The Catcher in the Mirror

 はアパート前にタクシーで乗付け、車を下りるとすぐに駆け出した。石造りのゲートをくぐり、広い中庭を抜けてロビーに入る。すると見知ったドアマンが彼女を出迎えた。彼はいつものように、さん、おかえりなさいませ。お久しぶりですね。なんて声と共に笑顔を向けてきた。いつもなら屈託のない笑顔を向けて返事をするし、何なら少し立話をしたりする時だってあるのだが、今はとてもそんな気になれなかった。笑顔を取り繕うのも難しい。目を真っ赤に充血させた暗い顔をちらと向け小さく返事をしただけですぐに背を向け駆け出した彼女の寂しげな後ろ姿を、ドアマンは心配そうに見送った。

 自宅に着いてすぐ寝室に向かった。手に持っていたハンドバッグは途中、リビングにあるソファーの上に放り投げた。そして体の方はベッドの上に放り投げた。

 光源は窓から射し込む夕方の日差しだけだ。光のヴェール越しに薄暗い天井を見つめ、大きくため息を吐く。張り詰めていた心を解き放つと同時に、奥の方で無理矢理堰き止めていた悲しみが一挙に押し寄せてきた。

 泣いた。声を上げて泣いた。まるで迷子のこどものように、わんわん泣き叫んだ。泣き叫んだ所で誰かが探しに来て、優しく抱きしめてくれるわけでもないのに。

 両目から次々と零れ落ちていく涙はベッドシーツをしとどに濡らした。コップ二杯分くらいの水分が抜け出ていったせいか、それとも精神疲労がたたってか、ひどい頭痛がした。だからと言ってリビングの戸棚に仕舞ってある薬箱の中から頭痛薬を取り出す気にも、せめてもと水を飲みにキッチンへ向かう気にもなれなかった。ただ激情のままにむせび泣くしか無かったのだ。

 こんなに辛い思いをするのなら、彼に出会わなければ良かった。ひとしきり泣き通して疲れ果て、最後の最後にそうまで思い至った後、は眠りに落ちた。



「本当にそう思うの?」

 優しい、天使のような声が上から降り注いだ。目を開けるとそこには、美しい秋の森の風景を切り取る大きな掃き出し窓があった。は驚いて跳ね起きた。同じく、膝元にいた彼女の突然の挙動に驚いて、亡くなった母――マリア・が目を丸くしてを見つめていた。

「……母さん?」

 呼ばれて柔和な笑みを浮かべ、マリアは言った。

「ええ。あなたの母さんよ」

 は両手を広げ微笑む母の胸に、吸い寄せられるように向かっていった。

「母さん……母さんっ」

 迷子は母の胸で、今度は安堵の涙を流した。

 これは夢だ。夢だからきっと、頭が割れてしまいそうなほどの頭痛もすっかり消えているのだ。けれどこの感触や、母の体から伝わってくる体温は夢ではないような気がした。母は亡くなっているから、これは確かに夢だ。けれどこの抱擁は、幼かった頃にどうしても離れ難かったそれそのものだ。

「ねえ、

 母は言った。

「……私もね、あなたたちをもう二度とこの手で抱きしめられないと思うと、苦しくて苦しくてしょうがなかったわ。今のあなたみたいに、夜通し泣いた日もあった。……けれど決して、会わなければよかったなんて思わなかった。……だって、あなた達と過ごした日々は、何よりも私の心を満たしてくれたから。その幸せな日々は、母さんが心のままに必死に生きた証なのよ」
「心の、ままに……?」
「あなた、それが途中まではちゃんとできていたわ。さすが私の子よね。だから、途中であきらめたらダメよ。だって、あなたたちの物語は遠くまで来すぎているもの。壁を作ってお互いを盲目にするには、すべて無かったことにして戻るには、あまりにも遠くにね」

