「おい、クアドロ」
チャッチモーノは眉根を寄せて、同僚の手を見ながら訊ねた。
「その手、どうしたんだよ。てか、ひどく具合が悪そうだが、大丈夫か?」
クアドロはげっそりとした顔に苦笑いを浮かべて言った。
「休みの間にやった日曜大工で手を怪我しちまってな。大したことはない」
「ふーん。……あんまり無理すんなよ」
「大丈夫さ。今のところ、特に大きな仕事は入ってない」
「まあ……今のところはな」
ボスの身辺警護や、ボスが求める物の入手が主な仕事だ。とくに身辺警護に関して言えば、ネオンの誘拐、或いは暗殺のため、屋敷へ侵入しようとする者を排除することも含まれる。ノストラードファミリーの失脚を望む同業者は多いので、いつ戦うことになってもおかしくはない。だから“今のところは”という言葉を、チャッチモーノは繰り返し強調したのだ。だが、それを察することができるほど、クアドロは同僚との会話に専念できていなかった。
と言うよりも、彼が「今のところ、大きな仕事は入っていない」と主張したのには、別の思惑があった。むしろ、直に訪れるであろう「大きな仕事」の存在を隠し、それを未然に――「大きな仕事」が起こりかけたことすら少しも、誰にも悟られない程に――自分ひとりの力で防ぐための布石としたかった。それができなければ、自分に命は無いと分かっていた。保身のことしか頭になかったのだ。
彼の両手の怪我は重症ではあったが、手の全てを包帯で包む必要のあるものではなかった。けれど、怪我をした箇所にだけ包帯を巻いていては、見る者が見れば――特に、アンダーグラウンドで生きる彼らのコミュニティでは――彼が拷問を受けたことは一目瞭然となるだろう。ノストラードファミリーの雇われハンターであるクアドロ・ラーメンという男が、自身が拷問を受けたことを同僚に開示するということはつまり、「機密情報を外部に漏らして生きて帰ってきた」と言うようなものだ。
それは、ボスと取り交わした契約書に記載のある、機密事項保持に関する規約に抵触する。違約の場合には厳罰を科すと記載されている。“厳罰”とオブラートに包んで書いてはいるが、その実は契約不履行者の死であり、死にたくなければ絶対に秘密は漏らすなという脅し文句でしかなかった。だが彼はその規約を破ってしまった。
ネオンの居室は屋敷のどこにあるのか。屋敷の警備システムはどうなっているのか。ネオンのそばには常に付き人がいるのか、いないのか。いるのなら、その人間は何人いて、背恰好はどうなのか。直近で警備が手薄になる機会は――
そのようなことを全て、どこの誰か、さらに顔すらわからない敵に暴露してしまったのだ。
解放されてすぐは、このままどこか遠くへ逃げてしまおうかと思った。金がないわけではないが、ノストラードファミリーの追跡から一生逃れ続けられるほどある訳では無い。ハンターライセンスを持っているので金なんかいくらでも借りられるが、ハンターライセンスを使えば足がついてしまう。つまり、逃げてしまえば、それから先ずっとハンターライセンスが使えないということになる。ハンターになれるだけの素質があるのだから、ライセンスなど使わなくとも生きていけそうなものだが、マフィアから逃げながらというオプションが付くのだから――。
お先は真っ暗だ。自分が死ぬ未来しか見えなかった。ならば、やはり秘密裏に敵を迎え撃つしか手立てはない。
敵はお粗末なことに、屋敷のどこから入ったほうがいいと大声で話していた。屋敷の地下には、食材やその他物資を搬入するための広い地下空間とストックルームがある。地下階全体に張り巡らされた換気ダクトの口径は大きく、大人ひとりが余裕で進める大きさだ。それらは一部1階の倉庫等とも連絡しているので、警備の目さえなければ簡単に屋内へ侵入できるつくりになっているのだ。クアドロ自身が建物のつくりをよく把握している武装警備員のようなものだった。侵入経路を他に上げろと言われたが、他に警備が手薄で邸宅内への侵入が安易な場所は思いつかなかった。
