は壇上からきらびやかな会場を見渡した。見渡したのと同時に、イルーゾォの最後の言葉を思い出した。
オレはお前のことを少しも愛してなんかいない。
会場に、そう面と向かって言い放った彼がいるはずも無いのに、つい姿を探してしまう。彼はいつも、まるで魔法のように自分の前に現れたから。今、この瞬間も、どこかで私を見守ってくれているのでは。そんな妄想に取り憑かれてしまう。けれど、今度こそそれはただの妄想に終わるだろう。――自分の問題を解決して、自分からイルーゾォへ歩み寄らない限り、私は愛を貫き通せないのだ。
父、ロマーノ・の言う通りに会社を継ぐことこそ、問題解決の足掛かりに他ならなかった。は自分を鼓舞し、もはや彼なしでは自信を持ってまっすぐ立つことすらままならないような不安定な心を持ち直した。
悟られてはいけない。父は目の前にいる。目の前で私を見ている。演技をしなければ。イルーゾォのことは、もう完全に諦めたのだと思わせなければ。
こうしては、何とか取り繕った完璧な姿を父に、そして観衆に見せつけることに成功した。もちろん彼女には、父親が何を思っているかまでは計り知れない。けれど、一応のところ彼は満足気だか、感慨深げに微笑みを浮かべ、娘の晴れ姿に拍手を送っていた。
は壇上から降り、ウェイターの持つトレーからフルートグラスを受け取る。すると、いの一番にロマーノが近付き、大手を広げてを抱き込んだ。父にしてはひどく感情的な行動だ。ほとんど予見できていなかったは、びくりと体を震わせ、直後硬直した。
「、立派だった」
「……ありがとう」
は父親の抱擁に戸惑いつつも、彼の背に手を回しギュッと抱きしめたあと、頬にキスをする。その直後、の周りを参加者たちが囲み、口々に祝辞を述べ始める。フルートグラスのシャンパンにはほとんど口を付けずに、は取り巻きとの会話をこなしながら会場の内周をぐるりと歩いてまわることにした。
「ああ、!」
そのうちに、彼女はひときわ大きな声で名を呼ばれる。長身の――ちょうど、イルーゾォと同じくらいの身長だ――その男は、人々の波を掻き分けて彼女の元へ歩み寄った。
ああ。この人も呼んでいた――いや、雇っていたんだった。
「会いたかったよ」
豊かな黒髪をオールバックにして、蓄えた口髭を綺麗に刈り揃えた男。名はフェルナンド・パガニーニ。つい最近まで競合他社の社長をやっていた、の知り合いだった。今はその会社を他者に譲り、他で企業して社長をやっている、いわゆる青年実業家というやつで、なおかつ名家の跡取り息子。生粋のおぼっちゃまだ。鼻持ちならなさで言えば、の知り合いの中でも随一の存在だった。そんな彼を今宵のパーティーに誘ったのは他でもない、ある“フェイク”のためだ。
は瞬時に、笑顔を顔に貼り付けた。
「ええ。私もよフェルナンド! 来てくれたのね! あなたってとても忙しい人だから、来てくれないんじゃないかって、心配していたのよ」
「まさか。君の大事なパーティをすっぽかすなんてこと、するわけがないだろう。ところで、君のお父さんを紹介してくれるって話だっただろう?」
フェルナンドは台本通りに喋ってくれた。すべて、父にイルーゾォへの警戒を完全に解かせるための芝居だ。この芝居を打ってもらうため、フェルナンドとは事前に打合せをしたし、金を払い、正式に契約書まで交わした。彼は特段に気があるわけではないらしく――好みの女はいくらでも金で買えると思っている反吐が出そうなくらいの下衆や……もとい、プレイボーイだからだ――頼みを快諾してくれた。とは言え、頼る男友達がフェルナンドだけとは、我ながら呆れたものだ。とは思った。
仕事関係の人脈はあれど、心を許せる友人はシドの他に三人ほど女の子がいるだけなのだ。こんなことなら、毛嫌いしていた社交界にでも少しは顔を出しておくんだった。
「ええ。……父ならあそこに」
そう言って、はフェルナンドをロマーノのそばへ連れて行った。すると腰に――クロスバックのドレスを纏う彼女の素肌に――フェルナンドの手が添えられて、は身の毛をよだたせた。
体に直に触れていいとは言ってない!
一瞬、怒りが顔に出そうになったが、何とかこらえた。それと同時に、は“何か”を感じ、咄嗟に背後へ顔を向けた。
「――っ」
イルーゾォ……?
