とある土曜の朝、とプロシュートのふたりはナポリ発ミラノ行きの高速列車に乗り込んだ。窓側に、その隣にプロシュートが座って、間もなくすると列車はゆっくりと動き出し、数分で最高速度へと達した。ミラノの仮面舞踏会の会場となっているホテルまでは六時間の旅になる。ふたりは改めて、リゾットが情報管理チームから得たターゲットの情報や、メローネの計画書に目を通しながら、つつがなくミッションを遂行できるようにイメージトレーニングに励んでいた。
しばらくして手元の書類に目を通すことに疲れてくると、はうーんと声を上げて伸びをした。座席の背面テーブルに乗せていたチョコレートに手を伸ばし、包み紙を破ってひとかけら口に含む。口内でチョコレートの塊を転がし、その甘さを堪能すると、ドリップコーヒーでそれを胃に流し込んだ。少しリラックスできた彼女はふうっと息を吐きだすと、ふと隣のプロシュートに視線を向けた。彼は真剣な面持ちで尚も書類を読みふけっている。
肘掛けに肘をついて眉間に指先を当てつつ、手元の書類を眺める彼は“できる男”そのもの。おまけに最高の美貌に恵まれて、恐らくブランド物のスーツを、ミラノのセレブにも引けを取らない程にしっかりと着こなしている。
の視線に気づいたプロシュートは、目だけを動かして彼女の様子を伺いどうかしたかと問うが、は首を横に振った。
「いいえ。何でもない。ただ、隣の色男はいったいどこの俳優かしらって考えていただけ。……とても素敵よプロシュート」
は意図の読み取れない微笑みをたたえて、唐突にプロシュートへと賛辞を述べる。彼が女性に褒められるのはいつものことだったが、にそう言われたのは初めてのことだったので、彼はらしくもなく身構えてしまった。彼が彼女に賛辞を送っても、彼女は頬を染めるでもなくにっこりと笑ってただありがとうと返すだけだというのに……。と、プロシュートは改めて自分の分の悪さを思い知らされた。
「褒めたって何も出ねーぞ」
「ああ、誤解しないで。何か欲しくて言ってるわけじゃあないの。思ったことをそのまま口にしてしまっただけ。隣の、まるで王子様みたいな男性とドレス着て仮面舞踏会に出るなんて……夢みたいだわ」
「……遊びじゃあねーんだ。それは肝に銘じておけ」
「さすがプロね。これ以上浮かれたこと言ってたら先輩に怒られちゃいそうだから、私、もう喋らないでいるわ」
はそう言っておどけて見せると、すぐに窓の外へと視線を移した。そんな彼女の横顔を少し眺めた後、プロシュートはバツが悪そうな顔で手元の資料へと視線を戻した。
彼は遊びじゃないとを窘めたが、それは半分自分自身に言い聞かせるように放った言葉だった。ブティックでのためにドレスを買ってやった時、プロシュートが彼女のドレス姿に見惚れ舞い上がったのは紛れもない事実だ。そんな彼女とふたりきりの仕事だ。しかも拠点にするホテルも同室。メローネには、お前じゃあるまいし変な気を起こすはずが無いと言ったプロシュートだったが、その発言が彼自身にとっても既に眉唾物と化しているような気がしてならなかった。
「ところで、あ……喋らないって言ったのにごめんなさい。いくつか聞いていい?」
「何だ」
「あなたのスタンド能力を良く知らないんだけれど、どんななの?」
「オレのグレイトフル・デッドは、生物を老化させるガスを出す。この列車全両に充満させるくらいは容易なくらいのな。ホテルのグランドボールルームくらいなら屁でもねえ。まあ、今回は客を巻き添えにするつもりはねーが」
「メローネが言ってた、女性に効きにくいっていうのは?」
「体温が高いと老化の速度が増す。女ってのは男に比べて脂肪が多いんで身体が冷えやすいってのは知ってるだろう」
「へえ。あなたってとことん紳士なのね」
「女には全く影響がねーってわけじゃあねぇんだ。今度オレと組まされてガスを使う羽目になりそうだったら、氷を探すことだ」
はふと、手元の計画書に目を移した。メローネは、舞踏会の会場となっている方のホテルに一室部屋を確保していた。そこにターゲットを連れ込んで殺害する、という風に書いてある。会場の一つ上の階にある客室で、外へと抜け出せる非常階段に最も近い部屋だ。その部屋にターゲットの男性を連れ込んだ後、プロシュートの“直ざわり”でターゲットを老化させる。その後、脳天に銃弾をぶち込んでやって現場から退避するように書いてある。にはメローネとプロシュートの間で浸透しているらしい“直ざわり”という専門用語が理解できなかった。
「この……計画書に書いてる、あなたがやることになってる“直ざわり”って言うのは何なの?」
「オレが直接手の平でターゲットに触れば老化は急激に進む。ものの一、二秒で百歳超えたよぼよぼの爺さんだ。助けを求めて声なんて張り上げられるほどの体力も残らないし、逃げるなんてとんでもねーくらいに老化する。お前がターゲットの男を誑し込んで部屋に連れてきたら、入り口の傍に待機してたオレが男の腕を掴んで老化させた後銃殺。後はすぐにホテルから抜け出してしまいだ。簡単な仕事だぜ」
「銃は絶対に使わないといけないの?」
「老衰して死ぬのを見守るのもかったるいしな。それに今回は“見せしめ”なんだ。ギャングにやられたってことが分からねーといけねぇ」
