The Catcher in the Mirror

 時刻はとうに定刻を過ぎていた。は腕時計をちらちらと見ては、レストランの外に目をやって、イルーゾォがひょっこりと顔を見せるのを今か今かと待っていた。だが、彼は一向に姿を現さない。

 時計の短針と長針が文字盤の“Ⅻ”の上で綺麗に重なった時、とうとうの堪忍袋の緒が切れた。まず彼女は怒りを覚えた。約束をすっぽかされているかもしれないのだ。これはビジネスでは無いから、三十分程度の遅刻は多めに見てやってもいい――もしイルーゾォが自分の部下で、これが仕事の打合せだとする。三十分も遅れてきたらクビにはしないまでも一ヶ月の減給は免れないだろう――が、一時間も待たされる――しかも昼時で腹が減り始めている――となると、時は金なりという意識が私生活にも染み付いていてとてもせっかちな彼女は、居ても立っても居られなくなってくるのである。

 私の人生における時間を一時間も無駄にさせるなんて……大した度胸してるわ、イルーゾォ。

 もちろん、は忘れてなどいない。ギャングで暗殺者という身の上で裏社会に生きるイルーゾォという男がつい一週間前に自分の命を救ったことを。だから彼が私の時間をどうしようと、面と向かって文句は言えないと思った。私は彼のもの。そう思い至っただけで、表情筋にしまりがなくなって、ふにゃふにゃとした笑みを浮かべてしまう。

 でも、遅れるならせめて電話の一本入れるもんじゃないの!?

 どこかへ飛んでいってしまいそうになっていた怒りをギリギリのところで取り戻したは、眉根を寄せ頬を膨らませ、ハンドバッグの中に手を突っ込み携帯電話を取り出した。そして、どこかでちんたらやっているであろう愛する待ち人に電話をかける。

 ――出ない。出ないどころか、留守録を受付ける通信事業者の女性の声すらしない。ただ虚しく、延々とコールが鳴り続けるだけだった。嫌がらせのようにずっと切らないでいると、そのうちブチっと音が途絶え、今度はプーップーップーッと鳴り始める。

 電話を切られた!?

 怒りの次にの心を席巻したのは戸惑いだった。一体何故電話を切られたのだろう。急な打合せでも入って、その最中だったのだろうか。それなら、予定が入った時に電話をいれてくれればいいのだ。

 戸惑いは、あれやこれや次々に疑問とネガティブな感情を生み落としていく。は言うまでも無く、疑問をいつまでも抱えておくのが苦手なタチだ。不満を抱え込んだまま黙っている、なんて大人しさなど、彼女はこの世に生を受けた時から持ち合わせていない。

 勢いよく席から立ってハンドバッグの持ち手を握った。が、途端に腹が大きな音を立てた。両隣の客に、ちらと横目に見られたのが分かった。は顔を真っ赤にしておずおずと椅子に腰を下ろすと、メニューを手に取った。マルゲリータを頼むのは決めていたことだし、この店に来るのは初めてではない。なので、メニューを広げてむりやり目に文字列を追わせたのは、単なる照れ隠しだった。

 ……と、とにかく、イルーゾォのところに押しかけるのは、美味しいマルゲリータを食べてから。それからよ、。落ち着くの。

 人間、生命の危機的状況――原始の人間からすれば、空腹とは生命の危機に違いない――に立たされると、驚異的な瞬発力や怪力など、普段からは想像もつかないほどの高い身体能力を発揮することがある。だが、その能力に持続力は無いし、注意力はひどく散漫になる。これは火事場の馬鹿力とか、戦うか逃げるか反応とかと言われるものだ。注意力が散漫になることとはつまり、仕事のパフォーマンスが下がる――まれにシドのような、いくら睡眠時間を削ろうとも、好きなことに対してのみは底なしの集中力を発揮する者もいるので一概には言えないが――ことと同義なので、には睡眠時間や食事など、生命の維持にかける時間はしっかりと確保するべきだという認識があった。

