夢のような時間はあっという間に過ぎ去った。
気付けばカーテンの隙間から朝日が差し込んでいて、プロシュートはまどろみの内に夢と現実の堺を行ったりきたりしながら、――あれが夢で無ければ――隣にいるはずのの姿を探した。
あるのは抜け殻だけだった。の姿は無い。そして、部屋の中を見渡してみてもここが彼女の住む場所だという確証は得られなかった。というのも、昨晩は要所要所に最低限の明かりがともっただけの薄暗い部屋の中を、もつれ込むように進んで寝室に向かったものだから、周りがどんなだったかなど気にしてはいられなかったのだ。
ふと、プロシュートはの唇や舌の熱を、柔らかな肌の感触、そして艷やかな声を思い出した。思い出すだけで胸は熱くなり早くも恋しさに苛まれはじめ、眠気は瞬く間に消えていく。
下着を身に着けただけのプロシュートはベッドから抜け出して、床に放っておいたはずの衣服を探した。シャツ、ジャケット、ズボン、それら全てはきれいにハンガーにかけられて、すぐそばのスタンドにぶら下がっていた。雑に脱ぎ捨てたはずの革靴も、踵を揃えてベッドから足をおろした先に置いてあった。
ここまで気の利かされた朝は初めてだ。これも、彼女がこれまでの経験で培ってきた男を喜ばせる術なのだろう。そう思うとまたもやもやする訳だが、とにかくここはの住処に違いない、あれは夢じゃないんだ、と前向きな気持ちになることはできた。プロシュートは服を着て、壁に掛けられた鏡で顔を見て髪を整えると寝室を後にした。
足音を殺して歩くのが板についてしまっていたのか、キッチンに立つはプロシュートがリビングに入ってきたことに気付いていなかった。
髪をまとめ上げ、しっかりと仕事着――これから向かうのは、恐らく情報管理チームの事務所か何かだろう――に身を包み、すぐにでも家から出ていってしまいそうな雰囲気を出すを、プロシュートは壁に寄り掛かってじっと見つめた。
は朝から美しかった。欲を言えば、少し着崩したような寝起きの姿を見てみたかった。だが、そんな姿を拝めなかったのは遅く起きた自分の所為だ。そんな風に自分を咎めながら、プロシュートはキッチンカウンターに向かって、また音を殺して歩いていった。
沸かし終えたポットのお湯をコーヒードリッパーに注ぎ、バックカウンターの上に置いたバスケットからクロワッサンをひとつ取って皿に乗せ、戸棚からマグカップを取り出し振り向いたところでやっと、はプロシュートの存在に気がついた。はっと息を飲んで目を見開いた彼女の顔を、彼はカウンター越しに見つめる。
「おはよう。……起きてたのね」
「ああ。。あんたは朝が早いんだな」
「昨日のこと、報告しに行かなくちゃならないから。あなたもそうでしょう?……出かける前にコーヒーでもどうかしら?」
「ああ。いただくよ」
「お腹は空いてる?……大したものはないけれど」
「あんたと同じのをひとつもらいたい」
「分かったわ」
そんな会話を済ませて、プロシュートはカウンター前の小さなダイニングテーブルについてリビングを見渡した。
きれいに片付いた部屋だ。プロシュートは初めこそそう肯定的にとらえたが、という居住者を全く知らない者が部屋だけ見れば、きれいすぎる。そして殺風景だと第一印象に抱いてしまうだろうというほどに、あたりには必要最低限の物しか置かれていなかった。
例えば、女の部屋のソファーなんかには、可愛らしいからとかデザインが気に入ったからとかそんな理由で、好みの柄のカバーを纏ったクッションが必要以上に置いてあったりする。そして窓際に観葉植物や出窓に小さなサボテンが植わった鉢を置いていたり、壁に好みの絵を飾っていたり。そういった類の装飾品が、ひとつも見当たらないのだ。きれいすぎる。――与えられた生を楽しもうという気概が少しも感じられない、生活感のない空間だ。
プロシュートの中の高級娼婦のイメージとかけ離れていた。のほかにそんな知り合いはいないが、恐らく金持ちの男に嫌というほど貢がれているだろうに。そして、ひけらかすつもりはなくとも、自分の部屋くらいにはその片鱗が見えたっておかしく無いはずだ。だが、彼女の部屋には贅沢のぜの字も無い。キッチンにワインセラーがあって、高そうなワインが並べられているわけでもない。家具が特別に良いものというわけでも、家電が高級品というわけでもなんでもないのだ。ひとりでいれば寂しさすら感じてしまうほどの殺風景な部屋。だが、プロシュートが今座っているダイニングテーブルの向かい側には椅子がある。誰か招き入れる意思が、少しはあったりするのだろうか。
