それは闇だった。

 どこが上か下かもわからない空間に私は立っていた。立っていたという表現が合っているのかどうかもわからない。むしろ、浮いているとでも表現した方が適切なのだろう。

 そして発光体も何も無いはずのその空間に存在するのに、私は私の体・・・元の自分の体を視覚的に確認することができた。その視覚を脳に伝える媒体である眼球はもちろん、私の体の上部に位置する頭にある。



 もう、期間は過ぎたのかと思った。

 元の世界に戻ったのかとも思った。

 しかし、その真っ暗な空間は確実に元の世界ではない。


 そこで次に思ったのは、自分が死んでしまったということ。だとすれば、ここは冥界か。しかし何処かの死神は、人が死んだ後に残るのは”無”だと言っていた。視覚を持つこの状態は到底”無”であるとは思えないし、そもそも、体が一応この意味不明な空間に存在しているのだ。

 それなら、ここは一体何と言う場所なんだろう。

 こうやってぐるぐると思考を巡らせていた時だ。突然、私は人の声を聞いた。それは、今まで自分のものとして使っていた声音。でも決して自分のものではない声音。



か?」

 その声は私の名前を呼ぶ。そしてその声の持ち主は私の前に姿を現した。

さんですか?」

 そう問うと彼女は静かに頷いて、その澄んだ瞳で私をまっすぐ見て、言った。

「アンタに、運命は変えられない」







11話:期限70時間前






 涙。まだ出たのか。

 そう思いながら、頬を流れ続けるそれを拭うが拭っても拭ってもキリがなかった。こんなにも涙腺が弱かったのかと思うくらいに、塩っ辛いその水滴は瞳からとめどなくあふれ出た。

 もう二度と顔も見たくないと吐き捨て、もう二度と会わないと決めたその人間達に心から会いたいと思ったときはもう手遅れだった。

 異世界に飛んだアタシが目にしたのは”フィクション”とされるその”物語”。その物語の中で、愛人と親友が殺される。

 もしも今のアタシが元の世界にいたら、彼も彼女も止めて、完全な幻影旅団に会えていただろうに。しかし、程なくしてひとつの矛盾に気付く。

 この世界に来てからじゃなきゃ分からない”未来”をどうしてあちらの世界で知ることができるだろうか。もしこちらの世界に来ていなければ・・・もしあの男のこんな能力がなければ、恋人、親友を愛しいと思うこともなく、絶対に二度と会わないという決心の元に自殺を図っていたであろう私。

 最後に、仲間を思う気持ちを確認できただけでも幸運だったと思うべきなのか。だとしたら、あまりに残酷だ。いっそのこと何も知らずに、自ずから命を断っていれば楽だったかもしれない。

 唯香の去っていく姿。親友がもう戻ってこないと知った彼女の去っていく姿はあまりに痛々しかった。一言も発することなく病室を出て行った。まるであの日のようだ。部屋に一人取り残され、自分がいかに無力かって、いかに存在価値の薄い人間かってことを思い知らされて、虚無感に襲われたあの時。

 どうにかしてやりたい。どうにかして、を救ってやりたい。

 唯香がここを出て行った後、延々とそれを考え続けた。日が高くのぼり、沈み、やがて暗くなり始めて・・・。その間はずっと窓の外を見つめ、考えた。

 途中で、の弟を連れて、母がやってきた。

 人の笑顔をこんなにも美しいと思ったことがあるだろうか。母親も弟も、の意識が戻ったことを心から喜んでいた。何て・・・愛されてるんだ。は幸せ者だ。

 あの少年の命を奪ってから人と接することを拒み、忘れかけていたあの心。人を救いたい。幼い頃、アイツラの・・・親友達の怪我を治したように、も・・・救ってやりたい。

 そして、8月29日が終わり8月30日になった午前零時。アタシは眠りについた。
















 暗闇に、一人の少女が立っていた。それはまるでアタシの4・5年前のレプリカでも置いたかのようで、身動きひとつせずに正面を見据えて立っていた。問いかけると反応して、あたしの名前を問う。