 母は優しくも、力強い眼差しを向けて続ける。

「聞いて、。一番大事なのは、自分の心の声に耳を傾けること。自分が本当はどうしたいのか、どんな未来を望むのか。その心に従うこと。判断を他に委ねてはだめ。人がああ言ったからどうする、という選択をすると、絶対に後悔することになるわ。そして、一番やってはいけないことは、人の心を殺すこと。一番悲しいことは、他の大切な何かを守るために自分の心を殺さないといけなくなること。あなたに力が、強さがあるのなら、そうやって自分の心を殺さざるを得ない人達に救いの手を差し伸べるの。壁ではなく、橋を作るのよ」
「どういう、こと……?」
「あなたには力が……強さがある。だから、自信を持って、あきらめないで。思い出すの。彼があなたに何をしたのか。彼があなたの心に、何を残したのか……全部思い出すのよ」

 マリアはベッドから抜け出して、に背を向け立ち上がった。

「待って、母さん。置いていかないで――


 ――私をひとりにしないで!」

「――っ!?」
「起きて。いつまで寝ているつもり? いい加減水くらい飲まないと干からびるわよ」

 は驚いて飛び起きた。飛び起きたついでに右へ左へ首を振ると、ディスティニーズ・チャイルドがベッド際に浮かんでこちらを見下ろしていることに気付いた。自分は無意識のうちに水分不足を危険と察知したのだろうか。

「かもね。もう十二時間以上飲まず食わずだもの」
「お腹空いてない」

 そう言ってすぐに腹が鳴った。あきれた、と言わんばかりに、ディスティニーズ・チャイルドは首を横に振る。

「き……気分じゃないの」
「らしくないわよ。

 最近どこからか湧いてきたばかりの幽霊にどうしてらしくないとか言われなきゃいけないのだろう。

「私はあなたをずっと見てきた。だから、らしくないって言うのは紛れもない事実。少し冷静になりなさい。こと恋愛においてはすぐに感情的になってしまうものよね。そしてあなたは経験が豊富とも言えない。だから仕方ないのことかもしれないけれど、どんなに情熱的な恋愛の中においても冷静さは欠くべきではないわ」

 はずきずきと歯痛のように痛む頭をとっさにおさえた。おさえながらベッドから抜け出してディスティニーズ・チャイルド――何か恋愛のエキスパートみたいに話す金ぴかピンの銅像、あるいは幽霊――は放ったらかしにしたままキッチンへと向かう。冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出すと、手近にあったグラスに水を注いで呷りごくごくと喉を鳴らして飲み下した。

「で。どうすればいい? 何を取り除けばいいって言うのよ」

 は皮肉っぽく、キッチンにまでついてきた自分の精神力の塊に顔を向けて言った。ディスティニーズ・チャイルドは姿を現しているが、例の四角いシャボン玉に囲われているわけではない。危険を察知して、というよりも、自分自身が出てきて欲しいと思った結果姿を現したように思われた。には全く心当たりが無かったが、ひとりでいるよりも気は紛れる――スタンドがもう一人の自分、魂のありようだというなら、ひとりであることに変わりはないかもしれないが――ので、少し話をしてやろう。とも思った末の問いかけだった。

「まずはその、思い込みを取り除くべきね」
「はあ?」
「あなたって普段とても合理的な考え方をするわよね。結論を急ぐあまり、物事にすぐにレッテルを貼って決めつけるの。いい人間関係を築こうと思うのなら、そういうジャッジは急ぐべきではないわ。人間関係なんて、非合理の代名詞みたいなものなんだから」
「……つまりどういうことよ」
「愛していないと言われたからと言って、それが本心とは限らないって言いたいのよ。言われたその場で冷静でいられたら、彼の襟首掴んで問いただせたはずよ」
「人の襟首掴んでる時点で冷静とは程遠い気がするけど」
「とにかく、全部思いだしなさいと言っているの。この一週間であなたが心に何を抱いたか」

 奇しくもディスティニーズ・チャイルドは、夢の中の母と同じことを言った。ふたりがそう言うのならと、は言われた通り思い出してみることにした。イルーゾォが自分に何をしたのか。彼が自分の心に何を残したのか。