クアドロは焦燥し、混乱していた。普段の冷静な彼であれば――我が身に危機がさし迫っていなければ――必ず気づけたであろうことに、気付けないでいた。何故、侵入経路を聞きだした上で、暴露した本人を生かしたまま邸宅へ帰したのか。何故、拷問によって聞き出した侵入経路をそのまま使うと聞かされたのか。
罠だ。そう気づけずにいたのだ。そのまま時は無慈悲に過ぎていき、何の準備らしい準備もできないままに、クアドロは賊が邸宅内に侵入する日を迎えた。
暗雲垂れ込める夜。人里離れた邸宅は闇に包まれている。地下階への入り口に最も近い搬入口付近で、クアドロはひとり警備にあたっていた。賊が侵入を示唆した場所だ。彼はここで、敵を迎え撃つつもりでいる。
しかし、クアドロの思惑通りに事は運べなかった。敵の姿を視認する暇すら与えられずに、彼は意識を剥奪されてしまったのだ。
「よし。のっとり完了」
シャルナークは手元の端末でクアドロに指示を出した。
敷地を囲う鉄柵の外にある今は使われていない守衛室の影に隠れ、邸宅内へと戻って行く男の後姿を、シャルナークとフェイタンのふたりが見送っていた。
「あれ、ここまで来ないとできなかたか」
フェイタンは自分が拷問した男の背中を見つめながら言った。
「できないことは無いいんだけどさ。距離が近ければ近い程、細かく的確な指示ができるんだよ」
「というかシャル、にもアンテナ刺したまま言てたね。なら、こんな回りくどいことせず、に指示を出せばよかたよ」
「ちゃんには脱出経路なんか教えられてないでしょ。さすがに、知りもしない道を来させることはできないんだ。その点、あのクアドロって男は雇われハンターの中でもかなり信頼を置かれていて、この屋敷のほとんどすべてのことを知らされている。それに、ボスの部屋以外全ての部屋のマスターキーを持ってる。だから、あいつが屋敷を動き回ったって誰も不信がらないし、ちゃんの部屋にだって入れる。それに、最悪の事態には彼女の身を守る盾にだってできる。もちろん、その最悪の事態ってのが万が一起きてしまったら、ちゃん自身にも動いてもらうかもしれないけどね。今回の仕事は、全て隠密に片付けろって団長からのお達しがあるだろう。クアドロの乗っ取りは必須だよ」
「……なるほどね」
クアドロの姿が屋敷の中へと消えていく。
「もうすぐ、ちゃんに会えるね」
「だから何か」
「もう。素直じゃないんだから」
「うるさいよ、シャル。仕事に集中するね」
「あいあい」
シャルナークはイヤホンから聞こえるクアドロ周辺の音に耳を澄ます。今のところ、辺りは静寂に包まれているらしい。
「順調順調。やっぱりオレの能力って、ものすごく便利だよね」
「自画自賛もほどほどにしないと、そのうち足元すくわれるよ」
「相変わらず手厳しいなあ」
フェイタンはただじっと、待つしか無かった。待つ間に想像した。自分の姿を見た瞬間、はどんな反応を見せるだろうか、と。
恐らく喜びはしないだろう。驚愕の後に、憎しみを滲ませたような顔を見せるのだろう。フェイタンが最後に見たは、絶望の内に魂が抜けたように見えたし、まるで人形のように無表情だった。それが、しばらく離れている間に人間らしさを取り戻していれば――例え果てしない憎しみをぶつけられたとしても――それだけでいいとも思えた。
会いたかった。一目見たいと、もう何日も彼女の姿を頭に思い浮かべつづけてきた。それがやっと、今日で終わるのだ。
フェイタンが拒絶されても構わないと思うのは、彼がどこまでいっても強者であるからだった。いくら拒絶しようと、は自分から――蜘蛛から逃れられない。彼女はどこへ行こうと、蜘蛛と対等に渡り合えるほどの力を手に入れない限り、永遠に囚われの身だ。再開を果たしてからその間までは、ともう、離れることはないだろう。
