囚われの青い鳥






 真夜中、あと数時間経てば朝日が昇るころ。を乗せた車はアスファルトで舗装された本道から脇道へ逸れ、針葉樹が生い茂る森の中へと入っていった。しばらく砂利道を進んだ後に停車すると、左右に止まった車からわらわらとブローカーたちが降りてきて、の乗る車のバックドアが開かれた。

「降りろ」

 言われて、はすぐにトランクから降りた。月夜に照らされた湖面。湖のほとりの、鉄筋コンクリート造の四角い建物。建物のそばにある小さな小屋からは、湖の真ん中に向かって桟橋が伸びていた。どこかホッと落ち着く気はしたが、すぐに不安がよぎる。

 私を買った人が、ここに?

 濡れ衣を着せられた。愛する人を失った。本当なら死んでいたであろう程の外傷を受けて、痛みを覚えた。得たはずの愛を失くし、犯され、売られ捕らえられ恥辱を受けた。

 それより酷いことが――心を殺さなければやりきれない程の絶望が――これから私を待ち受けているのだろうか。

 は前後を複数人のブローカーたちに固められながら、玄関へと繋がる庭のアプローチを歩いていった。見えるだけで周囲に4、5匹のドーベルマンがいて、客人たちに向かって低い唸り声を上げている。そんな歓迎を受けながら、ブローカーのリーダーが玄関のブザーを鳴らすのと同時に、は左右に立っていた男たちに手錠を外された。

 扉が開くと、そこには銀髪をオールバックにして口髭を蓄えた恰幅のいい一人の男が立っていて、その後ろには和装をした女中が二人控えていた。

「ふざけた真似はするなよ。金は、事前に言った通りの額だ」

 出迎えられるなり牽制を受けたブローカーのリーダーは答えた。

「わかっていますよ。……入っても?」

 男は頷き、ブローカー一行を建物の中へと招き入れた。広々とした吹き抜けの玄関。向かいには大階段があって、赤いカーペットが敷かれていた。床一面にはピカピカと光を反射してきらめく大理石が敷き詰められていて、天井からは大きなシャンデリアが下がり、玄関全体を明々と照らしている。は物珍しそうに屋敷のきらびやかな内装を眺め歩いているうちに、大広間へと通された。ちなみに一行の背後には銀髪の男とは別に二人、同じように黒いスーツを着た男がついていて、客に目を光らせていた。

 後は、シャルナークとウボォーギンのふたりから、ブローカーの手に渡った時と同じような流れだった。もちろん、血は流れなかったし、ブローカーも金額についてごねはしなかった――ブローカーたちは前回と打って変わって始終しおらしかった――ので、かなり穏便に事が運ばれた。ブローカーたちを出迎えた銀髪の男が、現金を詰め込んでいるらしいトランクを何個かテーブルの上に置くと、ブローカーは中をあらためて言った。

「確かに、受け取りました。また何かお求めの際は、特段のお引き立てをお願いいたします」

 リーダーが恭しく頭を下げると、その子分たちも深々と頭を下げ、後にトランクを受け取るなりぞろぞろと屋敷から出ていった。はソファーに一人取り残されたままだ。

 ここはどこなのか、私を買ったのは誰なのか、これからどんな生活が待ち受けているのか――。





23:決意







 聞きたいことは山とあったが、恐らく、それは許されないのだろう。いいと言われるまで口は開かないでおこう。そんなことを考えている間に、の対面で銀髪の男がソファーに腰を下ろした。
 
「何かいろいろ聞きたそうだな? ……ところでおまえ、言葉は通じるのか」

 は恐る恐る、こくりと頷いた。

「そうか。オレはクアドロ=ラーメン。ノストラードファミリーの雇われハンターをやってる。要は、ギャングの用心棒だな」

 ハンターという職業がどういうものかはうっすらと知っていた。ハンターと名乗る者が祖国に立ち寄り、旅の途中に傷めた体を癒やしに来たりしていたから。彼らの話を聞く度に、壁の外の世界に思いを馳せたものだった。しかし、思いを馳せるだけで深く知ることは叶わなかった。――今思うに、壁を立て、外部から入ってくる情報を制限し、壁の中にいれば安全だと嘯かれていたのは祖国の謀略だったのだろう。