さん?」

 ご丁寧にさん付けまでしてくれている。これでどっちがどっちか分かりやすくなるだろう。

「ああ、先に言っておく。アンタに運命は変えられない」
「やっぱり、そうだったんですか」

 は絶望の色一つ見せずに、まっすぐにアタシを見据えた。

「知ってたのか?」
「大体は分かったんです。なんとなくですけど・・・私に、運命ってゆーか・・・漫画のお話変える力は無いって」
「・・・まあ、お前にとってみれば漫画の中のフィクションだよな。でもさ、あっちの連中はそれを知らずにちゃんと生きてるんだよ。何か変な話だけどさ、それは事実なんだよな」

 は始めて顔に表情を表した。哀れみとは違う、当事者としての、悲しみを直に痛感したような顔。

さんは知ってるんですね。明日ウボォーさんが・・・」
「ああ。昨日初めて知ったよ」
「辛くありませんか?・・・私は貴方の過去を知ってるから、逃げたくなった気持ちも、分からないわけじゃない。でも、ウボォーさんのことも、パクノダさんのことも・・・って言うか・・・旅団の皆のこと、今でも大好きなんでしょう?」
「ああ。辛いし・・・アイツラのこと、本気で大好きだよ」
「それじゃあ、何で・・・」
「よく考えてみろよ。もしこの能力でこっちに渡って無ければ、自殺をしてでもあいつらに会うことを拒否しただろうな、アタシは。だったら、あいつらを思ってる気持ちに気付くことなく死んでたんだ。そして・・・アンタを救うことも出来なかった」
「え?」

 自分自身、このトリップの仕掛けがよくわかってない。だからあまり詳しくは分からないが、これだけは言える。

。お前は間もなく死ぬ」
「あ・・・あれ?私・・・もう死んでるものだと思ってたんですけど・・・。まだ生きてたんですか?」

 ・・・・・・。そうか、コイツは仕組みも何も、何でこっちに渡ってきたのかさえ、分かってないんだったな。少し拍子抜けした。泣き喚いたりするのかと思っていたから。

「・・・お前、アタシの過去知ってるんだろ?自分が何で魂だけトリップしたのか・・・考えたことあるか?」
「ありません」
「・・・・・・。そうか。そこから説明しなきゃいけねーのか」
「すみません」
「アタシの家にルアンっていう密輸人が訪ねてきた後、即座にある念能力者を訪ねた。そこで、一時的に現実から逃れることができるっていうその念能力で、期日中のトリップを約束された。すごい値段吹っかけられたけど、そのときはもう金のことなんてどうだってよかったんだな。すぐにオーケーした。そして8月29日。アタシはトリップを果たして目を開けた。それが・・・」
「私の体だったってことですね?」
「ああ、そうだ。しかし、本来なら即死していたお前の体のことだ。もう少しで全ての体の機能が停止しようとするその寸前でアタシの魂が取りついた。で、今は無理矢理アタシの生命エネルギーで生きている状態ではあるが、きっと、一週間もたたないうちにお前の体は死ぬ。そして、その念能力者が言うことには、こっちでお前の体が死ねばあっちのお前の魂も同時に消滅する。つまりもアタシも死んでしまう」
「・・・そんな・・・何で、アタシが死ぬのは分かるけど、何でさんまで・・・。そんなのおかしいですよ!」
「気持ちは嬉しいが、現実を離れて辛いことから逃げるのは、死に値する大罪らしいな。・・・あの男、死神か何かか?」
「そんなのんきなこと言ってる場合じゃないです!何とかしないと・・・」
「・・・除念師でも探すか?」
「その手があった!!」
「除念されたその瞬間にお前、死ぬんだぞ?」
「・・・もう、怖くないです!死んだって構わない!最後の最後で私が大好きな漫画の世界にいれたんですから、思い残すことなんてありませんよ!それに・・・戻ったってテストばっかあるし・・・死ねるに越したことありません!」
「・・・嘘ばっか言ってんじゃねぇよ」
「え・・・?」

 の手も声も、振るえていた。死を恐怖するその思い。自分には痛いほどその気持ちが分かる。どんなに死にたい、いや、この世界から消えたいと思っても、その痛みや、自分の存在が世界から消滅するって考えたらこれ以上怖いことなんて無い。それが理由で、自分で死ねない臆病者の私はトリップをしたのだから。

