The Catcher in the Mirror

 ふたりの姿が扉の向こうに消えた。愕然として、イルーゾォはその場に立ち尽くした。

 はあの男を選んだんだ。
 
 裏切られた。ふと、そんな言葉を思い浮かべてしまった自分を、イルーゾォは恥じた。最初に彼女を裏切ったのは紛れもなく、この自分自身だと戒めた。それが、他にどうしようもなかった、弱い立場にある自分の、思ってもいない嘘の言葉による裏切りだったとしても、にとっては純然たる裏切りに他ならない。彼女をその裏切りの言葉で傷付けた――そう。確かに、彼女は傷付いていたように思えた。こんな、クソの掃溜めから生まれてきたような、汚らわしい殺し屋に突き放されただけなのに、ひどく悲しんでいた。いや、悲しんでくれていた。つくづく、最後の最後まで、オレは幸せものだった――報いが、この現実なのだ。

 が選択した現実の世界には、いかなる不均衡もない。美しく気高く正しい女が、真っ当な世界で生きる金持ちの美しい男と共に人生を歩む。どこにも綻びのない、完璧な世界を生き抜くのだ。それこそが彼女にふさわしい。

 オレは彼女が満足するような物を買ってやれない。贅を尽くした豪邸はもとより、ただのアパートすら買ってやれない。ラグジュアリーな、ベンツみたいな高級車の助手席に乗せて連れ回してもやれない。オレは他人に自慢できるようなパートナーには、絶対になれない。オレは彼女に、何も与えてやれない。――こんなことじゃ、が幸せになれるはずもない。

 だから、良かったのだ。がオレではなく、あの男を選んだのは正しいことだ。オレがひとりで彼女を諦めるために悶々と考え続けていたことは、やはり正しかった。ここに来たのは、間違いだった。

 壁に背中を預け何もない天を仰ぎ見て、イルーゾォは最後に一筋の涙を落とした。

 潮時だ。

 項垂れ無気力にシンク前へ移動し、イルーゾォはマン・イン・ザ・ミラーを出現させて鏡の中の世界を創造する。そうして、鏡の中の世界へ入ろうとしたまさにその時、イルーゾォは何かを感じた。何か良くないことが起こっている、そんな胸騒ぎがした。呼吸を止め、目を閉じて神経を研ぎ澄ます。

 何かが近付いてくる? ……おそらく、目標は自分ではない。しかし、何か物々しい雰囲気だ。

 イルーゾォは鏡の中の世界へ身を隠した。そのままトイレから廊下へと抜けると、ポケットに突っ込んでおいた小さな手鏡を取り出して掲げ、の部屋に背を向け外の世界を覗き込んだ。黒尽くめの、軍服のようなものに身を包んだ小隊――五、六人いる――が、自動小銃を抱えてこちらへ迫り来ていた。そして彼女と、彼女のフィアンセが入った部屋の前で止まると、そのうちの一人が床に膝をつき、カチャカチャといわせながら解錠を始めた。

 イルーゾォは戦慄した。がまた、誰かに殺されそうになっているのではないかと思った。だがその心配はすぐ、杞憂に終わった。

 廊下の奥からロマーノ・が悠然と姿を現したのだ。イルーゾォは身体を強張らせた。そして、彼が部屋の向こうへ消えていくその時まで足を止めたまま、鏡の外の世界を見つめた。

 帰るのは、中で何が起きているのか確認してからでもいいんじゃないか。

 部屋への扉は開かれたままだった。ロマーノの部下が、客室の重い防火仕様の扉を開けたまま待機しているからだろう。一流ホテルの客室だから、必ず中に鏡があるはずだ。中で何が起きているのか、鏡で確認できるはず。位置が悪く何が起きているのか見ることはできずとも、せめて近くで会話を聞くことはできる。

 絶望を好奇心が乗り越えた。イルーゾォは駆け足での客室に向かい部屋へと侵入し、ベッドサイドに設置された姿見に映る外の世界を盗み見た。

 は服を乱され怯えた様子でベッドの上にいた。例の男は素っ裸で、の向かいで膝立ちになっていた。両手を上げながら背後に立つロマーノへ向かって「同意があったのだ」と、必死に弁明している。