 そんなわけだから、は“ノストラード”という名を聞いても何も思わなかった。もっと言えば、彼女はギャングというものがどういうものかすら、ほとんど知らないのだ。

 ノストラードといえば、ヨークシンでは一般人ですらその名に畏怖し、仮に自分がノストラードに捕らえられたと聞いたらぞっとして、自分の余命がいくばくもないと絶望するようなマフィアなのだが、はポカンとしている。それを面白く思ったのか、クアドロは破顔してクスクスと笑いだした。

「ああ。悪いな。こう、ノストラードの一員だと聞いたらぞっとして、最悪チビるような連中としか付き合いが無かったもんで、新鮮でな」

 人間らしい笑みだった。久しぶりに向けられた気がしたそれは、の擦り切れた心を少しだけ癒した。ほっとしてすぐ、和装をした女中の内の一人が飲み物を、の目の前へ差し出した。膝を折り、慇懃な態度でだ。

「どうぞ。長旅、ご苦労さまでした。私は、エリザと申します。これから、様の身の回りのお世話をさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 、様……?

 はまたポカンと呆けた顔でエリザと名乗った女中を見つめた。

「大層驚いたような顔をしてんな」

 横から声がかかった。振り向くと、エリザの背後から褐色の肌の、黒く長くボリュームのある縮れ毛を一つに結った男がの方へ歩み寄った。彼は、ブローカー一行の動向に目を光らせていた内の一人だ。

「オレはスクワラ。クアドロと一緒におまえの身辺警護に当たる。んで、そいつは――」

 スクワラは対面を指さした。は彼の指差す方へ顔を向ける。

「チャッチモーノ=トチーノ。運転手だ」
「おい待て。それを言うなら、おまえも運転手だろ。主に犬のな。んで、オレもあんたの身辺警護をやる。よろしくな」

 人好きのする笑顔でウインクをかましたチャッチに、はどきりとして顔を伏せた。

「……相当、酷い扱いを受けてきた、みたいな怯え方してるな」

 クアドロが言った。

「いいか。おまえを買ったのは、ファミリーのボス、ライト=ノストラードだ。が、おまえをご所望なのはその娘、ネオン=ノストラードだ。ネオン様は、おまえが側にいることをお望みなんだ」

 はクアドロをじっと見つめた。

「だから……そんな辛気臭い顔をしてんなよ」

 エリザがクアドロを批難するような目で見やった。彼女の意図を汲み取ったクアドロは付言する。

「分かってる。無理に笑えとは言わないさ。……だが、安心しろ。ネオン様はおまえに何か酷いことをしようと思っているわけじゃない。おまえは今日から、ファミリーの一員なんだ。おまえが望むなら、望むものすべてをオレたちが手に入れる。そうするように、ボスに仰せつかってる。……もちろん、屋敷から逃げ出したいという望みは叶えてやれないがな」

 要は、大人しく囲われているようにするために美味いエサを、というわけだ。は悟った。けれど、手足の自由が利くのなら、それだけでありがたいと思えた。だからと言って、このノストラードファミリーとやらに心を開く気が起きたわけではない。

 自分の無知、無力とお人好しな性格のせいで、これまでどれだけバカを見てきたことか。もう二度と、誰も信じない。裏切られて、これ以上傷付くのはごめんだ。

 はフェイタンのことを思い出すことにした。愛する人に良く似た人を。今では、そんな彼に向けていた感情が何だったのかすらよく分からない。顔が似ているからというだけじゃなかったはずなのに、その部分はまるまる、深い絶望という谷底に落ちてしまった。――思い出せない。忘れてしまった。

 会いたい? 会えるなら、会いたいんだと思う。そう、顔が似ているから。先生に。私がまだ、何も知らないでいられた、幸せだった頃を思い出せて、幻想に浸っていられるような気がするから。その先生は、祖国に殺された。実際、殺したのはフェイタンだけど。

