はじまりはたった一度のキスだった。
軽く触れるだけの、優しいキス。本来なら、プロシュートが獲物を前にしてみすみす逃すことは無い。それだけで終わるつもりなどさらさらなかった彼は別れの予感に急襲を受け、女を引き止めるための言葉を探しはじめた。付言するならば獲物の方から進んで彼の甘い罠にかかりにくるのが常だったし、彼は女性を安宿のベッドに押し倒すのに苦心したことなど一度もない。
プロシュートが言葉を探しているうちに、・という女は腕の中から抜け出し去っていく。
「待てよ。……家まで送っていく」
そう言って背を向け歩く彼女に駆け寄る内に、は足を止め彼に振り向いて微笑んだ。
「ありがとう。私なら大丈夫。また明日」
はとびきりの笑顔と、呆気に取られて呆然と立ち尽くすプロシュートを残して颯爽と帰路についた。
やはり、理解が追いつかなかった。今まで女性に送っていくと提案して断られたことなど一度もない。確かに酒は何杯かひっかけたが、酔うほどの量じゃない。夕食を共にしている間にの機嫌を損ねるような発言をした覚えもないし、第一彼女は始終笑顔でいた。
プロシュートはその場で呆然と立ち尽くし、の小さくなった背中がカーブの向こう側に消えるのを見届けた。
他の男なら、がっかりと肩を落としてとぼとぼ帰るか、気を取り直して他に女を捕まえにいくだろう。だが彼は今逆に、気を悪くするどころか燃え上がるような思いでいた。はプロシュートの奥深くで眠っていた狩猟本能をくすぐるどころか叩き起こして去っていったのだ。
心に決めたときには既に行動は終わっていなければならないという己の美学に縛られる彼は、まだをものにしてみせると心に決めていないだけだ。これは始まりにすぎないのだと人知れず言い訳をして、軽い足取りでアジトへと帰ったのだった。
01: It started out with a kiss
プロシュートはアジトへ戻るなり、リゾットに連れられて玄関へと向かう、見知らぬ女とすれ違いはたと足を止めた。
このアジトに足を踏み入れるのだからパッショーネの構成員には違いないのだろうが、その風貌から彼女がギャングであると察することができる人間はいないと思えるほど、装いにも歩き方にも品があった。残された風にはほのかな香水の香りが乗っていて、プロシュートの鼻は自然と女の方を向く。
「詳細については、また後ほど」
そう言って、ぶっきらぼうに返事をするリゾットに惜しげのない笑顔を向けた女は扉の前から離れていく。その時、彼女と目が合った。廊下でぼうっと突っ立ったままでいたプロシュートにもにっこりと笑ってみせて、アジトを後にしたのだ。
扉を閉めて鍵をかけ、リビングへ戻ろうと歩き出したリゾットが近くに来るまで、プロシュートはその場に留まっていた。
「何呆けた顔で突っ立ってる」
リゾットにそう言われてやっと、プロシュートは女が消えていった扉から目を離した。リゾットは物珍しそうに彼を見た。こうも間の抜けた顔をしたプロシュートはなかなか拝めるものではない。
「……ここに女を連れ込むなんて大胆なことするじゃねーか」
「仕事だ」
リゾットの端的な回答に、プロシュートは心の中でほっと胸を撫で下ろした。さすがにリゾットの女に手を出す勇気などないからだ。そして、彼女は“また後ほど”と言って去っていったので、チャンスは後に訪れるということ。また会えるという明確な根拠はないが、プロシュートはまた会える気がすると思った。彼はすでに彼女と再会を果たす気でいたのだ。
プロシュートは、リビングへ戻ろうとするリゾットの背中を追いかける内に女の詳細を探ろうと思った。気になるのはやはり、彼女が一体どこのチームに所属する者なのか、とか、仕事を一緒にするというのならば、その相手は誰になるのかとかいったことだ。
「その、仕事ってのは何なんだよ」