 そのポリシーを忘れて例の事件の犯人探しに躍起になってしまったがために、彼女は今ここにいるのだが、そんな細かいことはさて置き、は美味しいマルゲリータを食べて初めての痴話喧嘩に備えることにした。



 暗殺者チームのアジトまでの道のりに、のような瀟洒な出で立ちをしてひとりで歩く女性などいなかった。道を進む間、建物に寄りかかるなどして路地の暗がりにたむろする、ガラがいいとは言えない若者達が好奇の目を向けてくる。だが、は毅然とした態度でいた。弱々しそうな態度を見せればつけ入られるだけだ。そもそも、には弱々しい態度になることすら困難だった。

 例えバッグをひったくられたり、最悪刺されそうになったとしても、私には“ディスティニーズ・チャイルド”がついている。

 大胆不敵とはまさにこのことだ。はやがて何事もなくアジトまでたどり着く。そして扉のわきにあるドアベルを鳴らした。

『誰だ』

 滅多に客など来ないのだろう。警戒した男の――おそらく、あのリーダーっぽい、イルーゾォくらい身長があってイルーゾォよりムキムキした人。名前なんだったっけ――声が聞こえた。

「あの、です。。先日はどうもお世話になりました」
『……さん。ここにはお一人で?』
「ええ。……あの、イルーゾォに用があるんです。彼は今ここにいますか?」
『……お待ちください』

 リゾットの返答から、アジトにイルーゾォがいるかいないかは判然としなかった。いなかったらこの訪問は単なる徒労でしかなかったということで、さらに疑問は解消されないだろう。逆にいたらいたで、何故約束を――そうだ。確かに約束した。しかも、必ず来いって、イルーゾォが言った!――反故にされたのか、その理由を聞くのもどこか恐ろしい。

 この不安を解消できるのはイルーゾォ。あなただけよ。……早く彼に、抱きしめてほしい。

 こんなに精神的に不安定になるのも、ほとんど初めてだ。悶々としながら扉の前に佇んでいると、やがてガチャリと音を立てて扉が開いた。引き開けられた扉の向こうに愛しい人の顔が覗く。

「イルーゾォ、あなた一体何のつもりよ!」

 開口一番、は溜め込んだ怒りをイルーゾォにぶつけた。だが、彼は顔に黒い影を落として押し黙ったままだ。違和感を覚えた。彼からは返答の意思が感じられなかった。沈黙を恐れ、は続けざまに言った。

「私、あなたのこと、一時間以上レストランで待っていたのよ。あなたとお昼、食べたかっ――」
「おまえこそ、何のつもりだ」
「……え?」

 イルーゾォの声にあたたかみが感じられなかった。感情など持ち合わせていないロボットのように、機械的にも感じられた。そして後から思ったのは、自分には、何のつもりだと聞いたのに、何のつもりだと返されるいわれなどこれっぽっちも無いということだった。は何が起こっているのか理解できずに口をぽかんと開けたまま、イルーゾォの顔に真意を探るも、当の本人は相変わらず無表情。無表情かそれ以下の、――それこそ、彼が暗殺者であると改めて認識させられるような――冷徹な顔だ。冷徹に、彼は続けた。

「オレがお前とどうにかなりたいはずだと、本気で思っていたのか? だとしたらとんだ勘違いだ」

 やはり理解はできなかった。理解が進まずとも、彼の凍てついた言葉はぐさりと、無慈悲にの心を突き刺していた。途端に息苦しくなって、こみ上げてきて、目頭が熱くなる。

 イルーゾォは人差し指を――相変わらず、少し開いたままの扉の向こう、彼の体が半分程度見えているだけの隙間から――突き出して、今度は威圧するように続けた。

「金持ちの娘が、こんなスラムのど真ん中にひとりで来やがって。慈善事業か何かのつもりか知らんが、金輪際ここには来るな。迷惑だ」

 つい昨日の朝まで、ふたりは確かに愛し合っていたはずだ。確かな信頼関係があったはずだ。ふたりの関係は、これからも末永く――もちろん、何の障害も無いと楽観視していたワケではないが――、当然続いていくものだと思っていた。イルーゾォはそんな自然な流れをぶった斬って、あからさまな嫌悪を唐突に突き付けてきたのだ。

