Mr. Brightside

 は、車通りの多い道の歩道をふらふらと歩いて家へ帰っていた。歩いている間、幾人かと肩がぶつかって、そのうちの幾人かに背後から罵声を浴びせられた気がした。だが、気にならなかった。それどころでは無かった。

 このまま死んでしまえば、こんな、今にも押しつぶされてしまいそうな重圧は無くなって、楽になれる。私が死んでしまえば、彼は――客は――死なずに済む。……いや。どうせ死んでしまう。ボスを敵に回せば最後、誰も生きてはいられない。そう。私が死んだところで、世界はいつも通りの日常を繰り返す。私が死んだところで、誰も悲しまない。そう、血の繋がった息子にさえ悲しんでもらえない。――このまま、死んでしまおうか?

 はふらりと歩道の際に寄って車道へ足を踏み出した。路側帯に車を停めて休憩していたタクシーの運転手が、タバコを吸う手を止めてをちらとみやって目を剥く。

「お、おい、あんたッ――

 あと一歩踏み出せば、時速五十キロメートル超で走行する車に撥ねられるというところで、は手首を掴まれ、路側帯の方へと引き戻される。

 ――な……何やってんだバカ野郎!!あ、危うく、死ぬとこだったじゃあねーかッ!!」

 地面にへたり込んで、放心状態で車道を見つめているの顔を、タクシーの運転手が覗き込む。

「あ、あれ?待てよ……あんた、どっかで……」

 見たことがある。数年前、自分のタクシーにしがみついて離れなかった女だ!

 後部座席の窓を叩いたり、ドアハンドルをがちゃがちゃと鳴らしたりしていた女。女の顔は必死の形相ではあったが、それでも美しいと思えたし、あんな混沌とした場に居合わせたのは初めてで強烈だったので、あの時の光景は――あの場に居合わせた皆の顔まで鮮明に――彼の脳みそにしっかり焼き付いていた。

 今しがた車道に身を投げ死のうとした女は紛れもなく、過去のその時に無理矢理車を発進させた後、後続車に轢かれたりしなかっただろうかと心配していた女だ。

「あ……、あんた!あの時の!」

 はゆっくりと顔を上に向け、手首を握り自分を歩道側へ引き戻した張本人を見つめた。相手は自分を知っている風だが、はその男を知らなかった。それもそのはず。あの時の彼女には、愛する息子の姿しか見えていなかったし、見ようとしていなかったのだ。だが、男は構わず話を続ける。

「息子さんは元気か?」

 が死のうとしていたのは明らかだと思えたから、タクシーの運転手はそう聞いた。そしてあの時、小さな子供とその母親と思しきふたりを引き離してしまったという罪悪感に、少なからずさいなまれていた――車を走らせている間、泣き喚く子供を抱く客が大声を出してどこかへ電話をかけていた話を聞いた限りだと、とても母親の同意があって引き離したようには思えなかった――からだ。

「……え」
「まだ会わしてもらえてねーのかい?」
「ッ、どうして、そんな……事情を知ってるみたいに話すんですか……?あなたは一体……」
「オレは数年前、あんたを数メートル車で引きずった――あんたと息子さんを引き離した――タクシー運転手だよ。……あんたは知らないだろうがね。あんたは息子さんの名をしきりに呼んでいて、息子さんの顔しか見ていなかったから」

 は信じられないという顔で、男の物と思われるタクシーと男の顔を何度か交互に見やった。

「死んじまったのかい?」
「……いいえ。今日、元気でいるのは確認したんです」
「ならどうして、あんたは死のうとなんかしたんだい」
「……どんなに私が、会いたいと願っても……お義母さんに、そうさせてはもらえない。息子は私のことなんか少しも覚えていないんです。それにもう、私は……息子のことをこの先ずっと、抱きしめられない……会って話をすることすら、一生できないわ。……だから……」
「わからんなぁ。どうしてそう決めつけるんだ」

 ほら、そんな所でずっと座り込んでないで。男はそう言って、の手を引いた。涙を流しているところを見られまいと地面ばかり見つめていた彼女の視線は自然と上を向いた。そして両手を相手の両手でしっかりと包み込むように握られる。

「詳しい事情を知らないオレが言うことだから、あんたはただのおせっかいと思うかもしれない。だが、これだけは確かだと言えることがある。死ぬのは間違いだ。あんたが死んだら、息子に会える確率ってやつはゼロになる。死んじまうんだから当たり前だよな。だが、どっちも生きているのなら、ゼロには絶対にならない。なんと言っても、あんたが息子を抱きしめたいと心の底から望んでいるんだからな。……そうだろう?」

 そうなのだろうか。望みさえすれば、いずれ願いは叶う。そんな言葉は、人を勇気づけるために、およそ問題に関わりの無い赤の他人が精神論を言語化しただけのものだと思っていた。だが確かに、死んでしまってはもう二度と息子には会えない。なら、死のうとしていた私は、息子に会いたくないのか?そんな意思表示なのか?