定位置につくなり、プロシュートはリゾットに問いかけた。誰を、どこで、いつまでに殺せと言われているのかというブリーフィングより、あの女がその仕事とやらにどう絡んでくるのかという説明を彼は求めていた。女のことが気になるなんて素振りは見せずそれとなく訊ねたつもりでいたプロシュートだったが、洞察力に優れたリゾットには彼の下心などお見通しだった。
「彼女の客を殺すのに、彼女の手を借りる」
女に客がつく。この界隈でその商売の筆頭に挙げられる職業は娼婦だ。おそらくターゲットはボスが邪魔だと思うような政界の大物や大企業の上役あたり。そんな男を客につけるのだから、身なりに品があるのは当然か、とプロシュートは納得した。
「あんな美人が」
「パッショーネが裏で糸を引く高級娼婦だ。客の相手をしながら情報を集めてる」
「情報管理チームの女なのか?」
「ああ。・。三年ほど前にフリーの情報屋だったのを、パッショーネが引き入れたと聞いてる」
「……か」
と寝るには、数時間で何百万リラと高い金を払わなければならないということらしい。女を金で買おうなどと思ったことは無い――何と言っても、彼の元には金で買わずとも向こうから女が寄ってくるのだ――プロシュートだが、その価値はある女だと思った。ただすれ違っただけの彼にそう思わせるほど、は美しかったのだ。
「問題は誰と組ませるか、なんだがな」
オレにやらせてくれと口をついて出そうになるのを、プロシュートは必死に押し留めた。リゾットが問題だと口にしたのは、恐らく男たちの下心が災いして任務に支障をきたすことを危惧してのことだ。
「メローネは無いだろ」
「ああ。相手が女というだけで、あいつは仕事をほったらかして気持ちを別のベクトルに向けるからな」
あれさえ無ければ完璧に優秀な暗殺者なのだ。玉に瑕である。プロシュートは今回ばかりはその瑕に感謝した。
「ギアッチョはチーム以外の人間と組ませられる性格をしてない」
「それはそうだ」
「ホルマジオはスケコマシだぜ」
「……お前も大して変わらないだろう」
「イルーゾォのヤツは傲慢でいけすかねえ」
「ほとんど悪口じゃないか」
リゾットはふっと息を漏らして笑った。
「心配するなプロシュート。元より、お前に任せるつもりでいたんだ」
リゾットがリーダーとなって以来のチームの古株であるプロシュートに、彼は無条件の信頼を寄せていた。プロシュート以外は信用に足らないというわけではない。ただ、プロシュートは特にリゾットと付き合いが長く、お互いに親友と呼びあえるような仲なので、他より少しばかり贔屓にされているというだけだ。おまけに、彼には常人よりも少し仕事に対して情熱的になりやすいということ以外、性格に欠点がない。
「別に心配なんかしてねーよ。……まあ、他のヤツだと女が気を悪くするんじゃあねーかという心配ならあったがな」
リゾットは、つい先程見たプロシュートの呆けた表情を思い出した。絶対に下心があるとの確信は変わらなかったが、そのことに限って言えば他の誰に任せようと程度の差はあれど同じことだろう。
「まあいい。とにかく女と一緒だからと浮かれるなよ。仕事は完璧にこなすんだ」
「誰に向って言ってんだ。心配には及ばねぇ」
「詳細は追って伝えよう」
こうして、との再会を期待するプロシュートの思いは報われる運びとなった。
お気に入りの娼婦――・を独占する今回のターゲットは妻子持ちらしい。男は会社の持つ高層ビルの最上階に秘密裏にプライベートルームを設け、そこでとの逢瀬を繰り返していた。彼女はその部屋にアポイントメント無しでアクセスできる裏口を知っている。大手企業の代表が娼婦と肉体関係にあるなどと知れてはことなので、がビルに出入りしていることを認識している人物はターゲットと情報管理チームのリーダー以外には一人もいない。という鍵さえ手に入れれば、男を殺すのは簡単な作業でしかない。鍵がパッショーネの懐にあったなどという奇遇は、ターゲットの男にとっては不運と言う他無いだろう。
「とは言え、薬を盛るとか刺し殺すとか……普通の殺し方じゃあ、すぐに私がやったとバレてしまうわ」
