厚い雲が空を覆っている。今にも雨が降り出しそうな空模様。そんな陰鬱とした空の下で、はこの世の物とは思えない光景を目の当たりにした。
今までが見てきたのは、第一次産業を主に栄えてきた山間の小国に広がるのどかな田園風景、そして澄んだ美しい空気に包まれた神秘の森と湖だけだ。だが、彼女の周囲は今、見たことも無いような有機化合物や、鋼鉄製の何かに囲まれている。自然由来の物など少しも見受けられない。堆い廃棄物の山の麓からは腐卵臭が漂い、それを吸い込んだ時の不快感は直接、彼女の身体へと危険を伝える。そんなこの世の物とは思えない空気を肺に入れることに身体が躊躇していて、は足もうまく動かせないでいた。
いつまでたっても自分のあとについて来ようとしないの様子を見かねたフェイタンは、彼女を抱き抱え、目的地へと通じる塵芥に埋もれた隘路を進んでいく。
ここは流星街。何を捨てても許される、無法地帯。もはやその存在は都市伝説とされるほど、世界中の人々には忘れ去られた場所。土壌汚染など気にも留めず、そこに住む人々は捨てられていくすべての物を受け入れる。
こんな場所に、人がいるのか。とは思った。彼女にはとても、この街が街と唱っていい程に、人が住める環境にあるとは思えなかった。だが驚くことに、自分を“団長”と呼ばれる人間の元に届けようと抱きかかえた男の足は、確実にその中心部へと向かっていく。
「ここがフェイタンの故郷なの?」
「そうね。・・・団長がホームで待てる。急ぐよ」
そう言って、フェイタンはを抱きかかえたまま、不安定な瓦礫を足場に道なき道を駆け抜けていった。
15:振り切る思い
然して急ぐような素振りを見せない盗賊の2人は、月明りがほとんど届かない深い森の闇に恐れることなく、ゆっくりと歩みを進めた。フェイタンはの歩調に合わせ、彼女の顔色をすぐ隣からちらと伺っていた。フェイタンが彼女に、彼女の愛する師を殺したと伝えてから、もう1時間は経過しているのだが、その間彼女は少しも口を開くことなく盗賊に追従している。
何故、リュービを殺したのか。
きっとそれをフェイタンに問わないのは、薄々リュービが瀕死の状態で生かされていたということに納得しているからなのだろう。だが、その光景を見たわけでも無い彼女が、尊敬以上の情を抱いた男を救い出す術は本当に無かったのだろうかと思惑するのも無理は無い、とフェイタンは分かっている。しかしながら、やはり彼の脳裏をちらつくリュービの存在がとても気にくわなかった。自分の手で彼の命を摘み、自分に酷似した彼の顔面をその足で踏みしだくことで晴らしたはずの鬱憤は、の記憶からリュービの存在を消さない限り際限なく沸き起こるのだと、フェイタンはこの時初めて気づかされる。
下唇をキリと噛みしめた彼は怒りを収めようと深呼吸する。嫌に澄んだみずみずしい空気が彼の肺を満たしたのとほぼ同時に、がポツリ、ポツリとフェイタンへ言葉を投げかけ始めた。
「フェイタン・・・。先生、苦しそうだった?」
「・・・それを聞いてどうするか」
「どうもしない。聞いたって、無駄なのはわかってる」
「別にあいつが苦しそうだから救てやろうなんて、思たわけじゃないよ。でも、確かにあれは苦しそうだたね」
ではなぜ、彼が生と死の境を何度も往復させられていたのか。なぜそんな惨たらしい拷問にも似たことをさせられていたのか。フェイタンは先程家屋の中に足を踏み入れた時、男の口から“クルタ”と発されたのを聞いていた。なので、その理由もは今理解しているだろう。つまり、は恐らく、リュービがクルタ族で、所謂黒朽化現象なるものを食い止めるため何度も生と死の境を彷徨わされていたということを理解している。
