がメローネと共同生活を始めて6か月が経っていた。ふたりは相変わらず仲睦まじい夫婦の様な毎日を送っていた。その間メローネは仕事の一環として、例のクラブから連れてきた女を3人程地下に囲い殺したが、はメローネがその女を殺したという事実においてのみ、知らないふりをしていた。メローネはが悲しむと思い女を犯すことはしなかったが、にしてみればメローネが他の女を地下に連れ込み檻に入れるために、自分以外の人間に触れることすら我慢ならなかった。なので彼女は自ら地下に囲う女の世話(食事や排泄等)をかって出た。メローネは危険だと言って最初こそ拒否したが、結局一度させてみて問題が起きなかったので、最近では大方のことがに任されていた。
捕えた女には必ずと言っていい程「助けて」や「逃がして」などと懇願されたが、は黙って首を横に振った。それを受けて檻の中の女は「あなたは洗脳されているのよ」とか「逆らえないのね」とか同情を見せてきたが、それに対しては「自分の意思でここにいる」と平然と言ってのける。その後の女の反応は二分される。逆上するか、泣きわめくかのどちらかだった。
逆上した方の女には「狂ってる」とか、もっとひどい言葉で罵られたが、自分のことをどう言われようがにはどうでもよかった。ただ、ひとたびメローネについて変態だの何だのと喚き始めれば、は冷徹な視線を女にあびせ、彼のことを何も知らないくせに悪く言うな。と言い放って部屋を出た。
よく話にあがる監禁事件の犯人夫婦みたいなものだった。最早彼女には、幼少期から培われていたはずの倫理観など少しも残ってはいない。あるのは、メローネに対する底知れぬ愛。ただそれだけだ。
そしてメローネに囚われるまで、尋常では無い程に煮えたぎらせていたはずの父親に対する憎しみすらは忘れかけていた。だが彼女はそのことを思い出さざるを得ない状況に陥っていた。
いくら何でも、遅すぎる……。
は家を出る時、父親の犯した罪を証明する品――父親のノートパソコンの中身をまるまるコピーした自分のノートパソコンだ。父親は自宅でもオフィスでもそれを使っていた。つまり、父親のすべてが記されていた。が父親の隙をついて、LANケーブルを使い、自分のPCに父親のPCにあるデータ全てをダウンロードするのは難しいことではなかった――を手にしていた。そしてそのコピーを、父親の失脚を望む同業者と警察宛に流したはずなのだ。本来であれば既に警察が動き出していて、大富豪が犯した罪をマスコミが大々的に報じていてもおかしくない頃。だというのに、いくらリビングルームのTV前に張り付いていても、父親の名前がニュースで取り上げられることは無かった。
はキッチンで夕食の献立を考えながらも、鬱々とした表情で父親のことを思い出していた。メローネと一緒にいられる幸せでしばらく忘れていたが、ふとした瞬間に思い起こしてしまうあたり、おそらく父親が苦しんでいると知らない限りこんな思いは続くことになるのだろう。
あ……玉ねぎ切らしちゃってる。
午後十五時頃、は財布を持っていつも利用しているスーパーマーケットへと向かった。その前に、現金が無かったので銀行のATMへと立ち寄った。カードを差し込み、画面の誘導に従って暗証番号を入力する。そして必要とする金額を入力した。すると札束の取り出し口は開くことなく、タッチパネルディスプレイに警告文が表示される。
……残高が不足しています……?
が入力したのは五十万リラ程度だった。が利用している口座には、毎月父親から定額――学生が持つには十分すぎるほどの金額――が振り込まれ、特段金のかかる趣味を持っていなかった彼女には多額の口座残高があった。五十万リラ程度すら引き出せないなどということはないはずだ。は焦って残高の確認を行った。
……嘘……。ゼロになってる。
父親が引き出した?金に困っているのか?やはりこの6か月間で何かあったのか?だが仮に何かあったとして、突然身をくらませたりしたらニュースくらいにはなるはずだ。
は釈然としないまま、ATMの前から立ち去った。
困ったな。あのスーパーマーケット、クレジットカード使えたっけ……。
確認のために一度店に立ち寄ったが、どうも無理そうだった。
は家へ戻った。二階に上がり、書斎にこもりPCのキーボードを何やら忙しなく叩くメローネの後姿に声をかける。
「メローネ……」
「……ん?どうした、」
「ごめんなさい。お金が引き出せなくなっちゃって……お買い物に行っていたんだけれど、何も買えないまま帰ってきちゃったわ」
「金が引き出せない……?」
怪訝そうな顔で眉を顰めるメローネを前に、は身を固くした。金の切れ目が縁の切れ目、という言葉を思い出したのだ。ただ彼女は未だに自分の過去についてメローネに話しておらず、自分が大富豪の娘であるという事実も何も、彼は知らないはずだ。なので金が無いからと捨てられるということはないだろうが、もしこの機会に自分の身を明らかにしなければならなくなったら、彼は一体何を思うのだろう。そんな漠然とした不安がを襲った。