足を止めた。そして瞬きをした瞬間、そこにいたはずの彼は姿を消していた。見えた気がした。いや、目が合った気がした。あのハンサムな彼が悲しげな表情を浮かべ、らしくもなくスーツに身を包んだ最高にセクシーな姿が、見えた気がしたのだ。
――でもきっと、そんな気がしただけだ。幻想だ。
は小さく首を左右に振ってあたりを確認したが、最高に美しい男の姿など、どこにも見当たらなかった。
「どうかしたのかい? 」
「い、いえ……。どうもしてないわ。さあ、行きましょう」
再度笑顔を貼り付けて、はフェルナンドを見やった。
ああ。今隣にいるのが、イルーゾォなら。今、腰のあたりで感じている体温が、イルーゾォのものなら。
は目を閉じて想像すると、うっとりとしてため息をついた。
……恋しくて恋しくてたまらない。ああ、イルーゾォ。どうしてあなたはイルーゾォなの。
はまるでジュリエットのように苦悩していた。けれど、彼女との悩みは似て非なるものだ。の父、ロマーノ・は、娘の愛する男の家名が何であろうと、それが生物学上のオスにあたれば、すべて拒絶から入るからだ。
ロマーノは娘に名を呼ばれ振り向くと、隣で愛娘に身を寄せる男の姿を、まるで品定めでもするように頭の天辺からつま先まで見下ろした。そして視線は体をたどって顔に戻る。
「……以前、どこかで……?」
フェルナンドはロマーノに手を差し出し、握手を求めた。
「ええ、ロマーノさん。以前、パガニーニ・セキュリティで社長を務めていました、フェルナンドです。こうしてお会いするのは初めてかと」
「パガニーニ……。そうでしたか」
ここでようやく、ロマーノはフェルナンドの握手に応じた。
「ところで、娘とはどんな関係で?」
「大学の頃からの知り合いで……今は結婚を前提に、お付き合いを」
結婚を前提に!? 台本に通りに喋れ!! 誰があんたみたいなやりチン野郎と結婚なんか!! あんたと結婚するような女、精神錯乱者以外に存在しないわ!!
はつい、フェルナンドの足を踏みつけてやりたくなった。彼女は、ギャングで暗殺者であるという身の上の男と愛し合うために一芝居打とうとしていることを忘れてしまっているようだ。――客観的に見て、結婚云々はともかくとして、暗殺者との駆け落ちを目論んでいるほうが精神が錯乱していると思われる可能性が高いのは言うまでもない。
とにかく、の世界においては、フェルナンドという青年実業家――見目麗しく、スタイルも良い、隣にいると女性なら誰もが羨ましく感じるであろう超のつくリッチな男性――など、イルーゾォの足元にも及ばない下衆野郎なのであった。そんな彼を隣に置かなければならない自分の境遇が呪わしいことこの上ない、とすら思っていた。
だが、ここで怒りを顔に出すわけにはいかない。はなくなくフェルナンドの腕を取って、彼の肩に向って首をかしげて見せた。
「彼とは最近お付き合いを始めたの。どうしても彼が、父さんに挨拶をしたいって言うもんだから」
「そう。どうしても、だ」
フェルナンドはの腰を抱き寄せ、彼女の顔を見つめて言った。ロマーノは、フェルナンドに見られないように一瞬だけ眉をひそめた。
「はは。そうか。フェルナンド、どうか娘を頼むよ。子供の頃のお転婆が、まだ完全に抜けきっていないんだ」
そんなお転婆の延長で、今度はこの男を選んだのか、とでも言いたげだった。にはとても、父がフェルナンドに良い印象を持っているとは思えなかった。
それについては是非も無い。自分だってそう思う。金の力で何でも自分の思い通りになると思っているような男に良い印象なんて、私だって絶対に持てない。――父さんと同じでね。
まあいい。と、は気を取り直した。結婚が前提だと言ったのはフェルナンドで、彼女にそんなつもりなどない。ただ、失恋による傷心を癒やすために、ワンクッション置いた。それくらいには印象付けられただろう。という感触はあったからだ。
三人での歓談を終えた後、フェルナンドは中々から離れようとしなかった。
「聞いたかい? 君のお父さん、オレに君のことよろしくって」
再三に渡って、台本に無いセリフが聞こえてくる。は笑った。
「ふふ。ねえ、フェルナンド。父さん、気難しい人だから、本当に気をつけてね」
