最早日課となりつつある就寝前の読書を済ませ、図書室から自分の部屋へと戻る途中のことだった。
一階の廊下を自室へ向かって進むと、途中に上階へとかかる階段がある。その真向かいには両開きの扉があって、それが片方だけ開いたままになっている。めったにあることでは無い。はひとりで外に出ないように、雇われハンターたちからきつく言われていたが、吸い寄せられるように扉へと向かった。
条件反射的とも言える行動だったので、見つかれば不信を抱かれるものと思いもしなかった。自由を求める彼女には抗うことのできない誘惑だ。もちろん彼女は、屋敷から抜け出そうなどとは思っていなかった。準備を整えないまま抜け出しても、すぐに連れ戻されてしまう。前より少しは世界を知ったが、まだ追ってくるハンターから逃れられるほどの知識も力も無い。
ちょっと覗くだけよ。
そう自分に言い聞かせながら、は開いた扉の向こうを覗った。その先には例の庭園があって、女神の持つ瓶から落ちる水が、耳に心地よい音を立てていた。腰ほどまでの高さで白亜の石積が噴水を円形に囲い、その円を十字で切るように通路が配されている。通路に切り取られた四辺にはひとつずつベンチが置いてあり、扉に近い側の左手のベンチにふたり分の人影が見えた。月明かりに照らされたそれをじっと見つめると誰かが分かり、耳をすませば話し声も聞こえた。
エリザとスクワラだ。
月明かりに照らされた恋人たちの姿だ。仲睦まじく肩を寄せ合い、自分たちを銀色の柔らかな光で照らす満月を見上げている。今日の月は大きさがどうだとか、色味がいいとか、何でも無いようなことをスクワラは熱心に話す。そんな彼の姿を、美しい微笑をたたえた顔でエリザが見つめている。
の胸が高鳴った。どうしようもなく美しく見えて感動したし、どうしようもなく羨ましくて仕方がなかった。
「な、なあ……エリザ」
しばらくして、スクワラが上ずった声で言った。
「なあに。スクワラ」
エリザは優しい声音で応えた。すると、男の真摯な瞳が彼女をその中に捕らえ、片手が彼女の手をぎゅっと握った。もう片方の手は自分のズボンのポケットに突っ込んで、小さな小箱を取り出した。紺色のヴェルベットで覆われた、上等そうな小箱だった。スクワラは手のひらに置いた小箱を両手で丁寧に開く。中でキラキラと光る指輪を見て目を大きく見開いた後、スクワラをじっと見つめている内にエリザの瞳に涙が浮かぶ。やっと、スクワラは口を開いた。
「オレと……結婚してほしい」
「スクワラ」
「おまえと一生、一緒にいたい。おまえを、幸せにすると誓う。だからおまえも、オレを――」
「スクワラ。私もよ。私も、ずっとあなたと一緒に生きていきたい。私も、あなたを幸せにするわ」
スクワラは歓喜の声を上げないように堪えながらガッツポーズを決めて、すぐにエリザを抱きしめた。
「愛してる。愛してる、エリザ」
「嬉しい。……私も、愛してる」
エリザの瞳からひとすじの涙が溢れ落ちる。声から、愛する女が泣いていると悟ったスクワラは、エリザへ微笑みを向けて親指の腹で頬の涙を拭った。そして、じっと見つめた後、目を閉じて、唇を彼女のそれへと近づけて――
「。何してるの?」
「――っ!!」
突然耳元に聞こえた囁き声には飛び上がりそうになり、咄嗟に口を押さえた。を脇へ押しのけると、ネオンは開いた扉の隙間から同じように向こう側を覗く。
「……なあに覗き見? ったら、趣味が悪いんじゃない?」
「ここが開けっ放しになってるなんて、めったに無いことだから、誘惑に抗えず……」
「正直でよろしい。さ、気付かれる前に部屋に戻るよ。水差しちゃ悪いじゃない」
「そ、そうだね……。ごめん」
「私に謝ったってしょうがないでしょ」
そう言ってネオンはの手を引き、自室へと連れて行った。ちなみに、の居住スペースはネオンの自室と扉一枚で繋がっている。寝る前にネオンの部屋でハーブティーやホットミルクを飲みながらおしゃべりを楽しんだり、トランプで遊んだりというのも日課だ。ふたりは親友同士と言うより、むしろ仲の良い姉妹のようだった。
