君が生きていたせかい


 もう二度と、他人なんて信じない。これからは自分で、ひとりで生きていくんだ。

 彼女がそう決意した瞬間、何者かに動きを止められた。後方に振り出した左腕が張って、キリっと痛む。が驚いて後ろを振り向くと、そこには呆れたような顔をしたウボォーギンがいた。

・・・。お前なあ、無我夢中で走りすぎだろ。オレが何回お前の名前呼んだと・・・」

 はウボォーギンから目を逸らして、掴まれた腕を振り払う。いつもと様子の違うの姿にウボォーギンは戸惑った。今まで、から明らかな拒絶の意思を向けられたことが彼にはなかったのだ。は、ウボォーギンの姿を視界に入れようとすることなく、ただ俯いて身を強ばらせていた。

「・・・お前は一体、何とオレたちを重ねてるんだ」
「・・・・・・」

 ウボォーギンは薄々気付いていたのだ。が何か良くない過去に囚われていることを。

「何が・・・」

 ウボォーギンは、うつむいたままのの顎をすくって上を向かせる。夕日に照らされて光を反射させる濡れた瞳と、の悲痛な表情。たまらなくなった彼はとっさにを抱きしめた。

「何がお前にそんな顔をさせてんだ」

 ウボォーギンは今まで、人を抱きしめたことなどなかった。抱きしめたくなるほどに尊く愛すべきか弱い存在に会ったことがなかったからだ。ただ強くあることだけを追求してきた彼が、この少女を守るためならば更にどこまでも自分は強くなれると、そう確信したのもまたこのときだった。

 そんなことを思いながら抱きつかれているなどとも知らずには、今までこれほどの広い面積で他人の体温を感じたことがあっただろうかと過去をふりかえっていた。当然そんな過去など存在しないので、不思議な気持ちを抱くのだ。なぜこんなにも、心地よいのか。そして、沸き起こってくるこの気持ちは、一体何なのか。喉の奥から込上がってくるこの熱いものが、一体何なのか。世間一般で何と呼称されるものか、本人にすら分からぬうちに溢れ出るその感情は、涙に姿を変えて溢れ出て、頬を滑り落ちていく。

 辛いわけじゃない。悲しいわけでもない。ならば、なぜまた涙が溢れ出るのだろう。

 ホームを飛び出したときとは違う感情であるはずなのに、どうして同じように涙が出てくるのか・・・。嬉しいからなんだろうが、でも、ただ単に嬉しいと言ってしまうには少し言葉が足りないような。

「・・・す・・・き・・・」

 ウボォーギンは、はっとする。幻聴などではなく、確かに、彼の耳元で聞こえたのだ。初めて聞いた声音だったが、ウボォーギンは確信した。それがの声だと。

・・・?お前・・・」
「ウ・・・ボォー、だい・・・すき・・・」

 抱きしめていた小さな体を離す。するとそこには、涙を流し喉を抑えながら、ゆっくりと言葉を紡ぐの姿があった。






05:忘れたって気づかせてあげる







 いつか涙というレイヤーを通して見た同じ風景を、流れ去る木々の黒い影越しには見ていた。長時間の移動に疲労困憊した我が子の寝顔を夕日が照らす。

 汽車に乗った時に、ヒンメルは自分が窓側がいいとエルデを押しのけ、車窓からの景色に見入っていた。はしゃいで疲れたのか、今は車窓わきの壁にもたれてよだれを垂らして寝ている。

 本人にも姉のエルデにも伝えていないのだが、息子はとてもウボォーギンに似ていた。逆立った鈍色の髪。勇ましい形の眉。見開けばらんらんと輝く大きな目。ウボォーギン本人の幼い頃を具現化したようなヒンメルの容姿は、にとって嬉しくもあり、また辛いものでもあった。

 弟をかばうように覆って寝息を立てるエルデ。娘はどちらかと言えば似で、しかし同年代の少女に比べると突出して身長が高かった。の幼い頃はエルデほど身長は高くなかったということを考えると、ウボォーギンのDNAも受け継いでいることがよくわかった。髪の色も目の色もヒンメルと同じ鈍色。

(私とウボォーを3:2の割合で足して割ったらこんなかな)

 は改めてそんなことを思い微笑んだ。どちらもウボォーギンのDNAを色濃く受け継いでいる。彼女が何度も忘れようと心に決めた故郷の夫のことを、8年間忘れられずにいたのはきっと、この2人の所為なのだろう。“所為”と言っても、は二人を忌むべき存在などとは微塵も思わなかった。注げるだけのめいいっぱいの愛情を注いで大事に大事に育ててきたつもりだった。自分の幼少期の辛い過去を、自分の子供にまで押しつけるわけにはいかなかったのだ。自分の母親と同類に、彼女は絶対になりたくなかった。

