口を歪め血が滲むほどまで唇を噛み締め、うっすらと瞳に涙を浮かべたイルーゾォは、駆け出したの背中をじっと見つめていた。
つい、彼女を抱きしめてしまいそうになった。けれどダメだ。何のために彼女を傷つけてまで嘘をついた。すべてを台無しにするつもりか。そう自分に言い聞かせ、必死に食いとどまった。胸が張り裂けて、そのあまりの痛みに呻いてしまいそうだった。
夢が覚めたのだ。夢が覚めて、またいつもの日常が戻るだけ。何度自分にそう言い聞かせても、胸にぽっかりと穴があいたようで、元の日常など、元の自分など、いつまでも戻ってこないような気がした。
「見送りは」
玄関の奥の方から事の次第を見届けたホルマジオが、イルーゾォの肩に手を乗せて言った。何も言い返す気力が生まれない。放心状態で、彼は玄関の扉の前に佇んだままだ。ホルマジオはチッと舌打ちをして、戸口に立ちふさがるイルーゾォを押し退けて外へ出た。
「ったく。首を振ることすらできねーのかよ。……おまえがそんなじゃあ、オレまで調子狂っちまうだろうが」
それにしても、あんなハイヒールを履いてよく走れるもんだ。と、ホルマジオは感心した。それに、彼女がいくら強かろうと、精神的に不安定な時に、小綺麗な格好をした女がひとりでこの辺を歩くなんて危険極まりない。
ホルマジオもまた駆け出して、の後を追った。
と出会ったのが例えイルーゾォでなくとも、こうなっていたことだろう。だから、別に横取りしようと思った訳では無かった。イルーゾォの二の舞なんかゴメンだ。
ただ、彼女の命に敬意を払いたかったのだ。自分たちのようなならず者相手に、対等に接してくれた女性が無事、彼女の日常を取り戻すことができるように。せめて危険では無いと思われる所まで見届けるくらいはしておきたかった。
普段なら金持ちなんかみんな敵にしか見えないのに、おかしな話だ。護衛なんかいくらでもつけられるような大金持ちの女を、オレがタダで護衛するなんて、普段なら絶対にやらないことだ。まあ、そもそもオレたちの“普段”に大金持ちの幹部の娘なんか出現しないのだが。
自分達の命を優先する選択をしたイルーゾォが愛する女だから、守るというのもあった。ホルマジオは、が無事、最寄りの空港について――受付の女性はよせばいいのに、目に涙を滲ませたに大丈夫ですか? なんていう優しい声かけをして、彼女をさらに泣かせていた――搭乗口からゲートの向こう側に消えるのを見届けたところで、ポケットに手を突っ込んだ。財布を取り出して中を見る。潤沢とは言えないが、男二人で飲み明かす程度の金はあった。
しょうがねーな。失恋したら、奢ってやるって約束をし……てはなかったな。オレが勝手に決めたことだった。いや、男に二言はねぇ。……言ってもねーけどな。
アジトに戻ると、イルーゾォが手に下げて持ち帰ったトランクケース――ホルマジオもそれ以外の者も、開いて中を確認したわけではないが、おそらく何千万ないしは何億リラという大金が詰め込まれている――が不用心にもリビングのすみに置かれたままだった。だが、誰も勝手に開けようとはしなかった。あのギアッチョさえもがそうだった。どうせオレが見込んでいた利益の総額には遠く及ばねぇハシタ金だ。とか何とか憎まれ口を叩いていたが、きっと、あんな守銭奴でも気が引けるのだろう。イルーゾォが“賢明”な選択をした結果――心を殺した結果だと誰もがよく分かった。
ホルマジオはトランクに一瞥をくれると、アジトの中にいるであろうイルーゾォの姿を探した。いつもイルーゾォの方から飲みに誘ってくるので、ホルマジオはアジトの中で彼の姿を探したことなどほとんどなかった。だが見当がつかないわけではない。そう広くないアジトの中で傷心を癒やすとすれば、場所は限られている。自室か、二階の物干し竿なんかがあるテラスだ。
突然あいつの部屋に行くのも気が引ける。だからホルマジオはひとまずテラスを覗いてみることにした。ちょうど今は夕日が綺麗に見える頃だし、タバコを吸いに来た、という体で話しかけるなら自然だ。
あいつだってあからさまに慰められたら気持ち悪がるだろうしな。
テラスに行き着いて扉を開く。開いた向こうにイルーゾォの姿は確認できなかった。だが、表に出て扉を閉じれば、押戸の蝶番が付いた側の壁沿いに、イルーゾォが背を預けてぼうっと空を眺めている姿が確認できた。
「ちゃん、無事空港に着いてミラノに帰っていったぜ」
