陽の光に照らされる世界を見るのは久しぶりだった。
だからは移動し始めて数時間眠った後からずっと、車の窓に映る景色を眺めていた。針葉樹の森。緑に囲まれた大きな湖。渓谷に架かる橋に、滝。潤いに満ちた土地から、荒野へ。一本道は地平線の彼方に伸び、陽炎がその境界線をぼかしていた。延々と続くかに思われたその一本道を数時間走ると、全面にガラスを纏った摩天楼がそびえ立つのが見えた。街はそれを中心に広がっている。
ヨークシンシティ。この世界を代表する都市――大都会。文字で読んで知識として蓄えられているだけだった世界に呑まれる。は怯むのと同時に、好奇心に心を支配されつつあった。
片側3車線のアスファルトで舗装された道路には、黒塗りの高級車、真っ赤なスポーツカー、黄色のタクシーに、バイクやバスなどがこれでもかと並び、歩道では人が列を成して行進している。見ているだけで酔いそうだった。視線を上に上げれば、天高くそびえるビルたちが陽光を反射してピカピカと光っていて、は眩しさに目を細めた。
「興味津津だな?」
チャッチモーノが言った。すると、運転席からクアドロが応えた。
「そりゃそうだろ。何せ、今までずっと壁の中で生活してたんだ。……いや、その年なら、ずっとじゃあねーのか。壁ができたのは最近のことだと聞いた。とは言え、その前から、パーゴスウェイ族ってのは秘境に隠れて暮らしてた民族だ。目新しくて当然だろ」
「解説どーも。オレはちゃんと話したかっただけだってのに、このオッサンは……」
「おい。はネオン様のものだ。おまえがどうこうできる相手じゃ――」
「わかってるわかってるって、さすがにそこは、弁えてるってば」
だが、そんな魔が差してもおかしくない。それくらいには美しかった。チャッチモーノは、後部座席の真ん中から身を乗り出して、外の世界に向けた目を煌めかせるの顔をじっと見つめる。そして、水晶のように透き通ったその美しい瞳が、本来の美しさを取り戻す日をこの目で見たいと思った。けれど、それは叶わないだろう。ネオンはいずれ「飽きた」と言って、得た高価な物あるいは希少な物をコレクション部屋に押しやるのだ。それができない――生物で、死んでしまえばたちまち宝としての価値が失くなる――は、またブラックマーケットへと流される。そうなる可能性が高かった。
「そんなに外見たいなら、オレの膝の上に乗る?」
「おい、チャッチおまえいい加減にしろよ! だからおまえには後ろに座らせたくなかったんだ。もう疲れは取れたろうが! 運転変われ!」
そんなこんなで、街を通り抜けると車は再び郊外へ向かい、森の中を突き進んだ。そして、人目を忍び、娘の安全を第一にと考えるライト=ノストラードが堅牢な鋼鉄製の塀で囲う大邸宅――まるで城のようなそれ――が、を迎え入れた。
長い廊下を歩き、奥の部屋へと通される。天蓋に覆われたキングサイズのベッドの端にちょこんと座り、開いた扉をじっと見つめる可憐な娘――ネオン=ノストラードがそこにいた。
「ネオン様。お連れいたしました」
「遅いよぉ〜! ずーっと待ってたんだよ!」
ネオンはベッドからひらりと飛び降りるなり、クアドロとチャッチモーノの間に立つめがけて駆け寄った。
「あなたがね! はじめまして。私はネオン!」
「よろしく、お願いします」
「ああ、ダメダメ、堅苦しいのは無し! 年いくつ? 同じくらいでしょう? ならお互いタメ語にしよーよ!」
興奮した様子でまくし立てられ、はその勢いに気圧された。けれどクアドロに車から降りる時、最後に言われた言葉――すべて、ネオン様の言う通りにしろ――を思い出すと、にっこりと笑顔を浮かべて言った。
「よろしく」
ネオンは目を煌めかせながらの手を取ってぶんぶん振ると、その手を止めた後にじっとの瞳を見つめ、感嘆のため息を吐いた。
「ほんっとーに綺麗」
気恥ずかしさに頬を染めて目をそらしても、ネオンの目は追従してくる。しばらく見つめてとりあえず満足したのか、次に握ったままだったの手を自分の手のひらの上に乗せ、指先の鑑賞を始めた。
