「ま、生きた人間を思い通りにしようってのが、そもそも難しい話だよな」
ノブナガはいくらか人の減ったリビングのソファーに大きく股を開いて座り、顎髭を撫でながら言った。フェイタンにもノブナガが言う事が良くわかった。そして、に再会する未来を思い描くと、柄にもなく足がすくむ思いがした。ほとんど初めて味わう感情だった。
戻ってきて欲しい。オレに、親愛を抱いて欲しい。慕って欲しい。愛して欲しい。けれど、飛び立ち自由となった鳥は、元の鳥籠に戻ろうとしないだろう。
オレはがここへ戻ってきたいと思えるような何かを彼女の中に残せただろうか。むしろ逆じゃないだろうか。もう二度と会いたくないとすら、彼女は思っているんじゃないか。
「おい、フェイタン」
考えを巡らせ続け外界との繋がりを断っていたフェイタンは、仲間の呼びかけにふと視線を上げた。
「団長がお呼びだぜ」
また何か思いついたのだろうか。団長の思いつきによって、この世に生を受けて初めての感情に苛まれ続けているフェイタンは、もやもやと晴れない心をそのままに階段へと足を向けた。
フェイタンは踊り場でふと足を止めた。団長がお前を売れと言えば売るし、殺せと言えば殺す。この場所で、自分のことを好きだと、自分にすがりながら言った女に告げたことを思い出した。それが自分の責務であるし、突き放さなければ――つまり、彼女を幻滅させなければならないと思って言ったことで、本心ではなかった。決して。そう言って自分を騙さなければならなかった。は貴重な“物”で、“団長のお気に入り”なのだと。騙せたのは、団長にを引き渡す間の物の数秒で、その後は腸が煮えくり返りそうな思いだった。堪えることができたのが不思議でならないくらいで、しばらく部屋の扉の前で立ち尽くした後にひとりでいるべきだと判断した彼は、屋上へと向かい美しくもないゴミ山から成る風景を睨みつけ、精神を落ち着かせようと試みた。
フェイタンは嫉妬と呼ばれる感情が内側で渦巻いているのを感じた。何故こんなにも胸がざわつくのかと最初は分からなかったが、これが世に言う嫉妬なのだと、いつぞやに本で読んだ人間の情動を思い起こすことでようやく思い知った。よもや、自分がその物語の登場人物のような体験をしようとは夢にも思わなかった。恋なんて馬鹿らしい。愛なんて、無形の信用ならないものなど自分は欲さない。に会うまでは、そんな風に思っていたことも思い出した。
この身を焦がすような思いが恋慕に他ならないことにも気付いた。失くして初めて、彼は心の底からの喪失感と後悔に蝕まれ始めていると知った。今はただ、あの美しく輝く、邪気のない透き通った瞳が見たかった。あの柔らかな体を抱きしめたかった。
気付くと彼はあの時と同じように、クロロの部屋の前で立ち尽くしていた。
「いるんだろう、フェイタン。早く入れよ」
扉の向こうからクロロの声が聞こえてきた。フェイタンははっと我に返ると、ドアノブに手を掛けた。
中へ入ると、クロロは部屋の中程に置かれたソファーに悠然と座っていた。窓から入ってきた、夕刻を控え和らいだ日差しが、クロロの手元を明るく照らしている。肘掛けに肘を突く彼の視線は手元の本に落とされている。そのまま、彼は続けた。
「いつ殺されるかとヒヤヒヤしたじゃないか」
そうは言ってもクロロは落ち着き払っている。フェイタンは少しむっとして言葉を返した。
「生憎、団長の軽口に付き合う気分じゃないね」
「軽口なんかじゃない。お前、殺気がダダ漏れだったぞ。……まさか、自分じゃ気付いてないのか?」
「――っ」
「お前のその殺意は……オレに向けられたものとしか思えない」
「そんなこと――」
「まあ、聞けよ」