 なんて情けない格好でいるんだ、こいつは。

 今どんな状況なのか完全には掴めていないが、胸がすっとする思いがした。を自分から奪った――ように見えただけなのか?――男が素っ裸で、完全に無防備な体に多数の自動小銃の銃口を向けられている格好を見るだけで、これまで蓄積してきた憂鬱な思いがどこかへ吹き飛んでいくようだった。

 ざまあみろ。

 イルーゾォがそんな風に思ってほくそ笑んでいるうちに、ロマーノがポータブルボイスレコーダーを取り出して、と男の会話を流しはじめた。内容は、聞いているだけで腸が煮えくり返るような気分になるものだった。

 オレの女に何を――

 そう思ってしまった。パーティー会場で沸き起こった殺意がよみがえってさらに倍増していく。ついさっき諦めたはずの女を思い、イルーゾォは激怒していた。だが、激怒した自分が報復に何かするまでもない。彼女は強いからだ。見たところ、男の服は綺麗サッパリどこかへ消え去っているし、その服を男は必死に探している。

 のスタンドがやったんだ。

 イルーゾォは容易に、そんな結論へたどりついた。彼はの内面をよく知っている。彼女の魂の高潔さ、美しさ、そして強さを、彼は知っている。スタンドの姿は見ていないし、が腕の中で息絶えたあの悪夢をただの夢で終わらせた、その能力の詳細を知っている訳でもない。けれど、確かに彼女の能力が現状を生み出しているのだと確信した。

 やがて男はバスローブを裸体に纏わされ、部屋から強制退去させられた。はめやがったな、とか、クソ女、とかそんな暴言を小さく呟きながらも、おとなしく姿を消した。少なくとも、心から愛し合っている仲と言うわけではなさそうだ。イルーゾォは安堵のため息を漏らした。

 こうして舞台には、とロマーノのみが残された。扉を閉じられてイルーゾォは退路を絶たれたが、そんなことは気にも留めず、引き続き鏡の外の世界を見つめた。

 ふたりは神妙な面持ちで話し込んでいた。男なんかもう懲り懲りだと言う――そりゃそうだ。イルーゾォは自嘲気味に笑みを浮かべる――と、彼女を心の底から愛しているのだと、亡き妻を――の母親を引き合いに出して語る父親。彼の偏重した愛情に一定の理解を示しながらも、は背後から小型の何か――恐らく盗聴器だろう。先程ロマーノが公表した音を拾ったものだ――を取ってロマーノに突き返した。ロマーノはそれを渋々受け取る。最後に、身辺警護の今後の在り方について話をすると、ロマーノはベッドから立ち退いて部屋の出口へと向かった。ロマーノは扉の向こうへ消え、部屋にはだけが残された。

 突き放されても、どれだけ罵倒されてもいい。これが最後になっても後悔はしない。に謝ることができるのなら。どれほど後悔を重ねたか、どれほど苦しく、長い時間を過ごしたか、どれほど会いたくて仕方が無かったか、本当のことを伝えられるのなら。真実の愛を示せるのであれば、それでいい。どんな結果が待ち受けていようと、オレはすべてを受け入る。

 イルーゾォは意を決して鏡の中から抜け出し、の前に姿を現した。





21: Gonna Get Better





 ベッドサイドにあるスタンドライトの明かりだけが灯る部屋の薄闇に、美しい幻影が見えた。はひっと息を呑んで、そのまま数秒静止した。

 疲れているんだわ。幻よ。……だって、彼がここに来るはずないもの。

 目をきつく閉じて、大きく深呼吸をして、再度目を開ける。だが、幻であるはずの男の姿は消えなかった。

 男は質の良さそうな濃いネイビーのスーツ、黒いシャツ、ダークグレーのネクタイを身に着けている。ブルネットの前髪は後頭部へ向けて撫で付けてワックスで固め、髪は後ろでひとつに結っているようだ。時間経過で少し乱れた前髪が少量下りて顔にかかっていて、その間から悲しげな瞳が覗いている。
 