 ――違う!会いたい。どうしても、抱きしめたい。あの天使のような笑顔を、もう一度、私に向けてほしい。

 そう思うと、大粒の涙がポロポロと、次々にこぼれ落ちていった。に感化された男もまた瞳を潤ませ、何とか生きて欲しいと必死に訴えた。

「生きるんだ。生きてさえいれば、いずれあんたは息子に会える。抱きしめてやれるさ。だから、その可能性を自分からわざわざ捨てようなんてバカなこと、もう二度と考えちゃあいけねぇよ。分かったな?……ほら、家まで送ってやるから、車に乗るんだ」

 男は歩道側に向いたタクシーのドアを開け、を無理矢理後部座席に押し込んだ。そして彼女から金も取らずに――自分の財布から、律儀に回ったメーター分の金を会社の財布へ移すところを、は目の当たりにした。だから、自分の財布を引っ張り出してきっかり払おうとしたのに、男はいらないと言ってはばからなかった。極めつけに、息子に会えたら返しに来てくれと、タクシー会社の名刺をに押し付けた――が無事、見覚えのあるアパートの一室に向かうのまで見届けると、タクシーの運転手は元いた場所――人通りの多い大通り――へと戻っていった。

 はいつの間にか寝室に戻っていて、ベッドの上で天井を見つめていた。ほとんど放心状態で、自分が生きているのか死んでいるのか、それすら分からないままに数分間を過ごした。その間に考えることは出来た。もしもまだ自分が生きているのなら。そう仮定して、はこれから自分がどう生きていくのかを考えた。

 死ぬにはまだ早い。そういうことなのだろう。手放そうとしたのに、手放せなかった命だ。意固地になって、今からでも死ぬことはできる。だが、悪夢から覚めた――まだ、悪夢かというほど辛い現状であるのには変わらないのだが――みたいな今となっては、そこまで死に執着できなかった。

 死ぬにはまだ早い。死ぬのは、いつか、息子を抱きしめられる日が来たとして、そのときに継母よろしく汚らわしいと罵られ拒絶されてからでも遅くはない。息子にそんな態度をとられてしまえば、未練なんかこれっぽっちも残らないだろうから。

 息子に会えて、自分が母親であると認識してもらえるその日まで、誰に何と思われようと構わない。例え自分ですら自分のことを受け入れられなくても、みっともなく生きていく。ゼロでは無い可能性にかけて、生きていくんだ。

 次第に心が落ち着きを取り戻していった。喉が乾いたとキッチンへ向い冷たい水を飲み下し、バスルームへ向いシャワーを浴びた。毎日繰り返してきたのと同じ日常が戻ってきて、それから自分は確かに生きていると確信したとき、彼女は以前の志しを取り戻した。

 この先、息子に会うためだけに、息子のためだけに生きていくと、以前よりも強く固く心に誓った。――誓ったはずだった。

 この時の彼女には知る由もなかったのだ。まさか、自分の人生において大切だと思えるものがまたひとつ増え、彼女の誓いが揺らぎそうになるなどとは、露にも思わなかった。



05: It was only a kiss, it was only a kiss



 は暗殺者チームのアジトから出てしばらくの間、体の内側で響く胸の高鳴りを聞いていた。

 男性に心からにこりと笑いかけたのは久しぶりだった。覚えている限りで、このアンダー・グラウンドに足を踏み入れてからは一度も無かったことだ。

 自分の性は商品でしかない。だから男性と関係を持つときは心を殺すことを徹底していた。息子を継母に奪われてから――奪われたと、被害者面でモノを言うあたり都合がいいと自分でも思うが、少なくとも相手も相手で正当な手続きは全く踏んでいないしお互い様だ――心なんてプラスの方向に揺り動かされたことなんか一度も無い。当然、自分の商品を金で買う男になど心を許した事もない。相手は金で買えるものしか求めていないから、こちらからそれ以外の施しやら真心やらを求めるなんてバカを見るだけだと分かっている。