クロロはそこでやっと本を閉じ、前にあるローテーブルに本を置いてフェイタンを見やった。布に覆われた口元。細い切れ長の目。彼の表情も目も常人の半分しか見えないし変化に乏しいので、それらから彼の感情を読み取るのは至極困難だ。無意識に流れ出す微量のオーラは、それらよりよっぽど雄弁に彼の感情を語っていた。怒り、憂い、恋慕、それらがないまぜになっているが故の戸惑い。いずれも、フェイタンらしくない感情だ。クロロには、このあまりにもフェイタンらしくないフェイタンを観察することすらも、この一件でのひとつの楽しみとなりつつあった。
「別に咎めている訳じゃない。むしろ、おまえのへの執着は、オレにとっては歓迎すべきものだ」
「……ワケがわからないよ。最近の団長」
「ああ。実際、オレにも良くわからない。……とにかく、座れよ」
クロロは手のひらを半分上にして対面にあるソファーへ向け、フェイタンに座るべき場所を示した。何か面白くなさそうに、ゆっくりとこちらへ向かってくるフェイタンの様子を見るのが、やはりクロロには面白かった。
「オレは別に、を愛している訳じゃ無い。……もっと具体的に言えば……恐らく、お前が今に抱いているような感情は、全く持ち合わせていない。だから、オレはお前に嫉妬の念をぶつけられたくなんかないし、それで殺されたくも無い」
様子を伺うような目がフェイタンに向いた。軽くジャブを入れてやったことによって、怒り出すか否かと楽しんでいる風だった。フェイタンは、クロロの挑発じみた視線には取り合わないように努めながら、静かに応えた。
「……そんな話するために、ワタシここに呼んだか、団長」
「まあ、話したいことのひとつではあった。だが、本題はここからだ」
下の、皆がいる前ではできないような話。わざわざ、ここに自分を呼びつけてまで、するような話だ。
きっと、感情をかき乱されるような話になるんだろう、とフェイタンは思った。その予感は的中した。
「フェイタン。おまえ、リュービという男を――が先生と慕っていた男を殺したらしいな?」
その名を聞いた途端に、フェイタンの殺気が部屋いっぱいを満たした。クロロ自身、彼の殺気を他の者に悟られないようにという配慮などしても意味は無いと分かっていた。このアジトにいる者は皆、大抵殺気には敏感だからだ。ただ、フェイタンが殺気を垂れ流すまでの経緯は知られずに済む。そんなことをせずとも、大抵の仲間たちがフェイタンの思いには気付いているだろが、だからといってあけすけに皆の前で話をする訳にはいかなかったのだ。フェイタンがそれを望まないだろうし、話を進めるどころの話ではなくなってしまう。そういう配慮もあって、クロロはフェイタンとの、さしでの対談を望んだ。
「なんで、わかたか」
「その口ぶりから察するに、隠そうという意思はそれほど強くなかったが、知られないなら知られないままのほうが良かった……といった感じか?」
「別に。聞かれなかたから、言わなかただけね」
「それもそうか。実はな、分かったと言うより、ハッタリをかましたと言う方が正しい。さっきのおまえの口ぶりから、ようやくそうだと断定できたよ」
フェイタンは顔色は変えなかった。けれど、クロロには、オーラに混ざる殺気が感じられた。オーラは実に正直なものなのだ。そしてすぐに、フェイタンのオーラは静かになった。クロロに嘘は通じないと諦めたように。
「念をかけた人間が死んでいるにしてはあっさりと、にかけられた念が解けたというところに違和感を覚えていたんだ。実は、パーゴスウェイ族の人間をこの目で拝めるのは、もう少し先になると思っていた。だが、パーゴスウェイ国へ向かわせて、おまえ達は1ヶ月と経たない内にをここへ連れてきた。おまえやシャルナークが優秀というだけではとても説明がつかない。何か奇跡じみた幸運でも舞い込まない限りあり得ないと思った」