そして今度は、自分の気持ちを伝えてみよう。愛していると言って、を抱いてみたい。いくら拒絶されようと構わない。繰り返せばきっと、彼女はオレを愛するようになる。今度こそ、オレ自身を。
27:傀儡
開け放たれた扉から出るといい。
は予言にあった詩を頭に思い浮かべていた。未だにネオンの予言が百発百中だなんて信じられずにいたが、この予言の週のはじめにあたる今夜は寝つけなかった。そして、念の為にと、ネオンへの別れを告げる手紙もしたためたりもした。予言が外れたら、これらの心配はすべて無意味なものになるが。
もしも本当に起こるなら? でも、開け放たれる扉というのがどこのことかが分からない。それが比喩なのか直接的な表現なのかも分からない。開け放たれる時刻――昼なのか夜なのか――についても言及が無いから、いくら身構えてもきりがない。もしも、外部からの侵入に適した深夜の内の話なら、開け放たれる扉というのはこの部屋と廊下を繋ぐ扉のことだろう。だけどまさか、そんな。その扉には外から鍵がかけられている。ネオンの部屋と私の部屋の間には鍵はかかっていないけれど、ネオンの部屋の廊下に通じる扉も同じように外から鍵がかけられている。一体誰が、何のためにそんなことをすると言うんだろう。
詩に出てくる登場人物についても謎が多かった。青い鳥、予言者、主、マリオネット、山羊。青い鳥というのが恐らく自分のことで、予言者というのはそのままずばりネオンのことだろう。けれど、他にはまるで見当がつかなかった。後半の表現も理解ができなかった。全体を通して概ね言えるのは、予言の通りおあつらえ向きに開け放たれた扉から逃げ出せば、恐らくノストラードファミリーは自分を追いかけまわしはしないだろうということだ。
逃げるか、否か。
無論、逃げ出してしまいたい。けれど、恐ろしくもあった。逃げだした先で待ち構えているのが誰かが分からないからだ。まさか、裏に何も控えていないわけがないと思った。主というのが、恐らく裏で糸を引く者のことだろう。だからと言って臆すあまり、千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。逃げなければ私は一生、誰かに飼われ続ける愛玩人形で居続けることになる。そんなのは絶対にいやだった。
ただひとつ、思い残すことはある。ネオンだ。彼女と、別れの言葉ひとつも無しに離れ離れとなるのは嫌だった。だからと手紙も書いた――何故逃げたか。それについて、簡単に私の人生について今まで言っていなかったことを書いた。決して、ネオンとの生活が嫌になったわけではないと――し、何も無いよりはましだろうと私は思うが、ネオンは怒ったり、もしかすると悲しんだりするかもしれない。それに、もしも自分が本当にこの屋敷から脱出できてしまうとしたら、彼女はまたひとりぼっちになってしまう。
けれど、孤独がなんだ。それは私も同じこと。孤独に一歩を踏み出すか、留まるかの違いだ。いずれ、別れは訪れただろう。それが少し早まっただけだ。私には、進まなければならない理由がある。私には、乗り越えなければならない過去がある。強くならなければならない理由がある。こんな安全な鳥籠に、長く留まるわけにはいかないんだ。
そう決意を固め、深呼吸をし、目を閉じたその時、廊下にある置時計が12時の鐘を打った。同時に、廊下に面する扉が静かに開いた。
「。……来るんだ」
クアドロだった。ついている明かりは、ベッドサイドに置いたランプひとつ。表情まで良く見えなかったが、確かに彼の背格好で、彼の声だった。はベッドから抜け出して、寝間着――白いシフォンのワンピース――のまま扉へ近づいた。胸が高鳴った。
予言は、本当だった!
