Mr. Brightside

 ターゲットの男が所有する三十階建ての高層ビルを視界に捉え、プロシュートは夜の闇に呑まれた狭い路地に身を隠していた。

 時刻は九時。プロシュートは、が九時になる少し前にビルの裏側から地下に潜るのを見届けた。今は、彼女から侵入開始を合図するメッセージが届いて、携帯電話のヴァイブレーションが鳴るのを待っている。

 その手持ち無沙汰な間、内ポケットに仕舞っておいたタバコに何度か手が伸びかけた。タバコを吸っている間はぼけっとしていられる。頭をからっぽにして、“余計なこと”を考えなくて済む。苛立っている心を落ち着かせるのに、日々のルーティーンはいいと知っているニコチンに飢えた脳が、無意識のうちに勝手に体を動かした。

 だが、プロシュートは仕事の前には吸わないようにしている。タバコの残り香もまた、現場や誰かの記憶に残しかねない自身の痕跡に違いないからだ。――ならば最初から持ってこなければいい話なのだが、仕事終わりの一服は格別にうまい。朝焼けの中、コーヒー片手に一服するのがプロシュートの楽しみのひとつだった――無意識を意識で制御してプロシュートは手を止め、止めた手を元の場所へ戻した。

 “余計なこと”が、プロシュートが今まで覚えている限りでは経験したことのない厄介な感情を誘発させていた。その感情がニコチンを遠ざけた彼をさらにイラつかせていた。

 プロシュートが今恋して止まない女性、は娼婦だ。娼婦の仕事とは、男性相手に性的なサービスを提供することだ。

 高級娼婦ともなれば客はある程度の教養を持った金持ちだろう。もしかするとは男にプラトニックな関係を求められていて、肉体関係にはなかったりするかもしれない。――いや、まさか。プロシュートはそんな希望的観測を脳内で一蹴した。

 自分がそうだからかもしれない。叶うなら、の全てを手に入れたい。身も心も全てを我が物にして永遠に愛でていたい。そう思うから、今回ターゲットになっている男が、を前にして抱かないはずが無いと思った。

 事前に確認しているターゲットの人相からも、内向的で知的で、趣味は哲学だとでも言いそうな文化人的な雰囲気は少しも感じ取ることができなかった。人は見た目に寄らないと言うが、少なくとも女性関係においては、プラトニックな恋愛ごっこを嗜むようなタイプではないという確信があった。根拠は無いのだが。

 今頃、はヤツの胸に手を置いて、ヤツはの着てるドレスを脱がしてるんだ。――ああ、おい。勘弁しろ。胃がムカついてきた……。

 ジェラシーだ。プロシュートが今まで経験したことのない感情とは正しくそれだった。手に入れたいと思った女が手に入らないまま、その女が他の男と寝るのを指を咥えて黙って見てる――いや、見ている訳ではない。妄想だ。明確にの口から、今夜男と寝る、なんて言説を得ている訳ではない。そんな中、彼女が男と性行為に及んでいるかいないかはプロシュートが自身の目で観測しなければ、彼にとっての真実にはならない。例えその可能性が限りなく百パーセントに近くとも、真実ではない。だが、完全にネガティブ思考に囚われているプロシュートには、頭の中のイメージがただの妄想で、考えるだけ無駄なことで、よりによって任務遂行を間近に控えている今頭の中をいっぱいにするようなことではないという理性的な判断ができないでいた――なんて。抱きたいと思った女を抱けなかったことのない彼にとっては、条理を逸した珍事だ。

 代金を得てサービスを売っているだけ。そこに客からの愛はあっても逆は無いはず。ヤツはの身も心も我が物とできている訳ではない。そう思うことでかろうじて心を落ち着かせることはできたが、金銭が発生していようがいまいが、思いを寄せる女の肌に他の男の手が触れているなんて、我慢できるはずが無い。

 また、内ポケットに手が伸びる。手を止めて、仕事が終わるまでは我慢だ、と手をポケットへ戻す。そして、ビルの谷間から星の無い夜空を見上げて溜息をついた。

 とにかく、プロシュートはさっさと仕事を終わらせてしまいたかった。そうすれば、に次の客がつくまでの間は平常心を保っていられるだろう。――次の客がついたら?またそいつが仕事のターゲットになったりしないだろうか。ああ駄目だ。客という客、全員を仕事でもないのに殺してしまいそうだ。そんなことをして一番困るのは、死の女神とか言う不名誉なあだ名がついて客がつかなくなっただろうな。