 まともに考えることができる冷静さがにあれば、その発言に至るまでの経緯を説明しろと言えたはずだった。だが彼女の頭は、最早現状を理解しようとすることを放棄していた。たった今イルーゾォに愛を裏切られたのだと、ただただ絶望するしかなかった。絶望は落涙を呼んだ。それでも、イルーゾォはあわれみなど少しも見せなかった。

「オレはお前のことを少しも愛してなんかいない。わかったら、もう二度とオレに会おうなんて思うなよ。そしてさっさとミラノへ帰れ。ここはおまえがいていい場所じゃあねーんだ」

 胸は疼いて、息苦しく、頭の中は真っ白になる。は涙を見せまいとすることも忘れ、イルーゾォを見つめながら何か言おうと口をぱくぱくと動かすが、喉の奥から声は出てこなかった。瞳を覆う涙でイルーゾォの顔は霞んでいく。

 ――もうこれ以上、ここにはいられない。心が、死んでしまう。

 わずかに残っていた思考力を駆使して最後にそう思い至った途端、は駆け出した。さよならも何も言わないまま。そして、現実を受け入れられないと訴えるように。





16: Who Are You





 イルーゾォは手元の手鏡を前にかざして、現実世界の様子を観察していた。すると、寝室の扉が大きな音を立てて向こう側から勢いよく開けられた。先程まで車の中で待機していた――ロッシーニ夫妻を仕留めようとうずうずしていた――二人組が、手にサイレンサー付の拳銃を構えて突入してきたのだ。

 まるで映画のワンシーンだな。

 なんてのんきなことを考えていると、イルーゾォの背後でニーナがわめき始める。

「何!?何が起きているの!?」

 イルーゾォは天井に目をやって、あーあー面倒くせえとでも言いたそうな顔をしたあと深いため息をついた。

 今イルーゾォは、に言われたとおりロッシーニ夫妻の寝室に戻り、のんきして寝室にいたままだった二人を鏡の中の世界に連れこんでいる。連れ込んだその時に、オレに殺意はない。むしろに言われておまえらを守りに来たんだと散々言ったのに、ニーナはまだ自分の身に危険が及ぶという妄想に取りつかれているようだ。

「おばさん。いい加減黙ってくれねーか。いつまでもギャーギャーとやかましいんだよ」

 きゃあ怖いと怯えてスリ寄ってくるのがなら一生喚いていろと言えたのに、どうしてオレがこんな目に。――ああ、そののためだった。仕方がない。

「ほら、見てみろ。あんた方を殺しにきた連中だ」

 イルーゾォはロベルトに鏡にうつる向こう側の世界を見せてやった。

「ば、バレないのか?」
「バレん。下らん心配をしていないで、嫁の口でも塞いでいろ」

 口を塞いでいてほしいのは、外でなされる会話や物音を聞き取りたいからだった。ロベルトがイルーゾォに言われるがままニーナをなだめにかかるのを確認すると、イルーゾォはまた手元の手鏡に視線を移して聞き耳を立てた。

 突入してきた男の片方が、あたりを一通り確認したあとどこかへ電話をかけていた。

『標的がどこにも見当たり――』

 男の声は途中で途切れる。

『娘さんを殺そうとした連中ですよ。野放しにしてよろしいので?』

 話からして電話の相手はロマーノ・だろう。こんなことをやっていると彼にバレたら……と考えると肝が冷えた。

『――はい。わかりました。社へ戻ります』

 どうにも腑に落ちんという顔をした二人組は二言三言交わすと部屋から、そして邸宅から出ていった。パトカーも、パトカーにのってやってきた警察も、銃声を聞きつけて深夜にも関わらず表へわらわらと出てきていた住民たちもいなくなり、すっかり静かになった前の通りに控えめなエンジン音が響いて、車は邸宅から離れていく。――の思惑どおりにことが進んだのだろう。

