「ただし、条件があります」
戸惑いを隠せないながらも、なにか、強く決心をしたような・・・そんな複雑な顔をして、彼女はそう言った。
「10年ください。10年後には必ず、入籍します」
「10年の間に、キミは一体何を?」
「・・・未練を、断ちます」
そして・・・この、おなかの子が大きくなって、一人で歩けるようになって・・・本当の父親がどういう人間なのか、それを認識できるようになるまで成長する、そんな時間が欲しい。
彼女はそう言って、ボクと“契約”を交した。
ボクは彼女を束縛するつもりは毛頭無い。今も、10年経つまでの間も、そして10年経った後も・・・。愛する彼女が笑っていられる環境を提供できるだけでボクは幸せだからだ。
この世に無償の愛なんてものは無い。
この世には、ある程度等しい仲の人間に善意で施しをしたとき、その相手に見返りを口に出して求める者、口にはしないが実は求めている者だけが存在している。真実の無償の愛をあらゆる人間に与え続けられる人間がいるとすれば、それは架空で語られる聖人かあるいは神か。神話で語られる神々の姿はそれこそ人間以上に人間臭いものであるから、実は神にも無償の愛なんて注いだりする対象がいないのかもしれない。
こんな机上の空論・・・いや持論を提示した上で、自分がいったいどちらの人間かと言うことに言及すると、ボクは明らかに前者だ。見返りが欲しい。彼女に注ぐ愛の見返りとして求めるのは、戸籍上で言うボクの妻という役割だ。
そして彼女と“契約”を交して、8年が経ったある日。彼女は子供たち2人を連れて、ある街へ旅立つと言った。彼女はそれをしていいかどうか、許可を欲しいとボクに言ってきたわけだが、ボクは言った。そんなこと、わざわざ言わなくていい。ボクは君を束縛しているわけではないのだから。ただ、気をつけて。無理をしないで。・・・彼女は微笑んで、ボクの元から離れていった。
旅立つ3人の後姿を見つめて、ボクは彼女が言い放った8年前の言葉を思い出した。恐らく、未練を断つために、この旅に出たんだろう。彼女の言った未練が正確には何を指すのかは分からない。ただぼんやりと、きっとエルデとヒンメルの父親へ対する未練を断つということなのだろう、と思っているだけで、彼女を問い詰めたりはしなかった。
今のボクがそのことについてどう思っているのかに言及すると、未練を断つことで彼女が辛い思いをして、これから先ずっと彼女の重荷となるならば、未練なんて断たなくていい。それをボクが言うときっと誰もが違和を感じるだろう。ボクの愛の形は他の誰にも理解しがたいもののようだ。
彼女は一体どのような答えを持って、帰ってくるのだろう。ただ、その答えが何であれ、ボクの愛の形が変わることは無い。
09:小包みに入れたなかよしの証
彼女は、母親と継父に監禁されていた間、ただ唯一許されていた読書という行為をただひたすら続けていた。もっとも、許されていたと言っても、監禁されていた牢屋のような部屋にただ物置よろしく放置されていた書物を読み漁っていただけだったが・・・。それでも、他の娯楽を許されない・・・いや、知らない彼女に、本を読んでいる時間だけが生きているという実感を与えてくれた。歴史書や政治、経済、物理、化学などの学問書からファンタジー、ミステリー小説、エッセイに詩集などありとあらゆるジャンルの本が山のように積まれていて、監禁されていた5年と言う月日の間でも読みきれないほどの量だった。これはの本当の父親の持ち物。父親は彼女に物心がつく前に病死した。
まだ優しかった頃の母と二人で微笑み合いながら、色鮮やかな新緑の中で、を呼ぶ情景・・・。は日々薄れ行く己が記憶の中でも、父親の笑顔だけは鮮明に覚えていた。いつか、こんな幸せがまた自分にも訪れるはずだと、信じてやまず、希望を持ち続けたからこそ、今彼女は生きているのかもしれない。
ひとつ。彼女は本を読み、独学で学んだ。彼女は言語もまともに覚えないうちに、監禁されていた。ただ、基礎は分かっていたため、本はある程度読めたし、勉学には励むことができた。だからこそ、彼女は学ぶことの大切さを知っていた。子供には多くのことを学んでほしい。
ふたつ。彼女はあらゆる暴力を許さない。物理的なものはもちろん、精神攻撃も暴力と考えた。彼女が母親から理不尽なネグレクトを受け、継父およびその子供たちから日々暴力を振るわれ、罵られ、心を閉ざすまでにいたってしまったのだから、それは当然だろうが、おそらく一般人よりも臆病で、敏感で、他人の言動一つ一つを心に落とし込んでしまう性質を持っている。
みっつ。彼女は母親のようには絶対になりたくなかった。自分の子供に興味を失くすということ、まともな教育を受けさせようとしなかったこと、そして暴力を振るわれる彼女を無視すること。なぜそこまで無関心でいられるのか、最初は分からなかったが、おそらくもともとそんな人間だったのだろう。むしろそんな母親に育てられなかったのはある意味で幸福なことだったかもしれない。