はなるほど、と頷くと、プロシュートに質問は以上だと告げた。そして、今回の仕事の流れは粗方把握できたと、散乱させていた資料をまとめてテーブルの上に置いた。
は、銃殺するとプロシュートに聞いてすぐ、彼に気取られない程度に眉を寄せていた。もやもやと胸に霧がかったような感覚に苛まれ、何か言いようのない不安に襲われたのだ。それが何故なのか、は分からず悶々としながら、窓の向こうに見える遠景をぼうっと眺めていた。
ふたりが宿泊先のホテルに着いたのは午後四時頃だった。客室はメローネのはからいでツインルームを指定されている。プロシュートは客室に入るなり出入り口に近い方のベッドへ座り込み、アルミ製のアタッシュケースを開くとすぐに銃の手入れを始めた。
はプロシュートが陣取った方とは別のベッドへ腰掛けた。彼女は床に置いた旅行カバンからドレスと、アジトの近場にある土産物屋で買った、レース調の黒いヴェネチアンアイマスクを取り出した。目出し部分の上部に猫の様な耳が付いているデザインだ。会場で着替えを済ませる予定なので、ブランド物のトートバッグにそれらを詰め込んだ。会場に向かう際も気は抜けないので、彼女は一通り手荷物の準備を済ませるとバスルームに入り、着替えとメイクアップにとりかかった。
各々準備を整えると、仮面舞踏会の会場となっているホテルへと向かった。ふたりが並んで歩くと、皆が彼らを目で追った。ふたりは誰の目にも上流階級の美男美女カップルと映っており、南からやってきたギャンググループ、パッショーネお抱えの暗殺者だと勘繰る者などいようはずもなかった。
ホテルの豪華な入り口を通り抜けると、天井の高いフロントに行きついた。目前には赤い絨毯が敷かれた大階段が聳え、天井には豪勢で巨大なシャンデリアがひとつ煌々と輝いていた。普段仕事で使うような安ホテルとは違う、立派な五つ星ホテルだ。ターゲットの殺害場所とするなんてもったいない。一番グレードの低い部屋ではあるだろうが、高かっただろうに、とはあたりを見回しながら残念に思った
そしては次第に、まるで自分が場違いな場所にいるように思えてならなくなり、プロシュートの腕を取って彼に身を寄せながら言った。
「なんだか緊張しちゃうわ」
身をこわばらせた彼女の緊張を腕に添えられた手から感じ取ったプロシュートは、彼女の耳元に口元を寄せて優しく囁いた。
「堂々としていろ。お前は綺麗だ。何の遜色も無い」
「……ありがとう」
プロシュートの渾身の殺し文句をはいつものように受け流す。ただ、彼のそんな励ましに勇気はもらえたようで、プロシュートの言葉を耳にする前よりも心なしか背筋がピンと張って、が自信を持って立っているように見えた。
偽名で取った部屋へのチェックインを済ませると、彼らは監視カメラを気にしながら部屋へと向かった。部屋に着くなりはプロシュートに買ってもらったドレスに身を包み、身なりを整えてアイマスクを身に着けた。プロシュートは来たままのタキシードの格好で、鳥のくちばしを模した突起が鼻筋の半分まで覆いかぶさった銀色のアイマスクを付けた。こうして準備を整えたふたりは、仮面舞踏会の会場に指定されている、ホテルのグランドボールへと向かった。
26: Welcome to the Masquerade
会場はただただ広かった。ロマネスク建築に見られるような半円アーチが連続した壁の装飾が印象的で、その白壁にはところどころ金細工がちりばめられるという豪華な造りだ。天井も高く、きらびやかなシャンデリアがいくつも並んでいる。ほのかにオレンジ色を呈した温かな明かりが壁に反射して場内を照らしていた。明るすぎず暗すぎず、絶妙に調整されたそれは訪れる人々の食欲を誘い、ホテル一押しのケータリングへと足を向かわせていた。
会場の中央ではきらびやかなドレスに身を包み仮面を付けた女性たちが、同じく仮面を付けた男性たちのエスコートを受けて楽し気に踊っていた。もまた彼女たちに紛れ、プロシュートの手を取りダンスに興じていた。もちろんただ踊っているわけではない。ホールの中央をゆっくりと舞いながら、ターゲットの居場所を掴もうと目を凝らしている。
「おい。体が離れてる」
「ごめんなさい。ダンスなんて慣れなくて」
「オレたちはカップルなんだ。こんなんじゃあよそよそしく見えて不審がられちまうだろうが」
そう言ってプロシュートはの腰に回した腕に力を入れて、グイッと彼女の身体を引き寄せた。プロシュートの手が、ドレスの脇腹付近に施されたカットアウト部分から覗くの素肌に触れている。は少し頬を赤くしてプロシュートから顔を背けた。
「……プロシュート。私、仕事に集中できそうにない」
「遊びで来てるんじゃあねーんだぜ。集中しろ」
そう言って彼女を見つめるプロシュートの顔は、してやったりと言わんばかりに笑っているように見えた。彼のそんな顔を眺めているとは笑いを堪えられなくなって、ぷっと噴き出した。
「だめ。無理よ。変な気を起こしそうだわ!」
「オレは大歓迎だがな」
目と鼻の先に近づいたプロシュートの顔に、は純粋に心をときめかせていた。顔は仮面で隠されているが、それが逆に彼の美しさを引き立てている。――良くも悪くも、は場の雰囲気に呑まれやすい感受性の豊かさも持ち合わせていた。
溜息が出るほどに美しいであろう顔を隠している、この仮面を剥がしてしまいたい。剥がすためには、どうすればいい?