そうやって漠然とした手前勝手な侘びしさを抱いている内に、向かいにあるクローゼットの脇に置いてあるチェストに目が留まった。唯一、そのチェストの上にだけ装飾品と言えそうな物があった。それは恐らく、写真立てだ。恐らく、と付したのは、そうと確実には言えない状態で乗っていたからだ。飾っているのであろう写真を見られまいとするように、スタンドが跳ね起きた状態でフレームを下にして置いてある。
普段からそうなのか。それとも、自分に見られたくなくてそうしているのかが気になった。すると、気にするなとでも言うようにがプロシュートの視界を遮った。そしてかたん、かたんと小さな音がする。見ると手元に、コーヒーカップとクロワッサンの乗った皿が置かれていた。
「ごめんなさい。こんな物しかなくて。……普段人が訪ねてくることが無いのよ」
「いや――」
それを聞いて――要は、決まった男を定期的に招き入れていたりはしないと分かって――安堵してすぐに、プロシュートはやはり勝手に寂しさを感じてしまっていた。
はプロシュートの向かいに座ってコーヒーを注いだマグカップに口を付けた。
「――コーヒーもクロワッサンも、オレの好物だぜ」
「そう。それは良かった」
は微笑んで、窓の外を見ながら一口コーヒーを飲んだ。
横顔も完璧だ。プロシュートはますますのことが好きになっていく。そしてやはり、次会う約束をどうしても取り付けたくなる。だがやはりここでも、何と言えばスマートに約束を取り付けられるかと悩むのだ。次第にそうやって悩む自分がじれったくなってくる。昨晩は結局、こうやってじれったいばっかりの自分に我慢ならなくなって、衝動に任せてここに押し行った。それをは許したのだ。だから、次だってあるに決まってる。
「なあ、」
「何?」
「また会えるか?」
はゆっくりとプロシュートへ顔を向けて、また女神かと見紛うほどの微笑みを浮かべる。
「……ええ。いいわ」
いつ、どこで会うのか。はそんな話を自分からはしなかった。対するプロシュートはどうしても確証が欲しい。・という女が自分のものになったのだという確証が欲しかった。プロシュートはテーブルの上に置かれたの左手にそっと手を伸ばした。そして手の甲を三本か四本程度の指の腹でそっと撫でた後、ふわりと包むように掌で覆った。小さな手が、手の中でぴくりと震えるのが分かった。
「オレは……。あんたのことが、どうしようもなく好きなんだ」
は途端に顔を真っ赤にして目を泳がせた。プロシュートが初めて手応えを感じた瞬間だった。
「またここに来てもいいか。……迷惑なら、仕事終わりに食事するだけだって構わない。とにかくオレは……あんたに、毎日でも会っていたい。そう思ってるんだ」
は、真っ赤になった顔を少し伏せ上目遣いにプロシュートをちらとみやって、また視線はテーブルの上を泳ぐ。それからしばらく沈黙が続いたが、プロシュートは根気良く彼女の返答を待った。するとは、観念したとでも言いたげに顔をあげて、プロシュートを見つめた。相変わらず顔は赤かった。
「あなたが……そうしたいなら……」
それからプロシュートとは時折、プライベートを共にするようになった。仕事のない日、昼に映画を見に行ったり、軽くドライブに出かけたり、夜にレストランで夕食を共にしたり、の家で料理を一緒に作って食べたりした。その度に、プロシュートはに贈り物をした。
手始めに青いガラスでできた美しい花瓶を。次に色とりどりの花束を。立ち木を模したアクセサリースタンドを買って、次の機会には、に似合うだろうと思ったネックレスやイヤリング、ブレスレットなんかを贈った。その他にも、ペアのマグカップや、ソファーの上にクッションなんかを買って、勝手に部屋の中に置いたりした。
寂しかったの部屋は、彼女との交際を積み重ねるごとにどんどん賑やかになっていった。さすがにやりすぎたかとプロシュートはたまに思うことがあったが、はどんな贈り物も喜んだ。――本心から喜んでいるように、プロシュートには見えた。