イルーゾォは空を見上げたまま、おもむろに口を開いた。
「……そうか」
「礼はいらねーよ」
「ああ」
「いや、やっぱりありがとうの一言は欲しいな」
「ああ」
「……おまえオレの話聞いてねーだろ」
「ああ」
ホルマジオはイラついて、すっかり腑抜けたイルーゾォの肩にパンチを食らわせた。戯れに毛が生えた態度の威力のそれには少しも体を揺らさず、ぼうっと空を見つめたままでいる。されるがまま、反撃の意思など微塵も感じられない。
いつもなら華麗にかわすなりなんなりしてムカつくドヤ顔をこっちに向けた後、いやみったらしいことを二言三言言ってくるのに。やはり調子が狂う。ホルマジオの怒りは尻すぼみになって消失した。舌打ちをして、扉一枚挟んでイルーゾォの隣に腰をおろし、壁に背中を預けた。
「おまえいつまでそんな調子でいるつもりだよ」
「……さあな」
「あとあの金、どうするつもりなんだ。誰も手をつけようとしねーぞ」
「……知らねー。おまえらで好きに使え。オレには必要ない」
「おいおいおい。どうしちまったんだよホントに……。おまえ今最高に気持ちが悪いぜ」
「オレもそう思う」
ああ、畜生。もう見てらんねー。いつものイルーゾォはきっとちゃんに持っていかれちまってんだ。
ホルマジオは深い、深いため息を一つ吐くと、イルーゾォから視線を空へ逃し、しばらくじっと流れ行く雲を見つめたあと、思い出したかのように内ポケットからタバコを取り出した。箱の底を弾いて一本飛び出したそれをくわえ抜き取ると、慣れた手付きで火を付け白い煙を吐き出した。
「いつものお前なら」
ホルマジオは言った。
「テメーだけ美味しい思いするために足抜けしただろうぜ。幹部の娘をほとんど人質みたいにして旅にでも出たんじゃあねーの。……そうだよ。仲間を殺したら娘を殺すって、脅迫すりゃ良かったんだ。いや、我ながらなかなか冴えてる」
「お前バカか」
お、いつもの調子が少し戻ったようだ。だが、キレがいまいち。まだまだ本調子じゃあないらしい。そして、冴えてると思ったオレの案は秒で却下されたまま。それがどれだけの愚策か論じるのも面倒といった具合に流される。
ホルマジオは逆ギレして続けざまに問いただした。
「なんで諦めた。他にやり方はなかったのか? ベストか?」
イルーゾォは昨日、ロマーノ・に釘をさされてからずっと、他にうまいやり方はなかったのか? これはベストな選択か? と自分に問うていた。自分なりに導き出した答えを口にするのもいいだろう。すればするだけ、儚い夢だったと思い知らされるだけだろうが。
「冷静になって考えてみると、最初から分かりきったことだったんだよ。オレはあいつの汚点にしかならねぇ。だからうまくいきっこねぇってことはな。ロマーノ・とこのアジトで対面した――が幹部の娘と知った――あの時に、諦めておくべきだったんだ。この選択は、の幸せのためでもある」
世間に顔をさらしてまっとうに生きている会社の代表が、ギャングで殺し屋の男と付き合っているなんて知られたら大事だ。
「おまえが身を引いて、それでちゃんも納得したなら賢い選択だったと言えるだろうな。だが彼女、とても納得できていたようには見えなかったぜ。彼女の幸せのためだなんてよく言えたもんだ。……オンナを泣かすなんてサイテーの男がやること――」
「問題は」
イルーゾォは言った。苛ついたのか、食い気味に。
「と父親の間で意思が統一されていないということだ。納得するしないは、オレととで揉むことじゃあねーんだよ」
「理屈はそうだろうよ。オヤジさんは認めない、ちゃんは納得できない。その平行線でこれ以上にっちもさっちも行かねーってんだろ? でもよ、恋だの愛だのは理屈で片付けられるようなもんでもねーだろ。大事なのはふたりの思いだとオレは思うがね」
「頭の中がお花畑のヤツが言うことだな。話にならん」
「そのお花畑ってやつで駆け回った挙げ句勝手に自滅してるやつがエラソーにカッコつけて駄弁ってんじゃあねーぞ」
いやまったく、確かにそのとおりだ。とイルーゾォは思った。未だに彼の胸中では、愛情、欲望、恐怖、変えがたい現実を受け入れなければという理性その他もろもろがせめぎ合っている。いくらあきらめの言葉を口にしても、自分の心が現状を受け入れられていないから、鬱憤は内側で際限なく沸き起こる。