 プロシュートは、見境を失くして迷走し始めた自身の妄想に自嘲めいた笑みをこぼした。

 それにしても、どうしては娼婦で、しかもギャングなんかをやっているんだろう。頭も良さそうで、品があって、最高に美しい。堅気で十分やっていけそうなのに、どうして――

 プロシュートのとめどない思考に、ポケットの中にある携帯電話のヴァイブレーションが終止符を打った。

 “そろそろ上がってきて。部屋の裏口に待機していて”

 短いからのメッセージ。彼は事前に頭に叩き込んだ地下から最上階への移動経路や、最上階の間取り図を思い浮かべながら、携帯電話をポケットへ戻しつつビルへ向って歩きだした。そして、タバコが入っているのとは逆の内ポケットから取り出した薄手の革の手袋をはめて、地下駐車場への降り口に立った。

 駐車場も兼ねているビルの地下、その角に守衛室があった。一応、ビルの入り口という入り口を管理している警備員が常駐しているのだが、夜の間は大抵居眠りをしているらしい。起きていても、各入り口の様子を映すモニターなんかほとんど見ないで、ブラジルとかよその国でやっているサッカーの試合中継を見る方に集中しているのが常だという。普段から彼ら警備員には姿を見られないような動線で、は最上階直通の業務用のエレベーターへ乗り込んでいる。とはいえ、そんな警備員たちの職務怠慢を予期してか、セキュリティシステムだけは一応作動しているようだ。

 エレベーター室へ入るための扉は、夜間は内側から許可――最上階のエレベーター室に操作盤があるらしい――が出ない限り開かない仕組みになっている。が、一度開錠された後、扉の間に何か挟んで鍵がかからないようにしておけば、十分間は警報も何も作動しないという。プロシュートは鍵がかけられずに少しだけ開いたままの扉を押し開けて、扉と戸口の間に挟まっていた、ぐしゃりと歪んだ紙コップを拾い上げ静かに扉を閉めた。エレベーター室の隅はゴミ――段ボールや発泡スチロールなどが山積みになっている――置き場になっていたので、拾い上げた紙コップはその山へ向かって放り投げた。

 エレベーターへ乗り込んで、最上階のボタンを押した。扉が開くとエレベーター室を出て、足音を立てないように部屋――例の、執務室の裏に秘密裏に作られた密会室だ――の裏口に近づいた。

 壁に背を預け、暗闇の中、静寂に耳を澄ます。聞かなくていいものを聞くはめになりそうで、胸騒ぎがする。ビルに乗り込む前からめちゃくちゃに乱されている心が、さらに激しく揺さぶられるようだった。仕事の直前、ターゲットをぶっ殺すと心に決める直前だ。そんな大切な時間に女のことを考えているなんて、これもまた珍事に違いない。

 やっとのことで、プロシュートはそのことに気付いた。大切な時間。今は女のことで心を乱している場合ではない。それからから二度目の連絡が来るまでの時間は、地獄の鎖に繋がれているかのように長く感じたのだった。



02: Now, he takes off
her dress



 十分、二十分、三十分……。機を伺い、ただ大人しく待つ時間。恐らく、男がを愛でている時間とイコールだ。これを地獄と言わずしてなんと言おう。

 悲劇のヒーローにでもなったかのような感傷に浸りながら、プロシュートはからの連絡を待った。ひたすらに待って、四十分程度経過した頃、ようやく連絡がきた。

 “彼は今、執務室にいる”

 事前にから聞いた話だと、用を済ませた後――その用というのが何かについて、は言及しなかったが――、男は決まって執務室に戻ると言う。曰く、スッキリして仕事の効率が上がるらしい。仕事を済ませると、ベッドへ戻ってきて朝までと一緒に眠る。今回は、ベッドへ戻る前に永遠の眠りに就いてもらう。

 グレイトフル・デッド……!