きっと、自分がに贈っているものなんて、彼女がこれまで受け取ってきた贈り物の中で最も安価なものだろう。プロシュートにはそんな自覚があった。だが、彼はそれを恥じはしなかった。現に、彼女の部屋に残っているのは自分からの贈り物だけなのだ。その事実が何よりの誇りで、彼の自信に繋がっていた。
愛し、愛されている。プロシュートは今までに無いほど満たされていて、幸せだと感じる日々を送っていた。
もちろん、は仕事を辞めたわけではない。だが、彼女は愛されはしても客を愛しはしない。仕事で誰を殺したとか誰を殺す予定だと自分から話をしないのと同じように、も仕事の話はしなかった。自分が仕事で人を殺している所をに見られていないように、が他の男と寝ているところを自分が見ている訳ではない。聞きもしない、見もしないのであれば、事実など存在しないも同然だ。――すべては妄想に過ぎないのだ。
たまに嫉妬に狂いそうになる時はあった。次のデートの日を取り付けたくていつがいいと提示した日を、仕事だからと断られた時がそうだ。だが、引く手あまたの高級娼婦に恋をしてしまったのだから、それは宿命で仕方の無いこと。は、オレが嫉妬に狂ってどうせ長続きしないと思って、距離を置こうとしていたのだ。長続きしないなんて、が思っていた通りになってたまるものか。
別に浮気をしている訳ではない。そう言い聞かせて、度の強い酒を生で飲んで胸を焼き付ければ嫉妬心は静まった。それに――酔いが冷めた頃冷静になって考えてみる――嫉妬に狂ってを手放すなんて、あの美しく優しい女神のような女にもう二度と会えなくなるなんて絶望的な未来よりも、嫉妬に狂いながらも彼女と共に人生を歩む方が絶対に幸せだと思えた。
プロシュートにはもはや、のいない人生など考えられなかった。彼女を好きだという思いは、彼女との幸せな日々を重ねるごとに、深い愛情に変わっていた。
そんな幸せな日々の中、プロシュートにはもう一つだけ、どうにも気がかりで仕方ないことがあった。
あの、リビングの隅にあるチェストの上の、伏せられたままの写真立てだ。相変わらず自分がいるから伏せられているのか、もうずっと伏せられたままなのかは分からなかった。
いずれ教えてくれるだろうか。あの写真立てに、誰の写真が飾られているのか。――いや。それをがオレに言わないのは、まだそこまでの信頼をオレが得ていないからだ。まだ時間が、そして愛が足りないのだ。
が見ていない時に盗み見るなんて不義理は働かなかった。もちろん、見たいという気持ちはあったが、彼女から話すまでは絶対に聞かないでおこうとプロシュートは心に決めていた。
だが、プロシュートが気にしていたことはやがて明らかになる。そして彼は、それをもっと早くに聞いていれば良かったと後悔することになるのだった。
03: How did it end up like this
レストランの軒下で、プロシュートはを待っていた。しとしとと降る雨に吐いた紫煙がぶつかるのをぼうっと見て、それに飽きると腕時計を見る、という動作をしばらく繰り返していた。
これまでは無断で約束を破ることはしなかった。仕事で少し遅くなるとか、急な用事で会えないときには必ず連絡を入れた。なんの連絡もなしに待ち合わせの時間に遅れてくるなんてことは絶対にしなかった。
プロシュートは腕時計を見て、時間を確認する。――約束の時間は三十分過ぎている。
さすがにおかしいと、プロシュートは携帯電話を取り出しへ電話をかけた。だが、呼び出し音が虚しく続くばかりで、一向に応答は無い。彼女が電話に出なかったことも、これまで一度も無かった。
何か嫌な予感がする。
事故か何かに遭ったんじゃないだろうか。厄介事に巻き込まれているんじゃないだろうか。プロシュートはそんな不安に駆られ始める。
あり得ないことではないのだ。表向きの仕事も裏の仕事も、どちらも厄介事とはいつも隣り合わせみたいなものだからだ。むしろ今まで、お互いに大したトラブルもなく幸せな日々を過ごせていたのが奇跡と言ってもいいくらいだ。