 彼は私の命を救った。彼は私を、自分の女だと言った。彼は私に熱い眼差しを向けて、キスをした。死んだ私に向かって、涙を流しながら「愛しているんだ」と言った。私の思いを汲んで、赤の他人の命を守ってくれた。その報酬にと、私からの愛を欲した。

 それらすべてを思い出すと、胸はまた大きく鼓動を打って、中心から熱がじわじわと隅々まで行きわたっていった。彼の愛が、確かに感じられた。それがすべて、嘘だった?

「そんなはず、ないわ。……そうよ。おかしい、おかしいわよ。嘘に決まってるわ」
「ふふ。……やっと気づけたみたいね。それじゃあどうして、彼はあんな嘘を?」

 真っ先に思い浮かんだのは、父の介入だった。自分が知る限りで、イルーゾォが唯一歯向かうことのできない存在――パッショーネの幹部である父の介入だ。

 父はそうありながら、今までずっとそうであることを私に隠していた。つまり、私に知られたくなかった。そしてつい最近、死に急ぐような真似はよせと私に言った。私に、パッショーネというギャング組織に関わらせたくなかった、遠ざけたかったのだ。

 おそらく、父はイルーゾォに接触した。金を握らせるか何かして――父は何かと金で解決しようとするきらいがある――私から手を引け、でなければ殺すとでも脅したのだろう。

「ああ、なんて私……バカなことを。彼らのアジトに行くなんて……考えなしの軽率な行動だったわ」
「あの辛辣な態度はその報いってところかしらね」
「……いや、でも無理よ。イルーゾォに夢中になって有頂天になっていた私に、気付けたはずがなかったわ。どうしようもなく彼に会いたかったんだもの」
「その気持ち、まだ変わってない?」

 もしもこの考察が事実と大差なく、彼の気持ちが変わっていないのであれば、会いたい。会って、抱きしめてほしい。

「ええ。変わってないわ。会いたい。彼に会いたい」
「素晴らしいわ。これこそ愛ね。……けれど気をつけて。ロマーノの行動もすべて、あなたへの愛が成したことよ。さすが、情報を司る者よね。使えるものは何でも、すべて使って、あなたの人生からイルーゾォを排除するつもりでいるはず。悟られてはならないわ。あなたがそう思っているということを、彼には」

 盗聴、逆探知、監視、追跡。誰に何をいつ行っているのか、現時点ではまったく分からない。けれど、可能性があるものについてはすべて行われていると思っておいた方がいいだろう。

「私は彼自身と、彼が守ろうとするすべてのものを守りながら……自分の心も守りたい。私に、できるかしら?」

 ディスティニーズ・チャイルドはこくりとうなずいた。

「あなたには力が、強さがある。当然、できるに決まっているわ」

 表情は無表情のままずっと変わらないのだとが思い込んでいた守護神は、最後に微笑みを浮かべて消えていった。それはまるで母親が我が子を見守るような、優しい微笑みだった。



17: Bridges
-Your Side-





 例の騒動から一週間が経とうとしていたある夜のこと。シド・マトロックは地下にある職場兼自宅でに課された仕事に取り組んでいた。の父、ロマーノ・の過去について探れという仕事だ。

 はその父親のことを「コントロール・フリークのカタブツ」とよく言うが、その血はしっかりと受け継いでいるようだ。カタブツではないかもしれないが、コントロール・フリークなのはそっくりだ。何についても知っておきたい。自分の思い通りにしたい。まあ、その心理は分からなくもない。

 仕事の進捗は芳しくない。が求める情報だから、金がどうこうではなく、しっかりとこなしたい仕事だというのに。仕事に手が付かないほど注意が散漫している原因は何か、シド自身がしっかりと自覚していた。

 罪悪感だ。すべてを守ると言ったのに、守ってやれなかった。の求めるもの、大切にしようとしていたものを、ロマーノに奪わせてしまった。それは過失ではなく、意図的にやったことだからだ。

