目を覚ますと同時に、香ばしいパンの香りがフェイタンの鼻をくすぐった。上体を起こした彼が窓に目をやると、相変わらず陽に照らされてキラキラと輝く湖面が眩しかった。ただひとつ、これまでとは違う点があった。湖面に木製のボートが浮かんでいたのだ。そのボートの上には、いくらかの積荷と老人が乗っており、こちらを目指して進んでいるように見えた。
フェイタンは大して警戒する様子も見せずに、寝起きでボーっとした頭をもたげて、キッチンへと足を運ぶ。すると、昨晩とは打って変わってハキハキとした、いつものお気楽な様子のがフェイタンに声をかけた。
「盗賊さん!おはよう!」
「・・・。元に戻たね、お前」
「盗賊さんが傍にいてくれるから、私は元気だよ!」
恐らく空元気と思われるが、普段他人の笑顔を見る機会に恵まれないフェイタンからすると、それでも新鮮で、なんとも複雑な気分になるのだった。
「ところで、湖に船が浮いてたよ。あれは何か?」
「あ!そうか!今日は食べ物が送られてくる日なんだ!」
確かに、フェイタンも気にはなっていた。はこの湖から出ることはできない。つまり買い出しに行くこともままならないのだ。そんな彼女がどうやってこの小島で食事をするのか。
「つまり、あの船の上に乗てたじいさんは、お前に食料を運んで来てくれる人か?」
「そうだよ!先生のお知り合いみたいで、いつもお野菜とお肉とパンと牛乳なんかを運んできてくれるんだ!」
は濡れた手を拭って、ばたばたと外へ駆け出した。フェイタンは“先生のお知り合い”である老人のことが気になり、の後を追う。もしかすると、先生の念を除くための手がかりに結びつくかもしれない。
「ミロじい!いつもありがとう!」
「おお。。はいつも元気じゃのう」
ヤギのような白い髭が特徴的な、穏やかそうな老人。はその老人を“ミロ”と呼ぶ。その老人がこちらに気づくのを待っていると、がフェイタンの立つ方へ手のひらを向けて、紹介する。
「ミロじい!今ね、お客様が来てるの!盗賊さん!」
「ほう・・・。盗賊さんかね。えらくリュービに似ておるようじゃが・・・弟さんか何かかのう?」
「ううん!全然関係ない人なんだけど、やっぱり似てるよね!ちょっとちっちゃいけど!」
一体どんな紹介の仕方をするというのか。大方の検討はついていたものの、まさかそのままごまかすこともせず実直に紹介するとは、とフェイタンは思った。それはさておき、の“ちょっとちっちゃい”という発言に、眉尻がピクリと動くフェイタン。老人は腰を丸めたまま、フェイタンの元へとゆっくり歩み寄る。
「お主、をくすねようとやってきたようじゃな」
「その通りね。ただ、この念が邪魔で誘拐できないよ」
「はて。お主がを抱えて湖を越えられないほどひ弱じゃからかの?」
「・・・違うね。話聞いてたか。、この湖から出たら死ぬよ」
「・・・なんじゃと?」
この二人のやり取りを聞いていたは、静かに語り始めた。
「ミロじい。あのね・・・。先生、殺されちゃったみたいなの・・・」
老人は一瞬目を見開き、次に眉をひそめた。
「そうじゃったか・・・。、辛かったろう」
老人はのうなだれた頭に手を乗せ、よしよしと撫でた。
「じいさん。あんた、何か知らないか?この湖にしかけられた念能力のこと」
「ふむ。あやつが・・・リュービがこの湖を離れるときに“これはを守るためだ”と言って、“を生かす”ための力とやらで覆ったとかなんとか言っておったがのぅ。何故守るための力がを殺そうとするんじゃ」
そんなことオレが聞きたい。そう思うフェイタンだったが、怒ったところでどうにもならないので、用は済んだと言わんばかりに彼は老人とに背を向け家の中へと戻った。
やはり、この湖畔に浮かぶ小島にいただけでは何も進まない。そんな結論に至った彼だったが、リュービという男が何故ここにを幽閉したのか。その理由が少しでも分かるような手がかりはもう本当にここで見つからないのか。そう思い直し、今日一日はここでの調査に専念する。もし手がかりも何も見つからなかったら・・・。
(あ、団長にのお守り頼まれてるんだたね)