「うそ」

 は呟いて、ゆっくりと一歩を踏み出した。会場で見た気がした、愛しくて仕方がない男の姿がそこにある。あり続けている。会場で見たときは瞬く間に消えてしまった。そのことを思い出して、瞬きの間にまた消えてしまうのではないかという不安に駆られ、は足早に距離を詰めた。そして、一言も喋らない幻影のすぐ前で立ち止まると、ゆっくりと手を伸ばした。

 鏡に向かって手を伸ばすと、鏡の中の自分と手が触れる。それと同じように男の手も動き出した。鏡なら、触れた瞬間にそれ以上進むこともなく、無機質な冷たさを指先で感じることになっただろう。

 けれど今前にあるのは、触れれば消えてしまう幻影でも、無機質な冷たい鏡でもなかった。指先と指先が触れ合った瞬間、の体中を、甘美な痺れがまるで電流のように駆け抜けた。そのショックで止まっていた互いの手は、またゆっくりと動きだし、やがて指と指は交差して、手のひら同士が合わさったところで折り曲がる。ぎゅっと互いに握りしめ合うと、ふたりの視線は合わさった手から顔へと向かい、交差した。

「イルーゾォ。あなたなの?」

 男はゆっくりと頷いた。そして、驚くほど小さく、そして弱々しい声で言った。

「ああ、。オレだ。……オレはッ……!」

 握っていた手を離すと、イルーゾォは両腕で荒々しくを掻き抱いた。大きな手のひらで頭を包み込み自身の方へ近づけると、さらに強く、強く抱き締めた。もまた、彼の大きな背中へ手をまわし、ぎゅっと力を込めてイルーゾォを抱き締めた。

「会いたかった。……会いたかったわ、イルーゾォ」

 声を震わせながら、は言った。

「ずっと、後悔していたんだ。……あんな嘘を言ったことを、後悔して、後悔し続けた。今日まで、おまえのことを思い浮かべない日なんか、一日も無かった。オレは、おまえを愛してるんだ。おまえと出会ってから、おまえを愛していなかった日など……一度もない。信じてくれッ……!」

 イルーゾォの声もまた、震えていた。

 危険を承知で、イルーゾォは命をかけてここまで来てくれたんだ。そんな彼の言葉を、彼の愛を、信じないはずがない。

 言葉を発するより先に、手が動いていた。はイルーゾォの肩に手を当て、彼の体を少しだけ奥の方へ押し退けた。両手を彼の頬に添えて、暗く沈んだ顔を持ち上げた。そして、うっすらと涙が滲んだ瞳を見つめ、つま先立ちになって背伸びをすると、イルーゾォの震える唇に優しく口付け、は言った。

「私も、あなたのことを考えない日は無かった。こうして会える日が、待ち遠しくて仕方がなかった。信じるわ。……いいえ、イルーゾォ。私はずっと、信じていたわ。こうしてまた愛し合える日が来るって、信じていた」
「悪かった。。許してくれ。……許してくれッ」
「謝らないで。許すも何もないのよ。あなたにあんなことを言わせたのは私の父だって、きちんと分かっているから。謝罪の言葉なんかいらない。欲しいのは、あなたの愛だけよ。……もう一度言って。愛してるって」
「愛してる。愛しているんだ、。おまえを、心から愛してる。これがオレの本心だ。おまえはオレの全てなんだ、
「私もよ、イルーゾォ。私もあなたを……心から愛してる。あなたは、私の全て」

 言葉と視線を交わす。イルーゾォの瞳は、うっすらと涙のヴェールを纏いながらも、その奥で燃えるように輝いていた。暗闇の中でもそうと分かる、美しい真紅の瞳。

 そうよ。私はこの瞳に囚われたの。今もそう。私は彼のもの。彼は私のもの。もう二度と、離しはしない。絶対に。

 イルーゾォはの手を引っ張った。次の瞬間には、は彼の腕の中にいた。ベッドに腰掛けた彼の膝の上で、彼の高鳴る鼓動を聞く。は目を閉じて、鼓膜を揺らすその心地良い音に聞き入った。イルーゾォは鼻先をの髪に埋めて呟く。