 は最近、引き継ぎやら挨拶まわりやらで忙しくしていた。だから例の騒動の後、ふたりでこの部屋に戻ってきて小切手を切ってもらった後からはまともに会って話をしていない。けれど、彼女の意気消沈ぶりは見事なもので――嘘がつけないというか、顔に出やすい。も機嫌が悪いときはマスクを被ればいいと提案してみようか――見る顔見る顔全部暗いしいつもの覇気は感じられない。

 待てよ。会ってないんじゃないのか? どうしての顔色がわかる? そんな疑問が浮かぶだろう。その答えこそ、シドの罪悪感を象徴するものだろう。

 シドはロマーノとこの部屋で会って話をしてからその後、何があったか正確なことは知らない。知らないが、粗方のことなら想像はついた。ロマーノにほとんどすべてのことについて打ち明けた後、こんな話、聞いてどうするつもりですか。と少々突っ込んでたずねてみると、ロマーノは言ったのだ。「あいつには手を引いてもらう」と、確かにそう言った。おまえもゆめゆめ、変な気は起こさないことだ。なんてキツい一言も添えて。きっと、またトランクケースに大金を詰め込んで、イルーゾォの元へ脅迫にでも向かったのだろう。だからとイルーゾォの仲がどうなったのかにも想像はつく。だが、正確なことはの口から聞いていない。

 だから気になって気になってしょうがなくなって、社内に設置されたの動線上に設置された監視カメラの映像をのぞき見ていたのだ。は元に戻っているだろうか? オレの世界は元通りになっているだろうか? と少し期待して。だが――分かりきったことではあったが――シド・マトロックの世界は元通りにはなっていない。待てども待てども元通りにはならない。

 寝ぼけた頭の自分が抱いてしまった出来心だった。イルーゾォにオレの世界から消えてもらいたい。そうすれば、オレの世界は元通りになる。なるはずがないと冷静な自分なら思えただろう。がイルーゾォに心底惚れ込んでいることについては、が休暇を取ってから一週間で嫌と言うほど思い知らされたからだ。それはイルーゾォの方も同じで、ふたりの間で動いていた自分には互いに愛し合っていることが明確に、分かりすぎるくらいに分かった。父親の邪魔が入らなければ――暗殺者と有名企業の次期社長の恋愛などまかり通るなんて信じられないことではあるが――ふたりは真剣に交際を始めていただろう。のことを思うのなら、ロマーノに歯向かってでも、イルーゾォのことについて話さないという選択をすべきだった。そう気づいたのは、の陰鬱な表情を一週間見続けた後、今になってだ。

 今日もの顔は暗かった。一週間前と変わらず。これまではどんなに忙しい時でも、二、三日にいっぺんはここに来てオレの様子を見にきたり、絡みにきたり、無茶な仕事をふっかけてきたりしていたのに。――別に、寂しいってわけじゃない。……いや、嘘だ。正直ちょっと寂しい。リアルな人間関係は、としか保てていないからだ。

 だから、まるでストーカーみたいにの顔色を伺っていた。子供が悪いことをしたと自覚した後、母親の顔色を伺うのとほとんど同じ心理だろう。この国の言葉で言うところのマンモーニってやつだ。情けない。きっと、が元通りになるとすれば、イルーゾォという侵略者によってオレの世界が崩壊した後だ。オレの世界が元通りになることと、が元通り笑っていられることは互いに排反である。

 これが、シド・マトロックがここ一週間で導き出した答えだった。故に彼は後悔している。侵略者の出現以前に、に自分の思いを伝えられなかったことと、ふたりの仲を引き裂くような真似をしたことを。