 女性は――あくまで、大抵の女性がという一般論に過ぎないが――体ではなく心でセックスをするので、仕事として割り切るのは難しいと言われているらしい。だが、心から愛した男性が死んでしまった今となっては、その感覚すらまともに思い出せなかったので、今の自分に“娼婦”という仕事はおあつらえ向きだったのかもしれない。

 要するに、が男性を男性として見たのは久しぶりだったし、所謂“トキメキ”なんてものを覚えたのも、死んでしまった夫に出会った時以来の久方ぶりのことだった。そしてあの、美しい男の――ギャングと呼ぶにはあまりにも見た目が洗練されていて、粗野な雰囲気など少しも感じさせない、誇りと自信に満ち溢れた眩いばかりの彼の――名前を知ることになるとは、この時は少しも思わなかった。

 二回目にアジトを訪れ、例の彼――名はプロシュートといった――とタッグを組んで仕事をやることになると聞かされ、はにわかに胸騒ぎを覚えた。何か、自分の中の芯を揺るがされた気分になったからだ。芯とは、これまで自分の全てを捧げてきた、ただ息子をこの腕で抱きしめたいという思いだ。

 前回プロシュートの姿を目にした瞬間、不覚にも彼に好意を抱いてしまったのが最後なら良かったのだ。はこの巡り合わせに少しばかりの期待を抱きかけたところで、慌ててその心をなきものにしようとした。リゾットが話をする中で必死になっていた。

 いけない。仕事の話に集中しなければ。

 打合せが終わった後、プロシュートに見送りついでに夕食に誘われたとき、はまた「良くない」と思った。だが、冷静になって考えてみて、これから――一回ぽっきりとは言え――仕事を一緒にやる仲だと言うのに、無愛想に断るのは良くない。そう思い直した。けれど最後にはやはり、やめておけば良かったと後悔することになった。

 食事の間に向けられる熱い視線が気掛かりでしょうがなかった。こんな視線を向けられるのには慣れているはずなのに、相手が相手だと、何とも思っていない風を装うのも一苦労だ。

 せっかくの美味しいラザーニャが冷めて台無しになってしまう。そんな心配をして気を紛らわせようとして、さらにラザーニャを冷ましている張本人に抗議してもみたが、プロシュートは生返事をしただけで食事の手は一向に進めようとしなかった。

 そして帰りに、また会いたいと言われた。仕事の直前に打合せがあるだろうと返すと、そうじゃなくて、こうやってまたふたりきりになりたいと。

 男性が自分に好意を抱いているか否かくらいのことを見分けるスキルは、仕事のおかげでしっかり身に付いている。だからこそ、プロシュートから向けられる隠すつもりなど毛頭無い実直な好意には面くらった。いよいよ、自分の中の芯が折られそうだった。

 自分の過去や、息子のことが無ければ――

 いや、一瞬でもそう思ってしまったのだから、この時、芯は完全に折れてしまっていたのだろう。

「……そうね。打合せの後、一緒に食事をしましょう。また、さっきのレストランのラザーニャが食べたいわ」

 あくまで、好きなのはあなたではなく、あの店のラザーニャだ。プロシュートにそう思ってもらうため、そして自分自信に改めて念を押すために、は取って付けたような言葉を最後に添えた。まあ、あの店のラザーニャが美味しかったのは嘘ではないし。

 だが、この提案も後に、止めておけば良かったと思うことになった。

 いや、そもそも、最初に夕食に誘われた時に断るべきだったのだ。相手は客でも何でもないギャングだ。彼を突っぱねたところで、稼ぎが減るわけでもない。金にならない男になんか時間を費やしていないで仕事をしたほうがいい。息子を思って金を貯めているなら尚の事。

 最終の打合せは二日後だ。この時に、何か仕事が他に出来たとでも言って断ればいい。はそう思った。

 言うまでもなく、はプロシュートを拒絶できなかったのだが。



 食事を終えた後の帰り道のことだった。人通りもまばらな歩道の街灯に、はプロシュートに肩を掴まれ背中を押し付けられた。彼女は少し驚いたような顔でプロシュートの顔を見上げた。ごくりと喉を鳴らして、彼の熱のこもった瞳を見つめた。その内に、愛しげに頬に手を添えられて、指先は項に向って這っていく。