「本当に会いたかった」

 はその言葉に応えるように、再度イルーゾォの背に腕を回してしっかりと彼の胸を抱き寄せた。イルーゾォは何度も何度も、の髪にキスを落とした。

「ついさっきまで、おまえがあの男を選んだんだと絶望していたんだ」
「やめて。あんなヤツと一緒になろうなんてはなから思ってない。ありえないわ」

 は現状に至るまでの経緯を手短に話した。すべて、イルーゾォに歩み寄るための策略だったのだと付け加えて、自分も虫唾が走る思いをしながら頑張っていたのだとアピールをする。

「だが、オレと一緒になるよりマシなんじゃないのか」
「……どうしてそんなことを言うの」

 諦めのために、自分を納得させようと考えたこと。今日だけでなく、を突き放してから毎晩考えたことを、イルーゾォはすべて話した。

「オレはおまえを幸せにはしてやれない」
「そんなことない」
「いや、無理だ。釣り合わない。その点、親父さんが言っていたことは至極当然のことなんだ。オレはおまえに家を買ってやれない。車も買ってやれない。おまえが身に付けるにふさわしい物なんか、何ひとつ買ってやれない。きっとおまえは、いずれそんなオレに辟易する」
「ああ、イルーゾォ」

 こんなにも人を愛したことは無かった。愛する人のためにと、必死に歩み寄ろうとするのも初めてだった。愛ほど尊いものはない。愛ほどかけがえのないものは存在しない。愛は絶対に、金で買うことができないからだ。それがふたりの間にあるのに、金で買うことのできない奇跡を手に入れたのに、どうしてそれを自ら捨てたりなどするだろう。

「欲しいのはあなたの愛だけ。さっきもそう言ったはずよ。金持ち男のために、世間体なんかのために、あなたから離れたりしない。そんな愚かなこと、私は絶対にしない。家なんかいらない。車なんかいらない。そんなものあったところで、あなたがいなければ何も輝いて見えないもの。そう思うのは、私とあなたの生まれ育った環境が全く違うからかもしれない。あなたと私では、お金の価値が違うのかもしれない。でも、これだけは誓って言えるわ。愛こそが全てよ。あなたを一度失って、そう気づいたの。いくらお金に恵まれていようと、あなたがいなければ何の価値も持たないわ。例え全ての財産を失ったとしても、私はあなたと生きる道を選ぶ。そんな私を、あなたは愚かだと言う?」

 確かに奇跡だ、とイルーゾォは思った。自分が、こんなに強く、美しく、実直で慈悲深い女性に、この上ない愛を示されるなんて、奇跡と言う他ない。金などいらない。がいないのなら、手に余る大金があったところで何の意味も無い。彼女が今しがた言ったことは、イルーゾォが既に経験したことだった。ふたりの思いは、完全に一致しているのだ。

 ならば、これ以上自分を貶めて、とは釣り合わないなどと言って卑屈になるのはやめよう。自分には彼女に愛されるだけの価値があると信じよう。そして、彼女を一生離さないと、心から誓おう。

 イルーゾォは首を横に振った。そして、の目を見つめて答えた。

「いいや。愚かだったのはオレだ。認識を改める。おまえは、金で手に入れられる程度のもので満足できるような、安い女じゃないよな。……おまえは今、このオレを手に入れた。オレは生涯をかけて、おまえを満足させてやるとここに誓おう」

 そう言って、強く美しく傲慢な暗殺者は不敵に笑って見せた。その笑みは、に心強さを与えた。これから先、どんな未来が待ち受けて居ようと、二人一緒なら絶対に乗り越えられる。

 きっと……いいえ。絶対に、世界は良くなっていく。

 は期待に胸を躍らせた。希望があるという根拠はない。けれど、彼女は良くなっていくと確信していた。

 その自信――何かひとつだけでもいい。自分には、心から信じられるものがあるという事実や、愛する者に愛されているという実感――こそが、人を強くする。強い人間は、自ら運命を切り開いていけるものだ。彼女の世界が良くなっていくのは必然かもしれない。

 の世界は再び明るく輝きだした。内なる女神は、の世界を愛と言う名の光が支配したことを、心から祝福していた。