ネオンはホットミルクを注いだマグカップをに手渡すと、ベッドの縁に腰掛けて、いつもと違うの様子をじっと見つめた。
「なんか、考え事してる?」
「え?」
ネオンは、どこか上の空といったの姿を不思議に思った。そして、その理由について考えてみれば、先程ふたりが目にした光景に原因があるのだと思い至った。
「当ててみせようか。……あのふたりのことでしょ。羨ましいんだ」
「……すごいね。ネオンには、隠し事ができないなぁ」
「あったりまえでしょー! こちとら世界に名を馳せる占い師なのよ」
「世界に名を馳せてるの?」
「ちょっと盛ったけど」
今夜は思うように会話が続かない。ネオンはじれったくなって、核心をつくことにした。
「、好きな人いるんでしょ」
「……うん。まあ」
「会いたい?」
「私が会いたくても……相手はもう、私のことなんか疾うの昔に忘れちゃってるかもしれない。会ってそうだったって思い知らされると立ち直れそうにないから、あんまり会いたくない……かな」
「何よまどろっこしい」
「だって、そうなんだもん」
意外なことに、ふたりが夜に好きな人のことについて話をするのは初めてだった。年頃の娘なら、おしゃべりのネタの筆頭に上がりそうなものなのだが、ふたりとも囚われの身であるから、そもそも屋敷の外の人間と接触する機会に恵まれていないので、意識することが無かったのだろう。もちろん、エリザがスクワラといい仲だと噂はあったが、ふたりともいままで人目につかないよう上手くやっていて、ネオンとの間ではあくまで噂程度の話に留まっていたのだ。
噂から一気に真実へと変貌したふたりの仲。“正しく”愛し合っているふたりの姿が、の脳裏に焼き付いていた。羨ましくもあり、自分には実現することのない遠い世界の夢幻のようにも思えた。好きな人の姿を思い浮かべて、彼がスクワラのようにド定番とも言えるような愛の言葉を吐いているところを想像したところで、ぷ、と吹き出してしまう。
「羨ましそうだったり悲しそうだったりおかしそうに吹き出したり……ひとりで忙しいのね」
ネオンの視線が刺さる。ごめんごめんと言うと、謝ってないで話をしろと催促を受けた。そしては、実名や旅団の名前を伏せ、詳細をはぶき、ブローカーのひとりに恋をしたことにして、話をした。全て聞き終わると、ネオンは言った。
「ねえ、。私、そういう“現象”のこと、何て言うか知ってるよ」
「“現象”……?」
「うん。ストックホルム・シンドロームっていうのよ」
被監禁者が監禁者に過度の連帯感を抱き、場合によっては好意を寄せることを言う、とネオンは言った。
「つまり、生存戦略なのよ。あなたの脳は、あなたにそう錯覚させることで生命を維持しようとした。あなたの感情は、本当に恋と呼べるものなのかな」
「……どうかな。私を殺したらお金が手に入らないから、殺されないって分かってたし。生き残るために気に入られなきゃとは、思わなかったけど」
「あ、そっか」
納得すると共に、ネオンは思った。今のだって、十分にストックホルム・シンドロームを患っているのかもしれない、と。命の危機云々は無いにしても、監禁者と被監禁者の間に生まれた連帯感という点においては全く同じことだ。ここまで思い至って初めて、ネオンは完璧に、愕然とした。
私は、を“監禁”しているんだ。
今まで薄っすらと抱いてきた、内側で燻っていた自分への嫌悪感が、一瞬にして肥大した。そして、これまでに向けられた笑みや、彼女との穏やかな時間が、彼女と自分との間で起きた全てのことが――本当の“友情”の上に成ったものでは無いのではと思ってしまった。
ズキリ、と胸が痛む。ネオンは悲しげに眉をひそめると、傷んだ胸を握りこぶしで押さえた。
「ネオンも何か、思い煩ってるみたい」
大丈夫? と小首をかしげ、こちらを覗き込む透き通った瞳。邪気など無い。偽りもない。そうだ。の向けてくる感情に、偽りなんかない。あり得ない。
だからこそ私は、この友情を壊したくはない。心を改めるのは、これからでも悪くは無いはず。
