囚われの青い鳥




 人が殺される現場を見るのは初めてでは無かった。国に連れ戻そうとやってきた黒尽くめの男がフェイタンに殺される様を見ていた。自分が死にかけていて痛みでどうにかなりそうだったのと、先生が生きているかもしれないと聞かされ気が動転していたのと、そのニ回だ。自分のことでいっぱいいっぱいで、人の生き死にに気を配っている暇は無かったのだ。

 だから気付かなかった。人を平然と殺してしまえる精神構造の、その悍ましさに。は両手で口を抑えかがみ込み、こみ上げてくる悪心を必死に抑えた。

「ウボォーギンを殺そうと思ったら核爆弾くらい持ってこないと。ライフル弾ですら傷一つつかないから、彼を殺すのは諦めた方がいいよ。さ、早いとこお金出してくれる?出さないならは連れて帰るよ」

 シャルナークはあっけらかんとそう言ってのけた。仲介人の男は目を大きく見開いたままその場に立ち尽くしていたが、脳内での情報処理が現状に追いつき始めると同時に手足をわななかせはじめる。

 またたく間に圧倒的な力と恐怖が場を席巻した。

 静まり返ったその場に不釣り合いな笑顔を浮かべ、シャルナークは仲介人へ向かって歩き出す。のすぐそばにまでやってくると、彼女には見向きもせず、テーブルに手をついて向かいに突っ立ったままの仲介人を見据え、続けた。

「で、十五億出すの?出さないの?」
「さっさとしねーと、ここにいる全員やっちまうぜ?」

 正直な話、こんな手応えの無い手合いを相手取って暴れたところで楽しくも何とも無いが、シャルナークの用心棒として何事もなく事が運ばれるよりはマシだ。ウボォーギンは気だるげに首を掻きながら、自分を囲む全員の顔を見渡した。

「情けねーなぁ。全員、今にもしょんべんチビリそうって顔してやがる」
「あー、ごめんね。ウボォーのやつ、根っからの武闘派でさ。暴れたくってウズウズしてるんだ。それはそうと、こっちだってあんた達全員をやってしまえば金も奪えても連れて帰れ――」
「わ、分かった!分かった。出す。出すよ、十五億……!」

 仲介人は慌てて部下に指示をして、大きなアタッシュケースをもう一つ持ってこさせた。

「あるなら最初から出して欲しいな、まったく」

 そんな小言ひとつにすらびくついて、仲介人はごくりと喉を鳴らす。怯えきった彼を見てシャルナークは乾いた笑いを漏らした。愉快愉快。愉快といえば、この大きなアタッシュケースに詰め込まれた札束もだ。これはこれで大きな収穫だ。シャルナークはすべてのケースの中身をしっかりと確かめながらニコニコと屈託のない笑みを浮かべた。

 はシャルナークを呆然と眺めながら、悍ましいと思ってすぐ、それとは真逆の羨望心を抱き始めていた。思い返してみれば、自分は彼ら幻影旅団の脅威を目の当たりにしながら、その力に何度も救われている。国の追手に二度攫われそうになったときはフェイタンが助けてくれた。囲われていた例の湖からいつの間にか抜け出せるようになったのも、恐らくフェイタンとシャルナークのおかげだろう。

 国に囚われ、島に囲われ取り残され、その内に得たものと言えば、医学の知識と、病人や怪我人にほどこす簡単な処置だけ。飼いならされ、平穏な日常を過ごしていられたのならそれはそれで良かったかもしれない。知らなければ、それで良かったのかもしれない。

 だが、自分は知ってしまったのだ。先生を――クリムゾン・リュービを殺した祖国の陰謀と残虐行為を。今もなお、耳に貼り付いて忘れることすらできないあの断末魔。それこそが最も悍ましい。だから、力が欲しい。

 ――祖国の、諸悪の根源を取り払えるだけの力と知恵が欲しい。

 はこの惨状に立って初めて、そう固く決意した。

「ん。カサ増しもないし、偽札とかでもなさそうだ。……じゃあ、オレたちはこれで帰ります」

 ウボォーギンは血塗れの右手を、殺した男が身につけていたシャツで拭うと、テーブルの上に三つ並べられたアタッシュケースへ向かって歩き出した。彼もまたには見向きもせずに荷物を取り上げ、そのまま出口へと向った。

「じゃあね、ちゃん。元気でね」

 シャルナークはへ別れを告げた。元気で。そう言われて、そちらこそ、と答えられる心理状態では無いことは言わずもがな、はにこりともうなずきもせずにただ、ふたりが去っていく後ろ姿を眺めるだけだった。

 彼らから離れてしまう。それは、フェイタンとはもう二度と会えないということだ。フェイタンとの繋がりは、今完全に断ち切られた。覚悟を決めたの心を最後に一度だけちくりと刺して、二人の背中は森の闇に消えていく。