ボスが邪魔者を排除しろと命じるとき、殺しに対外的メッセージを添えるか否かといった注文もある。つまり、こうなりたく無ければ邪魔をするな、というメッセージを組織の内外に示すための“処刑”か、パッショーネがやったと知られてはまずい相手を“暗殺”するか、その二種類に分かれるわけである。暗殺者チームは殺しの専門家としてそのどちらもこなすが、今回の仕事は“暗殺”だった。さらに、は情報を収集するエリートだ。鉄砲玉とするには惜しいと、組織は彼女の関与があると警察にバレるのも、できれば避けたいらしい。
刺されるでも絞め殺されるでも、薬を盛られるでもなく、突拍子もない急激な老衰による“自然死”に事件性があると考える人間はいないだろう。とても自然とは思えない死に方だが。はそう付け加えた。
「……そもそも、私には人を殺すなんて度胸がないの。ごめんなさい」
汚い仕事を押し付けてしまっている。そう思ったのか、は申し訳なさそうな顔を見せた。
「殺しはオレたちの仕事だ。あんたが引け目を感じる必要はねーよ」
プロシュートの気遣いを受けて、は情けなさそうに笑ってみせた。
「決行はいつだ」
「三日後。彼のビルには、夜九時に来るようにと言われてる。決行する時間は夜十時以降になると思う。詳細のタイミングについては当日メールで伝えるわ。ビルの近くで待機しておいてくれる?」
は地図上で、裏口のある位置を示した。そしてメールアドレスを書いた紙をリゾットとプロシュートに渡す。
「他に何か、話しておくことはある?」
「いいや。今日のところは十分だ」
リゾットはリビングの壁掛け時計を見やった。夜八時五分前だ。
「プロシュート。もう外は暗い。……送ってやれ」
プロシュートは頷いて席を立つと、同じタイミングで立って帰り支度をはじめたのそばに立ち、エスコートを始めた。
「ありがとう。大通りに出るまでで大丈夫よ」
アジトに面した暗い隘路を進む内に、はそう言った。
「あー、その」
プロシュートにしては珍しく物怖じしたような切り出し方だ。そうと知らないは、慣れた様子で彼の次の言葉を待っていた。
「一緒に、夕食でもどうだ。腹減ってんだろ」
「そうね。……帰って作るのも、面倒だなって思っていたところ」
の笑顔を見てほっとしたプロシュートは、ほっとした、という顔を何とか取り繕うと、ここ一番というときにだけ女性を連れて行くレストランへと向かった。
彼のここ一番という機会が直近でいつだったかに言及すると、それはここニ、三年の間に一度あったかどうかである。だから恐らく、彼が訪れるのを期待して待っているファンの類と遭遇する確率は低い。ひどい話――と言うよりも、人目を忍ぶギャングで、それに輪をかけて暗殺者なので当然と言えば当然だが、彼は大して親密になるつもりのない一夜限りの女に、本名も身の上も明かしたりはしないのである。ファンたちは、記憶の中の顔や背格好だけを頼りに彼を探し当てなければならないわけだ。
話を元に戻すと、は同業者だ。バレて困るのは、彼がプレイボーイであるということくらい。いつもよりもリラックスしてデートを楽しめそうだ。プロシュートは柄にもなく浮かれていた。浮かれるなというリゾットの助言が頭に浮かんだが、打合せを終えてアジトを出た今はプライベートだ。度を超えたことさえしなければ、プライベートで彼にそんな注意をされるいわれはない。
半地下で、天井近くにある小さな明り取りからしか陽の光の入らないアジトの、ほとんど穴蔵と言って差し支えないリビングでさえは美しく見えた。橙色の照明で明るく照らされたレストランの客席について、改めて彼女の顔と向き合い眺めてみると、やはり彼女は美しかった。食べる方に気が回らない。彼女と今夜、離れたくない。そのために何を言えばいいかと考えるので精一杯になっていたからだ。
「あまり食べないのね。せっかく美味しいのに、もったいないわ。……素敵なレストランを知ってるのね」
そう言って笑う彼女が、やはり美しかった。
腹八分かそれ以下しか食べないまま、プロシュートはとレストランを後にした。そして大通りに出てしばらく歩いたところで、が言った。
