす理由などあるはずがない。

「……迷惑をかけてしまってごめんなさい。謝って済むことかどうか……」

 そう言ってひたすら謝る。彼女は自分の瞳に再度涙が浮かび上がっていることに気づいていない。零れ落ち、頬を流れていけば気づくだろうかとプロシュートは思った。彼にはそんな彼女が、間の抜けた話をしているようにしか思えなかった。しかしその核心を突いてしまえば、いずれ彼女がどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと、漠然とした不安が彼を襲う。しばらくの間、プロシュートは彼女の顔を眺めて沈黙していた。かける言葉が見つからなかった。