「……どうした。豆鉄砲食らった鳩みてーにぽかんとしやがって」

 これまでのように、何ともないという顔でいようとした。

 黙って顔を作ろうとすると、どうしても目に見えて動揺してしまいそうになった。だからは、必死に何か喋らなければと考え、何か喋れと脳に命令をした。すると、口を開けば自然と言葉は溢れてきた。

「……結構、強引なところもあるのね。だからびっくりしたの」

 別に、好意を抱いている男性に至近距離にまで迫られたからと胸を熱くしているわけではない。単に、事故が起きて驚いただけだ。はプロシュートにそう思ってもらうため、そして自分自身に改めて言い聞かせるように言った。ラザーニャを引き合いに出した二日前と同じように。

。オレは今夜、お前を帰したくない。絶対に帰したくないと思ったんだ。強引にもなるさ」

 やはり、どこまでも実直なプロシュートの言葉がの胸を締め付けた。

「……プロシュート。私、ダメなのよ。他の男の人とは」
「高い金を払わなきゃ門前払いって訳か」

 そうじゃない。そんな、私のことを、金のことしか考えていないように言わないで。――いえ、金のことしか考えていないと思われたのなら、それでいい。それで、彼が愛想をつかしてくれるなら、その方がいいに決まってる。過去に結婚していて、子供がいると知られたら、きっと彼は面倒だと思って離れていくわ。そのときに私は耐えられるの?――ちょっと待って……私は今何を考えた?子供がいると知られたらって……まるであの子を足枷か何かみたいに喋ったわ!ああ……なんてことを、私……!

 そうじゃない。口をついて出そうになったのを一度呑んで必死に喉の奥の方で留めようと努めていた言葉は、呆気に取られて開いた口からそのまま漏れ出ていってしまった。

「そうじゃないわ、プロシュート。……お客とそういう契約をしてるのよ。だから、悪く思わないで」

 契約の話は嘘では無い。だが、彼女は自分の、今にも折れてしまいそうな芯の部分を立て直そうと必死になっていた自分に、誠実ではいられなかった。

 度重なる自己嫌悪に辟易してきた。早くこの状況から抜け出してしまいたいと、はやや乱暴に腕を突き出し、プロシュートの胸を押し退けようとした。だが、どれほど美しく粗野な印象は無いと言えども、今目の前にいるのはやはり男性だった。逃亡叶わず、背中はまた街灯に張り付けられて、彼の端正な顔はゆっくりと近づいてくる。

 ああ。やめて。……私をこれ以上、惑わせないで……。

 やめてと願いながら、はゆっくりと瞳を閉じた。

 夢だ。たった一度の、ひと時の夢。誰かに愛されたい。このままずっと、孤独でいたくないと心のどこかで思っていた彼女の、仕事で男性と体を交えることで自分は孤独ではないのだと誤魔化して生きてきた寂しい心を満たす、一夜限りの夢。

 これまで何度も同じようなことを自分の頭に言い聞かせてきた。けれど結局、はプロシュートを拒絶できなかったし、彼という存在は、否応なしに彼女のこころを揺さぶった。

 プロシュートの胸に当てた両の掌から、彼の鼓動と熱が伝わってくる。その暖かさにほっとしている内に、自ら作り出した闇の中で、唇に、彼の唇が触れる感覚がして、それは甘い痺れとなって全身に響き渡った。

 はじまりはたった一度のキスだった。

 軽く触れるだけの、優しいキス。それで、は完全に恋に落ちてしまっていた。

 いや、まさか、そんなはずはない。はプロシュートの腕の中から抜け出し駆け出した。すぐにプロシュートに呼び止められ、家まで送ると言われた。だが、大丈夫と言って彼女は彼に背を向けた。とびきりの笑顔を残して。

 どうして彼に笑顔なんか見せたの?彼を突き放したから、キスなんかされたくなかったって思われたかもしれない。それが心配だったの?――バカね。あんなキス、今までいくらでもされてきたじゃない。彼が私のことを好きだなんて、勘違いもはなはだしい。彼が求めているのは私じゃない。私の“商品”だ。

 ただのキスよ。ただのキス。

 後方に流れ行く石畳のブロックを何個も見送りながら、は心の中で唱え続けた。けれど、唱えれば唱えるほどに唇ははれ上がるように熱を持っていった。胸の高鳴りも、家に戻り、ベッドの上に寝転がり、眠気が襲って来る寸前まで、おさまることはなかった。