結局この島から出られないことに変わりは無かった。彼が盗賊として生きてきて、こんなに心安らぐ場所で長期休暇をもらったのは初めてだった。当の本人はそんなもの少しも求めていないのだが、たまにはゆっくり昼寝して過ごす。そんなのもいいんじゃないかと自分に言い聞かせ、フェイタンはキッチンで美味しそうな香りを立てるくるみパンを皿からくすねてひとかじりした。
06:除念
小屋の中には小さな書斎があった。湖畔の水に光が反射し暗い室内を照らして、読み書きには困らない程度の明かりがある。夜はランタンに火でも灯すのだろう。床に直置きされている。ただリュービがこの小屋を離れてからは一度も使われている気配は無かった。
書斎の窓辺にある小さな机の引き出しには、筆記用具や患者のカルテと思われる書類が整理された状態で保管されていた。一応さらっと全てに目を通すが、これと言って手がかりになるような情報は見当たらず、フェイタンはひとつ溜め息をついて引き出しを閉じた。そもそもここで生活を始めて長い時間が経っていないのか、書斎にはほとんど物が無かった。
(手がかりなんて期待した自分がバカだたね。)
いよいよ本格的に自然溢れる孤島でのバカンスが始まる予感がして、フェイタンはバタンと床に寝転がった。不思議と埃が舞う様子も無く、深く息を吸い込んでも咽たりはしない。が掃除をしているのだろう。暇だから・・・いや。
(大好きな“先生”のこと、ずっと待ってたか・・・)
がフェイタンと面影を重ねる人間、先生・・・リュービ。彼が何故を国外に連れ出したのか。そして昨日を急襲した黒服の集団。彼らはいったい何者で、その内の一人が吐いた「お前は大事な国の研究材料」という言葉は何なのか。これらを解決するにはあまりにも情報が足りない。
(シャルナーク仕事しろ。早く。)
本国の情報を探っているらしいシャルナークから、連絡が来るのを大人しく待つしかないのか、と悶々とする。動けないとアサシンとしての血がうずくのか、ごろごろと寝返りを打ち、一所に留まろうとしないフェイタン。ふと、動きを止めたそのとき、小規模な本棚の下に金属の板のようなものを見つけた。じっと目を凝らすと、暗闇の中に銀色のボタン状の突起が見えた。鍵穴だ。
(金庫・・・か?)
フェイタンは起き上がり、金庫らしきものがある床を曝すため、本棚を横へずらす。あらわになったそれはやはり、長方形の金庫だった。ヘアピンとドライバーを駆使し、お得意のピッキングですぐに開けてしまい、中身を確認する。
4、5枚のルーズリーフが再生紙のファイルに閉じこまれているもの、そして10mmピストルが一丁。中身はそれだけだった。
(こんな簡単に開けらる金庫に保管されたもの、どうせ大したものじゃないね)
半ば諦めつつ、ファイルを取り出して中の文書を確認する。カルテとは違う、手記のようだった。段落の始めに日付、改行して短めの日記。そんなスタイルで綴られている。フェイタンは書斎のデスクに腰掛け、おそらくリュービが書いたと思われるそれを読んでいく。
『1994/9/24
祖国で同胞が皆殺しに遭ったと聴いた。御袋もきっと命を落としたのだろう。相手はあの幻影旅団だったらしい。私は命を救うことはできても戦うことはできない。あの閉鎖的な村に残っていたとしても、無残に殺されて終わりだっただろう。これを受けて、国の連中は壁の建設に踏み出した。例の実験もますますやり易くなると躍起になっている。小さな国だし、壁は直ぐにできてしまうだろう。』
まさか、自分たちのことが書かれているとは。幻影旅団絡みで皆殺しと言えば、緋の目を奪うための、クルタ族虐殺、それ以外には無い。リュービが同胞と称しているところから察するに、彼もまたクルタ族だったようだ。
(惜しいことしたね。)
リュービが死んだとき、目は緋色に輝いていただろうか。そんなことを思いながら、フェイタンは手記を読んでいく。それらから読み取れたことは以下の通りだった。