「あーダメダメ! 辛気臭いのイヤよ、私。こういう時にこそ、占いよね!」
ノストラード家の収益の大半は、ネオンの占いによって上げられていた。たかが占いに何億ジェニーとふっかけるのだから、ライト・ノストラードは大した詐欺師だと吹聴する者が一定数いるのだが、それは大枚を叩けない者のひがみだった。そもそも、占いと銘打つこと自体がナンセンスだ。ネオンの念能力により生み出される“商品”は、その実は殆ど予言書であり、先に訪れる未来を正確に示す、4つの四行詩から成っている。
は、ネオンが仕事をしているところを見たことが無かった。父親がそうさせているのだとすぐに悟って、深く追求はしなかったのだ。の勘は正しく、実際にネオンの念能力によって予言書が生み出されていると知られたくない父親が、念能力の発動中に他の者に見られないためとか、その素性を知られないため、はたまた占いの最中――ネオンはトランス状態となり、襲われたら抵抗ができないので――誘拐にあわないためといった考えから、彼女に邸宅で仕事をさせる際、窓一つない堅牢な地下室へと連れて行くよう、お抱えハンターのひとりであるダルツォルネに指示していた。
「パパには、占いをしているところをみだりに人に見せるなって言われているけど……は特別」
思い悩む友の憂いを晴らす一助となればいい。私はの幸せを、心から願っている。そう自分に言い聞かせ、ネオンはベッドから離れてデスクへ向かった。は不思議そうに小首をかしげ、ネオンの後を追った。ネオンは椅子へ座るなり、ふっと事切れたかのように目を虚ろにさせ、手元の便箋の上で万年筆を、急に、すごい早さで動かし始めた。
「――っ、な……」
は咄嗟に口を手で覆った。ネオンの握る万年筆から視線を手首へ向かって滑らせると、何か得体のしれない紫色をしたモヤのような物が浮いていて、目を凝らせば、それにはどうやら目と口と触覚のようなものがついているらしいことがわかった。生物、いや、幽霊、はたまた、妖怪か。それこそ、おばけを描けと言った時に大抵の人が表現するような姿形をした何かの塊が、胴体のようなところから伸ばした両手でネオンの手首を掴んでいる。
どうやらネオンに意思は無く、このおばけのような何かが書かせているらしい。はそう思った。だが、何か見てはいけないようなものを見た気がしたので、自動書記が終わるまでの間に心を落ち着かせ、何も見なかったことにすると決めた。
「――はい。できたよ」
ネオンは便箋を綴りから1枚切り離し、内容も検めない内にへ渡した。
「……詩、なの?」
「そう。それが、これから先1月の間に、あなたに起こること。四行詩がよっつあるでしょう? 上から順に、週ごとに起こることを予言しているの。当たる、というより……予言にある助言の通りに行動すれば、確実に未来はそうなる」
にわかには信じられない。そう思いながらも、は紙面に目を落とした。そしてまた、動揺した。ネオンは、意識的になのかから視線をそらし、窓の外に見える、照明に照らされた庭園をじっと見つめていた。それが、自分には都合が良かったと、後になっては思った。
紙に書かれた4つの詩は、明らかに日常から逸脱した未来を表現していたからだ。
蜜月に恋い焦がれ
囚われの青い鳥は鳥籠を疎む
けれど自ら扉は開けない
甘い蜜に羽を濡らしてしまったから
預言者は青い鳥に自由を夢見る
青い鳥は預言者に信頼を寄せる
主は裏で糸を引き
マリオネットを鳥籠へと送り込む
開け放たれた扉から出るといい
自由とは言わないまでも
逃げ出すことならできる
預言者も引き止めはしないだろう
そして偽りに踊らされた山羊が
極彩色となり飾られる
それ以上の犠牲は無い
そうして青い鳥が戻るわけではないから
26:切望
「1枚」
とあるアパートの地下室に、くぐもった絶叫が響く。
「2枚」
外は喧騒に満ちた都市の一角で、地下室の換気ダクトから少しだけ漏れる男の叫びも、雑踏、行き交う車の走行音やクラクション等々に掻き消されてしまう。男には絶望的な環境で、フェイタンには都合が良い環境だった。
「いい加減、吐く気になたか」