「うわーっ! 羨ましい!! マニキュアしなくても、こんなに綺麗な色してるなんてっ!! ずーっと、ずーっと眺めてられる!! ああっ、たまんなーい!! って言うかさー、この服ナンセンスじゃない? もっと、の瞳とかネイルの色が映える色のドレスじゃないと。ね、エリザー! とりあえず、私の衣装部屋に行ってオフホワイトのアンピールラインドレスに着替えさせてよ。この前、パパに買ってもらったやつ」
ここまで外見について褒めちぎられるのは、クロロに会って以来久しい。クロロですら、瞳をじっと見つめてくるだけで――ひどく居心地が悪かったのを思い出す――年頃の娘らしい観点はもちろんなく、爪の色まで賛美はしなかったし、着ている服についてのこだわりも見せなかった。
まるで着せ替え人形だ。私の魂には何の価値も無い。ああ、死んでもこの瞳や爪が朽ちなければいいのに。殺されて、この肉体に防腐処理を施されるなどして、魂の無い人形にされた方がよっぽどマシだ。
一体なんのつもりで、生きた人間の命に価値をつけ、一体なんのつもりで、その人間の人生を奪うんだろう。
壁の外の世界は広く美しく光に満ちているけれど、いざその世界に足を踏み入れてみれば、人の道徳観念は解し難く複雑だ。純粋さは無い。たまに、純粋さに満ちた壁の中が恋しく思える。けれど、それもまた偽りの上に成り立つ世界。
際限無く沸き起こる怒りの感情に、は蓋をした。自分に怒りを覚えさせる世界に抗うだけの知力も力も何も、今の自分には無い。だから、従順なふりをしなければ。怒りによって、限られた自由すら失くすわけにはいかない。
「あ、そうそう」
ネオンは、衣装部屋へと向うとエリザに付き添う間に言った。
「あなた専用のお部屋があるの。ちょっと狭いんだけど、許してね。あとで案内するね」
着替えを済ませた後に通された件の部屋は、にとっては、狭さとは無縁の広々とした美しい部屋だった。
部屋の奥中央には、ネオンの部屋と同じく天蓋付きのベッドが、その足元にはフットベンチが据え置かれている。部屋のすみには天井近くまで伸びる大きな掃き出し窓が四つ。その先はどれも広々としたひとつのバルコニーに繋がっている。バルコニーは、邸宅を囲う森林に向かっていて、木々の列より手前から邸宅のそばまで、白いタイルが敷き詰められ、手入れされた植栽が円形に並ぶ美しい庭園があった。庭園中央には池が、その中央には白亜の女神が水瓶を持って立っていた。水瓶から落ちる水は、女神の立つ受け皿に水を落とし、そこから溢れ出た水が絶えず池を満たしている。
部屋に入るなり窓辺に駆け寄り、外の景色を食い入るように眺めていたの背中に、ネオンが声をかけた。
「その窓、開けるのはエリザとか、クアドロに声をかけてからにしてね。勝手に開けると、警報が鳴るの」
どこか鬱陶しそうにネオンは言った。はその声音、表情が腑に落ちなかった。そうしているのは――鳥が飛んでいってしまわないようにと気を配っているのは――あなたなんじゃないの。
「……うん、分かった」
は変わらず、従順に答えた。そして名残惜しげに窓辺から離れた。その後も、邸宅内の見学のため、ネオンに連れ回されたのだった。
24:結晶
が、いったいどこの誰に買われたのかは知らない。最高値を提示してきた相手に売りつけただけだ。
これはを売り飛ばす先が決まった直後、シャルナークがフェイタンや団長も含めた、ホームにいる全団員に言ったことだ。端的に言えば、それは嘘だった。もっとも、買い手に注文を付け、それを他の皆――特にフェイタン――には黙っておくように言ったのは団長だったが。
手を離れた今も、はまだクロロの所有するものだ。社会通念上の所有権、財産権など知ったことではない。いくら金を支払われようと、いくら遠くにいようと、を手に入れたのは我らが旅団であり、はクロロのものである。そうでなくなるのはクロロがそうすると決めた時だけだ。