リュービは医者で、パーゴスウェイ国に住み着いていたクルタ族の人間。を看護師か研修医として雇っており、医療ミスの濡れ衣を着せられ極刑を言い渡されていた彼女を何とか国外へ連れ出そうとするも、壁が建設されたおかげでそれが困難になった。読み終えた手記の裏側には8つ折りにされた構造図のようなものが収められていた。おそらくパーゴスウェイ国の壁の一部と思われるそれには、乱雑なメモが書き込まれ、国内から国外への脱出の手順が書かれている。
なんとなくではあるが、リュービが脱出を企てた理由と、それに至るまでの経緯を知ることができたフェイタンだった。ここからは本人に話を聞くしかないと。国の陰謀を人体実験と結びつけていろいろと憶測はできるが、憶測で動くことはできない。裏を固めて最短ルートで無駄なく盗みを完遂する。それが団長に求められていることだ。
フェイタンはふとの気配を感じ、書斎への入り口へと目を向けた。戸口からひょっこりと顔を出すに、何か用かとぶっきらぼうに話しかけると、彼女は慌てた様子で少しだけ顔を引っ込めた。
「あっ・・・あの!先生みたいだったから、つい・・・」
「お前、相当先生に入れ込んでるみたいね。ところで、お前年はいくつか」
「じゅ、18です」
「先生は」
「・・・確か、32歳・・・だったかな」
(ここでふたりきりで何してたか知らないけど、ほぼ犯罪ね)
の視線を受け流しながら、フェイタンは手元の手記に視線を戻す。読み進めていった手記も、とうとう最後の日を迎えた。
『1998/11/11
を連れ出すことに成功した。私はおそらく奴らに囚われ、殺されるだろう。だがはここで生きつづける。あの男が死ぬまで、は絶対に奴らに渡さない。』
念能力は術者の思いで如何様にもその効力を倍増させられる。怨み辛み、またその逆の愛も然り。リュービの場合、への過剰な愛情が、一歩でも湖から離れるとすぐ死ぬ代わりに、湖にいる限りはどんな傷を負っても治癒するような強い力となって残ってしまったのかもしれない。
(下手したら、首と胴体切り離しても生き返るか・・・)
まだまだ謎を多くはらんでいるところではあるが、この湖畔を覆っている念を除く手がかりは見つかった。
(とにかく、この手記に書かれている“あの男”を殺せば、は開放されるかもしれないね)
ぼんやりと、パーゴスウェイ国内では秘密裏に何か良くないことが行われていることが分かった。そしておそらく、をこの島から攫おうとした連中は組織された集団の一部にしか過ぎず、消息を絶った仲間の行方を捜している次の追手は再度性懲りもなく、を攫いにくるだろう。そのタイミングが、内部事情を探る絶好のチャンスだ。フェイタンお得意の拷問で、口を割ってもらう。
投射角度45度で方々遠くへ散らした死体がもし、GPS機能を有した端末を持っていたとすれば、まだここに来るまでに時間的余裕はあるだろうが、それまでに旅団の応援を要請しなければならない。
「盗賊さん?」
ふと、がフェイタンに話かけた。フェイタンはに近づきながら返事をした。
「何か。ちょと、用事出来たからでかけてくるよ」
そう言ってに背を向け、小屋の出口へ向かおうとした時、今まで感じたことのない熱を、突如背中で受けることになった。・・・が彼の背中に抱きついていた。
油断していた・・・?いや、警戒を怠ったことは今まで一度もない。ただ、今まで自分の周りを囲むのは、旅団員か自分に敵意を向ける人間だけだったので、念能力も何も会得していないただの人間にまさか、体に触れられるなどという機会そのものが無かっただけだ。
そんな言い訳が頭を巡り、困惑していると、震える声でが訴える。
「盗賊さん、また、どこか行っちゃうの?」
「・・・すぐもどてくるよ」
「本当?」
「ワタシの仕事、お前の子守ね。あと情報収集。お前をここから出す前に、お前死なせたら、ワタシ盗賊クビよ」
「・・・私がここから出たら、盗賊さんとはお別れなの?」
(手放す・・・か。)
普段の彼なら、どうでもいいことと一蹴して終わるような話だった。彼女の今後などどうでもいいと、すぐさま仕事に取掛かることだっただろう。ただ、今の彼は違った。自身の“欲”が芽生えていたのだ。彼女を手放したくないと、確かにそう思った。思ってしまった。