「今日はありがとう。楽しかったわ」
やんわりと、帰路の付き添いはここまででいいと言われている気がした。しつこく食い下がるのもよくない。それに、彼女と会ったのはまだ二回目だ。家に押しかけるなんて、そんながっついた真似はしたくない。
プロシュートは立ち止まりの腕を掴んで引き止めた。振り向いた彼女の頬に手を添えて上を向かせ、じっと目を見つめて囁くように言った。
「次はいつ会える?」
「仕事の前日、最終確認のために打合せをするでしょう?」
「そうじゃねぇ。今夜みてーに、ふたりきりで会えるのはいつだと聞いてるんだ」
「……そうね。打合せの後、一緒に食事をしましょう。また、さっきのレストランのラザーニャが食べたいわ」
それじゃあね。はあの屈託のない笑みを残して帰っていった。あまりの手応えのなさに、プロシュートは今まで一度たりとも抱いたことのない不安に苛まれ。ただ呆然と、の後ろ姿が視界から消えるまでその場に立ち尽くしていた。
手応えは無かった。だが、チャンスがなくなったわけではない。次のデートを拒絶されているわけではないのだ。だから、彼は気を取り直してその日はおとなしくアジトへと戻った。
そして二日後。その日も打合せの後、同じようにレストランで食事をして、同じようにをエスコートした。嫌悪感を与えない程度のボディタッチ。これでもかというほどの称賛の言葉も食事の間に盛り込んだ。はそのどちらにも慣れた様子で、終始笑顔を向けてありがとう言った。依然、手応えは得られない。
だが、今夜は彼女と会って三日目の夜だ。今夜を逃すわけにはいかない。と言うより、プロシュートは我慢の限界だった。故に彼のギャングらしい、強引な一面が顔を出してしまう。人通りもまばらな歩道の街灯に、の肩を掴んで背中を押し付けたのだ。彼女は少し驚いたような顔でプロシュートの顔を見上げた。ごくりと喉を鳴らして、彼の熱のこもった瞳を見つめた。また、愛しげに頬に手を添えられて、指先は項に向って這っていく。
「どうした。豆鉄砲食らった鳩みてーにぽかんとしやがって」
これまでのように、何ともないって顔でいてみろ。絶対にそうはさせねーが。
絶対に、という部分が自分の心の中でひっかかったので、彼は思ったことを口にできなかった。
「……結構、強引なところもあるのね。だからびっくりしたの」
そう言った後から、は徐々に落ち着きを取り戻していった。プロシュートの予感は大当たり。だが、それでも彼は諦めない。彼には絶対の自信があった。
「。オレは今夜、お前を帰したくない。絶対に帰したくないと思ったんだ。強引にもなるさ」
「……プロシュート。私、ダメなのよ。他の男の人とは」
「高い金を払わなきゃ門前払いって訳か」
言った後、プロシュートは後悔した。街灯というスポットライトを浴びた彼女の顔。その瞳に涙が滲んできらりと光って見えた。
「そうじゃないわ、プロシュート。……お客とそういう契約をしてるのよ。だから、悪く思わないで」
は至近距離に迫ったプロシュートの胸に手をあて、押し退けて帰ろうとした。だが、彼はそれを許さなかった。再度街灯に背中を押し付けて、改めての瞳を見つめた。ゆっくりとの様子を伺いながら唇を近づけていった。胸を押し退けようとしていたの腕から力が抜けていく。
はプロシュートにキスを許した。それ以上のことも、彼は許されるだろうと思った。だが彼の予想に反して、は腕の中から抜け出し足早に去っていく。呼び止めて、家まで送ると言った。だが断られ、彼女は背を向けた。とびきりの笑顔を残して。その笑顔に、プロシュートは期待を抱かずにはいられなかった。
この恋はまだ始まったばかり。プロシュートはもどかしさを上回る渇望に胸を熱くして、今日もひとりアジトへと帰る。
彼女とは明日も会える。会うことさえできればいい。それが彼女の全てを手に入れるチャンスに他ならない。
運命――との未来が、自分を呼んでいる。そう信じて、彼は希望を胸に歩きだした。