きっと、他の女性が今のプロシュートと踊れば、踊った女性皆がそう思うことだろう。彼の素顔を知っているでさえ、彼の後頭部に手を回して仮面をゆっくりと外し、現れた美しい顔をずっと眺めてみたいと思っていた。
だが、と、はふと我に返った。――これは仕事だ。一時的な見せかけのロマンスに現を抜かし、甘い空想に耽っている場合では無い。今の状況はあまりにもドラマチックで、これ以上プロシュートのおしゃべりに付き合っていたら仕事なんてそっちのけにしてしまいそうだ。とは思った。
「やめてプロシュート。私に仕事をさせて」
「了解。オレはお前とのダンスを楽しんでる。仕事が一段落したら教えてくれ」
「もう。あなたも探すの手伝ってよ」
は遊びじゃないと言ったのはどこの誰だったかと思いながら、自分の手を取って優雅に踊る美男の顔を見上げた。プロシュートは全く悪びれる様子もなく涼しい顔をしている。は肩をすくめてふうと息を吐き胸のつっかえを除くと、すぐさま仕事に戻った。
一方のプロシュートは面白がって軽口を叩いてはいたが、を誘惑するように顔を覗き込む時以外はしっかりと会場内を観察していた。鳥をモチーフにした彼の仮面から覗く双眼は、地を這う獲物をはるか上空から狙う鷹の目のようにぎらついていた。事実、ターゲットの姿を、この広大なボールルームで先に探し当てたのはプロシュートの方だった。
「。いたぞ。あいつだ」
男は四十代前半。その年齢の割に若く見え、すらっとして無駄な肉の無い体つきをしていた。朝早くのジョギングを日課にして、オーガニックの野菜やフルーツをぐちゃぐちゃにしたスムージーで喉を潤してから出社するタイプだとは踏んでいた。
決め手は、男がプロシュートに横顔を見せた時に確認できた、顔の輪郭から大きく外へ飛び出した鉤鼻だった。また、外見で目立たないように気を付けてはいるようだが、政治家に会うのに目印として用意していたペイズリー柄のポケットチーフが、予め示し合わせていた通りの色、デザインをしたタキシードの胸ポケットから、示し合わせていた通りの折り方で――情報管理チームのハッカーがターゲットの利用していたフリーメールの送受信履歴を覗き見た結果は事前にリゾットへと送られていたので、ふたりはターゲットがどんな格好で会場に現れるかが事前に分かっていた――収められているのが確認できた。身長も、事前調査で判明していた通りのように見受けられる。
ターゲットの男が立つ傍らには、壁際に備えられた椅子に腰かける恰幅のいい紳士がいた。ターゲットの男が会う予定だった政治家だ。彼もまた、事前調査で判明していた通りの身なりをしていた。彼はおもむろに差し出されたターゲットの男の手を、周りの目を気にしながら握り控えめに握手を交わすと、ゆっくりと立ち上がり男に耳打ちをする。
「ヤツら場所を移すつもりだな。気取られないように尾行するぞ」
「ええ」
ふたりはターゲットの後を追うように、グランドボールの中央から出口へ向かいながらダンスを続けた。そして自然とダンスを終えると、一定の距離を保ちながらターゲットに後続した。
プロシュートはの腰に手を回し、ターゲットから目を離さないようにしながら、彼女に耳打ちする。
「。今日のお前は最高に美しい」
場違いとも思えるその言葉を、は彼なりの激励と捉えた。
「ありがとう。私、必ずやり遂げるわ」
もまた、ターゲットから目を離さないままに頷いた。そんな彼女の真剣な眼差しをちらと見て微笑んだプロシュートは、出口付近を歩いていたウェイターの持つトレーから赤ワインの入ったグラスをふたつ取り上げる。ひとつは自分の気付の一杯。もう一つはに渡した。彼女の体温を名残惜しいと思いながらも、彼はの元から離れて行く。
客室で待つつもりだろう。にはそれが分かっていた。プロシュートからここはお前に任せると、さりげなく厚い信頼を示されたことに、はこの上無い幸せを感じていた。