 けれど、に出会えたこと自体には感謝していた。もしも彼女に出会えていなければ今も獄中にいただろうし、厚生の上まっとう――まあ、今も完全にまっとうな生き方をしているわけではないが、有名企業で自分の能力に見合った対価を得られる労働に従事しているわけだから、ほとんどまっとうと呼べるはずだ――に生きる道には立てなかっただろうからだ。自分の能力を買って、自分という存在を認め尊重し、常に支えてくれた彼女が笑っていない。シドにとってはそれが最も問題だった。侵略者による自分の世界の崩壊など、その問題に比べれば些細なことだった。

 今さら罪を告白したところで、もう事態は取り返しのつかないところまで進行しているかもしれない。だからせめて、彼女の望むことは何でも無償で聞くと決めた。もう自分には何一つ頼まない。信用ならない。顔も見たくない。そう突き放されても、受け入れよう。それがの求めることならば、そうしよう。

 シドがそう思ってすぐ、背後で物音がした。カツカツと、打ちっぱなしのコンクリートの床を叩くハイヒールの音。だ。ああ、まだ、心の準備が出来てないのに。だが、そんな泣き言は言えない。シドは目を瞑って歯を食いしばった。

「シド。……なんだかひさしぶりね。ちゃんとご飯食べてる?」
「母ちゃんみたいなこと言うなよな」

 実の母にそんな気遣いなど受けたことはないが。

 そう思った途端、シドはつい、泣き出してしまいそうになった。彼が珍しくセンチメンタルになっていることなど露とも知らず、は笑う。やはり、その笑い声には、いつもの元気が感じられなかった。それもまたシドの胸を締め付けた。

「ふう。なんだか疲れちゃったわ」
「仕事、まだ終わってないぜ」
「ああ……別に催促に来たわけじゃあないのよ。ただちょっと、一息つきたくて」
「……そうかよ」

 はシドのデスク背面にある小さなシンクで何やらかちゃかちゃといわせ始めた。シドには見えなかったが、きっといつものように茶でも淹れているのだと想像はついた。程なくして、アールグレイの香りがシドのマスクの中にまで届く。これは、自分がよく飲む安物のティーバッグで煮出した茶ではなく、王室御用達の高級――十センチ四方の、金色のブリキ缶に入っている――茶葉を、ウェッジウッドのバカ高いティーポット――陶磁器の白いベースに野苺の柄が描かれた小洒落たやつ――で淹れた茶の香りだ。が来たときにしか飲めないそれが注がれたティーカップがソーサーに乗せられた状態で左手元に置かれる。

「ジャムでも入れる?」
「いや、いいよ。そのままで」

 いつもなら脳の栄養にするためにしこたまストロベリー・ジャムやらブルーベリー・ジャムやらを注ぎ込むのだが、今は気分じゃなかった。大して脳みそも働いていないからだろう。それにしてもここの客人っていうのはどうして、誰も彼もが皆所有者の許可も取らずズケズケと人のベッド――にしているソファー――に座り込むだろうか。

 シドがそんなことを思い浮かべている間に、はソファーベッドの背もたれに背を預け、自分用に淹れた紅茶を一口啜り、何もない天井をじっと見つめた後、目を閉じた。

「最近、ここに父が来たりした?」

 シドはドキッとして身をこわばらせた。そのこわばりは不用な沈黙を作ってしまう。

 ……待てよ。何ビビッてんだ。さっき決めただろ。本当のこと言うって。

 自分にとっての最悪の場合を想定しているシドは、土壇場になって怖気付いていた。

「……ああ。来たぜ」
「盗聴器とか仕掛けられてないでしょうね」
「んなもん仕掛けさせるか」
「ならいいわ」

 は!? 聞くことはそれだけか!?