かと言って、そう指摘されたところで今の自分にどうにかできることでもない。それがまた歯がゆくて、何か言ってやろうとしたその時、ふと、嗅ぎ慣れたタバコのニオイがイルーゾォの鼻腔をくすぐった。いつもは気にしなかったそれだが、どこか懐かしく感じられる。
ホッとするというのか、ここが自分の居場所なんだと、この選択は間違いなんかじゃない。こうするしかなかったんだと信じたい心が、ホルマジオへの反感をいくらか削ぎ落とした。
「……ほっとけ。それにしてもおまえ、マジに何しにここに来たんだうっとーしい」
「タバコふかしてんだよ見てわかんねーのかバーカ。……そのついでにおまえの話を聞いてやってんだろーがよ」
本当は酒を奢ってやるって言いにきたつもりだった。ホルマジオは当初の目的を思いだした。しかし、それはまだ早かったかもしれない。そうだ。ふたりの心の問題がほったらかしだからだ。――べつに何が何でもイルーゾォに酒を奢ってやりたくないってわけじゃない。
「おまえのその能力がありゃ、オヤジさんに気づかれずに逢引するくらい簡単なことだろ。……せめて、気持ちが変わったわけじゃあねーってことくらい言ってやれよ。今日言ったことは全部嘘だったって伝えてやれ。じゃねーとありゃ……あんまりだぜ」
「オレの能力に関して言えば、にも、の部下にも、オヤジさんにも見破られてる」
「それが怖くてできねーってのか? このタマナシ野郎」
ホルマジオはこちらをねめつけようとしたイルーゾォの顔に人指し指を突き付けて言った。
「おいよせ、おまえに何が分かるって言いたげな顔をこっちに向けるんじゃあねー!」
ホルマジオによる怒涛のお説教タイムがはじまったのはここからだった。
「いいか。んなみっともねーしょげたツラをずっと下げられていちゃあこっちが迷惑するんだ。これはリゾットだっててめーに言いたくてたまらないことだろうよ。リゾットが、今度お前に仕事を振ろうって時、絶対に言うであろうことをオレが先に言っておいてやろうってんだ。ありがたく思え」
イルーゾォはありがたいとは少しも思わなかったが、喋る気力も殺がれていたのでホルマジオのありがたいお言葉を黙って聞きつづけた。
「さっきも言った通り、お花畑を勝手に駆け回ってたのはおまえだから、今おまえがしょげてんのも全部おまえの責任だ。オレたちには関係ねぇ。だから、それが原因で仕事をしくじってオレたちにケツを拭かせたり、ましてや仕事に行けねーなんて泣き言を言ってオレたちの仕事を増やすようなことは絶対に許されねえ」
仕事に行きたくないと言った瞬間リゾットにメタリカを食らうのは目に見えているしゴメンだ。自分の体の内側から釘やらカミソリやら先の尖ったハサミなんかが皮膚を突き破って出てくるなんて、想像すらしたくない。苦しむのが怖くて尻尾を巻いて逃げてきたのに、そんな泣き言なんか言うもんか。……だが、注意が散漫して仕事をしくじるとかいうのは、絶対に無いとは言えないかもしれない。
「そして、おまえはちゃんの気持ちにだって責任がある。……あんなにいい女に――外見だけじゃあねえ。あの子は、根っからの最高にいい女だ。おまえみたいな人間が生きてるうちに会えたことすら奇跡ってくらいのな。そんな最高の女を傷つけて、泣かしたまま放ったらかしにするなんてことは、オレが絶対に許さねぇ」
いったいどんな立場からモノを言ってるんだこのハゲは。ああ、だが、相変わらず反論の余地はない。が身も心も、何もかもが最高の女だと言うことは、身を持って知った紛うことなき事実だ。嘘をついて彼女をひどく傷付け、泣かせたままでいるのも事実。
「だから、おまえがオヤジさんに思ってもねーことを言わされただけだってんならせめて、おまえの本当の気持ちを話してこい。絶望する前に、やれるだけのことはやってから帰ってこい。ケジメをつけるってのは、オレたちの世界で最も重要なことだろうが。おまえが会いに行った時、ちゃんの気持ちがまだ変わっていないのなら、オヤジさんの目が光ってて会えない間、あの子がひとりで泣く夜をなくしてやれるだろ。逆にもしも今日の一件であの子の気が変わって他に男でも作っていたりしたら、それはそれでおまえも諦めがつく。どちらにせよ、おまえにはやっぱり、おまえが守ろうとしたチームのためにも、おまえ自身の気持ちに整理をつける責任があるし、ちゃんにもう一度会って本当のことを話して、彼女の気持ちを整理してやる責任がある。それをやって、おまえらの関係がどうなるってわけじゃあねーかもしれねーがな。……ただし、今度は絶対にオヤジさんにバレんじゃあねーぞ。こちとら死ぬ覚悟はできてるが、だからってべつに率先して死にたいわけじゃあねーんだ」