は自室から抜け出した。クアドロはついてこいと言ったきり、一言も喋ろうとはしなかった。も、喋らない方がいいと考えた。誰が裏で糸を引いていようと、今なすべきはこの邸宅からの脱出、それに限る。覚悟を決めたは、後ろを振り返ることはしなかった。ただ黙って、クアドロの後についていく。
クアドロはことごとく、扉と言う扉の鍵を一切手間取ることなく開けていった。開ければ、通り抜けたそばからオートロックが背後でがちゃりと鳴る。その繰り返しの後、はこれまで一度も通ったことのない倉庫を抜け、一度も足を踏み入れたことのない地下へと下り立った。そして、しんと静まり返った地下の駐車スペースに出る。と、同時に、人感センサーで点灯する、扉付近に設置されたライトがふたりの姿を照らした。はびくりと身体を震わせたが、クアドロはたじろがなかった。足を止めたの腕を軽く掴むと、ライトが消えた後の闇の中を先導した。
庭にはスクワラの従える犬がいるが、クアドロには吠えなかった。のことも危害を加えてはならないと命令されているのか、犬たちは唸り声のひとつも上げなかった。こうしてあっけなく、鉄柵の前までたどり着いてしまった。クアドロは、門柱にある電子制御盤の蓋を開け、ピ、ピ、ピと音を鳴らしながら暗証番号を入力していった。最後にエンターと書かれたボタンを押すと、静かに門扉が開きはじめる。
「クアドロ……どうして私を――」
ここで初めて、はクアドロの顔を見上げた。丁度、暗雲の隙間から月明りが射し、彼の表情を見ることができたのだ。見えた瞬間、はぞっとした。虚ろで、焦点の会わない目。人としての意思が感じられない、人間味のないクアドロ=ラーメン。彼は、ノストラードファミリーの雇われハンターの中では最も人間味があって、優しくて、面白い人だった。けれど今目の前にいるのは、その人ではない。その人の体だけがそこにある。これ以上何か問いかけても、恐らく答えは返ってこないだろうということが分かり過ぎるほどに分かった。
はごくりと喉を鳴らし、クアドロの姿を視界に収めながら、ゆっくり後ろ歩きに門扉を通り抜けた。するとすぐに、中途半端に開いていた鉄柵でできた扉が閉まり始め、クアドロは門柱にもたれて座り込み、それ以上動かなくなった。人間に何かを命じられ、役目を終えたロボットが動かなくなるように。
誰が彼を操作したのか。当然起こる疑問をそのままにして、は駆けた。木々に囲まれた一本道を、屋敷とは反対の方向へ、ただ駆けた。一心不乱に、走り、走り、走った。これほど夢中になって長時間走るのは、後にも先にももうこれっきりだろうと言う程に。どれだけ走ろうとも、進行方向の景色は変わらない。だからといって、後方は怖くて振り返ることができなかった。誰かが追ってきていやしないかと、恐ろしくてたまらなかった。
もう心臓が限界を迎えて爆ぜ散りそうだと思い始めた頃――1㎞か、そこらは走った感覚があった――走りながらも、初めて後ろを振り返った。屋敷は見えなくなっていた。後ろから追いかけてくる人影も、車も、そのような音も何も聞こえない。聞こえるのは、バクバクとすごい速さで全身に血液を送り続ける自分の心臓の音と、走る自分の足音だけだ。安心して、は少しスピードを緩め、進行方向に向き直った。
そしてすぐに、は心臓が止まる思いをした。十数メートル先に人影が見えたからだ。つい先ほどまで、絶対にいなかったはずの人の姿が。筋骨隆々の男が立っているわけではない。線は細く、身体はマントのような服で覆われている。だから、通り過ぎようと思えばできそうなものだけれど、何か言いようのない、目にも見えない圧迫感を覚えてはすぐに足を止めた。
息を荒げ、上体を前に傾けながらも、視線だけはその人影に向けていた。だが、瞬きの間に、確かに見ていたはずの人影が唐突に消えた。左へ、右へとせわしなく目玉だけを動かして、人影を探した。見えない。消えた? 言いようのない恐怖に苛まれている内に、のすぐ目の前に、まるで幻影のように人が現れた。その人の起こした旋風が、髪を、こめかみから下へ流れ落ちようとしていた汗を、後ろへと流した。
「……ワタシのこと、覚えてるか」
静かな声。覚えている限りだと、恐らく初めて耳にする、優しい声。
「」
男は糸目をさらに細めて、愛し気に名を呼んだ。鼻先と鼻先が触れ合うほどの距離で。は呼吸を忘れ、大きく見開いた双眼で男の顔を見た。男の名を呼ぼうと口を開いたのと同時に、男の唇がの唇に重なった。