ロマーノ・。元警備会社のトップ、兼パッショーネの幹部。娘に手を出せば、それが誰であれ闇に葬る力を持つ男だ。だから、芝居を打つにあたって詳細を記した契約書を交わしたのだ。守らなければ、最悪の場合、フェルナンドも命の危機に陥りかねない。
けれど、もし危機に陥ったとしても、彼を巻き添えにして放ったらかしにはしない。どんな命であれ、私が絶対に守り抜く。
は父親の背をじっと見つめ、そう固く心に誓った。
20: We Know
フェルナンドに別れを告げた後、は宿泊のために取っていたホテルの一室の鍵を開けた。すると、去ったと思ったはずの彼は突然の肩を掴んで客室の扉に背中をはり付け、彼女に覆いかぶさり顔を近付けた。
「。オレはこのまま帰るつもりなんかないよ」
フェルナンドは耳元でそう囁くことでの気を引き付け、ドアノブに手を伸ばし押し開けると、そのままを部屋へ押し込んだ。床に倒れそうになりながらも何とか体勢を立て直したは、後ろ手に扉を閉め、ネクタイを緩めながら歩み寄ってくるフェルナンドをきっと睨みつけた。
「何するの?」
「何って、言わせないでくれよ。せっかくのムードが台無しじゃないか」
「いや、イヤよ。フェルナンド。やめて、近付かないで!」
の静止の声など耳にも入れず、フェルナンドは彼女をベッドへと押し倒す。
「フェルナンド……フェルナンド。お願い、止めて」
「どうして。……どうして君はオレを拒むんだぃ?」
男の口は不快に弧を描いた。契約書を交わす時、記された文面を読まないでサインをするほどフェルナンドはバカではない。そう信じていたのだが。
「……っ、フェルナンド。やめて……!」
「そうやって、恥じらう君がカワイイんだ。」
どうやら、彼は契約書に書いてあったことを忘れてしまったらしい。あなたは私を好きな訳ではない。私もあなたが好きな訳ではない。事前にそのことは確認していた。了解を取った上で、こんな契約を取り交わしたはずだった。――父の前で男女の仲らしい態度を取る以外で、一切の関係を持たないこととする。
は困惑していた。自分が契約書に記した条文のどこに穴があったのだろう。……いや、違う。穴があったとして、それはさして問題にはならない。一番の問題は、好きでもない女を襲うこの獣のような男が、金や権力、そして物理的な男の力で、契約など無効にできると思い上がっていることだ。
そうだ。私は最初から不利だったのだ。私は、彼と契約を取り交わして、男女の仲を偽っていることなど口に出来ない。どこに何が仕掛けてあるか分からない監視状態で、うかつに口も開けないからだ。つまり、私はフェルナンドに抗えない。――それが分かっているから、彼は本能のままに、私をひん剥こうとしているのだ。
ついさっき、父に「娘をよろしく頼むよ」なんて言われたものだから調子に乗っているのね。大人同士の関係に親が口を出してくるはずもないと、勝手に思い込んでいるんだわ。ああ、フェルナンド。父がそうであればと願っているのは、他でもない私だと言うのに。
「っ、わ、私達、まだそんな関係じゃないはずよ」
「今日これから、そんな関係になればいいじゃないか。初めてのふたりきりの夜なんだ。……さあ、リラックスして、楽しもう」
声だけは、甘くとろけてしまいそうなほどに優しげだった。けれど、の体を押さえつける力は言っている。口答えをするな。暴れるな。おとなしく、オレを受け入れろ。
言えば分かる、聞き分けのある男だと、そう思い込んでいた。まさか、嫌がる女を無理矢理組み敷こうとするほどまでのクズだとは思っていなかった。せめてもの常識が、良心があると思っていた。――どれもこれも、決めつけに過ぎなかったのだ。どれだけ家柄がよく、金を持っていて、世間的に認められ大衆に敬われるような存在だったとしても、だからと言って人は絶対に神には成りえない。表向きにはどれだけいい人間に見えていても、人格が破綻していて、犯罪まがいな悪どいことを裏でやっている人間はいるものだ。――そう、私の父親のように。けれど、少なくとも父さんは、女性を無理に犯すようなひとじゃない。それは間違いない。この男を、父さんと同じように言うなんて、父さんに失礼だわ。……ああ、この男に、これまでどれだけの女性たちが泣かされてきたのだろう。許せない。許せない許せない許せない!!