彼女の3つの信条から導きだされること。それは、ウボォーギンに父親として一緒にいてもらうのは無理だということだった。彼女が流星街から抜け出したその日に導き出した結論だった。そして子を産んだときにも確信した。決してウボォーギンを卑下しているわけではない。
ウボォーギンは一つの場所に留まっていてはくれないだろう。A級首でハンターに命を狙われる身だ。ということは、安定した住環境を子供に与えてやれない。きっと、旅をするなかで得られること、学べることも多いだろうが、それ以上に命の危険が常に付きまとう。そんな環境で子育てなどできはしない。
ウボォーギンは戦いが好きだ。つまり、暴力だ。が散々その身に受けてきた、暴力。流星街を出るまでよくは知らずにいられたものだ。それは恐らく、ウボォーギンの意図的な計らいで、嫌われることを恐れていたのだろう。もっとも、流星街から出なかったが、殺戮の限りを尽くすウボォーギンや他の仲間たちの姿を見る機会がなかったことが一番の理由かもしれない。
彼女の信条に反する彼と家庭を持つなんて絶対に不可能だ。
やり直そうとウボォーギンに言われたとき、少し心が揺るぎそうになった。愛する人と幸せな家庭を持ちたいと考えるのは自然なことだし、実際に彼女はそれを望んでいる。しかし、子供を生むと思考は子供を中心に回る。男と女という関係ではいられなくなる。それがとても辛かった。
しかし、彼女は揺らぎそうになった思いをただし、決心した。未練を断つことを。
が借りている家屋は森の中の小高い丘に建っていた。街を一望できるので、眺望だけ取ってみればそれなりの賃料がかかりそうだが、街の中心部からだいぶ離れていること、そして辿り着くまでに案外険しい道のりとなることが、その家屋の査定価格を下げていた。
、エルデ、ヒンメルが街に帰り、ウボォーギンが家族の住む街に初めて足を踏み入れたのは、22時。子供たちはくたくたで、エルデはウボォーギンの腕に、ヒンメルは肩車をされてすやすやと寝息をたてていた。
「あーやっとついたー!」
「お前なんでこんな辺鄙なところに」
「シングルマザーの家計は火の車なのよ」
「・・・オレが悪いということだな」
ウボォーギンは自分の身長よりも10cmほど低い玄関の扉をヒンメルを肩車したままくぐり、家の中へと入る。中は吹き抜けになっており、幸い彼が天井に頭をぶつける羽目になることは無かった。は荷物をリビングの絨毯の上に置き、息をつく。
「ウボォー。二人を2階の子供部屋に連れて行ってくれる?ベッドで寝かせてあげて」
「おう。二人とも同じ部屋か?」
「ええ」
吹き抜けの2階には柵越しにドアが2つ見えた。は向かって右側の扉を指差した。ぎしぎしと今にも段が抜けてしまいそうな音を出しながら、ウボォーは2階への階段を上る。子供部屋を開けると、6畳程度の部屋に小さめのベッドが2つあった。きっと薄桃色のシーツがかけられているベッドがエルデ、水色がヒンメルだろう。と、二人をそれぞれのベッドへと運び、父親らしく布団をかけてやった。
1階のリビングに戻ると、がテーブルの上に冷えた缶ビールを2本用意していた。
「お!いいな!!一杯やるか!!」
「ほんとに一杯しかないから、ごめんね」
ソファーに座ったは、ふうっと息をつきながらソファーに腰掛け、缶ビールを手に取った。彼女は缶を手に持ったまま何か考え事をしているかのようだった。ビール缶を瞬時に空にしたウボォーギンは、彼女のそんな横顔を覗き込む。
「どうした。考え事か?」
「・・・ちょっとね。ウボォーに・・・伝えておかないといけないことがあって」
でも、それはとても切り出しにくい話で・・・。しかし、今を逃すとは決断を先延ばしにすることを自覚していた。約束の10年にはまだ2年ほどの時間が残されているが、根無し草のウボォーギンのことだ。次にいつ会えるかもわからない。だからこそ、今、伝えなければならないと、改めて決心した。缶ビールは開けないまま、は口を開いた。
「私・・・今年、入籍しようと思ってるの」
「・・・どういうことだ?」
まさか、オレとなんてことは100%ない。と、の横顔を見てウボォーギンは瞬間に察知した。そもそも彼には戸籍が無いのだから、そんな話をが切り出すわけもない。
「私が、他の男の世話にはほとんどなってないって、言ったの覚えてる?あれね、本当は嘘なの。ほとんど世話になってるの。無利子でお金を借りてるだけって言ったけど、あれも実のところは、もらってるようなものなの」
その男とは、が住まう街の大地主の息子だった。はその大金持ちの無償の愛を受け、今まで娘息子の養育費を賄ってきた。
「・・・その代償が、入籍することなのか?」