ホルマジオは――イラついていたせいか、いつもの一回分より長く消失した――吸いかけのタバコの先端を床に押し付け火を消すと、指先で弾いてテラスのすみに放り捨てた。
オレからも言っておいてやろうか。リゾットにおまえが近い将来言われるであろうことを。――ゴミはゴミ箱に捨てろと何度言ったら分かるんだ。……でもやっぱり、喋る気にはならなかった。
「わかったな!」
イルーゾォの答えを聞かないまま、ホルマジオはテラスを後にした。バタンと大きな音がして扉が閉じられる。ひとり置き去りにされたイルーゾォはまた空を見上げ、を思った。
17: Bridges
-Illuso Side-
昨日、丸一日を費やして考えに考え抜いた結果の選択だった。に面と向かって言い放った言葉はまったくの嘘ではあるが、身を引くという選択自体は総体的に間違いではないと思えた。
身分が違い過ぎる。住む世界が違い過ぎる。それぞれの世界と世界の間には、決して越えられない壁がある。は身も心も、何もかもが美しい。けがれなど何一つ無いその存在を公にする身分だ。殺しを生業にしている男と愛し合っているなどとは、絶対に知られてはならない。彼女の人生における総体的な幸せを思うのなら。彼女が幸せで、自分達の命が助かるのなら、何も問題はない。
そもそもこの問題に関して言えば、自分の気持ちがどうこうは関係ない。自分という弱者に――組織に、そして恐怖と苦しみ、そしてその先の死という概念に飼いならされた犬に――選択の自由などないのだ。
心を殺せ。そうすれば生きていられる。眠りにつく前に何度も自分に言い聞かせた。
明くる日――つまり今日、が来たとリゾットに聞かされて玄関へ向かうまでの道のりはひどく長かった。わざと、ゆっくりと進んだというのもあった。結局、最後の最後まで別れたくなどないという思いを振り切れなかったからだ。歩く間、未練がましく、と交わしたキスや、抱きしめた感触や、そのあたたかさだとか、彼女の女神かと見紛わんばかりの美しい微笑みとか、愛していると囁いた彼女の声を――数日間のうちに濃縮された、人生で最も幸せだった時間を思い出していた。まるで死刑台に向かう死刑囚にでもなった気分だった。
の顔を見ながら拒絶の言葉を吐かずに済めばまだ精神的ダメージは今よりいくらか少なかったかもしれない。まさか、ここまで会いにくるとは思わなかったのだ。ロマーノ・がきつく言って聞かせているとばかり。あいつはどうせ言ったって聞かなそうだ――イルーゾォは笑みをこぼした。そして、そんなが約束を反故にされたまま黙っているわけが無いと気付く――が。ロマーノは、オレを試したのだろうか? 自分の命令を聞かざるをえないオレの方から拒絶するはずだと。自分の言うことは聞かないだろうが、さすがにオレに拒絶されればもあきらめがつくだろうと。まさかそこまで計算尽くでを自由にさせていた? まったく、冴えているとしか言いようがないな。
とにかく、今日、オレの心は死んだ。きっとこの胸にぽっかりと空いた穴はずっと、体が滅びるまでそのままだろう。
ところで、は今頃どうしているだろう。今日のことで愛想を尽かされただろうか。腹立たしくて、もうオレの顔なんか見たくないと思っただろうか。それとも、今でもオレを思って、ひとり泣いているのだろうか。そうしていてくれるだろうか。
「ああ、なんで、なんでオレは……あんなことを……」
考えないようにしていたことを考えてしまった。ホルマジオのせいだ。人の気も知らないで、好き勝手に言いたいことだけ言って行きやがって。きっとこうなると分かっていたから、考えないようにと意識していたのに。
全部嘘だ。迷惑だなんて嘘だ。おまえがここまで来てくれて、どんなに嬉しかったか。もう愛していないなんて嘘だ。嘘だって、分かってくれ。分かってくれ。気付いてくれ。オレの心はおまえの記憶の中にあるはずだ。だからどうか、分かってくれ。許してくれ。弱いオレを、おまえへの思いを貫けなかったオレを、許してくれ。愛してる。愛してる。愛しているんだ。。オレはおまえを、こころから愛しているんだ。
すっかり暗くなった空を仰ぎ見る。重力に逆らえなかった涙は、目尻からこぼれ頬を伝って下へ落ちていった。