「……ふうん。別に金が無いわけじゃないから気にしなくていい。ただ、どうしてそうなったのかってことはちゃんと調べた方がいいんじゃあないか?」
確かにその通りだ。何故、自分の口座から金が全て――5億リラという大金だ――1週間足らずの内に消えているのかについては知っておくべきだ。
は色々と思い悩み、これからどうしようかと考えていたが、メローネはそれ以上、金が引き出せなかったことに対する話をしなかった。の申告に対する返答はごく一般的なアドバイスまでに留め、メローネはPCをスリープモードにして席を立った。そして開け放たれた部屋の出入り口に向かって歩きの肩を抱くと、階下へと降りる様に誘導する。
「お仕事、いいの?」
「ああ。ちょうどいち段落ついたところだ。だから一緒に買い物に行こう。何を買うんだ?」
「玉ねぎが切れちゃったの」
「何!?玉ねぎだって?何個か一緒になったネットで売られてる重いやつを買うつもりだったのか?」
「え、ええ。そのつもりだった。あと、お肉も冷凍していた分が切れちゃってたから買い溜めして冷凍しておこうかなって……」
「そういう時は最初からオレを呼ぶんだ!キミにそんな重労働なんかさせられないだろう」
「優しいのね。メローネ」
「当たり前のことだ!そしてこんなことを言うのは君にだけなんだからなッ!」
「ありがとうメローネ。私、いつも優しいあなたが大好きだわ」
「ああ、。オレもさ」
――メローネの優しさはまるで麻酔のようだ。
今まで不安な気持ちで一杯だった心が、彼と一緒にいるだけで愛に満ち溢れていく。きっと彼ならどんな自分でも受け入れてくれる。そんな自信すら抱かせるほどに感覚が麻痺していく。私は彼と一緒に居られるだけで幸せだ。彼のいない人生なんて考えられない。もし彼が自分から離れて行くとするならば、私は迷わず死を選ぶだろう。
は買い物へと向かう道中、メローネの腕に自身のそれを絡ませ身を寄せ目を瞑り、そして陶酔していた。
確かに麻酔だった。何の処置も施されないまま麻酔だけをかけられ続け、病状が悪化していく。今の彼女はまさにそれだった。
05: This is the last time
I'll abandon you
が自分の銀行口座から金を引き出せなくなって一ヵ月が経っていた。毎月自動で振り込まれていた父親からの小遣いも、あれ以来入らなくなってしまったようだ。ATMの画面が示すのは相変わらずゼロの文字。おそらく、父親の身には何か起こったのだろう。だがそれを確認するには本人に直接聞く他なさそうだ。相変わらずマスコミ各社が父親の失脚について騒ぎ立てる様子は無い。
メローネは金を要求してこなかったので、腑に落ちないながらもはいつも通りの日常を過ごしていた。
ある日のこと、ふたりがリビングのソファーで寛いでいた午後八時四十分頃、メローネの元に電話が入った。相手はチームリーダーのリゾットだ。通話の内容は、新たな仕事が入った。誰がやるか割り振りを決めるので、明日の朝8時までにアジトに来い。というものだった。
もし自分に仕事が振られるようなことになったとしても特に問題は無いだろう。今も地下に母体をストックしているし、期限がいつだろうがターゲットの血液さえ手に入れてしまえばすぐに殺せる。
メローネは、了解、とだけ答えてすぐに電話を切った。
「……どなたから?」
「リーダーだ。明日の朝は少し早く家を出るよ」
「分かった」
はふわりと笑った。そしてワイングラスを傾けて、不得意だったはずの赤ワインを一口含む。彼女に酒を教えたのはもちろんメローネだ。彼女はメローネに教えられたことは何も拒まなかった。だがいくら旨いと教え込まれても、元の体質は変えられない。酒に強くない彼女は、1、2杯グラスを空にしただけでいつもふらふらと身体を揺らし始めた。夢見心地で眠そうな顔をしてメローネの肩に頭を預ける彼女が愛らしくて仕方なく、メローネはついつい酒を勧めてしまうのだった。
今夜の彼女もまた赤ワイン2杯程度でほろ酔い状態だ。はふらつきながらソファーから立ち上がりキッチンカウンターへとゆっくり歩みを進める。カウンターにグラスを置くと、そのままふらふらとバスルームへ向かい始めた。
「おいおい。一体そんなにふらふらしながらどこに行くつもりだ?」
とっさにの傍に駆け寄ったメローネは、呆れた様子で彼女の顔を覗き込んだ。
「シャワー浴びたい。もう眠いの……」
「酔ったままシャワーなんて危ない。酔いが回って血圧下がって、最悪気を失ってぶっ倒れるぞ?」
「でもシャワーも浴びないでベッドに入るなんて」
「今日は外に出てないだろ?それに……全然臭わないぞ?だからオレは気にしない」
これもが酒を飲んだ夜のお決まりのやり取りだ。はこの後必ず、水を飲まされ、有無を言わさず抱きかかえられて二階へと連れていかれることになる。そしてほろ酔いでガードが緩んだ彼女を――もちろん合意の上で――脱がし、キスをしてセックスを始めた。メローネはこの時間が一番好きだった。