「さすが!察しがいいね。ウボォーは。その申し出を受けたのは8年前。最初は断ったんだけど、おなかにいるのが双子だとわかったときに、受けてしまったの」
貯蓄もほぼゼロに等しい中、同時に二人の子を生む。それが今の自分の収入ではとても人間らしい生活をさせてやれないことは明確で。もし、大地主の寵愛を受けるなんていうベタなラブストーリーのような申し出が無ければ、今どのような生活をしていたのだろうとふと思うこともあった。身よりも無い彼女が掴む藁はただそれだけで、誰も彼女を責めはしないはずだ。ウボォーギンは特に、一番彼女を責められない立場にいる。
一番の失敗は、彼女が流星街を出たとき追わなかったこと。が他の男性の妻になることを考えると、それだけが悔やまれる。ただ、追いかけてをなだめられたとしても、その後上手くいっただろうか。ウボォーギンがそう考えると同時にも、何故そう決心したのかと理由を述べようと何か言葉を選んでいる様子だった。
「私ね。自分の母親のようには、絶対になりたくなくて」
それは、ウボォーギンが初めて聞く、の暗い過去。母のネグレクトにはじまり、継父による虐待、その子供たちによるいじめ。
「唯一の肉親なのに、あの女は私を守ってはくれなかった。私に無関心だった。それが許せなくて。だから私は、あの子達に十分にご飯を食べさせてあげたいし、キレイな寝床も用意してあげたい。勉強もたくさんして、一人でも生きていけるようになって欲しい」
「・・・ああ。それじゃあ、オレがあいつらの本当の父親になるのは、無理だな。きっとオレは、お前の理想の父親にはなれない」
は肯定も否定もしないまま、続けた。
「本当はね、あの子達最初に下ろそうとも考えたの。私は虐待を受けてきた身だし、よく言うじゃない。虐待は繰り返されるって。でもね・・・」
は涙ぐみながら、必死に言葉を紡ぐ。
「大好きな人の子だから・・・。私に初めて愛を教えてくれた人との子を下ろすなんて、到底できなくて・・・。あなたとの繋がりが、消えてしまうのが怖くて、怖くて・・・・・。ホント、ごめんなさい。勝手だよね。迷惑だったよね」
ウボォーはそっとを抱き寄せて、振るえながら涙に濡れる彼女の頬を優しく拭った。
「これっぽっちも迷惑なんかじゃねぇよ。オレが好き勝手にやってるんだからお前も好き勝手に生きろ。お前が望むことならオレはなんでも受け入れる。オレはお前と、エルデ、ヒンメルを愛してる。正直な話をすると、この3日間お前らと一緒に過ごしてて、かなり楽しかった。本当の意味で父親になれればとも思った。ただな・・・オレには曲げられない意思があって、A級首の盗賊だ。、お前もわかってることだろが、オレは戦うことをやめるつもりはねぇ。そしていつお前らが人質に取られるかもわからねぇ。だから、オレは父親になれねえ」
は無言で首を縦に小さく振った。
「でも、たまには父親をしに来てもいいか?金輪際会わないなんて、言わないでくれ」
「・・・言うわけないよ。あの子達もきっと、会いたいって言うはずよ」
「でもな、これから少し男に戻るぜ」
「・・・どうゆうこと?」
「あいつら爆睡してたから、安心しろ」
「・・・!ちょっと!」
所変わって流星街。窓際でコーヒーブレイクを楽しんでいたパクノダが、晴れ渡った空に鷹の姿を見た。その鷹は前にも見たことがある。と言うか、窓から家屋内に鷹を招き入れたことがある。例に漏れず、その鷹はパクノダの元に迷いも無く向かってきた。
「来た来た。ウボォー!からよ!」
パクノダとノブナガの3人でホームにて待機を命じられていたウボォーギンは、ノブナガとの囲碁勝負をほったらかしてパクノダのいる2階のラウンジへとダッシュで向かった。鷹の足に結び付けられた小包を取り外したパクノダはそれをウボォーギンに手渡す。彼が小包みを開け中身を確認すると、入っていたのは10枚程度の写真とからの手紙。そして子供たちが描いたとおもわれるウボォーの似顔絵だった。
パクオダがウボォーの手から写真を奪い取ると、それを重ならないようテーブルの上に並べて鑑賞する。ウボォーは恥ずかしそうに頬を掻く。
ウボォーがヒンメルを肩車している写真。エルデがウボォーギンにパンケーキを食べさせている写真。ピントの合っていない、とウボォーギンの仲睦まじげなツーショットなどなど、知らない人間が見れば、ごくごく普通の幸せそうな家族の情景だ。
「また会いに行ったのね。楽しそうじゃない」
「エルデがこの前初めてオレのことお父さんって呼んでくれたんだよ・・・。すげぇ感動した」
「へぇ。案外ちゃんとお父さんしてんじゃねーかお前」
囲碁盤の前に置き去りにされていたノブナガもパクノダ、ウボォーの元に来て、テーブルの上を覗き込んだ。
「二人とも・・・子供はいいぞ。早く作れよ」
「うるせえ」「うるさいわね」
2度目の鷹による通信。それは、まぎれもない家族のなかよしの証だった。