「クソっ……あいつら、一体何者だ!?おいお前ら!その死体を片付けておけよ!……ああ、飯が食えなくなりそうだ」

 スーツを着た仲介人は悪態をついた後、の手首を掴んで倉庫の奥へ引き連れて行った。は後ろを振り返らなかった。

 ――全ては先生の名誉のため、そして祖国の同胞のために。覚悟を決めたの目は、絶望を超えた先で輝き始めていた。






21:羨望







 一体、これからどこに向かうのか。がそうたずねても、仲介人は「それを知ってどうする?」と言い返すだけだった。それきり、は黙っていることにした。

 確かに聞いたって仕方のないことだ。そう思った。恐らく、言われたところでそれが地球上のどこに位置する場所なのかすら自分には分からないだろう。地の利など何もない未知の場所で逃げ果せるために必要な情報では無い。それに、話せば話すほど、仲介人の心証を悪くすると思った。ただただ従順に、反抗する気など微塵も無い、人形とでも思わせておくのがいい。そうやって逃げる訳がないという先入観を抱かせ、皆が油断した隙を狙うのだ。

 車は暗い森の砂利道を走っていく。大型バンのトランクに手錠をかけられた状態で乗せられたは、同じく大型で黒塗りのSUVに前後を挟まれて目的地に向かって運ばれていた。

 森を抜けた後、飛行場にでも連れていかれるのだろうか。まさか、大金持ちが邸宅を構える街中――郊外に大豪邸を構えている可能性もあるだろうが――にまで、この物々しい雰囲気を醸し出しながら黒塗りの車で行くようなことはしないだろう。きっと途中で飛行船か何かに乗り換えたりするんじゃないか。大金持ちなら外面を気にするだろうし、ギャングと取引をしているなどと知られたくはないはずだ。幾重にも仲介人を挟んで、まるで養子でも引き入れたかのように偽ったりするんじゃないか。そして、不法に手に入れた物と知られないように、地下牢か何かに軟禁か、最悪監禁されるんじゃないか。

 ――愛する人に囚われるのならば幸せだ。けれど、愛してもいない、好きにもなれないような人間に自由を奪われるくらいなら、死んだ方がマシだ。どうやっても出られない金庫のような場所に隔離される前に、何としても逃げ出さなければならない。運ばれている間に、何としても逃げ出さなければ。

 舗装も管理も何もされていない深い森の中の砂利道をバンは進んでいく。ガタガタと揺られながら三時間ほどかけて山を下りたところで、車はバンガローが建ち並ぶ小さなキャンプ場へ入っていった。車から下りたギャング達は窓を割りバンガローへ侵入していく。どうやらここで小休憩を挟むらしい。だが、は外に出してもらえる訳もない。仲介人の男は車を運転していた部下の男にの見張りを任せると、彼もまたバンガローの方へと向かって行った。

 監視を任された男は、運転席に座ってバックミラーでを見ていた。は外の様子を伺っていると知られないように、目だけを動かして窓の外を見やった。月明かりに照らされた限りで分かったことだが、キャンプ場は案外開けていて広かった。外に出られたとしても、森の中へと逃げ込む間に捕らえられてしまうかもしれない。

 今度はちらと横目で運転席を見やった。バンのバックドアには外から錠がかけられている。トランクと運転席は仕切られていて、逃げ出せる出入口など無い。だから気を抜いているのか、男はバックミラーを見ることもせずに運転席でうとうととしはじめていた。

 トイレに行きたいとでも言って外に出してもらい、監視役の男のスキをついて逃げられないだろうか。そう何度も使える手ではない。チャンスは一度きり。

 ――は意を決した。運転席とトランクを隔てる仕切りに身を寄せて、アクリルの窓を拘束された手でノックする。

 驚いた男はびくりと体を揺らし、煩わしそうにへ返事をした。

「何だ。どうした」
「お手洗いに行きたいの」

 はあ、と深い溜息をつくと、男は運転席から降りてバックドアへ向った。観音開きのドアの取手に取り付けられた鎖と錠を解くと、太もものホルスターに備えていたピストルを抜いてゆっくりと扉を開ける。

「少しでも変な真似をしたら撃つからな」

 そう言われては無言で頷いた。男は撃つ、と言ったが、彼らにとって自分は大事な商品だ。カスタマーの手元に届く前に傷物にするはずがない。元より、死ぬ覚悟だってできているのだ。何も怖くない。

 は頭に銃口を突きつけられ、手錠で拘束された腕を後ろで掴まれた。をトランクから降ろした男は周辺をぐるりと見渡した。ぱっと見たところ、キャンプ場のくせに共用のトイレらしい建物が見当たらない。バンガローの中にならあるだろう。だが、完全にオフシーズンの今、キャンプ場の水なんかはきっと止められているに違いない。――色々考えるのが面倒になり、男は森の方へ向った。バンガローが並ぶ方向とは逆の、森の方だ。

「私、見られながらしなきゃならないの?」
「辛抱しろ。こっちだって仕事なんだ」

 そう言う男が一瞬見せた表情に、はすこしばかりのスキを見出した。フェイタンに例の湖に浮かぶ孤島から連れ出される前にの体を好きにしていた国の追手が、彼女の体に触れる前に見せた表情と一緒だったのだ。皆が寝静まっている間に、鬱憤を晴らそうという魂胆が透けて見えた。それはには好都合だった。



