ここのところ自身の感情も、自身を取り巻く環境も目まぐるしく変わり続けていたために、の精神は疲弊を極めていた。
最初は、人形の様に、何も考えずにやり過ごそうと決めた。けれど、彼女の心はフェイタンを思わずにいられなかった。そんな気持ちを同じ女性に吐露することで何か打開策やヒントのようなものが得られるのではないかと思ったが、それはとんでもない間違いだった。マチは同じ人間の女性という大枠のカテゴリ以外で全くと一致していない女性だったからだ。そんなマチとの会話で気づかされた自分の力の無さ。なぜこんなに逼迫した状況に陥るまで、そのことに気づけなかったのかと後悔はしてもしきれなかった。そして、後悔しても仕方ないと前を向いてみても、彼女の進む先には、すぐそこにぽっかりと“絶望”という穴が空いている。
そんな折り、クロロは彼女自身の話に興味を示してきた。何を話せばいいのやらと最初は戸惑いもしたが、自分がこれまでどのように生きてきたのか、それと過去の楽しかった思い出を話す内に少しだけ気は紛れた。しかし、その過去がどんどん現在に歩み寄るにつれて、胸がキリキリと痛んで喉の奥に何かこみ上げてくるような感覚に襲われた。気分は最悪だった。そしてクロロは、がリュービとフェイタンが似ていたことについて話した途端、気味が悪いほどに高揚した様子で部屋を出て行った。
―――フェイタンのことを好きになってしまったんだよな?
記憶が正しければ、それは疑問形で終わったはずだとは思い返した。しかし、クロロは答えを聞かないまま颯爽と部屋を出て行ったのだ。最初は一体何が起こったのかと訳が分からなかったが、次の来訪者の出現によってクロロの言動の意図が、全容では無いにしても理解できた気がした。
来訪者、つまりフェイタンが、まるでクロロと入れ替わる様に現れたのだ。
(私のこと・・・何とも思ってないくせに!もう会いたくなんて無かったのに!!)
彼の行動にはある種一貫性があるように感じられた。それは、彼女が彼に出会ってから現在に至るまで変わらない。団長の、つまりクロロの言う通りに動いているということだ。きっと今も、団長に言われて来たんだ。これも仕事の内だ。あたかも本心で言っているように見せかけて、懐柔でもしようと企んでいるんだ。
フェイタンにはクロロの習性を聞いていた。“お宝を思う存分鑑賞し終えたら売り払う。”それに例外は無いんだろう。だから今は、自分のことを鑑賞している最中。自分があまりにも暗い顔をしているもんだから、まやかしでも蜜を与えてやって―――幸せな気持ちを味合わせてやって、自分のことを鑑賞しつくして、その後に売り払おうって思ってるんだ。
(何でも自分たちの思惑通りになるなんて思わないで)
は、フェイタンに荒々しく抱かれている間、そんなことを考えていた。当然、身体にも力が入るし、少しも快感は得られなかった。そして彼の顔を見ることだけは、絶対にしないようにと目を瞑っている時間が多かった。行為が終わってフェイタンが部屋を出ていくまで、彼女はシーツで顔を覆い泣いていた。
―――もう来ないで。
ただひたすらにそれを望んでいたのに、その願いは叶わなかった。
何の前触れも無く、は、彼の姿を見るなり枕へ突っ伏した。息苦しくはあったが、胸の苦しさの方が上だった。
「団長に言われたよ。殺す以外ならお前に何してもいいて」
は返事をしなかった。息苦しくなってきたので、部屋の入口とは逆の方に顔をそむけ、フェイタンに何を言われても絶対に反応しないでいると決心した。
「ずっと一緒にいていい。自分の部屋に連れ込んでもいい。そう言われた」
フェイタンは少しも返事をしないに対して苛立つ素振りも見せず、静かに彼女の傍に近寄りスツールに腰を下ろす。ベッドサイドの小さなテーブルに持ってきた食事を置くと、自分に背を向けるへ静かに語りかけた。
「団長の目的を教えてやるよ。団長はお前を喜ばせようとしてる。何でも、お前の悲しみに暮れた瞳を見るのに飽きたらしいね。何とかしてお前に笑て欲しい言てた」
(そんなの無理に決まってる。絶対に笑ってなんかあげない)
「だから、お前が大好きな先生に顔だけ似てるワタシに、お前のこと喜ばせようとしてる。で、喜んだお前の瞳を見て一通り楽しんだらすぐに売り飛ばすつもりね。わかたか?。お前がワタシから―――ここから早く逃れたかたら、笑えばいいね。逆にワタシと永遠に一緒にいたいなら、笑わなければいい。ああ・・・でももう無理ね。お前の心はたぶんもうボロボロ。笑うなんてできるはずない。別にワタシのことどう思おうかなんてもう関係無いよ。ワタシはお前をワタシの好きにするし、お前も好きにしていい。ただ、もし長いこと笑えなければ、痺れを切らした団長がどんな行動に出るかまでワタシには分からないよ」
フェイタンはそう言い終えると、おもむろに皿を手に取って食事を始めた。ブイヨンの効いたなかなかに旨いピラフだった。別に冷凍食品という訳でもないそれは、シャルナークの十八番。彼が料理をすると決まってそれが出てきたのだが、どんな職人技なのかパラパラと口の中で解けるそれはプロ級の舌触りと味だ。食の細いフェイタンも決まって残さずに食べた。