 プロシュートは目を閉じて、心の中でそう唱えた。もしも声に出していたならば、怒りに打ち震えたようなそれだっただろう。

 スタンドを連れて、音を立てないように密会室へ足を踏み入れる。の姿は無い。打合せの時、用を済ませた後は備え付けの浴室に身を隠しておくと言っていたから、そうしているのだろう。煌々と照らされた室内の角にあるバスルームへの入口と思しき磨ガラスの扉――中は照明が灯されていて明るい――を一瞥して、プロシュートは執務室へ通じる扉の前に立った。ゆっくりと扉を開きスタンドだけを執務室へ通すと、老化ガスを放出させはじめた。

 やがて、男のうめき声と、手に握っていたらしい万年筆がかたんと音を立てて机上で転がる音が聞こえてきた。ここまできて、プロシュートはやっと執務室に足を踏み入れ中の様子を伺った。

 直ぐそばに大きなガラス製のデスクがあった。肌は渇水期の水田のように干からびて、肉は萎み骨と皮だけになったような腕を賢明に袖机の方へ伸ばす男の後ろ姿もある。伸びた手の先には電話機が。助けでも呼ぼうと思ったのだろう。だが、目的を達する前に男は黒い革張りのデスクチェアから転げ落ち、床に突っ伏した。筋肉が機能しない体を引きずるようにして、男はの元へ向かおうとした。その間、必死にしゃがれたうめき声をあげるが、とても部屋の奥のそのまた先にあるバスルームにこもったにまで届くような声量ではなかった。

 処刑できるのであれば、ここまで老衰した時点で頭に銃弾を打ち込んでとどめを刺してやるのだが、今回は暗殺を遂げなければならないのでスタンド能力以外は使えない。いつもターゲットが死に絶えるまでの時間はじれったく長く感じられた。

 だが、今回に限って言えば、からの連絡を待っていたあの時間に比べれば少しも長く感じられない。五十代の男なら、グレイトフル・デッドの老化ガスを十分間吸い続ければ確実に死ぬ。四分の一だ。しかも、を抱いていた男をじわじわと死に追いやっているという優越感もあった。地上百メートルを超える摩天楼の主も、“偉大なる死”の前には平伏さざるを得ないのだ。

 やがて男は死に絶えた。プロシュートは念の為にガスを放出させながら、生命反応の有無を確かめた。そして確実に死んでいるという確証を得ると、裏部屋に向かおうと這い出していた男の体の向きを変えて、電話の受話器を握ろうとした拍子にバランスを崩し、椅子から落ちたのだと思わせるような態勢にした。

 ふう。と一息つくと、プロシュートはスタンド能力を解除して奥の部屋へと戻った。すると、部屋の中央に鎮座するキングサイズベッドに、が彼に背を向けて座っていた。

 すぐ隣の部屋で男が一人殺されたというのに、大して狼狽える様子も見せていない。優雅にすら見えた。優雅な彼女は、濡れた髪を上げて項をさらし薄手のバスローブに身を包んで、冷蔵庫から抜き取ったらしい炭酸水のボトルを呷っていた。シャワーを浴びたばかりの火照った体を冷ましているのだろう。

「……大した度胸だな。殺人現場のすぐ隣で悠長にシャワー浴びてやがったってのか」
「ああ、もう済んだの。……ごめんなさい。体が資本なもんだから、清潔にしておきたくて」

 ああ。やっぱりだ。は、あの地獄にでもいたのではないかという長い間に、体を汚されていたのだ。

 だが、汚らわしいとか、疎ましいとは少しも思わなかった。それどころか、プロシュートは自分でも意図しない内に、浴室から漏れ出た蒸気に芳香を乗せるの元へ誘われていった。彼がの芳しいうなじへ鼻先がつくほどにまで顔を寄せると、ピクリと彼女の肩が揺れる。

「早く支度しろ。……帰るぞ」
「ええ。分かった」

 最後に一口炭酸水を飲み下すと、はボトルのキャップを閉じてバスルームへと戻った。プロシュートはベッドの上へ置き去りにされたボトルを手にとって、閉じられて間もないキャップを開けて喉の乾きを潤した。

 プロシュートは、磨ガラスの向こうで魅惑的に動く肌色の人影を眺めていた。その間、炭酸水を二、三口飲み下したくらいでは癒せない乾き――どうしようもない渇望感を覚え、胸を高鳴らせていた。



 ふたりはビルから抜け出し目の前の大通りに出ると、何ブロックか南へ進んだ。オフィス街とはいえ、ここはナポリだ。昼間は身なりのいい弁護士や会計士のような格好をしたビジネスマンが風を切って歩く歩道が、ギャングたちの溜まり場に様変わりしている。絡まれて騒ぎになるようなことは避けたいと、プロシュートはの手を引いて足早に目的地へと繋がる小路へと逃げ込んだ。