幸いシャルナークがまだ島へ降り立つ前のことだったので、とあの間男がどんな会話をしていたか彼は知らない。頭のキレるシャルナークのことだ。リュービが何故組織の人間に囚われて生かされていたのか、その真の理由を知れば、フェイタンがリュービを殺したことが団長への裏切りだと追及されかねない。それはとても面倒だし、実際団長にもそれは知られたくない。
そもそも、パーゴスウェイ人をひとり略奪するという命以外受けていないので、そこまで気にすることではないのかもしれない。だが、リュービを殺さなければならないと思ったのは、を殺してしまえばいいという結論に団長が至らないようにするためだ。を只の“宝物”とする技術が、リュービを生かしたままにすることで確立してしまえば、遠からぬ未来にが殺されてしまうと危惧したからだ。それはを、愛してしまったから。あろうことか、団長の求める物を愛してしまったからなのだ。それ自体が、彼がこの世界で唯一尊敬する団長に対する裏切りだと、フェイタンは思っていた。
フェイタンは、の口元を注意深く観察した。次にどんな言葉を発するのか・・・。
「そっか・・・。ありがとう。フェイタン」
はそう呟いた後から、流星街の入り口にたどり着くまで一言も喋らなかった。歓迎すべきことではあったが、フェイタンはその間悶々としていた。きっとは、リュービのことを考えているのだろう、と。ただ、これからはそんな思いを彼女の前で口にすることも許されない。態度に出すこともだ。は、団長に差し出さなければならないのだから。
流星街にも中心となる都市はあった。もちろん、ヨークシンのような煌びやかな大都会という風景では無いが、最も多くの人間が集まって生活している所謂コロニーがある。その中心部から少し外れた所に、幻影旅団のホームがあった。
ゴミ山に囲まれたそれは、一見ただの廃屋だ。しかし、何千年も前からただの廃棄場として扱われたこの土地に、2階建てのそこそこ大きいコンクリート造の建物という文明の産物があることには、この建物に陣取る旅団の面々ですら違和感を覚えていた。両開きの分厚い木造の扉がはめ込まれた玄関。その前に着くと、はフェイタンの腕から降ろされる。押された扉の向こうに入るよう、フェイタンに促された彼女は、恐る恐る敷居を跨ぎ、薄暗い建物の中で目を凝らした。吹き抜けの天井と、二階へと続く階段、目の前の開けた廊下。その突き当りには小窓がある。右手には大広間でもあるのか、玄関と同じような両開きの扉が設置されている。外とは違い整然とした様子の内部。ひんやりとした空気は外の空気と違い、心なしか澄んでいるいるように感じられ、はやっと深呼吸ができると安堵した。
「フェイタンお帰り。団長が2階で待ってるよ」
フェイタンが後ろ手で玄関の扉を閉めた時、吹き抜けの上階の柵から身を乗り出したマチが彼にそう伝える。どうやら、一足先にホームへ戻ったシャルナークが、を入手したことだけは既に伝えているようだ。いよいよ、を引き渡す時が来た。
「・・・そんな不安そうな顔、しなくていいね」
ただでさえ慣れない環境で、しかも知らない場所の知らない先住民の女性に一瞥されたのでは、不安になるのは当然だと訴えたい気持ちでいっぱいになっただったが、別に取って食おうっていうんじゃないとフェイタンに諭されると、不思議と安心できた。しかし、すぐに次の不安が彼女を襲う。
「ねえ。フェイタン。・・・私、もうフェイタンには会えないの?」
上階へと上がろうとするフェイタンの手を、はとっさに掴んだ。
「私、言ったよね。フェイタンのことが好きだって」
縋るように、悲愴な面持ちで吐き出されるそれは、彼女を手放さなければならない彼にぶつけるにはあまりにも残酷な言葉だった。フェイタンはあふれ出しそうになる劣情を必死に抑えようとして、乱暴にの肩を踊り場の壁に押し付けた。鼻先同士が触れ合うほどの距離で、フェイタンは言った。