 刺客の車が曲がり角の向こうに消えるのを見届けた後、イルーゾォはスタンド能力を解除して、何も言わずにロッシーニ夫妻へと背を向けた。

「も、もう大丈夫なのか!?」
「さあな。……ああそうだ。一つだけ、確実なことを言ってやれる」
「な、なんだ?」
「今度を殺そうとしたら――あいつは嫌がるだろうが――たった今おまえらを守ったオレの能力で、おまえらを殺す。以上だ」

 これ以上、との時間を奪われてなるものか。

 イルーゾォが心配していたのは、の身に危険が及ぶとか、そんなことではなかった。

 は強い。おそらく、もう心配には及ばない。一度死んだと思ったのに、生きていた。いや、生き抜いたからだ。きっとスタンド能力でも開花したのだろう。やはり運命だったのだ。このオレとが出会ったのは。積もる話もある。それに褒美も貰わなくちゃならない。貰って終わりじゃない。願わくば、その後もずっと――

 邸宅から抜け出し、愛する女を思いながら駅へと向って歩く途中で携帯電話が鳴った。――だった。

『もしもし。イルーゾォ?』

 愛しい女の声がした。イルーゾォは微笑みを浮かべ応答した。

「ああ。オレだ。……うまくいったらしいな?」
『ええ。ついさっき、父を説得したの。だから、もうナポリへ帰っていいわよ』
「車で待機していた二人組がついさっき家に突入してきたが、おまえの父親と電話をしたあとに帰っていった。……まさか、おまえを殺そうとした連中の命を救うことになるとはな」
『ええ。本当に、ありがとう』

 電話の向こうで、が心からの笑みを浮かべているのが分かる。そんな声だった。彼女が、自身の行動でそうなっていると思うと、嬉しさだとか愛しさだとかで胸がいっぱいになった。――こんな気持ちになるのは本当に初めてだ。一体オレは、に何をされちまったんだ?

「褒美はあとでたっぷりいただくんだからな。忘れちゃいねーだろうな」
『忘れてないわ。……じゃあ、明日の朝十一時に例の場所で。会えるのを楽しみに待っているわね。おやすみなさい。気をつけて帰って』
「ああ。……オレも楽しみにしてる」
『ええ、それじゃあね。……愛してる』

 は最後にそう添えて、恥ずかしがるように電話を切った。イルーゾォはしばらく携帯電話を耳に当てたままその場に立ち止まった。そして彼女の言葉を反芻した。

 初めて、幸せとは何かを理解できた気がした。



 イルーゾォは始発列車でナポリへ帰ることにした。行きは急いで飛行機に乗ったが、帰りはゆっくりでいいと思った。なんと言っても、明日の朝十一時までまだ二四時間以上あるのだ。リゾットからは特に連絡が無いし、ゆっくりしていられる。つい最近仕事をひとつこなしたばかりだから、しばらく新しい仕事をあてがわれることもないだろう。

 イルーゾォが乗り込んだ車両の客席は、二人がけの座椅子が向かい合わせになっていた。特段座席を指定してはいなかったが、早朝とあって旅客でひしめき合っていることもなく、他人と向かい合わせに座らずに済みそうだった。

 やがて列車はゆっくりと動き出した。車窓から外へ目を向けると、朝焼けした空が見えた。こんな空を見て、どこか清々しく、美しいと感じるのもほとんど初めてだ、とイルーゾォは思った。これから数時間しばしの休憩だ。彼は腕を組み、窓側へ顔を向けたまま目を閉じた。

「失礼。ここに座っても?」

 目を閉じてすぐに、そんな声が降ってきた。イルーゾォは目を開け、眉間に皺を寄せて、休息を阻害した張本人をねめつける。

 席なら他にいっぱい空いてるのに、どうしてわざわざオレの向かいに座ろうとする?