なので、クロロの所有物であるが“汚される”わけにはいかなかった。それこそ、清らかなの体を、どこぞの太った大富豪の脂ぎった指で捏ねくり回されたり、体液をかけられたり、というのは最高に気持ちが悪いし論外である。洗えば落ちる汚れでも、貶められたという記憶はの脳みそに刻まれ、一生物の“事故歴”となってしまう。それはクロロの精神衛生上よろしくない。仮にそうなってしまったら、と考えると、罪悪感を抱いてしまう程、には思い入れがあった。
そこで、付けた条件はふたつだ。買い手が女であることと、商品には衣食住を満足に与えること。要は、人権を与えること。そんな但し書きをしなければならないなんて世も末と思うかもしれないが、そもそも人身売買自体が人権を無視した行いなので、むしろ売り手がこんな条件を付ける方が珍しい。一体何のためにそんな条件を付けるのだ、という買取希望者からの質問に、シャルナークは適当にこう答えていた。
商品の精神状態が不安定であるため、ストレスに耐え兼ね自殺をしかねません。
別に突飛な嘘では無い。不安定というよりむしろ安定して絶望一色だったが、とにかく、絶望によって簡単に死んで、ブルーダイヤが一瞬にしてどす黒い体組織に変性しかねない状態にあることに違いはない。買い手を女に限定することまで、その一文で説明がついた。つまり、条件そのものによって、買い手にかなり入念に注意喚起をしてやっていたわけである。
この警告を無視して、強引に、性欲の捌け口などにするため、太った大富豪(男性)などがを購入しようとする可能性は低い。すぐに死んでしまうかもしれない生物に、目が飛び出るほどの大枚を叩こうとは思わないからだ。
この条件のおかげで、当初は買い手がつかないのではないかと思われた。けれど、無事見つかった。もちろん匿名だが、ヨークシンシティ在住の17歳少女。17歳少女が何故、嗜好品に支払うには桁外れの大金を持っているのか判然としなかったが、結局ケースいっぱいの現金がしっかり手に入ってしまった。とは言え、それ以上の情報は一切得られなかった。余計な詮索はしない。それが鉄則だ。そもそも、詮索する必要すら無かったのである。
結局シャルナークは、フェイタンの激昂によりこれらの秘密を明かすことになった。そして今、旅団内で議題に上がっているのは「は今どこにいるのか」と「いつまで一時預かりをしてもらうか」のふたつである。
シャルナークは自身のラップトップPCを開きモニターを見ながら言った。
「ヨークシンのはずれ。高級住宅地の中……と言うより、ほぼ森の中。ここが誰のお屋敷かは、ハンター専用の裏サイトで調べれば一発で出てくる。きっとね」
の体には、シャルナークが改良に改良を重ね、超小型化したアンテナが刺さったままだった。念能力で具現化したものではなく現物なので、PCのアプリケーションとの連携も可能だ。念能力を習得したプロハンターが変に勘繰って凝視しようと発見はできない。金属探知機対策も万全なので、取り返しに出向くまで、恐らくの体に付いたままだろう。現に、目的地に到着したらしい今になっても、アンテナは壊されることもなくずっと作動し続けている。
「今すぐ、調べるね」
フェイタンが怒り心頭に言った。の居場所が把握できていると分かるなり、彼はいてもたってもいられないという様子でいた。
「はいはい、分かったよ。そう怒らないでよね。――あ、ああ、あったあった。ノストラード組……? の所有地らしいね。組長の娘が、人体収集家なんだって」
「良かったな、フェイ。どうやらマジでおっさんじゃねーみたいだ」
「オンナだからて、安心できるワケないよ」
「……あー、まあ。世の中、色んな趣味持ってる人間がいるからなあ」
フィンクスが少し頬を染めて言ったそばから、フェイタンが脇腹に足蹴りを食らわせた。けしからん妄想に気を取られていたフィンクスは、不覚、と呟きながら脇腹を押さえ蹲った。