がすべてをあけすけに話したと言うわけではなさそうだ。フェイタンが最も恐れているのは、リュービがクルタ族であったという事実を団長に知られることだった。その安心を悟られないように、彼は絶えずオーラに殺気を滲ませた。団長に殺気を向けるなど、以前の自分からしたらあり得ないことだったが、今はそうも言っていられなかった。
「あまりに的確に、除念もなしに念が解かれた。仮にに、死んだと聞かされている男が生きているとしよう。すると説明がついた。オレの憶測がこうだ」
「憶測は事実だた。そういうワケね」
「こんなことを明かしてどうする。そう思うだろう」
「ああ。正直、時間の無駄と思うよ。でも、特にやることないから、聞くね」
「いつになく寛大だな、フェイタン。ところで、何故リュービを殺した?」
嫉妬心が燃え上がった。ガソリンを纏った木の根本に放られた火が、天へ向って駆け上がるように。それはフェイタンの身体をカッと瞬時に燃やすようだった。リュービへぶつけきったはずの殺意が、またどこかからか沸き起こったのだ。クロロにも当然それが分かった。後にフェイタンは思った。それはむしろ好都合だったと、冷静になったときに思った。何故、という問いに正確に答えるとすると、リュービが緋の眼を有するクルタ族の人間であったことを明かさなければならないからだ。フェイタンは、それだけは回避しなければならなかった。嫉妬の炎が、フェイタンの真意を覆い隠したのだ。
「……それ、重要か?」
心を鎮めて、しばらく何を言おうか考えたあと、フェイタンは殺気に満ちたドスの効いた声で言った。
「重要という程でもないさ。それに、大体の気持ちは分かったしな。興味本位だよ。……正直に言うと、おまえの百面相を見るのが楽しい」
「悪趣味よ、団長」
団長でなければ既に殺しにかかっていただろうと、フェイタンは思った。
「重要でないなら、答えないね」
「ああ。もちろん、これ以上追求するつもりはない。だが、ひとつ確認させてくれ。……次におまえにやってもらう仕事に支障がないかをな」
「何か」
「寛大ついでにその内……またあの国に戻って欲しいんだ」
クロロの予想では、フェイタンがリュービを殺したのは私怨だった。フェイタンと瓜二つの顔をした、の愛する男だ。
「いたい、何のために?」
「オレの予想では、あの国は国家元首が暗殺されたくらいじゃ何も変わらない。農民たちは反骨精神など持たないおとなしい羊みたいなもんだ。焚きつけるには、有力者の――医者とか、そういった信頼される人間の――確たる証言が必要だ。……リュービと瓜二つのおまえが、リュービの声で喋ったら町の人間はリュービと信じるだろう。が戻ったら、おまえと、他何人か――ウボォーギンあたりが適任かもしれないな。あいつは暴れたがるだろう?――であの国へ行き、暴動を起こし、革命を起こしてほしい。壁を壊すまでがセットだ」
「……リュービのふりして喋れてことか」
「その通りだ。ああその不服そうな顔。おまえはリュービを憎んでいる。その手で殺した今も尚な。だがこれはおまえにしか出来ないことだ。分かるだろう?」
「けど、団長。また同じこと言うけど、いたい、何のためにそんなことするか」
「これもの鑑賞の内さ。……あとオレが、国ひとつが崩壊するところを、変革の時を見てみたいというのもある。こんなスキャンダル、中々あるものじゃないからな」
「つくづく、悪趣味ね」
死んだ人間の目玉を美しいと愛でる男だ。今さら言うことでも無いし、もっと言えば拷問を楽しんでやる自分も悪趣味に違いないので、クロロに向ってそう指摘してやれる分際でもない。けれど、言わずにはいられなかった。真意を悟られないために、何か思い悩んだ風に見えるのは避けたかった。