 プロシュートは乗ってきた車を路肩に駐車していた。車の鍵を開けて助手席側へ回り込んだ彼は、ドアを開けてを待った。男性のエスコートを受けるのに慣れた彼女は、プロシュートに微笑みを向けて助手席に乗り込んだ。ドアを閉めると、反対側へ回って運転席に乗り込みエンジンをかけるなり、プロシュートは彼女の家までの道を訪ねた。の住むアパートまで三十分とないドライブになるようだ。

 プロシュートは運転の間、また彼女を引き止めるための言葉を探していた。もうそろそろ日を跨ごうという頃に、「メシを食いに行こう」は通用しない。「打ち上げだ、飲みに行こう」とでも言ったら「車はどうするの?」と返ってきそうだ。どうにもこうにも、スマートに彼女を引き止めて夜を共に過ごす未来が見えてこない。

 との仕事は終わってしまった。要は、これから先彼女との接点を無くすわけだ。彼女の携帯電話の番号は知っている。だが、夕食を共にしようと言って誘い出しても、またひらりと交わされて終わる気しかしない。

 プロシュートは完全に余裕を無くしていた。余裕が無いなんて、カッコ悪くてにだけは絶対に悟られたくない。だが、今日を逃してしまえば、もう二度とには会えないような気がする。そんな、何の根拠もない憶測で自分を脅迫して奮い立たせ、恥も外聞もないとやけっぱちになってみようか。

 だが、決心も何もつかないうちに、そして何の打開策も思いつかぬうちに、車はの住むアパートの前に着いてしまった。プロシュートは愕然としながらも、それを少しも顔には出さず、再び助手席へ回って車のドアを開けた。車を降りて、ドアを静かに閉じたプロシュートに向き直り、は言った。

「送ってくれてありがとう」
「ああ……」
「それじゃあ、おやすみなさい。気をつけて帰ってね」

 ああ。ほら、やっぱりな。今日もまた、こうやってひらりとかわされるんだ。――つく尽くつれねぇ女だ。

 はゆっくりとした落ち着いた足取りで自分から離れていく。だがやはり、このまま帰したくは無い。そう思っている内に、彼女の名がプロシュートの口をついて出ていった。


「……?なに?」

 プロシュートはボンネットに腰を預け、内ポケットからタバコを取り出した。火を付けながら、言いかけたことを呑み込んで煙を吐くと、頭を横に振った。

「いや、何でもない。引き止めて悪かったな」

 愛想のいい笑みを向けて、はやはり帰って行った。

 そのまましばらく紫煙を燻らせて、ぼうっと向かいに建つアパートを眺めていた。三階建ての小さなアパートのニ階の角部屋に、明かりが灯る。カーテンの向こうで、と思しき人影が右へ左へと動いている。そして彼は、忘れかけていた渇望感を思い出した。

 プロシュートは吸いかけのタバコを路上に打ち捨て、靴底で踏みつけて火を消すと、アパートの階段へ向かって駆け出した。

 一心不乱だった。まるでストーカーの手口そっくりだとかいう、まだ僅かに残っていた冷静な自分からの指摘もコンマ一秒足らずで脳内から消え去った。ドアの前に立って呼吸を整え、呼び鈴を鳴らした。しばらくしてガチャリと音を立てて扉が開き、愛しい女の顔が覗く。

「どうしたの、プロ――」

 チェーンも掛けずにドアを開けるなんて不用心だ。がプロシュートの名を呼び終わる前に、彼はドアと戸口の間に腕を突っ込んで、部屋の中へ体をねじ込んだ。呆気に取られて何も言えずにいるの背中をドアに押し付けて――拍子に扉が閉まる――、行き場を塞ぐように、彼女の肩の両側へ腕を突き立てた。

「まただな」
「……え?」
「また、豆鉄砲食らった鳩みてーにポカンと呆けた顔をしてる」

 さすがのも、ここまでくると飄々とはしていられないらしい。ゴクリと喉を鳴らす音が聞こえてきて、プロシュートはくつくつと喉の奥で笑った。



 甘くも、鋭い響きを持った声が、の鼓膜を至近距離で震わせた。

「今日は何て言って、オレから逃れるつもりだ」

 の首筋を、プロシュートの鼻先がゆっくりとかすめながら降りていく。彼女はプロシュートから顔をそむけ、ますます首筋をあらわにして小さくうめき声を漏らした。

「いや、無理だな。。今日は逃げられない。……お前の客なら、ついさっきオレがぶっ殺したからな」

 そう言って近づいた唇を、は拒めなかった。