男は恨みがましい涙目で、拷問者がいると思われる方向を、鼻息荒く睨みつけた。そうしたところで、男の恨みつらみは、麻袋の向こうにいるフェイタンには伝わらない。吐く気になったら大きく首を縦に振れ。そう言っているのに、男が望む反応を示さなかったので、フェイタンは中指の爪をペンチの先で抓んだ。
「3枚」
フェイタンにとっては、男が首を縦に振ろうが横に振ろうがどうだってよかった。いや逆に、爪を2、3枚剥いだくらいで簡単に秘密を吐かれるよりは良かったかもしれないとすら思った。
「4枚」
さあ、いつまで我慢が続くことやら。
別にこのままずっと続けていたっていい。剥ぐ爪が無くなったら、今度は指を第一関節から順に断ち切っていくまでだ。20回爪を剥いだ後、60回関節を断ち切ることになる。その間、サディスティックな欲求を満たしていれば、他のことは考えずに済むわけだ。
だが、誤算というか、分かりきったことではあったのだが、大抵の人間はそこまで我慢強く無いもので、大抵「吐けば殺される」という未来のことよりも、今ここでまさに起こっている地獄の苦しみから逃れようとするものだ。
「吐く気になたか」
男はついに右手親指1枚の爪を残したところで、首を大きくぶんぶんと縦に振った。フェイタンはチッと舌を鳴らして、この意気地なしとか、そんな悪態までついた後に、嗚咽混じりの涙声で話される哀れな男の話を聞いた。
ヨークシンシティにいるシャルナークから電話がかかってきた。クロロは携帯電話を取り出し、とあるカフェで出されたコーヒーをすすっていた。
「どうした」
『団長、男が吐いたよ』
「ふむ。は変わりないのか」
『うん。と言うより、むしろ元気みたい。なんか、ネオン=ノストラード――娘の方と、かなり仲良くなっているみたいだ』
「そうか。傷つけられはしていないらしいな。それは良かった」
『屋敷の警備についても概ね聞き出せた。あれだけ広い敷地に、たった数名の雇われハンターしか置いてない。他は全部使用人さ。相当腕利きのハンターを雇っているらしいね』
「ふっ。……ひどい皮肉だな」
携帯電話のスピーカーから、男の叫び声が聞こえた。拷問によってゲロさせたはずの男の声だ。つまり、拷問がただの加虐に変わっているらしい。
『あー。またフェイタンの悪い癖が』
「男が死ぬ前に屋敷へ帰してやるんだぞ」
『分かってるよ。そうしなきゃ、何のために捕らえたかわかんないもんね』
「くれぐれも、計画通りに。騒ぎは起こすな」
『りょーかい。が帰って来るの、楽しみに待ってて』
クロロは通話を終えると、またコーヒーを啜った。そして、カウンターを挟んで対面にいる主人に問いかけた。
「なあ、マスター。ひとつ教えてほしいんだが」
「ああ、なんだい。お客さん」
「パーゴスウェイ国へ行くには、どうすればいい。近くだろう?」
「ああ。それなら……日に一本だけど、バスが出てるよ」
「発着所は?」
マスターはグラスを拭く手を止めて、店の壁の向こうを指差して言った。
「店を出てすぐ左手にターミナルがある。だが……あまりいい噂は聞かない国だよなあ、あすこは」
「へえ。どんな噂が?」
「行った後に帰って来るやつがいないんだと。ほとんど。なんでそれが分かるかって言うと、一応帰りのバスもあるんだが……それに人が乗ってくることなんてまず無いんだとよ。ここらじゃ有名な話さ。一体、あの壁の向こうで何をやっているんだか……。だから、あまりお勧めはしないな」
「ふーん」
「……それでも、行くのかい?」
「ああ。すぐに帰って来るよ」
その後、同じ好青年が3日後に帰ってきたことに、喫茶店の主人は驚いた。
「で、どうだったんだい? あの国の情報ってのは、かなり貴重なんだ。教えてくれよ」
「普通だったよ。穏やかで質素な国さ。最近、国家元首が心筋梗塞で亡くなったそうなんだが……今はその息子が跡を継いでいるらしい」
「お兄さん、なんだかつまらなそうに話すんだな」
「ああ。特段……そうだな。民がみんな美しいということ以外に、特筆すべきところのない、つまらない国だったよ」