 シドは逆ギレする。そして自ずから踏み込んだ話を始めてしまった。

「おい待てよ!あんたお人好しスギんだろ……!いい加減にしろ!?」
「何よ。何怒ってんの?」
「あんたは、盗聴器とかじゃなく、オレが、オレ自身が、あんたのオヤジさんに情報漏らしてるとか疑ったりはしねーのか!?」

 は小首をかしげてシドの顔を見つめた。シドが何を言いたいのか、その真意がわからない。といった顔をして、彼女は続ける。

「お金を支払う約束をしている仕事に支障が出るようなことはしない。そう信じてる」
「だから、信じるとか信じないとか……そんな話じゃなく――」
「どうして? そんな話よ。私が満足いく結果を得られたら、それに見合った対価を支払う。そうでなければ、私が、あなたが本気で仕事に取り組んで私の期待に応えようって気になれない程度の上司だった、というだけの話じゃない。ちなみに、あなたはこれまで一度も私の期待を裏切ったことはないわ。だから信頼していると言ってるのよ。もしその信頼が揺らぐようなことがあるとすれば、それはあなたに問題があるんじゃなくて、私に問題があるということ。……で? さっきからあなた、何を血気づいてるの? なんだか、私とあなたで、したい話が違う気がするのは気のせいかしら」
「……っ、そ、それは……」

 シドが確かにそうだと気付いたのは、に指摘されてからだった。は、シドが自分が与えた仕事の話をしていると思いこんでいる風だ。だが実際、シドがして“しまった”話は、仕事の話ではない。がした、ロマーノがここに来たかどうかという話に過剰に反応して、そこから路線が逸れて話が進んでしまっただけなのだ。

 結局、シドは思った。の信頼を損ねるような行動をしてしまったことに変わりはない。それが仕事でだろうがプライベートだろうが関係ない。

「オレは……オレはあんたの信頼を裏切ったんだ。それを知らないで、オレを信頼するとか……甘っちょろいって教えてやってんだよ!」
「…… あなたからそう打ち明けるってことは、あなたなりの優しさよね。それか、後悔かしら? どちらにせよ、私が依頼した仕事を進める上で精神衛生上良くなさそうだから、あなたが抱えている問題は解決しておいた方が良さそう。話してくれる?」

 まるで、我が子が悪さをしたと知った時の優しい母親のような口調で、は言った。

 こんなだから、オレはいつもに歯向かえないんだ。唯一、自分を真っ向から肯定してくれる存在に、見放されたくなくて。

 シドはすべてを打ち明けた。イルーゾォという男のことについて、そしてその男といつ何をやったのか、洗いざらい――ヤツやのスタンドの能力とかの詳しい話は省いた。あいつの能力で、と言ったらそれ以上のことを聞いてこなかったからだ。スタンドという存在自体よく知っているかどうかも分からない人間相手に、あんな特殊能力を持っているわけでもなんでもないオレが一から説明するのは骨が折れる――話してしまった。と。結果、ロマーノが、イルーゾォにはから手を引いてもらうと言ったこと。大前提として、イルーゾォとの関係性から、が父親にイルーゾォのことを知られたくないのは分かっていた。ということも。――これがシド・マトロックの犯した罪のすべてだ。

 そう言ったつもりだった。だが、の反応は驚くほど希薄だった。自分の未来を悲観しまくっていたシドにとって全くの肩すかしといった反応しか示さなかった。

「え。そんなこと気にしてたの?」

 は朗らかに笑い飛ばす。シドはデスクチェアから立ち上がって彼女に食って掛かり、マスクの内側で白目を向いた。

「はぁ!?」
「やだ、怒らないでよ。ちょっと、落ち着いて、冷静になって。……あなたが父に、私達三人で何をしてきたのかとか、そのついでにイルーゾォのことについて詳しく話をしていようがいまいが、父は絶対に脅迫に行ったわ」

 ロマーノに、イルーゾォとシドが車に乗ってここから出る様子を見られたなら、例の騒動に彼が関与していていることは――言うまでもなく――明らかだと判断しただろう。そもそも、イルーゾォと自分の関係については、アジトで初めて彼を目にした時から感付いていたはずだ。それを確信に変えるために、父はある行動に出た。