「で? いつ乗り込むんだ?」
ウボォーギンが手指の骨を鳴らしながら言った。クロロは首を横に振って見せた。
「悪いが、ウボォー。おまえの出る幕は無いだろうな」
「そうなのか? つまんねーなあ」
「マフィア相手に喧嘩をふっかけるのが怖いワケじゃない。ただ、ドンパチやってる間にがキズモノになったり、最悪死んだりってのを避けたいんだ。あくまでも隠密に、必要最小限のチームで動いてもらう。できれば、報復とか面倒だから、組員殺しもご法度にしたい」
「……でも、を連れ去るってこと自体が報復の対象になるような気がするけど」
「だからだ。いつって話に戻るが……組長の娘が飽きるまで、手出しはしない。飽きた後なら諦めもつくだろうし、煙に巻ける。フェイタンには悪いが、それなりの期間を空けなくっちゃならないかもな。まあ、飽きっぽい女なら、年内にでもブラックマーケットに流そうとするだろうが、ある程度の期間は覚悟して――」
「そもそも」
フェイタンが話を遮った。彼にはどうしても、腑に落ちないことがあった。
「団長は何故、を手放したか?」
「ふむ。動機を言語化するのはあまり好きじゃないが……教えてやろう。をここにずっと囲っていても、あの娘は輝かない。美しくないからだ」
フェイタンを含む、ホームにいる手足の全員が眉根を寄せた。
「は言うなれば、翼をもがれ、鳥籠に囲われた哀れな鳥なんだ。いくら見た目が美しかろうと、自由に羽ばたけなければ、鳥本来の美しさなど表出しない。つまり、オレの鑑賞が、まだ終わっていないんだよ」
団長は、得たものを愛で尽くさない限り手放さない。今回が異例中の異例だった。生きた人間が宝だったことも、それ故に宝を思い通りにできなかったことも、これまでに一度も無かったのだ。
「自身に、自由に羽ばたけるだけのスキルが、強さがなければならないと気付かせる必要があった。……フェイタン。おまえだよ。おまえがそばにいたままなら、はそれを一生自覚できない。だから、おまえとは永久に会えないのだと、さらなる絶望に陥れる必要があった。から全てを奪う必要があったんだ」
「行き当たりばたりね。団長らしくないよ」
「ああ。こればっかりは、人間の感情に依る問題だからな。オレがそうしたいという感情に突き動かされたから今こうなっているし、が改心しているかどうかも彼女の感情の問題だ。合理的でも効率的でも無いかもしれない。ただ、一つだけ確かに言えることがある。はおまえに依存していた。それはおまえが、彼女の言っていた“先生”と瓜二つの顔をしているからだ。幸せだった過去に依存していたんだ。おまえの見た目そのものが、を安全な鳥籠に拘束する鎖みたいなものなんだ」
「取り戻してもそれは変わらないよ。ワタシに顔面整形しろとでも言うつもりか」
「いや、変わっているさ」
「いたい、なんの根拠があて、そんなこと言うか」
クロロは続けた。
「勘だな」
「勘か」
勘、と表現すると少し雑だ、とクロロは思ったが、訂正はしなかった。そしてそのまま、リビングを後にした。
彼女との会話を続ける内に抱いた確信が、言うなれば根拠だった。囚われの身でいたくないという思い。可能ならば人生をやり直したいという後悔。“先生を殺した”祖国の仇、祖国の体制に抱く憎しみ。悔やんでも悔やみきれない思いが、問題意識が、如実に伝わってきた。
そして囚われの青い鳥は、この鳥籠を飛び立った後に変革の――強さの片鱗を見せていた。
クロロは自室に戻ると、窓辺に歩み寄って、窓枠に置いておいた透明のガラスコップを見つめた。
中には水が入っている。そして、水中にはブルーダイヤの削り屑のようなものが浮かんでいた。結晶は水の中で光を反射して、床上に透き通った青を映す。
「まさか、このオレが……人間の成長を見てみたいと……そう思う日が来るなんてな」
飛び立った鳥が戻るのを心待ちにするように、窓の外に広がる空を見上げて、クロロは呟いた。