 娘と息子を大事に育ててきたことに、彼女の幼少期は深く関係している。しかし、それだけならば新しい夫でもみつけて幸せに生活する、なんてこともできたはずだった。もちろん、彼女には夫とは言えないものの、彼女の生活を支えてくれる男性は存在する。そうでもなければ双子をここまで育てるなど、流星街から抜け出した彼女にできたはずもない。しかし、その男性とは肉体関係にもなければ、相思相愛だなんてこともなかった。ウボォーギンのことを心の底から嫌いになれず、心の底では今も愛しているからなのだろう。彼女は他の男性になど全く興味を抱いていなかった。

(やっぱり、会いたいよ。そして・・・会わせたい。あなたの知らない・・・あなたと私との子供たちに・・・)

 もう少しで、流星街に最も近い街に到着する。その街は比較的治安もよく、文化水準も高い街なので、子供を連れて一夜を明かすには丁度いい場所だった。

 汽車が駅に着く。は娘たちを揺り起こし、汽車を降りる準備を始めた。

「もう着いたのー?」

 エルデが目を擦りながら立ち上がる。尚も壁から頬を外そうとしないヒンメルを忌々しそうに引っ張るエルデ。どうやら窓側を取られたことをまだ根に持っているらしかった。

「起きる・・・起きるからひっぱんなよお・・・」
「早くしないと置いてくわよーメル」
「ううん・・・」

 住んでいた街から出たことがない二人にとっては、広い駅のプラットホームも新鮮で、また目の前を忙しく行き交う人の姿もまた真新しかった。今まで眠たそうにしていたヒンメルも、目を輝かせてキョロキョロとあたりを見回していた。エルデと違って落ち着きがなく、少しでも気を抜けば好き勝手に飛び出していってしまいそうなヒンメルの手をしっかりと捕まえて、は改札口へと向かう。青い制服を身につけた駅員に3人分の切符を渡し、あらかじめ予約を取っておいたホテルへと向かった。

 ホテルに荷物を預けた後、近くのレストランへ行き、夕食をとった。ヒンメルは大人用のステーキ1人前とミートスパゲティを食べたいと言ってきた。いつもの夕食から、ヒンメルが大食らいであることは承知していたが、レストランでこれをされると金銭的にきつい。しかし、好きなものを食べさせてやりたいので、しぶしぶ了承する。2児の母は財布と相談した結果、ラザニアだけで済ませることにした。エルデはカレーが好きなので、焼きカレーを頼む。

 満足した様子の2人を連れて、ホテルへと帰る。ベッドへと勢いよくダイブしたヒンメル。

「こらメル。ベッドに入る前にお風呂に入りなさい」
「えええええええ面倒くさい!」
「ダメ!エルデとお母さんも入らなきゃなんだからわがまま言わないの!」

 どこの家庭でも見られるようなやり取りである。ちぇっ、と吐き捨ててバスルームへと向かうヒンメル。エルデはポシェットから本を取り出した。はお湯を沸かして紅茶を入れる。

「エルデ。明日は朝から長いこと歩くから、夜遅くまで本読んでちゃだめだからね」
「わかった」

 エルデは母の言うことをよく聞いた。素直に笑顔で受け答えをする。そんな様子に安心したはエルデの隣に座り、頭を撫でる。

「そう言えば、話してなかったよね。お父さんのこと。知りたい?」
「うん!もちろん!」

 エルデは開いていた本をパタンと閉じてに向き直る。

「驚かないで聞いてね」
「うん!大丈夫」

 は父・ウボォーギンのことを話す。もっとも、彼の職業を聞いて驚かないほうが難しいのだが・・・。

「あなたたちのお父さんね、盗賊なの」
「とうぞく・・・って、悪い・・・人だよね・・・?」
「そ。しかも、A級首のね。世の中のハンターに首を狙われてるような・・・そんな悪い人なの」
「えええ!!?そんな・・・そんな人に会いに行って大丈夫なの!!?」
「・・・あの人はね・・・自分に子供が・・・あなたたちがいることも知らないの。けどね、そんな無闇矢鱈に人を襲うような人じゃないから・・・多分、危険じゃないの」

 笑顔がすっかり消えて、エルデは不安そうな表情を浮かべた。途端、バスルームの扉が勢いよく開く。

「かっけえええええええええ!!!!!!!」

 タオルを腰に巻きつけたワルガキが水を滴らせながら飛び出した。

「こらああああ!!ちゃんと体ごしごししたのアンタ!!?髪はシャンプーしたの!?ゴワゴワになるわよ!そーゆーのカラスの行水って言うの!ダメ!やり直し!!」
「父ちゃん盗賊なんだろ!?すっげえかっけーじゃん!うわああ早く会いてえええ!!!!」

 母の言うことなど気にも止めず、目をキラキラと輝かせて自分の父を頭に思い描く。ちなみに彼の空想の父と実際の父に大きな開きはない。

「一番聞かれたくないヤツに聞かれちゃったね」

 エルデは困ったように笑いながら母と顔を見合わせた。

「でも、大丈夫だよね。私たちのパパだもん。優しいに決まってる」

 前向きな娘の一言に安堵しながら、ヒンメルをむりやりバスルームへと連れ戻す。

(待ってなさいウボォー。あなたが忘れてるであろうコトに・・・気づかせてやるんだから)

 は娘・息子を見て、そう思った。