リュービを殺すためわざわざ壁へと戻ったのは、嫉妬からだけではない。を、目玉だけにしたくなかったからだ。爪を剥いで、世界一高価なネイルチップにするような、悪趣味な連中の手に彼女の一部を渡したくなどないから。
「そもそも、があの国に戻りたがるかどうかも怪しいよ」
「そうなるさ」
フェイタンがふと顔を上げると、クロロがいつの間にか窓際に移動していることに気付いた。人の動きを察知できないほど思考に没頭していたなんてと、フェイタンは自分を責める。
「……それも勘か」
「ああ」
クロロのそば――窓際に置かれたコップに目が行った。飲水ではなさそうなそれの中には、ブルーダイアの削り屑のようなものが漂っている。窓から差し込む光を反射してキラキラと輝くそれから、フェイタンはしばらく目を離せなかった。
25:展望
がノストラードファミリーの一員となって数ヶ月が経った。
とネオンは思いの外気が合って、お互いがお互いの美しさと知性に惹かれあっていた。だが、最も関心を引き付けていたのは、お互いの闇の部分だ。普段はみせないが、たまに、ふとした瞬間に陰る顔にその存在を悟っていた。とは言え、聞くにも聞けずに時は経ち、いつの間にか、お互いにとってお互いが親友と呼べる程の仲になっていた。
もちろん、は復讐心を忘れてはいなかったし、いつか自由になることを夢見て絶えず努力を続けていた。知識こそ力であるとの師の教えと自分の経験から、まずは世界を知ることが肝要だと分かっていたので、できる限りで外の世界についての書物を読み漁った。幸い、この屋敷には大きな図書室があった。ネオンもたまにそこに籠り、心理学や脳科学、占いの類の本を読み耽ることがあった。
ネオンはただの、世間知らずのわがままな箱入り娘では無い。は早い内にそう思ったので、彼女には尊敬の念すら抱くようになっていた。ネオンもまた、勉強熱心で、美しいのにそれを鼻にかけず、謙虚で優しさに溢れたに信頼を寄せていた。そしてには、女中たちのように遠慮がちなところなど無かったし、思ったことはハッキリと言う性格だったので、それも好きだった。
広い屋敷に軟禁された二人の娘たち。同じ境遇が故に、ふたりはお互いを理解し合い、尊重しあい、固い絆で結ばれつつあった。それと同時に、ネオンには後ろめたさが育っていった。
をずっと、自分の所有物としてそばに置いておくことへの罪悪感だ。最初は、ただ見てみたかっただけだった。まるで観葉植物でも買うような感覚だ。けれど、言うまでもなくは人間で、心があった。仲が良くなるに連れて、彼女の意思を無視して一緒に住むよう強制させ続ける訳にはいかないという思いが増していった。けれど、父親からひとりきり屋敷に閉じ込められ続ける彼女には、は放しがたい存在ともなった。ネオンは今、そのジレンマに苛まれている。
一方のは、ネオンの身を案じていた。彼女は傍から見れば人に案じられるほど不幸では無いが、彼女にも彼女なりの悩みがある。はネオンに、自分を見ているようだった。飛びたくとも自由に飛び立てない鳥だ。彼女はのように狩られもしないし、人権を侵害されたりもしない。ただ父親に不自由を強いられているだけと言えばそうだろう。けれど、彼女は外の世界に憧れている。世界を知りたがっている。まだ見ぬ世界に飛び立ち、まだ見ぬ人に会いたがっている。その意思を、父親に踏みにじられているのだ。仕事が忙しいと、広い屋敷にひとり置いてほとんど帰ってこない父親に。寂しいだろう。一緒に自由になれたら、どれだけ良いだろう。
後に、それぞれが内包するこれらの思いによって、平穏に過ぎる日々が一変する。そうと知る由もなしに、ふたりは笑い合い、励まし合い、夢を語り合う……そんな日々を送ったのだった。