 きっと、は夢で知ったのだろう。自分がどれだけ他人に愛されてるのか。

「・・・見栄張ってるの・・・ばれちゃいました」
「ああ。ばればれだ」
「あはは・・・あの、私、さんの記憶の中で見ちゃったんです。死にそうな私に向かって、死なないで、死なないでって言ってる、私の母の姿を。私が死んだら、誰か悲しんでくれる人いるのかなって。考えた時もあったんです。・・・いたんですね。死んだら悲しんでくれる人、すごい身近に・・・」
「・・・死にたくないんだろ?」
「・・・はい。でも、仕方ないですね。簡単に死にたいなんて言ったから、罰が当たったんだ。自業自得です!」
「死にたいって言ったのか?」
「あ・・・はい。すごーい軽い気持ちで・・・テストなんてもういやだ~。あ~死にたい!ってカンジで言っちゃいました」

 罰が当たった・・・か。そんな言葉で、奪わせてたまるか。こいつの命。

「なあ、アタシは医者だったんだ」
「・・・だった、って・・・」
「何とかできる気がするんだ。お前の体。アタシの念能力で」
「念能力で・・・?治癒ですか?」
「ああ。そうだ」

 念能力・・・。よくよく考えてみると、念能力の念という字は字の通り”念”だ。その能力は、己の魂のありかたに比重がかかっているはず。つまり、念能力が存在しないあの世界でも、発動は可能かもしれないということ。具現化系なんかの、物理現象に反した系統の能力はこの世界で使うことが出来ないかもしれないが、超能力者や、気の流れをよくして体調を整えるっていう人間ならこの世界にもいるはずだ。

 だとすれば、不可能ではないかも知れない。試してはいないから信憑性なんてあったもんじゃないが、試してみる価値はあると思うのだ。

 それを話すと何か複雑そうな面持ちで、は言った。

「でも結局、7日後にしかさんの魂は元に戻らないんですよね。そのときにはもう、ウボォーさんもパクノダさんも死んじゃってる・・・」
「・・・そうだな。そのかわり・・・とでも言うのか。アイツラに、あたしの気持ちを伝えてくれよ。愛してる、大好きだって。ちょっとオーバーでも構わないから、抱きついて、擦りついて、愛してるって散々伝えてくれよ。それで十分だ。そうだ。もともと、トリップしてなきゃこう思うコトだって出来なかったんだから、結局はこれでよかったのかもしれない」

 まるで自分のことのように考えてくれるを、私はすごく好きになった。絶対に死なせやしない。そう心に誓った。

「わかりました。伝えます。さんの気持ち。だから・・・頑張ってください。頑張って、私の体治してこの世界に戻ってきてください。私の体のことは、その場しのぎでもいい・・・。とにかく、さんだけでも」
「バカ野朗。そんなん意味ねぇだろーが。アタシはもう二度と、人の命を奪わないって決めたんだ。そんな手抜きできるかよ。とにかく、よろしくな!」







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「!!」

 目が覚めた。サッキのは夢だったのか。体も、さんの体のままだった。

「大丈夫か?」

 目の前にウボォーの顔があった。どうやら私は、ウボォーの大きな体に馬乗りになったまま寝てしまっていたらしい。

「随分寝汗かいてんじゃねーか」
「あ・・・ああ。大丈夫。うなされてただけだ。多分」

――― ちょっとオーバーでも構わないから、抱きついて、擦りついて、愛してるって散々伝えてくれよ。
 
 突然頭の中でリピートされたさんの言葉。よし。頑張るぞ!私!うん。頑張る!だから、頑張って!さん!私も頑張るから!

「ウボォーっ!愛してるぞ!!」
「・・・どうしたんだよ、突然・・・酔ってんのか?」
「失敬な!酔ってなんかねーよ!本心を伝えただけだ!」
「・・・お前、何か可愛くなったな?」
「え。なんだよその、素直になる前まで可愛くなかったみたいな言い方」
「いや・・・ただ、ツンツンしたお前もいいけど、素直なお前もいいなって思っただけだ・・・。よし・・・」
「ん?」

「久々にやるか!!」
「・・・・・・・ん?!」










―――彼が死んでしまうその約70時間前。

   あと約70時間で彼に何を残せるか。



 課された使命を果たすために私に何が出来る?