「いや!! やめてって、言ってるのがわからないの!?」
悲痛な声で言っても、フェルナンドはやめない。そしての両手首を束ね、枕に――彼女の頭上に片手で押し付けると、もう片方の手を乳房にあてがった。ふくらみを少し揉みしだいた後、その突端を人差し指で掻いて言った。
「ふふッ……。なあ、興奮してるんだろう? ここ、こんなに尖らせてさ」
「んっ……やめ、てっ!!」
勘違いするな!! ただの生理現象よっ。赤ちゃんに口に含まれた時、自動的に起き上がるようにできてるだけ! そんな神聖な部分に、許可も無しに触らないで!!
ディステニーズ・チャイルド!! この男の衣服を全部、剥ぎ取るのよ!!
卑劣な男に対する底知れない怒りに任せ、は心の中で叫んだ。瞬間、能力の及ぶ範囲を示す例の四角いシャボン玉が自分たちを取り囲み、黄金に輝くスタンドが姿を現した。同時に幽体離脱をしたは、止まったように見えるフェルナンドの横っ面に殴りかかるのだが、拡張現実に拳を振るうのと同じようにスカッと向こう側に通り抜けてしまう。そうなることは分かってはいたのだが、殴る自分を抑えられなかった。
「この男、サイテーね」
隣でディスティニーズ・チャイルドが言った。
「仕事とプライベートの区別を付けられない人間って、ほんと一番キライだわ! さっさとやっちゃってっ」
「了解。……でも、このあとはどうするつもり?」
「直に叩き潰す!」
「何を」
「玉を!! もう二度と女性の前で裸になれないような体にしてやるわ!!」
「……。一体誰があなたにそんなお下品な発想させるようになったのかしら」
「シドね。確実にシドだわ」
ディスティニーズ・チャイルドは、シドのせいでお下品になったのだとが訴えてすぐに押し黙った。
「玉を叩き潰すより、黙っていた方が懸命かもね。」
「どうして?」
「感じるの。誰か、複数の人間がこの部屋に押し入ろうと向かってきているわ」
「……やっぱり父はあの時、私に何か仕掛けていたのね」
壇上から降りてすぐ、ロマーノに抱きつかれた際、盗聴器でも取り付けられたのだろう。
「多分、ここね」
ミッドナイト・ブルーのワンピース。クロスバックの背中。その布地の交差した部分を指さして、ディスティニーズ・チャイルドが言った。は背中に手を回し、その存在を確かめた。小ぶりで無機質なそれに、指先が触れた。
「ああもう! いつまでこんなことされなきゃならないの!?」
「。あなたを愛しているが故なのよ」
「それにしたって程ってものがあるでしょう!? もう成人して何年経ってると思ってるのよ!? 頭おかしいんじゃないの!? ねえ、まだ他に何か感じない? 盗聴器だけじゃなくて」
は完全に気が立っているようだ。気に食わないこと全てに牙を向くモードに入っている。こんな彼女を冷静にさせるのも、内なる女神の役割のひとつである。
「この箱の中では、私以外、何も現実世界に干渉できなくなるの。それは生物であろうがなかろうが同じこと。つまり、この箱の中から外部に向けて信号が発信されていたとしたら、それらはシャットアウトされるので、私は箱を出現させる前と後とで違いを感じ取ることができる。だから、あなたの背中に取り付けられた盗聴器を見つけることができたの」
「なるほど?」
「私が察知できたのはそれだけ。他には無いわ。でも。この状況、案外好都合だったりするわよ。……おそらくだけど、ロマーノがここに寄越すのはお抱えの武装警備集団。あるいはそれらと、彼自身だわ。どうして彼らがこの部屋に来たのか、それをロマーノに問いただしながら盗聴器を取り外して、取り付けた本人に返すことができるかもしれない」
「その時に、もう男なんかこりごり、とでも言っておけばいいわね!」
「そうね。それで上手く、ロマーノにあなたがイルーゾォのことを完全に諦めていると思わせられればいいわね」
そう言ってすぐ、ディスティニーズ・チャイルドは片腕を大きく振りかぶって、止まったままでいる方のに覆いかぶさるフェルナンドの身体を浚った。瞬く間に、彼は生まれたままの姿になってしまう。
は眉をひそめたあと、両目を腕で覆った。見たくもないものを見てしまった。
「ねえ、あなたの能力で消したものって、どこにいくの?」
「さあね。私にもわからないわ。完全に抹消されているか、それともここじゃないどこか、別の時空間にでも行っているんじゃない?」