 そう言ってやろうと考えていたのだが、男の顔を見るうちに、イルーゾォは気勢を殺がれてしまった。

 黒い中折れ帽――ボルサリーノの高級品だろうか――を深々と被った男は、イルーゾォの答えを聞かないまま彼の向かいに腰掛けた。手には大きなトランクケースを持って、それを通路の座席の横っつらに沿わせて置く。そうして一息つくと、頭を前へ傾け、顔の前に手をやって帽子を掴み脱帽した。

「イルーゾォ。私を覚えているか?」

 イルーゾォは静かに頷いた。パッショーネの幹部、ロマーノ・だった。――一体何故、この人がここに?

 イルーゾォは彼に敬意を払うため、無言で深々と頭を下げた。ここは公の場。立ち上がって礼などしたら、目立ってしょうがない。そんな配慮があってのことだった。

「顔を上げろ」

 とげとげしい声。これから何を話すことになるのかは分からない。だが、少なくとも色の良い話でないことは明らかだった。イルーゾォは固唾を呑み、言われたとおりにしてロマーノの顔を見やった。

「娘がだいぶ世話になったらしいな」

 この人は一体、何をどこまで知っているのだろうか。そんな考えがふとイルーゾォの頭を過ぎった。が自分と行動を共にしていたことを率先して言うはずがない。ふたりがすでに結んでいる関係を、父親が容認しないのは火を見るより明らかだからだ。まともな学歴も、家柄も、金も、良心も、何も持たないギャングで、しかも汚れ仕事を担う自分が、とつり合わないのは百も承知だった。――だから今、こんなにも不安で仕方がないのだ。

 イルーゾォが柄にもなく萎縮して一言も喋らないでいると、ロマーノは向かい合う座席の間に、例の大きなトランクケースを置いた。

「中を見てみろ」

 イルーゾォは再び、ごくりと唾を呑んだ。妄想とは分かっている。だが、上の連中がやることはよく知っている。経験もある。だから、ただの妄想だと、思い浮かべてしまった光景を頭の中から往なすのは容易では無かった。

 内側で鳴り響く大きな心音。喉はカラカラに乾ききって、額にはじわりと汗が滲む。行き先の無い焦燥に、窒息死させられそうだった。

 この大きなトランクケースに詰められているのが、バラバラにされた仲間の一部だったら――

「――どうした。開けないのか?」

 ロマーノは恐怖にとりつかれたイルーゾォの思考回路を断ち切った。まあ、そんな反応になるのは当然かと嘲笑うように、眉尻を上げ、片方の口角を吊り上げた。そしてトランクケースを持ち上げて膝の上に乗せ、留め金をはずし口を開けて、イルーゾォにケースの中身を見せた。

「私は、君が考えているほど残忍な性格はしていないつもりだ」

 中に隙間なく詰められていたのは札束だった。イルーゾォはほっと一息をつく。だがすぐに、その金を何と引き換えに渡そうとしているのかが問題だと考えた。考えた結果、驚くべきことに、それを少しも欲しいとは思えなかった。に出会う前までは、喉から手が出るほど欲しかったはずの金が、今はただの紙切れの集まりにしか見えなかったのだ。

「報酬だ。私が変わりに払う。だから――」

 言われるであろう事が何か、容易に想像がついた。

「――から手を引け」

 金なんか、本当に欲しいと思うのなら、思ったその時に労せずに手に入れられる。だが、は違う。いくら金を積んだって、それで心が動かなければ、一生かかっても手に入れられない。そんな彼女の、強く、美しく、勇敢な気高い心を、オレは得ることができたのだ。それを何故、むざむざ自分から手放さなければならないのか。そんなこと、できるはずがない。