 用を済ませた後身なりを整えていると、背後で見張っていた男はいつの間にか自身のものを取り出してしごいていた。ついでに自分のも処理してくれと突き出されたそれを、は黙って咥えた。銃口は額に当てられている。立ったまま木の幹に背中を預けた男の反り返ったペニスを、根本から先端に向かって丹念に舐めあげていく。長時間の運転のおかげか、汗で蒸したにおいが不快だった。

「……ッ、ああっ!……いい、な。見かけは清楚っぽいのに、ひどくやらしい舌遣い、してるじゃねーかよ……。一体、誰に教わった?……ん?」

 は、男が絶頂を迎えるその時を狙っていた。額に突きつけられた銃を奪い取る時間を作ろうとしていたのだ。

「手も使えよ。手首が不自由でも、できるだろ?」

 この助言も好都合だ。早く達してほしかった。逃げ果せるためとは言え、好きでも無い男に口淫で奉仕するなど不愉快極まりない。それでも今は我慢しなければと、は一心不乱に手と頭を動かした。

「あっ……クソ、もう、いっちまいそうだ……!」

 男は身をかがめての頭を抑えつけた。そしてすぐに、彼女の口の中に収められた男根が脈打って、熱い白濁を喉の奥へと吐き出した。瞬間、腰が砕け、四肢に力が入らなくなった男は銃をおろし、銃口を地面へと向けた。そのスキをは見逃さなかった。

「――っ!?て、てめぇ……!!」

 は男から奪い取った銃を構え立ち上がると、その銃口をズボンも下着も下ろしたままの情けない格好でいる監視役の男の胸部に向けた。は喉の奥で留めていた男の体液をなるべく舌に乗せないようにして吐き出した後、引き金に右手の人差し指を乗せた。

 男を殺して、森の中へ逃げるか。――いや、発砲音に気づいた仲間が駆けつけて追ってくるだろう。このまま男を脅して車を運転させ、どこか遠くまで逃げるか。――そっちがいい。

 は極度の緊張で震える手を制御しようと、しきりに唾を飲み込んで乾いた喉を潤した。その緊張が相手にも伝わってしまったのか、最初こそ怯えていた男だったが、次第にその顔に笑みを浮かべ始める。そして腰を折って下着とパンツを引き上げようとする。

「う、動かないで!!撃つよ!!」
「ははっ。……嬢ちゃん、銃を使ったことなんか一度だってねーんだろ?」
「……ッ!?」

 男はの脅迫を無視して身なりを整え始めた。は震える手の汗で滑りそうになるグリップをしっかりと握りなおし、引き金を引けと脳で命令する。だが、人差し指はピクリとも動かない。

「抜くのは上手くても、撃てなきゃあ意味ねーよな。ああ、わかってる。誰も上手いこと言え、なんて言ってねーってことはよ」

 は銃を構えたまま後ずさる。後ずさる彼女を追って、男はゆっくりと距離を詰めてくる。何故この男は向かってくる?撃たれるかもしれないのに、どうして。は混乱していた。

「なあ嬢ちゃん。あんたが銃を撃ったことねーって言ったのは、当てずっぽうでもなんでもねぇんだぜ。その、いわゆる自動拳銃ってのは、簡単に弾を打ち出せねーように安全装置ってもんがついてるんだ。嬢ちゃんはオレたちの大事な商品だ。傷物になんかできねーし、うっかりどたまに風穴を開けるわけにもいかねー。脅しのために頭に突きつけてる銃の安全装置を、解除してるワケがねーんだよ」
「ち、近寄らないで!!」

 男は徐々に速度を上げてに近寄った。尚も後ずさりしながらは必死に引き金にかけた指を動かすようにと命令する。男の体が目前に迫った頃、やっとのことで引き金を引く事ができたが――銃は撃鉄を起こさず、弾を射出しなかった。かちゃかちゃと、乾いた音が静かな森の中で響くだけ。

「残念だったな。最も、お前にはその左足首に取り付けたバンドの発信機がある」

 は男に指差された足元を見る。簡単に取れそうにない黒いシリコン製のバンド。その脛側の表面で赤い光が明滅を繰り返していた。

「だから逃げた所で、逃げおおせはしないぜ」

 はその場にくずおれた。そして男に頭髪をむしらんばかりに掴まれ無理やり面を上げられた。

「まったく。ひやひやさせやがって。……まあいい。フェラチオの上手さに免じて、折檻はなしってことにしておいてやるさ」

 またバンのトランクに逆戻り。はやるせなさにボロボロと涙をこぼした。私はなんて無知で無力でどうしようも無いんだろう。逃げると決めた覚悟とは一体なんだったのだろう。

 やがて監視役を交代してやる、と男の仲間がやってきた。便所に行きたいと言って逃げ出そうとしたから気をつけろよ、なんて言って男はバンを離れていく。

 代わりに監視役を務めようという男が運転席に乗り込むと、ちらとバックミラーでの姿を確認した。運転席に背中を向けて、ひくひくと体を揺らしている。そんな彼女の姿を見て、男はふんと鼻を鳴らして嘲笑した。