「これ、何か分かる?」

 は唐突に、ポケットから小さなチップを取り出してシドに見せた。

「……盗聴器だな」

 ナポリでイルーゾォに突き放されて泣いて帰ってきて、疲れ果て冷静になって考えてみた後、自分の携帯電話からほじくり出したものだとは紹介した。

「あの別荘に閉じ込められる前に、携帯電話を父に没収されていたの。返ってきてすぐ、何の疑いも持たずに私、イルーゾォに電話したわ。今になって思えたことだけど、私が迂闊だったのよ。そうでなくても、もし私がイルーゾォと会い続けていたとしたら、遅かれ早かれこうなるのは必然だったわ。だから、あなたが言ってしまったと気に病むことは何も無い。そもそも、私あなたに口止め料なんか支払ってないし」

 は理路整然と言った。だが、シドはまだ釈然としなかった。

「じゃあ、一体何のためにロマーノさんはオレに話を聞きに来たんだよ」
「いつも言ってるでしょ。あの人、コントロール・フリークなのよ。今から対峙しようって相手のことは、可能な限りで全て知っておきたいタイプなの。交渉でその情報を使うか使わないかに関わらずね。……そんな事より――」

 はソファーから立ち上がって、シドをぎゅっと抱きしめた。

「――あなたが父に歯向かおうなんて考えなくて良かった。あなたも知ってるだろうけど、あの人、パッショーネの幹部なのよ。何をしでかすかわかったもんじゃない」
「なんで……なんであんたはいつも……」

 なんであんたはいつも、人のことばかり考えられるんだ。ここ一週間、オレというヤツは、自分のことしか考えていなかったのに。あんたに突き放されたくないって、それだけしか考えられなかったのに。

「シド。……泣いてる?」
「……るっせー」
「ああもう。うるさいとか言わないで。……聞いて」

 はシドを腕から解放すると、彼の肩に手を乗せて顔を覗き込んだ。本当はマスクを取った顔を見てしっかりと伝えておきたいことだったが、涙を見られるなんてきっと嫌だろうからと、無理な要求はしないことにした。

「あなたがこれまで私の中で築き上げてきた信頼は、ちょっとやそっとのことじゃ揺るがないわ。それに、今回のことで言えば、イルーゾォだけじゃない。あなたがいたから私、今こうして生きていられるのよ。……あなたの存在にはいつも助けられているし、こころから感謝しているわ。勇気を出して、打ち明けてくれてありがとう」
「……あんたって、どうしてそんな、こっぱずかしいことを……」
「どうしてって……。強いて言うなら、あなたが大切だからよ。言いたくてしょうがなくなっただけ」

 少しだけ顔を赤くしてすぐに、はシドから顔を背けてしまった。

「さて、そろそろ戻ろうかしら。今の持ち場を離れる前に片付けておかなきゃならないことがたくさん。引継ぎの資料も作んなきゃ……あ!」

 ウエッジウッドのティーポットとティーカップ、ソーサーなどを片付けながらは何か思い出したのか、ひと際大きく声を上げた。片付けを済ませると、彼女はそそくさと自分に背を向けてしまったシドに、上質紙でできた生成り色の封筒を手渡した。

「……何だよこれ」
「招待状。二週間後、就任式の後にパーティを開くの。さすがにその鋭利なスタッズ付き物騒マスクはドレスコードに反するから、素顔のままスーツ着て来てね」
「は!?ヤダよ」
「えええええ。せっかくの私の晴れ舞台なのに、お祝いしてくれないの!?」
「なっ……何でオレがパーティなんかッ……! てか、オレはスーツなんか持ってねーよ!」
「異論は認めません。これも仕事の内よ」
「報酬は!?」
「スーツとタダ飯。スーツは今週末にでも一緒に買いに行きましょうか」
「割に合わねえ!」
「じゃあ、お仕事頑張って~」
「おい待て、オレは絶対――」

 バタンと音を立てて、部屋の扉がスチール製可動棚の向こうで閉じられた。シドは深いため息をつく。そして手元の招待状をじっと見つめた後、呟いた。

「絶対、行かねぇからな」