 先生は、生命維持装置を外されたらその場で即死というぎりぎりの状態で生かされていたらしい。なぜそんなことをされていたのかというと、先生はクルタ族――祖国の壁ができる前に、どこか遠くの秘境で皆殺しにされた民族だ――で緋の目を持っていたので、死んでも緋色が虹彩に残るメカニズムを解明するためだった。もしもその謎が解明されたら、パーゴスウェイ族の黒朽化現象を止める足がかりにされ、より多くの民が殺されかねない。そして先生は、先生を見つけたフェイタンに自分を殺してくれと言った。

 だから、フェイタンは先生を殺して“あげた”らしい。祖国の民のため。先生の名誉のため。私を、籠から開放するために……。

 旅団員の他の誰にも言うなと口止めして、彼はこんなようなことを教えてくれた。それが全て本当かどうかは分からない。けれど、何となく直感で、嘘じゃないと思えたので、フェイタンを咎めることはしなかった。おかげで、確かにあったはずの祖国の幸せな思い出も、その影で陰惨な人体実験が行われていたのだという事実を知ってしまったが故にもはや思い出したくもないのだと気付く。

 そのまま、フェイタンの愛を得られれば良かったのに。彼はクロロが――団長が私を殺せと言ったら、なんの躊躇いもなく殺すと言った。殺しはしなかったけれど、何の興味関心も持たないことを最後にしっかりと証明した。お別れの言葉も無かった。彼は私を愛していない。私はもう、フェイタンには会えない。会いたいとか、会いたくないとかではなく、会えないんだっ……! 私にはもう、何もない。愛する人も、思い出したい幸せな思い出も、心休まる場所も何も、何もない。あるのはやっぱり、私を囲う狭い鳥かごだけ。

 涙が堪えられなかった。溢れ出した涙は、この場では好都合だ。

「……大丈夫ですか?」

 エリザが心配そうな顔での顔を覗き込んだ。は手の甲で涙を拭いながら答えた。

「ごめん、なさい。……こんな、人間らしく、私のこと、扱ってもらえたことが……なくって、わたし、ほっとして……」

 エリザは目を潤ませながら言った。

「まずは、お風呂に入りませんか。お召し物も変えて、たっぷりと美味しいごはんを食べて、良く寝るんです。起きた頃には、お屋敷に着いていますよ」
「……ここじゃないんですか?」
「ええ。ここは別荘なんです。ネオン様は本邸にお住まいです。ここから車で、15時間ほどかかりますが」

 クアドロはパンと手を鳴らして立上がると、皆に号令をかけた。

「さあ、そうと決まれば皆帰り支度だ。は風呂、着替え、メシ! あんまりちんたらしてっと、ダルツォルネに殺されちまう」

 は、女中ふたりにされるがままの内に考えた。

 今の私には何も無い。死にたい? いや、死ぬのは怖い。なら、何のために生きる? 失くしたものを取り戻すため? ……いや、そんな望みの無いことはしたくない。せめて、まだ叶いそうなことをやるために生きたい。

 私は何故、絶望しているの? 私は何故、愛する人たちを奪われなければならなかったの? 誰がそうしたの?

 フェイタンに出会わなければ、一生知らなかったこと。私からすべてを奪い、私を絶望させたのは、祖国で私を囲っていた祖国の人間だということ。それが私の悲しみ、憎しみ、怒りの源だ。

 唯一の救いは、知識を得ることに制限を受けることは無いらしいということだろう。外の世界を知り、一人で生き抜くための術を学ぶ。そして、いずれ逃げ出すのだ。待遇のいい内に。自由の効くうちに。いつ娘の飽きが来るとも限らないから、許される間に、許されるだけを学ぶのだ。優先順位をつけて。遊んでいる暇なんてない。

 そして、強くなりたい。逃げ出したら、念能力と言われるものを会得したい。もう誰に囲われることも、誰に助けられることも、誰に恥辱を受けることもないようになった暁に、自由になった暁に――

 私からすべてを奪った連中から、全てを奪ってやる。これは復讐だ。復讐のために、私は生きるんだ。