は相変わらずフェイタンに背を向けたままだった。先程のフェイタンの言うことが、自分の想定していたクロロの思惑と一致していたということは分かった。
だが、だから何だと言うんだろう。先程、絶対に屈さないと心に決めたばかりだと言うのに、フェイタンの言葉を聞くとその決心もすぐに揺らいでしまいそうだった。
笑っても、笑わずとも結局自分に未来は無い。そのことに変わりは無いんだ。
そしてフェイタンの指摘する通り、自分はもう心から笑えそうにない。意固地になってフェイタンを拒絶しても、疲れるだけだ。
は体を起こすと、フェイタンの方を向いて、すぐにテーブルの上に置かれた食器に手を伸ばした。
ふと思った。
(・・・食べなきゃいいんじゃないかな?ずっと、食べなかったらどうなる?この人たちが一番困るのは、どうすること?私がお金になる前に―――)
「フェイタン。私が死んだら悲しい?」
は伸ばした手の先にあったフォークを手に取った。そしてその切っ先を首筋に突き立てようと腕を伸ばし、一気に引いた。だが、血飛沫が飛ぶことは無かった。フェイタンが大して驚いた表情も見せずに の手首を掴み握りしめている。
「・・・いい加減諦めるね。」
「―――っ。答えて。ねえ、フェイタン。答えてよ」
「悲しいってどんなか。。ワタシ、涙なんて流したことないから分からないよ。お前かなり得意そうね。教えて欲しいよ」
「そんなの、どう、言えばいいか・・・わかんないよっ・・・」
はそのまま握っていたフォークをベッドのシーツ上に落とし、フェイタンの手を振りほどいた。
「栄養失調で死にそうになたら点滴するし、お前がどうにかして死のうとしても、ワタシがずと傍にいるから無理。諦めて、普通にしてればいいよ」
フェイタンの言う普通が何なのか、にはもう分からなくなっていた。
19:伝わらない愛
「どうも進捗は良くなさそうだな。フェイタン」
が旅団のアジトに連れてこられて3週間が経った頃、偶然リビングに居合わせたフェイタンに、クロロは苦言を呈した。フェイタンに任せた“仕事”の進捗が芳しくないためだった。
「・・・団長急がない言てたはず」
「ああ、確かにな。だが、彼女が一向に笑う気がしない」
「奇遇ね。ワタシも同じこと考えてたよ」
「このまま続けても時間の無駄なんじゃないかと、オレはつい最近思い始めたよ」
クロロはフェイタンをのパトロンに任命してから、時間のある時に彼女に面会し、“鑑賞”を続けた。しかし、彼が当初期待していた表情は得られるどころか、むしろ悪化しているようにすら思えてならなかった。
絶望に顔を歪ませていた頃が懐かしくすら感じる。は今、目は虚ろで、それこそ本当に人形なんじゃないかと思えるくらいに感情が表に出てこなかった。それはクロロと会っているときだけでなく、フェイタンが彼女と行動を共にしている間も、彼がを抱いている間も同じだった。
フェイタンは身体的には満足できていたが、精神的には彼女と共に生活するのが苦痛になりつつあった。そんな中でも、たまに会話はできたし、フェイタンが彼女を抱きしめれば抱きしめ返すようなこともあった。その少しの反応に、フェイタンは安堵したし、クロロに与えられた“仕事”をなんとか全うしようと、精一杯彼なりの優しさを見せてはいた。
「彼女と面会してるとデートDV被害者のカウンセリングでもしてるんじゃないかって気分になる」
「・・・団長。のこと好きにしろて言たの団長だたよ。それにワタシ精一杯やてる」
「ああ、そうだろうな。ただ仕事には向き不向きってもんがあるってことに気づかされたんだ。オレとしたことが・・・早合点もいいところだ」
フェイタンは顔をしかめたが、クロロの言うことに反駁の余地は無かった。確かにフェイタンには、に愛情を上手く伝えられていないという自覚があった。だが、愛してるなんて歯の浮くようなセリフを吐いても、それはクロロに言わされている嘘だと取られてしまう。へ一方的に自分の愛情をぶつける以外の方法が、彼には思い浮かばなかった。最早は、出会った頃の天真爛漫な少女では無い。世の辛酸を嘗め、絶望に打ちひしがれ、今や虚無の境地に居る。
そんな彼女をどうやって幸せな気分にさせろと言うんだ。不可能だ。むしろ自分は、団長が次の行動を起こすのを待っていたのかもしれない。もうこんなことは終わりにしたい。そんな思いを、フェイタンは心の隅に抱いていた。
「・・・彼女を売りに出す。シャルナーク、頼みがある―――」
クロロは何の衒いもなくそう言い放つと、近くでPCをいじっていたシャルナークの方へ向かって歩き出した。
クロロの言葉はフェイタンの心をほんの一瞬だけざわつかせたが、それはすぐに落ち着きを取り戻した。
仕方ない。こうなることは先刻承知だった。
だが、彼はを手放し、どこかの汚らしい買春男に渡すつもりはさらさら無かった。金さえ団長が手に入れてしまえば、その後がどうなろうと団長には関係の無い話。
フェイタンは前々から思い描いていた未来に思いを馳せる。
―――さて、彼女を本当に自分のモノとした後、どこにかこってやろうか。
フェイタンは存外落ち着いた様子で、ローテーブルに置いていたジャスミン茶を啜って一息つくと、再びの元へと戻っていった。