『あれがそこらをうろついてるとイラつくんだよ』
彼女が生まれて初めて“幸せ”とは何かが分かり始めた頃のことだった。彼女の悪夢にうなされる夜が始まった。夢ならばまだよかったがそれは、回想しているだけに過ぎない、実際におきた彼女の過去でしかない。
物心つく前に父親が死に、再婚した母はへの愛情を無くした。そして、新しい父親によって毎日のように暴力が繰り返されるようになった。そして監獄食の方がまだマシというような1日一回の食事。寝返りを打つとひどい音のする小さなベッド。窓ひとつない倉庫の様な部屋。
それら全てがダイジェストされた過去は、いつもの安眠を妨げる。思い出したくもない、辛い日々だ。しかし、声は出ない。この辛い思いを、誰にも口で伝えることはできない。昔はしゃべることができたのに、今となっては遠い過去の様で、どのように発生していたかも思い出せないほどだ。
は悪夢から逃れるように飛び起きて、瞳を開く。ふと横を見ると、ウボォーギンの寝顔があった。それだけで彼女は満たされた心地になるが、悪夢の所為ででネガティブになっていると、余計な考えばかりがの頭をよぎる。
(私は今すごく幸せだけど、ウボォーギンや他のみんなにとっては、ただ邪魔な存在だったりしないのかな?)
今まで邪魔者としか思われていなかった環境で育ち、果てには秘密裏に流星街にゴミのように捨てられてしまった彼女が、自分がここに存在していいのかと萎縮してしまうのも無理のないことだった。
何か、証拠が欲しい。自分がここに存在してもいいという証拠が。
彼女はそう思い始めていた。
04:一人歩きでも元通りとは違う
「。いつもご苦労様」
昼食を済ませた旅団員の食器を、流しで洗っているところだった。食事を済ませたマチが、食器を流しに持って来てに笑いかけた。は微笑みを返して、せっせと食器洗を続ける。
「大食らいの野郎共が多いから、食器洗いだけでも大変だろう?」
は首を横に振って、また満面の笑みを返す。
(楽しいし、やりがいがあるからいいの!)
彼女は、旅団員に感謝されて喜んでもらえるのが何より嬉しいのだ。言葉で伝えることができずとも、彼女の笑顔はすべてを物語っている。そして旅団員は皆、彼女のその笑顔に癒されていた。それを口にしない者が多いのが難点だが・・・。
そしてはパクノダに買って(盗って?)もらったお菓子作りの本と、お菓子作り用の調理道具を準備する。旅団の皆におやつを作るのが最近の彼女の日課である。流星街に来るまで料理などやったことはなかったが、説明書さえあればなんでも作ることができるのは、彼女の才能かもしれない。
がお菓子作りの本を持って、何が食べたいかを問うためにリビングで談笑しているみんなの元へ行きドアノブを掴んだその時だった。
「あれ、邪魔ね」
リビングから聞こえるフェイタンの声が、の動きを止めた。
「確かに。オレも邪魔で邪魔で仕方がねぇ」
続いてウボォーギンの声。
の頭は真っ白になった。
(フェイタンは確かに、部外者である私を嫌っているかもしれない。けど、私のことを助けてくれたウボォーギンまで・・・?)
『あれがそこらをうろついてるとイラつくんだよ』
過去に幾度となく聞かされた、つい最近でも悪夢で何度も蘇る、継父の声がフラッシュバックする。彼女を指す人称は“あれ”である。にとって“あれ”とは自分のことであり、深く彼女のこころに根ざすトラウマの原因のひとつでもある。
は持っていた本を投げ捨て、裏口から外へと駆け出す。辛くてこぼした涙は数知れないが、彼女が今瞳に浮かべ、進行方向とは逆に流している涙は悲しみによるものだった。
「・・・?」
リビングに向かおうとしていたマチは、明らかに心中穏やかでは無いが、自分に目もくれずに裏口へと駆け出したのに違和感を覚え、念のために彼女へ向かって念糸を放つ。人差し指を上に向けて、が一時フリーズしていた場所に立ってみる。リビングの中から、ウボォーギンとフェイタン、ノブナガの気配がする。マチは扉を開けてその3人を睨みつける。
「あんたら、に何か言ったね?」
「・・・は?」
全く心当たりの無い3人は、マチに理由を尋ねた。
「、泣きながら出てったよ」
「・・・そりゃまた急な」
ノブナガの発言が終わるやいなや、ウボォーギンは立ち上がっての後を追う。
「ちょっと待ちなウボォー。なら、この糸の先だよ」
の向かった方向とは真逆に向かおうとするウボォーギンを呼び止めたマチは、へと繋がる念糸の出る人差し指をずいっと前に押し出す。ウボォーギンはすかさず“凝”をおこない、の後を追った。
「全く・・・あんたら、何話してたんだ?どうせのカンに障るような事言ったんだろ」
ウボォーギンが部屋を出た後、マチが原因の追求を始める。
「俺たちはただ、今度の仕事のことについて話してただけだぜ?」
「もっと具体的に!」
「・・・オモカゲの人形が邪魔で仕事しづらいて、愚痴を言てただけよ」
「まさか、その人形を“あれ”って言ってたんじゃないか?」
「・・・ああ、言ってたな」
「・・・バカだねぇ・・・」
「誰がバカか」
「あんたたちじゃないよ」
マチは、日々をと共に過ごしていて気づいていたのだった。が“あれ”と聞く度に、妙に緊張していたことに。言葉を発することができない彼女の気持ちを察知できるよう、彼女をよく観察するようになっていたマチ。きっと、誰よりも彼女と長く過ごすウボォーギンも、“あれ”という言葉にが過剰反応することを知っていたのだろう。血相を変えて即座にの後を追いはじめたのもそれが理由なのだ。
“あれ”が、何を指していて、“あれ”という言葉にまつわるどんな過去があるのか、詳しい原因は知らない。しかし、にとってよくない言葉であることは間違いないのだ。そして、ここにきてようやく“あれ”という言葉がにとって何なのかに検討がついたのだ。
「・・・オモカゲの人形・・・つまり、あれ、が・・・邪魔・・・」
扉の向こうでそう聞いて、涙を流して駆け出したのならば、自然と分かることだった。
(“あれ”は・・・自身のことか・・・)
おそらく、ここに彼女が捨てられる前まで、そう呼ばれていたのだろう。まるで、物のように、“あれ”と・・・。気づいて、無性にやるせなくなるマチ。彼女は下唇を噛んで、糸の先をじっと見つめた。
(をこんなにも臆病にさせた原因が、心の底から憎いよ)
いつも向けられるの笑顔が、マチにとってはとても儚いように感じられたのはその所為だったのかもしれない。はとても危うい存在なのだ。少し力をこめればすぐに割れてしまうような、シャボン玉のように儚く、か弱い存在。まるで明日にはこの場からいなくなってしまうんじゃないか。そしていなくなったことにも気づかないまま二度とここに戻ることもないのではないか。そんな心配を抱かせる。
しかし、その心配を払拭する方法を、ここに住まう人間はあまりよく知らない。そもそも、胸の内を(文字を書く事はできるのに)あまりあかさないに対して、気が利いた言葉をかけてやれないのは仕方がないことかもしれないが、彼らはに笑顔を向けられるだけで満足してしまっているのだ。それがとても一方的な意思表示であることに、彼らは気づいていない。
(。暗くなる前に、早く帰っておいで)