「彼の高級そうなスーツがどうなったのか、何てことは知る由もないってことね」
「そういうこと。さあ、気が引けるかもしれないけど、素っ裸の彼の下に戻りなさい」
全裸の男の下に自ら入り込み、自分自身の陰影に幽体を重ねた。重ねた後、しばらくの間服を着たつもりでいるフェルナンドに恥辱を受け続け――ものの数十秒だが、にとっては拷問のようなものであるから、死ぬほど長く感じられた――、ディスティニーズ・チャイルドが能力の有効範囲外に出て事象を一つに収束させると、一瞬にしてフェルナンドは真っ裸になってしまった。
「さ、寒っ……!? なっ……!!」
きっと女性をひん剥く前に自分がひん剥かれるなんて、男としてのプライドが傷つく――彼にマゾっ気があるなら話は別だろうが――ような事態に陥るのは初めてだろうから、彼は慌てふためいているのだろうか。いや、単に何故一瞬にして自分が真っ裸になったのか、それ自体に理解が追いついていないだけかもしれない。顔を激しく左右に振り、自分の胸、腹、太腿をぺたぺた触りながら服を探している。
「ど、どうして……!? 服は!? 服はどこだ!?」
そして客室の扉は、大きな音を立てて開かれる。自動小銃を構えた警備員たちが、アメリカのドラマなんかによく出てくる黒尽くめの準軍事組織みたいな格好をして乗り込んできた。――たかが暴漢一人相手にやりすぎな気しかしない。かわいそうに、自分の背後に複数の銃口が向けられている様子を、ベッドのそばに置いてある鏡でちらと横目に確認すると、ひどく怯えた様子で両手を上げ降伏した。
は、ディスティニーズ・チャイルドの予言でこうなることを想像できてはいたが、実際に銃口を向けられるとすっかり怯えてしまった。そうしてベッドシーツをゆっくり手繰り寄せ、固く握りしめる様はまさしく、今の今まで悪漢に襲われていたか弱い乙女だった。
やがて部屋の入口の向こう側からコツコツと床を叩く音が聞こえてくる。柔らかな客室のカーペットに乗ったのか音は途絶え、それと同時に隊員たちが銃を構えながら道を開けるような音が聞こえてくる。
「……はあ、まったく……」
眉間をつねるように押さえつけながら、ロマーノが姿を現した。
「その素っ裸の男をここからつまみ出せ」
「ろ、ロマーノさん!? あの、こ、これは、彼女とは同意の上で――」
「同意、だと? は確かに、やめろと言っていたはずだが」
「ど、どこにそんな証拠が……っ!? もしもそんなものがあるとすれば、あ、あなたがやっていることは犯罪ですよ!」
「犯罪であろうがなかろうが、貴様の音声はしっかりと録音している」
ロマーノは先程までのとフェルナンドのやり取りを録音したものを、ポータブルプレイヤーで再生して見せた。
「これで同意があったと、客観的に判断されればいいな? それにこんなもの、身の危険を感じていたが自分で取り付けていたとか、言い逃れは容易にできてしまう」
「……ッ、く、クソッ! ! おまえ、オレをハメやがったな!? 一体何が目的なんだ!? 金か!? そうだ、あの契約書……」
スーツの内ポケットにでも入れていたのだろうか。残念。フェルナンドの控えはどこか別の時空間に行ってなくなってしまったらしい。いくら喚いても、素っ裸の彼の主張など、誰も取り合おうとはしなかった。
「クソッ、クソクソッ!! 何でオレがこんな辱めを……!」
父が連れてきた警備員のひとりが客室備え付けのバスローブを取り出し、それをフェルナンドに纏わせると、混乱のうちに抵抗する気力すら削ぎ落とされた彼がおとなしく外へ向かっていく。
巻き込んでしまったと言えばそうかもしれない。と、フェルナンドの惨めな後ろ姿を見ながら、は少しだけ罪悪感を覚えた。彼女が芝居をするよう持ちかけなければ、彼はそもそもこのパーティにすら来なかっただろうからだ。しかし、契約を一方的に破棄したのはあちらの方だし、性行為を強要したのは紛れもない事実。私がそれを気に病む必要は無い、と結論づけた。後は父をどう説き伏せるか。それが問題だった。
「殺すか?」
「……父さん、やめて。私は殺されてないわ」
「あの男は、おまえの心を殺したも同然だ」