 しばらくの間、沈黙が続いた。その後、痺れを切らしたロマーノがおもむろに口を開いた。

「おかしいな。この量の札束を見れば、一も二も無くうなずくだろうと期待していたんだが。……金の価値が分からんワケじゃあるまい?」
「ええ。……ところでロマーノさん。あなたは娘さんの価値をご存知なんですか? この金を受け取る代わりに、を返せと?」

 イルーゾォがそう言った途端、穏便に事を進めようとしていた冷静なロマーノの表情が豹変した。鋭い眼光をイルーゾォへ向け、静かに、だが凄まじい怒気を織り交ぜて言い放つ。

「調子に乗るなよ。この勘違い野郎がッ……!」

 イルーゾォはロマーノの凄まじい気迫に怯んでしまった。これほどの畏怖の念を、恐らくスタンド能力も何も持たないであろう人間相手に湧き起こされたのも、イルーゾォにとっては初めてのことだった。

「これは報酬だと、明確に言ったはずだ。貴様は娘の命を救った。そして娘に付き従い、娘が目的を果たす手助けをした。その報酬だ。言葉は慎重に選んでいる。金と引き換えに娘を返せ……? はっ。バカバカしい。がおまえのものになったとでも、本気で思っていたのか? 浅ましいにも程ってもんがある。鏡を見てみろ。胸に手を当てて、過去を振り返ってみろ。おまえが生きてきたこれまでの時間に、ひとつでも、うちの娘とつりあう何かがあったか?」

 言われずとも分かっている。そんなことは、言われずとも分かりきったことだった。自分自身、今でもまだ信じられずにいるのだ。あの、強く美しく気高い、という女性に、女神にも勝る眼差しで見つめられ、愛を語られたことが。その慈愛を、心の底からの平穏を感じ得られる唯一無二の存在を、手放すなどと言えるわけがなかった。

「すべて、一生手には届かない夢だったと思え」

 ロマーノは膝の上に置いたトランクケースの口を静かに閉じると、外した掛金を元に戻し、やや乱暴にイルーゾォの足元に置いた。

「そして忘れろ。その金をしっかりと受け取って、忘れるんだ。でなければ――

 一つ目の停車駅が近づいていた。ロマーノは隣に置いた中折れ帽を手に取って深々と被ると、トランクはそのままに立ちあがり、置かれたトランクケースを憎々し気にただ見つめるだけのイルーゾォへ背を向けると、最後に横顔だけを彼へ向けて言った。

 ――貴様の想像していたことは実現する。もしそうなれば、娘は私を憎み一生許さないだろう。……だがそれでも、私にはそれをやるだけの信念と覚悟がある」

 ロマーノは去っていった。圧倒的な絶望を残し、停車した列車からホームへ下り、車窓を挟んだ向こう側で呆然自失とするイルーゾォの横を、一瞥すらくれずに歩き去った。

 死への恐怖。どんな人間でも、悟りを開いていない限りは到底克服できない感情だろう。だが、死を日常としてリアルに感じられる人間はごくわずかだ。安穏と日々を過ごす人間に、明日死ぬかもしれないと本気で考えている者はほとんどいない。だが、イルーゾォは違った。日常的に人の死を生み、目にし、人間の脆さも、この世の無常さも、何もかも知っているイルーゾォという男は、そのごくわずかな人間のうちのひとりなのだ。

 かつて仲間だったふたりのスタンド使いが殺された。絶対の禁忌を破った罰として殺され、見せしめに、その死体を送りつけられた。到底人間の仕業とは思えないような悍ましい殺され方をした仲間の亡骸。その光景は、忘れろと言われて忘れられるようなものでは無かった。脳裏に焼き付いた光景――死への。……否、その前の、耐えがたい苦しみへの恐怖。また仲間を失うことになるのではないかという恐怖。

 その恐怖を皆に強いてまでと共にありたいと言えるほど、イルーゾォは勇敢でもなかったし、無責任でもいられなかった。