プロシュートはまだ半分以上残っているタバコを足元にあった水溜りに打ち捨てると、手に持っていた傘を開くのも忘れて駆け出した。の住むアパートは走れば十分もせずに着く距離にある。彼は根拠の無い嫌な予感とやらに突き動かされ、雨に濡れることもいとわず一心不乱に走り続けた。
アパートの階段を駆け上り廊下の突き当りまで走って、息を切らして立ち止まる。――ドアが開いている。そして、開いたドアの隙間からうっすらと光が漏れていた。
血の気が引いた。胸騒ぎは明らかな焦燥に変わり、身体はわずかに震え始めた。瞬時に乾き上がった喉をごくりと鳴らして固唾を呑み、プロシュートは静かに扉を開け、足音を立てないようにして中へ入っていった。
リビングの奥のライトスタンドにだけ明かりが点っている。そして向かいの、窓に向けられたソファーの右端から、――恐らくの――頭部が見えた。肘置きに乗ったその頭の髪は、ぐしゃりと乱れていた。
「……!」
プロシュートは名を呼んで駆け寄ったが、返事は無かった。ソファーの上に横たわったを見る。
は虚ろな表情でどこか一点を見ていた。――否、見ているのか、見えているのかどうかすら定かでは無い。そして口は薄く開いて、口角から唾液が垂れ流れている。ほとんど虫の息だった。服は上下共にひどく乱されている。あられもないの姿にプロシュートは困惑しながらも、彼女の身体を優しく抱きかかえた。虚脱状態で、どこにも力の入っていない身体が腕にだらりともたれる。
プロシュートはの顔にかかった髪をよけて頬に手を添え、何度も名前を呼んだ。息はしているが、反応が無い。このままでは危ないかもしれない。の身体をゆっくりと再度ソファーに預け、プロシュートは部屋の固定電話に駆け寄り118番に通報した。電話に応答した救急救命士にの状態がどうかを伝えると、薬物の使用が疑われるかどうかを聞かれる。――普段ある位置から大幅にずれた位置にある――ローテーブルの上を見る。注射器が転がっているのが見えた。あのの状態にも見覚えがある。恐らく、使っているとプロシュートは答えた。
通話を終えると、プロシュートは改めてへ歩み寄った。
「。……一体、何があったんだ……」
視線を合わせても問いかけても、答えは返ってこない。だが、想像はできた。
――使っている?違う。強制的に打ち込まれたのだ。身体が資本と言っていたが、自ら薬物を摂取するはずもない。そしてこの部屋の惨状。おそらく複数の人間に押し入られ荒らされている。の乱された衣服。所々曝け出された肌。何者かに剥ぎ取られたであろう下着が、床の上に落ちている。――腸が煮えくり返る。だが、プロシュートにはを襲った強姦の類がどこのどいつなのか、全く見当がつかなかった。怒りの遣り場が見つからない。そもそも何故こんなことになってしまったのかすら想像もつかないのだ。
程なくして辺りに救急車のサイレンが響き渡る。車はアパートの前に停まり、三人程の救急救命士がタンカを持って部屋に乗り込んできた。あれよあれよと言う間には部屋から運び出され、プロシュートは救命士に同行を求められる。彼は声は出さなかったが、しっかりと頷いて承諾した。慌ただしく部屋を出ていく救命士。その足元で、何かが蹴られるような音がした。
プロシュートは救命士の足に弾かれた物が何か気になって、壁際に追いやられたそれを拾い上げようとしゃがみこんだ。
写真立てだ。あの、ずっと伏せられたままだった写真立て。
もしも伏せられた状態で転がっていたら、そのままチェストの上に乗せただろう。だが、それは表を向いていた。ずっと気になって仕方がなかったそれを、プロシュートは偶然見ることになってしまったのだ。
家族写真だった。青空の下、青い芝に赤と白のチェック柄のピクニックシートを敷いたその上で、三人が楽しげに笑っていた。男女の間に二才か三才くらいの男児がいて、バスケットからドーナツを取り出してにっこりと笑っている。父親と思しき男と子供が誰だかは分からない。だが、母親の方は分かった。
今と寸分違わず美しく、心の底から幸せそうに笑うの――今まで自分が一度も見たことの無い彼女の――姿がそこにあったのだ。
プロシュートはひび割れたガラス板の向こうに写真をじっと見つめた後、その写真立てを元の場所に立てて置き部屋を出ると、玄関の扉に鍵をかけの後を追った。
場違い極まりない嫉妬心に呑まれそうになるのを、必死にこらえながら。