「ワタシも言たはず。お前に今後会う会わないも、ワタシが決めることじゃない。団長がお前を売れと言えば売るし、殺せと言えば殺す。それだけのこと」
冷徹な視線に射貫かれ、は言葉を詰まらせる。
は知らない。フェイタンが自分の感情を押し殺すために、敢えて距離を置こうとしていることを。彼がを抱いたのが、確かに彼女を美しいと思い、自分の物にしてしまいたいという独占欲に突き動かされた結果だということを知らない。それはフェイタンが今まで一度も、彼女に対する彼自身の思いを口にしていないからだ。
は少しだけ期待していた。自分を抱いた男に、少しは私を好きだと思う気持ちがあるのではないかと。そして、そんな思いが、この局面で少しでも吐露されるのではないかと。しかしそんな淡い期待は簡単に打ち砕かれる。いくら好きだなんだと宣っても、この男には響かない。上司に殺せと言われれば簡単に殺してしまえる。私はその程度の存在なんだ。
はそれ以上何かを口にすることなく俯いた。フェイタンは、自分の手首からゆっくりと離れそうになるの手を乱暴に掴み、団長の元へ向かうため階段をのぼっていく。は大人しく彼の後を着いていった。
「団長。入るよ」
コンコン、コンと扉をノックした後、フェイタンはドアノブに手をかけた。ガチャっと音を立てて扉を開けると、先に部屋に入る様にを促す。彼女は、間口に立ち、中の様子を虚ろな目で見た。
10畳程の空間には、ソファーとローテーブル、書棚にベッドと必用最低限の物が置いてあるだけだった。入り口と向かい合う形で設置された3人掛けのソファーに、団長と呼ばれる男が本を片手に静かに腰掛けている。艶のある短い黒髪を、額の中央で分けた、色白の綺麗な顔をした男性だ。額には十字架のようなタトゥーが見える。はフェイタンに背中を押され、男が腰掛けるソファーの傍に近寄った。
「ようこそ。。オレはクロロ。今回、君をここに連れてくるようフェイタンに言った張本人だ。よろしく」
そう微笑んで差し出された手。
今はもう、この手にすがるしかない。生きるため、気に入られて、飽きられないように、酷い扱いを受けないように、必死に・・・。
微笑みかける目の前の男性に、微笑み返すべきだと分かってはいた。しかし、の心は既に疲弊しきっていた。今しがた最後の希望も打ち砕かれたばかりだ。笑顔を作ったはいいが、その表情に似つかわしくないものが、とめどなく瞳からあふれ出ていく。
「よろしく、お願いします・・・」
そう言って手を差し出すの声が震えているのは、フェイタンには分かった。しかし、だからといって彼女を慰めるために抱きしめることなどできはしない。
「それじゃあ団長。ワタシ戻るよ」
「ああ。ご苦労だったな、フェイタン」
クロロの自室を出たフェイタンの後姿を、の視線が追う。扉が閉じられた後も、クロロが話しかけるまでずっと、はフェイタンの姿が消えた向う側を見ていた。クロロはこの時、二人の間に何かあったことを悟ったが、今は知的探求心の方がそんな関心事を上回る。自分が求めていたものが今、ここにあるのだ。
「・・・。こっちを向いてくれないか」
クロロは立ちあがって、の頬を両手で掬い上げる。クロロの親指が彼女の頬を滑る涙を拭った。
「なんて・・・綺麗なんだ」
死んだら価値が無いのだから、殺されはしない。でもどうだ。肉体的に死ななくても、愛する者を失った今、生きる希望も何も見出せない自分は、死んだも同然なんじゃないか。ならばもう何も考えず、何も期待せず、物になろう。きっとそれが、この男が望むことなんだ。
(今はもう・・・何も考えたくない)
は考えることをやめ、ただの人形となることを決めた。扉の向こうでフェイタンが成す術無く立ち尽くしていることを知らずに・・・。