事が済むとふたりは抱き合って眠り、夜を明かした。
「ターゲットは、ロベルト・――北の不動産王だ。ボスへの“支払い”がここ1か月滞っているらしい」
リゾットはアジトのリビングにメンバーを招集し、仕事の内容を皆に伝え始めた。テーブルの上に放り投げられた写真がくるくると回りながら中央で止まる。ターゲットの顔写真だ。そしてターゲットの情報や、ボスからの命令の内容をまとめたA4サイズの資料が、リゾットを起点として時計周りに回され始める。
「男は超の付く資産家だ。だが何故かは分からんが一夜にして銀行口座の金がゼロになったらしい。国外の預金口座も、株を持ち合っていた幽霊会社のそれも全部含めてな。それで自分の会社も何も全部ほったらかして、国外逃亡を企てているって話だ」
リゾットの話を聞きながら皆が順当に資料を回していく。やがて資料はギアッチョの手に渡った。
「どこにどうやって逃亡するつもりかまではまだ分かっていない。今は一生懸命無い金をかき集めている最中だろうから、今日にも身をくらませるという心配は無いだろう。ただ、何かの伝手で金を手に入れてすぐに国を出るやもしれん。まあ出たら出たで追って気が抜けているところを刺すのもいいだろうが、出費がかさむのは避けたいからな。この後すぐにでも、誰かにミラノへ行ってもらおうと思っている。こっちは急ぎの案件だ」
メローネは隣に座るギアッチョがなかなか資料を渡そうとしないので、おかしいと思い彼に視線を投げた。すると険しい顔をしたギアッチョがメローネへと乱暴に資料を押し付ける。メローネは彼の真意が掴めず困惑しつつも何も文句を言わず、資料に目を通し始めた。尚もリゾットの話は続く。
「あともう一人頼まれている。・。ロベルトの一人娘だ」
メローネは資料を捲る手を止め、固唾を呑んだ。
……まさか。彼女がターゲットなんてあり得ない。きっと同姓同名の、誰か他の女だろう。
メローネは恐る恐るページを捲った。
「娘の方は行方をくらませている。情報管理チームの連中は、父親が資産を失った原因が娘にあると見てる。そしておそらく、父親が管理していた……いや、管理しきれなかったと言う方が正しいか。パッショーネとロベルト個人や会社との繋がりを示す情報を持ち逃げしている。つまりこの女は、知らなくていいことを知っている」
だが、資料を捲った後、彼の予見――否、希望的観測――は打ち砕かれる。生年月日、年齢、血液型、その他もろもろの情報が、彼女を指し示していた。
「期限は一か月。それまでに見つけ出して殺さなければならない」
極めつけに、リゾットの手から第二のターゲットの顔写真が放り投げられる。回転を止めたそれに写っていたのは、紛れも無く、美しい微笑みを浮かべたの姿だった。メローネの家に今もいる、愛しい、愛しいの姿だった。
メローネの手は震えていた。そしてギアッチョはチラとメローネに視線をよこしたが、彼の座る位置からではメローネの長い頭髪が邪魔をして顔色を伺えなかった。きっと酷く動揺しているだろう。とギアッチョは思った。
彼は何度かメローネの家を訪れては仕事の話をしたり、ただだべって酒を飲んだりしていた。その間、はまるでメローネの嫁のように、酒やつまみを用意した。そしてたまに話にも加わった。ギアッチョもと交流があり、彼女を殺さなければならないということには少なからず抵抗を感じた。
しかし、だからと言って仕事を放り出すことはできない。メローネができないと言えば他の誰かがやることになる。そしてメローネが阻止しようとしたならば、メローネを殺しても殺すまで。最悪の場合――絶対にそうはならないだろうが――、皆が仕事を拒めば、反逆とみなされてボスの親衛隊あたりが自分たちを殺しに来ることになる。
ギアッチョはもやもやと複雑な思いをとりあえず内にしまい、チームの会話に耳を傾けた。メローネが押し黙っている間に話はまとまり、父親の暗殺にはイルーゾォとギアッチョが向かうことが決定した。
その後、しばらくの間リビングに沈黙の時が流れた。プロシュートとリゾットは、尚も資料を握ったまま黙り込んでいるメローネを怪訝な表情を浮かべて眺めていた。普段の彼ならばテーブルに放り投げられた女の写真を見るなり舌なめずりのひとつもかましそうなものだが、女の話をし始めた時からどうも様子がおかしい。
「娘はどうする?」
プロシュートがメローネを見ながら切り出した。ふたたび場が静まり返る。ギアッチョが眉間に皺を寄せてメローネに声をかけようとした瞬間、彼は口を開いた。
「この女なら――」
一斉にメンバーの視線がメローネへと向いた。
……これが、彼女を“諦める”最後のチャンスだ。
そう思うと声に出すのが躊躇われた。だが、メローネは理解していた。自分がやらなくとも、いずれは死ぬことになる。これは逃れようのない運命なのだと。ならばせめて――
「彼女なら、今、オレの家にいる」
――せめて自分の手で、苦しませずに葬ってやりたい。
この時メローネは、を手放さずにいる未来を、彼女との幸せな未来を、諦めた。