大丈夫。私には内なる女神が憑いているから。あんなクズに思い知らせてやるのなんて造作もないことだし、心なんかすこしも揺らいでない。それに、私の心を殺したのは父さんの方だ。だが、そのことについては知らない風を装わなければならない。しかも、彼にそんな自覚は無いわけだから、仮に言ったところで何にもなりはしない。
は涙を滲ませ、ロマーノをじっと見つめた。
「だが……おまえが悲しむのなら、殺さないでおこう」
ロマーノはハンドサインで突入してきた隊員たちを全員外へ行かせると、がいるベッドに腰掛けて、彼女の乱れた髪を耳にかけながら、優しく落ち着いた声で言った。
「父さんを心配させないって、約束してくれたんじゃなかったのか?」
「……ごめんなさい。どうしても、寂しくて仕方なくて。節操ないって、呆れてるわよね。……私、もう男なんかこりごりよ」
「私も男だよ。」
「父さんは別。父さんのことは、尊敬しているから。それに、こうやっていつも守ってくれる」
は自分の背中に手を回して、取り付けられた盗聴器を取り外した。
「でも、もう……盗聴とか、やめてくれない? 今回はこれに救われたみたいだけど、いつもあんな、銃持った軍隊みたいなのが側に控えていると思うと、息が詰まるわ」
「。……分かってくれ。私は、心配なんだ」
ロマーノはの上半身を抱き寄せると、髪に鼻を埋め押し付けるようにして言った。
「ねえ、父さん。言葉を選ばずに言わせてもらうけど……どうして、私が死んでしまうっていう、突拍子もない妄想に取り憑かれているの?」
確かに死にそうな思いはした。けれど、それは自分が社長に就任することになったからで、会社を継げと言ったのは紛れもなく父だ。――彼は、それ以上の危機を想定しているのだ。
「……ッ。妄想じゃない。妄想なんかじゃあない」
「それは、父さんが何か、後ろめたいことをやっているからじゃないの? 父さんが何か、誰かの怒りを買って、その報復に娘の命を奪われ――」
「この話はここまでだ」
それ以上の詮索をさせまいと、ロマーノはぴしゃりと言い放った。
父はギャングだ。そしてその組織の幹部。おそらく、一度足を踏み入れたら二度と抜け出せない世界。自分の中の正義に悖る行為すら、有無を言わさずに強要される。心を殺すことを強要される世界にいる。
そして父がギャングであると知ったときの違和感。厳格な父がまさか、という、今でも完全に拭い去れないそれこそ、この問題の根本であるとは認識していた。どうやら、彼の方からそれを打ち明けてはもらえないらしい。ここはあまり怒らせないでおくほうが、今後のためになるだろう。
「。おまえは美しい、私の宝なんだ。おまえは昔からマリアに……母さんにそっくりで……成長するにつれて、おまえはますますそうなっていった……。私は、母さんを愛しているんだ。同じように、おまえも愛している。失いたくない。絶対に」
「……父さんが私を失いたくないのは分かっているつもりだったけど、配慮が足りなかったみたい。ごめんなさい。父さん」
「ああ、いいんだ。分かってくれたのなら、それで構わない」
は取り外した盗聴器をロマーノに押し返しながら言った。
「こうしましょう。父さん。……引き続き、私の居場所については携帯電話のGPSで追跡してくれてかまわない。携帯電話を持っているって証明は、一日に二回、朝と夜に電話することでできるはず。これでどう?」
「……わかったよ。」
ロマーノはしぶしぶから盗聴器を受け取ると、彼女の頬にキスをして、愛しげに髪をくしゃりと掴んで頭を抱き寄せ、最後に、また頭にキスをして離れていった。
「鍵はきちんとかけるんだぞ」
「父さん。この客室、オートロックよ」
「それだけじゃ心配だから、ドアガードもしっかり掛けておくんだ」
「はいはい、分かりました」
ドアガードなんて、侵入する気満々で準備があれば簡単に外すことができることくらい、知っているだろうに。父さん、ちょっと……いや、かなり神経が過敏になっているみたい。
は半ば呆れながらもにこやかに父を見送った。ドアを閉じて、そこに背中を預け、目を閉じる。
まだまだ先は長い。辛抱して――イルーゾォがまだ、私を愛してくれていると信じて前に進まなければ。
は目を閉じたまま深く息を吸い込み、長く吐き出した。そして目を開けた。
目を開けると、すぐそこ――三メートルほど前方には、が恋い焦がれてやまない、愛するイルーゾォの姿があった。